• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:宗教について)

宗教とは?心が弱い私が考える信仰の意味

このQ&Aのポイント
  • 私は心が弱く、宗教への興味もあります。宗教は神や仏に救いを求める人が信仰するものだと認識しています。
  • 私は嫁に行けず、出産適齢期もとうに過ぎましたが、話しやすい人たちからさまざまな宗教に誘われます。
  • 私は自身の信仰を持ちたいと思っており、家には仏壇があり、常に一つのお寺の檀家であることを誇りに思っていますが、他の宗教への強要は嫌だと感じています。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.11

No8・No10の回答者です。 御礼のコメントの中にありました禅宗についての説明になります。 禅宗は1つの宗派ではなく、坐禅をする宗派です。 日本では臨済宗・曹洞宗・黄檗宗を言います。 この3つの宗旨をまとめて禅宗と言うのです。 またそれぞれの宗旨は多くの宗派に分かれています。 日本の仏教は大きく「禅宗系」「密教系」「浄土教系」があります。 私の属する浄土真宗は「浄土教系」の宗旨です。 解りやすく言うと「○○宗」をまとめて「○○系」と言います。 また、「○○宗」は「○○派」に分かれているんです。 禅宗も密教も浄土教もすべて仏教です。 ただ、密教にはヒンドゥー教の儀式も見られます。 何故、1つの仏教がこんなに分かれているのか・・・。 仏教を初めて解りやすく説いてくださったのが釈尊(ゴータマ・シッダルタ)です。 この釈尊をお釈迦様と言いますね。 仏教の祖と言われる方もおられますが、祖ではありません。 先にも言いましたが、あくまでも初めてわかりやすく説いてくださった方です。 お釈迦様は対機説法という話し方をされました。 対機説法とは、お話を聞きに来てくれている人たちに合わせたお話をされたんです。 仏教の最終到達地点は極楽です。 この極楽に到達するための道は1本ではないのです。 例え話ですが、極楽を富士山の頂上と仮定します。 頂上を目指す道は沢山あるんです。 今日のお話を聞きに来ている人が精神力に長けていて、体力にも自信があるという人には、断崖絶壁を麓から登るような険しい道のお話をされます。 またある時には、精神力も体力もそれなりにある人には、林道を登る道を勧めます。 そして、精神力も体力も少し劣るがある程度頑張れる人には、五合目まで車で行って、そこから登る方法もあるという話をされます。 また、精神力も体力も厳しい人には、飛行場からヘリコプターでも上がれるというお話をされました。 それぞれのお話をまとめて漢字にしたものがお経です。 どのお話を根本にするかで道が違うわけですから、それぞれの宗旨に分かれることになったんです。 禅宗や密教は麓から林道を上がるというような修行を前面に出した教えです。 浄土教の中でも、浄土宗は修行の要素が多少ありますから車で五合目でしょう。 浄土真宗は飛行場からヘリコプターです。 質問者様が親しんでおられる般若心経は自力行(修行道)のすすめのお経です。 ほとんどの宗旨において読まれていますが、浄土真宗だけは読みません。 完全他力(阿弥陀如来によって救われる)なので自力行は考え方に合わないのです。 ざっと説明しましたが、例えがお粗末な部分はお許しください。 以上です。

sirouchiko
質問者

お礼

とてもよくわかりました。禅宗の位置づけもなんとなく理解でき、私自身知らずに修行や自力というものを尊んできた気がしています。まことに恐縮ですがなんとなく聞いたことがある浄土真宗と他力の言葉が結びつきました。内容はもっともっと深いことでしょうが仏教大学にでも行くと極められるのでしょうか。 富士山は私の中では登る苦しみには耐えられないでしょうし、仰いでその美しさに感動し自分が高まるような存在でしたが、これは怠惰で禅の道にはそぐっていない考えだったんだなあと思い知らされました。 ご指導ありがとうございます。 人生修行いたします。

その他の回答 (10)

