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救いについての問答とは?
- 救いを求めれば救われることはあるのか。神や仏に救いを求めることとはどういう意味なのか。宗教漬けになっても救われることはないのか。これらの問いに対する答えをまとめています。
- 救いを求める先は自分自身であり、自力で救うしかないことを知ることが大切です。宗教漬けになっても救われることはなく、救いを求めることは自力本願であることを理解しましょう。
- 救いは自分に求めることが重要であり、宗教漬けになるだけでは救われることはありません。他者に訊いて考えを共有し、自分自身で救いを見つけることが必要です。
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>救われるとは、 人が自身の身に起こった出来事の顛末を全て理解し、納得し、その結果として満たされること、因果応報の理を知り納得すること、顛末の全てが宇宙の法則の結果であることを知り納得すること、そして満たされること。 と、言ってますが、それなら、どうかすりゃ念仏で救われるんじゃないかな? 普通に考えりゃ自分に宇宙の法則を求めたってしょうがないじゃない。宇宙の法則は物理学と数学と天文学の皆さんにまかせるのが当然でしょうに。 そんな救いなら、たとえば仏教なら仏教のストーリーと世界観があって、たくさんの人がそれを知ってるわけだし、その世界に自分もあるのだと思えることで納得できることは多々あるだろうよ。 今は世界観があまりにも多様だから、あなたのように感じる人もそりゃあいるでしょう。 と、思いました。 でも質問文だけなら、 問う人 あれ?そもそも私は救われたいんでしたっけ? 人の道 知らん、自分で求めれ 問う人 あ、この世に救いなんてもともと無いですよね。 人の道 そのとおりや、がんばれ。 という流れをつけたくなりました。 さらに妄想はいると、 この世に救いはない。 でも医者はインフルエンザワクチンくれるしなぁ、→医者が病気から救ってくれるのかもしれん。 でも社長は給料くれるしなぁ→社長が貧困から救ってくれるのかもしれん。 でも友達が電話くれるしなぁ→友達が孤独から救ってくれるかもしれん。 とーちゃんは、妻は、ご近所さんは・・・ そうか!救いは身近にあったのだ! と説くマンガならたくさんありそうな予感。 独り言なのでポイントはいりません。
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- yuukotarou
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g3452sgp さん、回答へのお礼等の書き込みがないですし、閉じられると中途半端なので 天国とか、地獄とか、仏陀はどのように考えていたか触れておきます。 有名な話なので、知っている人も多いと思いますが、「仏陀 毒矢のたとえ」で検索すれば 色々引っかかってきます。 http://www.google.co.jp/search?hl=ja&biw=1280&bih=608&q=%E4%BB%8F%E9%99%80%E3%80%80%E6%AF%92%E7%9F%A2%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%88&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&aq=f&aqi=&aql=&oq= 一例を挙げると、以下のサイトが上手くまとまっています。 或る人が毒矢に射られて苦しんでいるとしよう。 かれの親友、親族などはかれのために医者を迎えにやるであろう。 しかし矢にあたったその当人が、「わたしを射た者が、王族であるか、 バラモンであるか、庶民であるか、奴隷であるかを知らない間は、この矢を抜き取ってはならない。 またその者の姓や名を知らない間は、抜き取ってはならない。・・・」と語ったとする。 それでは、この人は、こういうことを知り得ないから、やがて死んでしまうであろう。 それと同様に、もしも或る人が「尊師がわたしのために〈世界は常住であるか、常住ならざるものであるか〉 などということについて〔いずれか一方に〕断定して説いてくれない間は、 わたしは尊師のもとで清らかな行ないを実修しないであろう。」と語ったとしよう。 しからば、修行を完成した師はそのことを説かれないのであるから、 そこでその人は〔毒がまわって〕死んでしまうであろう。 (中略) この経の意図するところは、実に明瞭であります。 現実に苦悩の矢にあたって苦しんでいるのに、世界は常住であるかどうかとか、 魂は永遠であるかどうかなど、おかしな話ではないか。 まず、その苦悩を解決するのが先決だというのです。 そして、その解決法が、四諦(したい)の教えであります。 「これは苦しみである」(苦諦:くたい) 「これは苦しみの起こる原因である」(集諦:じったい) 「これは苦しみの消滅である」(滅諦:めったい) 「これは苦しみの消滅に導く道である」(道諦:どうたい)。 この四つの真理を断定して説いたというのです。 結局行き着くところは、形而上学的な思弁ではなくて、八正道の実践ということになります。 八正道の実践は、中道のことでありますから、詮じつめていえば、空に住することになってしまいます。 http://sammy-p.at.webry.info/201002/article_24.html 仏陀は、現実の問題を救済することが大事で、あの世とか宇宙が有限とか無限とかそのような形而上学的な問いを 考える事は、現実の救済を遅らせることと考えていたようです。 あの世はあるのかないのか」といった観念的な質問に対しては答えずに、ただ沈黙されたといい、 これを仏教語では「無記答」といいます。 無記とは答えない、無回答ということですが、悪事を為しながら知らんふりすることとはちがいます。 無記答で、検索すると色々な事が分かります。 http://www.google.co.jp/search?q=%96%B3%8BL%93%9A&hl=ja&source=hp&aq=f&aqi=g10&aql=&oq=&gs_rfai=&num=20 >結局、仏陀も神、天国、地獄については何の答えも持っとらんかった。 とは、違うと思いますよ。答えを持っていなかったのではなく、積極的に答えなかったというのが正解のようです。 それから、推定できるように宇宙が有限とも言っていませんからね No8の回答へのお礼の 宇宙の法則 今この瞬間に厳然として存在するこの宇宙について、 何故宇宙はこの宇宙なのか、 ・ ・ 等の探求は、救済から遠いと仏陀が嫌うものだと思います。
