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事実と人間の認識についての考察
- 事実とは、科学的客観的なものではなく、主観的で観念的なものだと考えています。
- 回答者によって事実と思われるものは異なる可能性があります。
- 人間の考えや観察による判断と事実を区別する必要があると考えています。
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木下是雄さん方式です。 http://www21.ocn.ne.jp/~smart/Rika080914.htm 事実でないもの:8 9 10 26 27 31 32 不明 :17 18 29 事実であるもの:それ以外 判別基準: 叙述文を、事実と意見に分類する。 意見とは、人が下す判断であり、賛同する人もいれば反対の人もいる。 事実とは、正誤の判別がつく方法が存在するもの。(理路上存在すればよい。) 神の存在などの判別方法は無理っぽいですが、いちおう、判別方法が存在する側へ入れます。 なお、事実とは真実のことではないので、間違いが明らかな文、たとえば ・リンカーンは米国初代大統領である というのも事実(偽の事実)に分類します。 不明の3つについては述語が無いので事実か意見か判別できません。 17 聖書は紙が書いたものである なのか、 17'聖書は紙が書いたものだと思う なのかで、 事実か意見かが決まります。
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- fmxcv21
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ざっと読ませていただいて私が思い出したのは「水槽の脳」仮説ですね。 (せっかくなので、「アルファケンタウリ」と言うゲームで出てくるメッセージを添付してみました。) 後、「ゼイリブ(They Live)」と言うSF映画も思い出します。見ると、事実と言う物について考えさせられます。 (見たことがなければ事前調査せずいきなり見て下さい。このテーマについて深く考えさせられます。) その派生で、私個人は時々、感覚と言うのは脳に送られた電気信号でしかないのだから、他の人は光の三原色が入れ替わって見えていたり、同じ匂いを違う匂いで認識したりしているのではないかと思うことがあります。 この場合、一つの事実に対して二人の脳内の処理は何かが違っていますが、客観的にみれは科学的に証明できる同じ事実を同じに認識しているといえます。 (例えば、波長700nmの光を見て二人は赤いと言っていますが、二人の脳以内ではCGのパレットをずらしたように違って認識されている、と言う感じです。二人は客観的には700nmの光を見て赤いと認識しており、それこそ死ぬまで何も不自由をしないはずです。) 半端にSFとかが好きなので、たまにこういう事を考えて遊んでいます。 空想的に高度に発達した仮定も入っているとはいえ、あやふやな認識と言う物と切り離してた科学の世界だけで考えても、よくもまあ騙しきれるもんだと楽しくなります。アーサー.C.クラークさんはよくも言ったり「高度に発達した科学は、魔術となんら変わるところがない」 ただ、普通に現実に舞い戻った場合は、手に入る情報を論理的に積み上げて考えるしかないですね。 例えば「アポロ計画で人類は月面を歩いた」のは事実だ、と自分で結論を出せるくらいの方が私は幸せです。 但しこの幸せが、客観的に幸せかどうかは判りません(アポロが本当だといっていると、「アレは陰謀だ」と言いはるキチガイに絡まれることが多くなりますので。)
この質問には、客観的事実=正しい、主観の混ざった認識=正しくない、という視点が見てとれます。僕の別の視点で言えば、客観的事実=意味が無い、主観の交じった認識=意味を持つ、となります。客観的事実をいくら羅列しても、そこには意味がありません。『だから何?』『それがどうしたの?』となります。 レッテルを貼ること(般化)で理解に達することがあります。それは一方で、宿命的にある種の誤謬を内在させることとなります。「ひきこもりから何故抜け出せないのか」という命題に対して、いろいろな視点からメカニズムを解明しようと試みます。その試みのすべてを「正しくないから」という理由で否定して良いものでしょうか。正しいか、正しくないか、という矮小な括り方は、僕は重要ではないと考えま。その視点が現実を理解する上で、あるいは対策を立てる上で、「効果的かどうか」、で判断されるべきではないでしょうか。 ベテルギュウスがすでに超新星爆発していて存在していないとしても、今の僕の生活には「関係が無い」のです。正しいか正しくないか以前に、「今の自分には関係が無い」という篩〔ふるい〕にかけられて、すでに考察対象から脱落しています。 まったくまるい円は書けないし、厳密な線(線には幅も面積もないはず)も書けません。だけど、それが数学の授業でネックになって、授業が進められない、てなことになった例〔ためし〕がありません。 事実=誰もがそう認めていて、人によって違いがない事。心=それ以外のすべて。哲学が扱うのは心の方です。
1.全て不明です。。 2.事実かいなかは常に疑う気概を持っています。 3.この世で証明できることは何も無い、という可能性も否定できないと思います。 完全でない主観は何事に対しても間違いをおかしえます。 と、するなら不安定な自分と言う主観は信用に足りません。 よって常に事実の確認を行っています。 ここはソクラテスに戻って 『私は知らないという事を知っている』と書いておきます。
- tumaritou1
