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人間が宗教に救いをもとめる理由
何故、人間は宗教を信仰するのでしょうか? 例えば、お釈迦様は実在の人物ですが、阿弥陀如来はお釈迦様亡き後に弟子らが大乗経典を作るうえでアミダに意味する「計り知れない何々」という表現を擬人化(つまり、形も色も存在しない)し、神話的表現にしたと聞きます。その当時ならまだしも、信仰することで不思議な事実に出会うとかも無いのに、この現代、科学的時代に人間の作り話から生まれた阿弥陀如来、そしてその住む世界を、また、その他の宗教の神々を人間の救いとするのでしょうか?
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人間に宗教がなかったらどうなると思われますか?
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- cobuta
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No.3です。 死を目の前にしている人が、宗教的世界をないと思ってしまったら…ていうことですよね。 死を目の前にしたことがないので、断言は出来ませんが私はこう思います。 死を目の前にしたからこそ信じる信じようと(精神的に助かろうと、救われようと)するんじゃないでしょうか。 信じる事はあるかないかではなく、あると思うか思わないかなので「ない」と言われようとも「あること」にするのではないかな? 仏教で言うと思わず手を合わせ赦しを願い、救われることを願ってしまうものじゃないかなと思います。 意識することではなく、あらがいようのないどうにも出来ないことが迫ったら、そんな自分の気持ち次第の不確かなものを信じようと信じてしまうんじゃないでしょうか? 家族が次々病気になったときは「一生のお願い!今まで過ち、ごめんなさい、ごめんなさい凄い反省していますから、家族をとらないで」と手を合わせた記憶があります。 本当にそれで助かるとは思ってないけど、救いを求め救われようとするんでしょう。 その一生のお願いが叶えられず、居ないと思っても同じことではないかな… 思いの力で存在しているのだから…と考えます。
お礼
ありがとうございます。困った時の神仏頼みというのを私も良くしますし、今もそうです。しかし、本当に困っている時ほど何の助けもない。 ある人はそれは人間界においての課題であり、修行であるなんていう人もいますが、特に大きな問題もなく、人生を過ごされている方も結構いるものです。信じようとする力不足かな!本当に人生に困った時は救っていただきたいのが本音ですが、現実を見れば、やはり、神仏頼みも気休めかとなってしまうのが本音で、日常生活をおくっています。
- QES
- ベストアンサー率29% (758/2561)
100%科学で解明されているのなら科学教を信じたらいいのですが、実際は科学で解明されていないことのほうが多いからです。 特に四苦八苦はほとんど科学の不得意な分野です。 例えば断崖絶壁で足を滑らせ宙吊りになったら、誰でも思わず「助けて」と大声を出します。 そこでは声の届く範囲に人が居る居ないに関わらず、 また人がいても、その者の力で宙吊りの自分を引きあげる事が可能かどうかを判断しての発声ではありません。 まさにその発声は「生きたい、死にたくない」という自分の気持ちを表す嘘偽りのない真実の言葉のはずです。 真言宗の真言にもそのような意味が含まれているとともに、お経が頭の中で理解して終わりのものでなく、声に出して唱えることが大切だとされているゆえんです。 なおご質問の阿弥陀如来はアミターバ(無量光)という言葉が中国で阿弥陀仏と音訳され、ひいては阿弥陀如来となり、また人間に似せた仏像が創作されたのも、哲学的な教えだけでは大衆に受け入れがたいとことがあったからだと思います。
お礼
ありがとうございます。私は信仰心がないわけでもありません。某宗派のお念仏も唱えることも一応できます。また、神仏を否定しているわけでもありません。ただし、その存在はといわれると「本当は…。うーん?」となる感じです。自分の場合の考えは、あの世のイメージを作り上げて脳に記憶させると、死んだ時そのイメージを残したまま、命の停止となり、自分自身の安堵感みたいなものがあるのではないかと、勝手に想像したりします。このテーマはやはり難しいですね!
- pet777
- ベストアンサー率25% (62/241)
死に対する恐怖、不安かなぁ。
お礼
ありがとうございます。やはり、そこに繋がるとおもわれますか。 なるほど理解できます。
- cobuta
- ベストアンサー率13% (9/69)
神や仏は赦しを請い、感謝をする対象だと思います。精神的な支えとなるもので、神や仏がいるいないはさして大きな問題ではないのでしょう。 キリスト教では懺悔と讃美歌なんかがあり、謝り感謝しますよね。 仏教では合掌があり、合掌は片手が「ごめん」もう片手が「ありがとう」という意味があり、仏様に合掌一礼しますよね。 罪を犯さずに生きられないので赦しを請い、生きれる感謝をする。それが神や仏て存在だから、のめり込まないでも、どこかで意識するものじゃないのかな?と思います。
お礼
ありがとうございます。私も同感とする反面、今、寿命を尽きようとしている人が一心にあの世を信じ込もう、あるいは信じているのならば救いはあります。 ただ、一瞬でもそんな世界は宗教の歴史的背景から実は存在しない世界を作り上げたもの(救いのため)だと脳裏によぎったとき、その人達の気持ちがつらく、苦しいものになるのではないかと感じます。考えすぎなのでしょうか?
- cerberos
- ベストアンサー率50% (420/830)
科学が発展しても、所詮人間の精神的な弱さは克服できませんから。 生きてゆくうえで仕事や人間関係・金銭など悩みは尽きませんが、その時々で選択を迫られます。 そのときにうまくこなせれば良いのですが、失敗することも多々あります。 そういった選択に悩んでいるときに「あなたは考えずに、神の教えに従えばよい」と言われると、 それにすがってしまう人間の弱さがあります。 自分で選択した結果は自分の責任ですが、神様の教えに従って失敗したら神様の責任→神様の教え に反している相手が悪いと責任転換できますから。 宗教を信じている全ての人がそうだとはいいませんが、狂信的に宗教を信じている人は自分で考え ることを放棄している人が多いようにも感じます。
お礼
ありがとうございます。私も同感とする反面、今、寿命を尽きようとしている人が一心にあの世を信じ込もう、あるいは信じているのならば救いはあります。 ただ、一瞬でもそんな世界は宗教の歴史的背景から実は存在しない世界を作り上げたもの(救いのため)だと脳裏によぎったとき、その人達の気持ちがつらく、苦しいものになるのではないかと感じます。考えすぎなのでしょうか?
- shubal
- ベストアンサー率20% (402/1958)
感謝の気持ちと苦しみのためですよ。
お礼
ありがとうございます。私も同感とする反面、今、寿命を尽きようとしている人が一心にあの世を信じ込もう、あるいは信じているのならば救いはあります。 ただ、一瞬でもそんな世界は宗教の歴史的背景から実は存在しない世界を作り上げたもの(救いのため)だと脳裏によぎったとき、その人達の気持ちがつらく、苦しいものになるのではないかと感じます。考えすぎなのでしょうか?
お礼
想像すると、すごく不安になりますねー。これなのか!これなのでしょうね。 bknachiさんのご意見は至って短いコメント(中身は極めて重要なメッセージ)ですが、素直に自分自身が不安に感じた瞬間の心、気持ちが宗教に救いを求めているのだと思いました。ありがとうございました。