- yuukotarou
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とても有名な話なので、知っているかも知れませんが。 仏教の説話に、我が子を失って悲嘆に暮れる若い母の物語がある。 なんとかして赤ん坊を生き返らせてほしいと母親は会う人ごとに訴えていた。 人々は彼女に同情し、ゴータマ・シッダールタという評判の高い僧に頼めば、 奇跡を起こして子供を生き返らせてくれるかもしれないと勧める。 希望に燃えた母親は、死んだ子供を抱いて仏陀に会いに行く。 「それは気の毒な話だ。赤ん坊を生き返らせてあげるから、村へ帰って芥子の実を二、三粒貰ってきなさい」 と指示する仏陀の言葉に従い、彼女は喜んで走り去ろうとすると、 「ただしその芥子粒は、今まで死者を一度も出したことのない家から貰ってこなければならない」と仏陀は付け加える。 半狂乱の母親には仏陀の真意はまだ計り知れない。 村にとって返した彼女に、村人は喜んで芥子粒を提供しようとする。 しかし第二の条件に対しては、「とんでもない。うちでは父や母だけでなく、子供も亡くしている」 というような返事しか聞くことができない。 最初のうちは希望を捨てずに尋ね歩くが、家から 家を駆けめぐるうちに、彼女にも仏陀の言葉の意味がわかってきた。 ほとんど村をまわった頃には彼女の狂乱も消え去り、心の平安を取り戻したという。 ttp://www.iii.u-tokyo.ac.jp/blog/media/8/20101102-2011-L.pdf からの抜粋 このことから、宗教が現実逃避とはとても思えません。 逆に、徹底して不幸と向き合い逃げることの出来ない現実として受け入れるように仕向けている気がします。 >---------- 宗教の本質 ---------- > 十ヶ条 >四.宗教は心地良いものであり、悩み、苦しみからの逃避手段です。 これは、誤っていると思います。 悩みは逃避しても逃避できると限った物ではない。 逆に、悩みと真摯に向き合う。そういう苦しさを要求していると感じます。 悩みを背負って生きていく覚悟を決めたその時、救われるものだと言う気がします。
- 島崎 信也(@zakky74)
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zakky74でございます。 >あのなあ、zakkyよ、この読み違いはハンパではないんや、よー考えてくれ。 僕が受け取った世界を共有しますから読み違いがある様でしたらご指摘下さい。 まず僕は次の様に尋ねました。 >>>>>>自分と神や仏が完璧に統合共存されている状態でしたら、即ち自分は神や仏と一体の状態でしたら、その状態で救いを求めても救われる事は無いのでしょうか? この問に対してのお応えの中で、 >>>>>未だ神になった人間など一人もおらん。 とありましたが僕は、これを言い切る根拠は無いと判断しています。 でも、もしかしたらg3452sgpさんなりの根拠があるのかもしれない、とそこに興味が湧きました。故に、こう尋ねます。 >>>>ではg3452sgpさんが、未だ神になった人間など一人もおらんと言い切る理由、若しくは根拠をお聞かせ下さいませ。 そしたら、以下のお応えをしましたね。 >>>そんなもん簡単なことやないか。考えてもみい・・・を立派に証明しとるんや。 これを僕は、この様に解釈しております。 例えば、歴史上を振り返るとお釈迦さまやイエス・キリストの様な人たちを含めた多くの人間がおりますが、もし神になった人間が一人でもいたら、そこから宇宙森羅万象を理解・説明・納得できる理解方式・認識方式が広がっているだろう・・・と。 真理の探究が終わっている状態だから、宇宙の法則が全て透明化されて、その法則に沿って宇宙森羅万象を説明する事が出来る筈だ・・・と。 神になった人間がいたら、即ち真理の探究が既に終わって宇宙の法則が全て分かっている状態が、2500年前や2000年前に起きているならば、少なくとも今の時代には真理の探究は終わっている状態だから、宇宙の法則は勿論、宇宙森羅万象が理解・説明・納得が出来ているし、抽象的な何かにしがみついたり盲信したり漬かる必要が無くなっている筈だ、と。 ところが現代を見てみるとどうかと言うと、未だに抽象的な何かにしがみつき、盲信し、漬かっている人が大勢いるし、実際まだまだ宇宙の法則で未解明な事が多いところを見ると、真理の探究が終わっているとは言えない。 だから、未だ神になった人間など一人もおらん事が証明されている・・・と。 この様に僕は受け止めております。いかがでございましょうか?ハンパない読み違いがどこにあったのかを是非ご指摘下さいませ。 さて、現段階では僕は読み違いとは思っておりませんので、僕がg3452sgpさんのお応えを受けて、どう思ったかを共有しますね。 g3452sgpさんは、歴史を振り返って、2011年の時点で未だに宇宙の法則が解明されていないと思っていますが、例えばですが1996年に真理の探究が終わった人物がいて、宇宙の法則が解明された可能性は本当にないのでしょうか? 