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『事実だと思うと云うことと、事実とは異うと思っています。』と云う事を考察したいと思います。この問題には人間の『意識』としての深い疑いがこめられています。或は精神作用と云う事かも知れませんし、もっと言うなら、『魂』と云う問題さえ含まれていると感じます。 この問題の根本は、人間の脳の機能が、分かっていながら、それを認めようとしない事から、未だに『謎に包まれている』状態が問題と感じます。 聖書や仏教の存在理由とは『人間の意識性』に有ると感じます。人間が『意識して問題や、疑問等』にしないで居る世界は『天国です』物を二つにして見ない世界です。その住人は幼子と聖書には書いてあります。仏教でも、人間の究極の姿は『赤子』世言う風に言う場合も有ります。 一転して天国から追放される事になります。知恵が付いた事によってですが、この意味は、脳の機能分化が完成に近くなると云う意味です。始めに脳の機能分化の研究によってノーベル賞を貰った人の記事を載せておきます。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が『それぞれ独立した意識』を持っていることを実証した。” この事は『一人の人間の脳内には二人の人格が存在していることを示しています、ですがこの人格は人間は分からないでいるし、全ての研究機関や、精神科医たちもその存在を認めようとしていない事を意味しています。 しかし脳梁を切断した場合には『確かに、それぞれ独立した意識は、存在している事』を示しています。この場合『左脳の人格(意識)』は自我意識です。言葉で表現できる機能を持っています。『言葉』が曲者です、湧き上がった感情を『言葉に翻訳して表現する機能』が左脳の意識という事になります。 人間には、意識出来難いですが、ライオンがライオンとして脳内に組み込まれたもの、或は、キリンがキリンとして生きてゆく事、或は馬や牛が、それぞれ独特な種としての知恵がありますが、それらは脳の中に『刷り込まれて』生まれて来ています。 それと同じで『人間には人間としての、独自なもの』が人間の脳には刷り込まれていると推察出来ます。ですが人間としての意識は、学んだ事しか理解する事は出来ません。この事が分かり難いために『精神疾患』等の原因が特定出来ない、今の精神医学の問題点となっています。 この人格は総ての人が持っています。切断しないと判りにくい存在ですが。 この人格が自覚出来難い訳があります、この人格は言葉を持っていません、そうして『無意識の中に封印された形でありながら、無意識の主人公となっています』 この二つの意識が争いだしたり、矛盾したりする事を『聖書では失楽園』と表現しています。疑いや、悩みや、苦しみが生まれ出すと云う意味になります。 人間に生まれる前から備わっている機能とは『命の働き』です。人間固有のものです。悲しみや、不安や、安心する機能です。或は自律神経やホルモンの調節や、心臓や、呼吸を最適に出来る機能です。更に心を休ませる機能もあります。自分を忘れた時、自分の体と心を自由に解き放つ機能です。 人間は自覚出来なくとも、意識と無意識は、『交替で身体と心』を支配しています。そうして『心の奥底で、どちらの出番かを、相談しながら決めています』 その者は『事実を事実として』脳梁を通して意識に伝えています。意識は『今までに培った思考方法でその情報を受け取ります』そうして、言葉に翻訳して表現したり、意識する事になります。この場合、事実を自我意識と云う計らいを通して観ている事になります。 目の前の事実は一つしかない真実の世界ですが、頭の中で描かれた世界は、事実とは隔たりが在るかも知れないと云う意味です。 隔たりが大きい例を書いてみます。自我意識が受け取りたくない情報が来た場合です。その情報を意識は受け取ろうとしない場合があります。高い所の情報や、狭い所の情報や、人に会った時の情報などです。これ等の情報を受けとろうとしない時、送る者はその情報を拡大して送るようになります。 この場合現実には存在しないものに対して、頭の中で架空の不安を作り出して、その架空のものに身体も心も反応する場合があります。この事を妄想や地獄と言います。現実に存在する事に対して反応する事を『真実の世界を見ている』と言います。是は教える者に対して、お互いが信頼している場合です。頭の中で作られた不安に怯える場合、虚と実の二つの世界を見ていると感じます。
- shift-2007
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質問者さんの言うところの【事実】とは宗教的な意味での【真理】のことではないですか? 一般的には事実=真理とはならないでしょうから回答者との齟齬が出来るのではないかと思います。
NO1です 仮定を前提とする事実 例えば地球は丸いと仮定します すると間寛平さんは地球を一周しましたよね つまり地球は丸いとすれば全ての辻褄があう けれど自分は実際に一周したことはない つまりあくまで仮定のままです もっと言えば事実があるのと事実を認識することの違いです
お礼
理解しました。 仮定がもし間違っていたら、それは事実ではないと云う結論に至るので、成り立たない場合があると云うことだと理解しました。 私の質問が今一だったので、問い直しました。 暇がありましたら回答下さい。 下記 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6499429.html
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
>事実だと思うと云うことと、事実とは異うと思っています。 では、事実とはなんですか? 人の認識を超えたものというなら想像の産物となりますが。
お礼
返答ありがとうございます。 「事実だと思うと云うことと、事実とは異うと思っています。」 まったくこの件は同感です。 この事に関して、自分なりに考察を加えて、また他の人の考え方を知りたいのです。 私の考えでは、事実は人の認識を超えたもので、且つ現実的なものだと考えています。 目の前にある物も、認識はしていますがそれは光や色で、そのもの自体(事実)とは違う人間の感覚だと云う意味です。 しかし、想像の産物である何かはある…、って感覚です。
I、IIは面倒なので省かせてもらいますがご了承ください。 私の考える事実とは自分が認識した、あるいはしたことがあるもののみと考えています。 つまり自分たちが常に常識と思っていること、例えば地球は丸いということに関しては仮定を前提とする事実なのだと考えています。
お礼
返答ありがとうございます。 貴方の考えは、少しは理解出来たと思います。 教科書に「家康が幕府をひらいた。」と記載があり、それを学び自分で納得したら、 一応、史実と云う事実になると云う事でしょうか。 「仮定を前提とする事実」とはどう云う意味なのか、説明頂ければお願いします。
お礼
木下是雄さんの書物は知りませんでした。 早速購入して、読んで調べてみます。 「神の存在などの判別方法は無理っぽいですが、いちおう、判別方法が存在する側へ入れます。」 神の存在は、判定方法が無い方に分類した方が科学的なのではないでしょうか? 参考になりました。ありがとうございました。
補足
この本の「事実と意見」の章は、明確な分析で参考になりました。