2500年前を取り上げると現代までに2000年以上も期間がある訳ですから、地球上余すとこなく伝わりきっている筈だ・・・と思い易いかもしれません。 それは理解できますが、1996年に真理の探究が終わり、そこから広がりだして15年が経過している状態だけれども、未だg3452sgpさんのところにまでは広がっていない・・・という可能性は本当に無いのでしょうか? この場合、g3452sgpさんは「未だに神になった人間など一人もおらん・・・」とは言い切れません。神になった人間はいるのですが、g3452sgpさんが知らなかっただけ、g3452sgpさんが出会っていないだけ、という可能性が残されている訳でございます。 故に、次の様に尋ねました。 >>つまり、真理の探究は既に完了しており、宇宙の法則について明々白々な理解を得ている状態だけれども、未だそれが広がる過程であり、g3452sgpさんが触れていない状態だ・・・という事実。そんな事実が既に起きている可能性も往々にしてあるのではないでしょうか? この問に対して、g3452sgpさんは納得する筈です。 なぜならば、その事実を確認するには68億人全員に確認作業を行うまでは、「未だに神になった人間など一人もおらん・・・」と言い切れないからです(実際、確認作業はなさっていないでしょう?)。 ただ、g3452sgpさんはこの論理に納得なさらずに、もしかしたら強引に、無理矢理、言い切ってくるかもしれません。 僕はその事を予測し、 >>その可能性が無いのでしたら、根拠をご提示下さい。 とお伝えした上で >>思い≠事実、ではありませんよね? >>g3452sgpさんの思い≠事実 >>g3452sgpさんの判断≠事実 を確認した訳でございます。 事実は思いや判断とは違うものです。事実は68億人に確認する事で明らかになるのではないでしょうか?
- yuukotarou
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>あのなあ、 >だからわしは言うとるんや、宗教漬けになると必ずこーなると。 私は、特定の宗教を信仰していません。
- yuukotarou
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問う人: >仏陀が神、天国、地獄について何を語ったか言うてみい。 「人の道」: >仏陀の周りにいる人々は神、天国、地獄について知りたいと思った。 >しかし、仏陀は神、天国、地獄について何も語ることは無かった。 >結局、仏陀も神、天国、地獄については何の答えも持っとらんかった。 と、自分で回答しています。 私の答はいらないでしょう?
- yuukotarou
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g3452sgp氏のサイトで、宗教に言及しているところをコピーしておきます。 宗教に対して、どういう認識であるか知ってほしいと思います。 ---------- 宗教の本質 ---------- 十ヶ条 一.宗教は人類の誕生とともに自然発生的に生まれました。 二.宗教は全世界に隈なく分布し、その数は数千にも数百万にも及びます。 三.宗教は神、天国、地獄の3つの概念により構成されます。 四.宗教は心地良いものであり、悩み、苦しみからの逃避手段です。 五.全ての宗教は宇宙は有限であると説きます。 六.宗教は人の死に際を整えるための儀式です。 七.宗教はもともと人間社会を統治する道具として生まれました。 八.宗教は利益を追求するものです 九.儀式や統治の道具としての宗教は力を失い、宗教の時代は終わりに近づいています。 十.宗教の次に来るもの、それは「人の道」、つまり真理の探究であり、思想と哲学の時代です。 ttp://www.geocities.jp/g3452sgp/honsitsu.html
- yuukotarou
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恐ろしい。あなたは、怖いくらいに無知で誤っている。 >仏陀というのは、何も言わず語らずの人間や。 >何も言わず語らずの人間は神、天国、地獄について多くを語らず、否定もせんのや。 仏陀は、数多くのことを弟子に語っています。 仏陀の教え http://www.google.co.jp/search?hl=ja&source=hp&biw=994&bih=453&q=%E4%BB%8F%E9%99%80%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88&aq=5&aqi=g10&aql=&oq=%E4%BB%8F%E9%99%80 なのに、あえて、神、天国、地獄を語っていないのです。 あなたの、宗教は神、天国、地獄からなるという言う内容は、誤っていることになりませんか? 、
お礼
仏陀が神、天国、地獄について何を語ったか言うてみい。
補足
えーか、 仏陀が神や仏、天国、地獄について何を語ったか、答えが出とるんならそれを自分の口で言うてみい。
- yuukotarou
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あなたが作ったと思われるサイト、には以下の記載があります。 ---------- 宗教の本質 ---------- 十ヶ条 >三.宗教は神、天国、地獄の3つの概念により構成されます。 仏陀は、神、天国、地獄の存在について、何も語っていません。 弟子のそれらに関する問いについて、返事をしていません。 つまり仏陀は、神、天国、地獄を否定しているといえるわけです。 そのことを知って、上のようなことを書いているのですか? 知らないなら、削除すべきではないでしょうか?
お礼
仏陀というのは、何も言わず語らずの人間や。 何も言わず語らずの人間は神、天国、地獄について多くを語らず、否定もせんのや。
補足
仏陀の周りにいる人々は神、天国、地獄について知りたいと思った。 しかし、仏陀は神、天国、地獄について何も語ることは無かった。 結局、仏陀も神、天国、地獄については何の答えも持っとらんかった。
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>仏陀が犯した愚行を示すのは簡単なことや。 仏陀が悟ったなんちゅーアホなこと言うから、麻原彰晃なんちゅー愚かもんが出てきて最終解脱したとか言うストーリーが出来上がったんや。 どんな教えにも、都合良く間違った解釈をする馬鹿は居るものだよ。 アンタも言いたいことが相手に伝わらない時ってあるだろう? 仏陀は、救いやら奇跡やらを、完全に否定してるからね。 >これは麻原彰晃とオーム真理教だけではない、似たよーな輩はこの世界には五万とおるんや。 そんなことは仏教界の歴史を振り返れば直ぐに判るはずや。 俺は、最近の新興宗教や、神や仏拝むだけの宗教に価値が有るなんて言ってないんだよ。 馬鹿が都合よく仏拝めば救われると、改変したのが仏教の歴史だよ。 >オーム真理教は未だ健在なんや、今でも麻原彰晃を最終解脱したちゅーて拝んどる者はいっぱいおるんや。 だから言うとるんや、宗教ちゅーのはこーゆーもんやと。 だ~か~ら~馬鹿を見ただけで、全てを知った気になるな。 大体他人を拝んで救われるわけ無いだろうが。 >仏陀が悟ったことによって得たもんがあるかどーか、我々凡人には分からんのでそれを探求する・・・、なんちゅーことを言うとるが、この話ロジック的に考えて少しおかしいとは思わんのか。 「分からないことは、頭から否定せず、探求すべきである」 どこか間違ってるなら、説明してくれ。
お礼
>「分からないことは、頭から否定せず、探求すべきである」 しかしなー、少し考えてみい。 「仏陀は悟ったことによってこれこれの真理を発見した、我々はその真理が正しいかどーか、本物なのかどーか探求する。」 これなら真っ当であり、探求の価値があると言える。 ところがなー、 「仏陀が悟ったことによって得たもんが有るかどーかは判らん、また得たものが有ったとしてそれが何かは我々凡人には分からんのでそれを探求する。」 この流れは明らかにおかしいと言うとるんや。 その証拠に、仏陀の所に適当にAさん、Bさんと入れてもう一度考えてみい。 何かがおかしいと気づくはずや。
救われていますね。 こんばんは。 寝るときに、枕を求めます。そばに枕があれば与えられます。 朝起きて、誰かと挨拶を交わしたいと思えば 近くに知った人がいれば、与えられます。 あたりまえの事ですが、これはすべて 仏教でいうところの{ 縁 }だそうな。 昔のお坊さんの言葉に { 縁によって、知るがよろし }というのがあります。 経験から学びなさい、すべてのものに仏性がある事を。 そんな意味だと思います。 たぶん、{ すべてのものに宇宙が有る }と 同じ意味だと思うんですよ・・・よくわかりませんが。 だから救いについては、多くを語らず、街へ出て あらゆるものに、ありがたいと感じる他にありません。 実際、空腹のときにコンビニに行けば お金を払うだけで、パンが与えられるのだから。 なんか、お金の話ばかりですみません。
お礼
>だから救いについては、多くを語らず、街へ出て あらゆるものに、ありがたいと感じる他にありません。 pixsfineさん、 あんたはここでえー事言うた。 あんたは救われたんや。
お礼
>そうか!救いは身近にあったのだ! ハイ、仏陀一丁出来上がり