回答No.10

N08の回答者ですが、再び書き込みさせていただきます。 災いはこの世を歩む以上は必ずあるものです。 願いが叶う、災いがもたらされるというのは、自分自身にとって都合が良いか悪いかということだけです。 自己中心的な判断で自分が自分で決めていることなんです。 災いには避けることのできる災いと、避けることの出来ない災いがあります。 避けることのできない災いから逃げようとして人間は苦しみもがくのです。 本来の宗教は、宗教の力によって願いを叶えたり災いから逃げるためのものではありません。 いずれも自分にとってどうなのかという事でしかないのですから・・・。 例えば、受験。 ある人が大学に合格を願ってお参りします。 その大学を受験する人たちが同じ時間、同じ気持ち、同じ金額の賽銭でお参りします。 全員が合格するでしょうか? 定員人数に満たなければ全員合格もあるかもしれませんが、定員人数以上の受験者数であれば、何人かは落ちます。 合格した人は願いが叶ったと喜びます。 落ちた人は災いと判断し、神も仏もあるものかと言うのです。 奇跡も同じです。 自分にとって都合が良いか悪いかなんです。 先程の受験にしても、私の願いが叶って合格できたという事は、他の人が落ちたということです。 そんな願いを神仏は叶えてくれるでしょうか。 こういう時に言われる言葉は、心が足りないとか布施が足りなかったと言われます。 心も満タン、布施も他の人の何倍もしたとしても結果は同じです。 宗教での救いは、個人の願いを叶えたり、災いを回避できたりするものではないのです。 全てを受け止めることのできる見かたを教えていただき、心を育てていただけるものなんです。 幸せも不幸も宗教においてはお与えであり思し召しです。 私に経験をさせていただけたことなんです。 幸せは幸せとして喜ばせていただくことです。 災難は災難として勉強させていただけたことです。 大切なのは、この経験を受け止めて、どう一歩を踏み出していくかです。 私たちに起こる出来事は、不必要は無いと受け止めることのできる心をいただけるのが宗教なんです。 私たちは災いに遭遇すると気が動転します。 すると視野が狭くなり、物事の認識能力が低下するんです。 低下した状態では、まともな判断が出来なくなります。 判断能力が低下していることで歩み方が分からなくなり、心が病んでしまうのです。 心が病んでしまうと、ますます歩むべき道が見えなくなるんです。 見えなくなるとは前を見ずに道を歩くのと同じ状態です。 小さな石にも躓きますし、電柱にもぶつかります。 人から「こっちだよ」って言われれば、そちらにフラフラと行ってしまうんです。 気がついたら、自分の行きたいところではなく、全く違う所にいることになるんです。 そうならないために宗教による崇拝対象があるんです。 本尊に向かって参拝する時間を設けることが出来れば、心にゆとりができるんです。 これを「心が洗われた」というんです。 ゆとりが出来れば判断能力も戻ります。 自分の歩むべき道をまた歩みだすことができるんです。 宗教は私が私であるために必要なものだと思っています。 だからこそ、信仰に値する宗教でないと大変なことになるんです。 自分自身の拠り所と出来る宗教をしっかりとお見つめください。 既成宗教が何故、何百年も続いているのか。 それだけ信仰をして後悔をする人がいないからです。 余談ではありますが、新興宗教はお金がかかるというのは違うという方がおられますが、新興宗教の施設を見てその通りだと思いますか? 既成宗教が施設を作る時、1000軒の檀家さんの志で建築できた建物を新興宗教は100人の志で建築できると聞きます。 それだけ信仰心が深いと言えばそうなんですが、それに比べれば既成宗教の志はかわいいものです。 以上のことなどから、先の人に喜んでいただける道を歩むことが出来ますようにお心がけいただきたく願います。 少しでも質問者様の人生に後悔が少なくなりますように・・・。 以上です。

sirouchiko
質問者

お礼

ほんとに、ほんとに有難いお教えです。ほんとに全く違う所にたどり着いたなあと思うことがしばしばあります。波風立てないように、人の波にもまれ流されて・・・ うちは先祖代々禅宗だときかされております。受験生の時代は心を落ち着けたくて座禅に心を惹かれたりしました。虚無とか無の境地とか悟りを開くとかそんな言葉をわけもわからず心で繰り返していました。あの頃のほうが、前向きで禁欲的で煩悩も少なかっただろうにと思い起こされます。 禅宗はナントカ宗の中のひとつなのでしょうか、それとも浄土真宗と並立する位置づけなのでしょうか?説明をきいても理解できないほど難しい関係なのでしょうか?とにかく禅宗は質素な生活を美徳としていてこの地域の状況や殿様の方針にあっていたとのことで、そんなことも好ましく感じたりしています。般若心経もなにかと触れる機会があり親しみ易いです。子どもの頃からこのくらいの認識で・・・それが少しずつでも深まっていけばいいのかなと思っています。私なりのつたないお粗末な宗教観で過ごせたらいいんですけどよろしかったらご指導お願いいたします。ありがとうございます。

  • osietete4
  • ベストアンサー率21% (81/369)
回答No.9

No.4です。 >拝んだから思いがかなったって言われたけど >拝まなくても思いがかなったかもしれなくても >証明のしようがありませんよね。 そんな人にお勧めのTwitterとブログを紹介します。どちらも「俺、信仰心なんてまったくねーよ。神なんているわけないじゃん。」って感じの人の宗教関係の話です。 https://twitter.com/TheHiroOfJustic http://cookingfoil.blog106.fc2.com/ >私は家の宗教を信仰するから他には入りませんと >言った事はありますが、否定されて不快になったり、 >仏壇なんて戸を閉めときゃいいのよと言われ、 >楽だなと思ってそうしてみたりしました。 >間もなく父が亡くなり檀那寺の和尚様や兄に叱られたものです 私は仏教徒ではないので、「和尚&兄」と「否定されて不快になった勧誘員達」にたいした違いはないように見えます。宗教って、本人達は気づかなくても、他の立場から見ると「それってたいしてかわんないじゃん」ってことがよくあります。

sirouchiko
質問者

お礼

そうですよね。兄や和尚様には長年の恩があるように感じていて頭が上がりませんが、勧誘者には恩も義理もない気はします。ただ私中心に考えればどちらも強要してくることに変わりなく、内弁慶の私はつい気心知れた兄には反発してしまい、他人には優柔不断になってしまいます。悪い性格です。直さねば。 Twitterとブログ拝見させて頂きます。教えて頂いて、ありがとうございます。

回答No.8

宗教=考え方・捉え方を拠り所とする。 ということです。 私は浄土真宗の住職という立場なので、浄土真宗的な仏教のお話になりますがご了承ください。 世の中には既成宗教・新興宗教など様々な宗教が何万もの団体にもわかれています。 その中で、本当に拠り所と出来るところはどれくらいあるのでしょうか。 まず、簡単に申し上げると、霊現象の話・金銭面で儲かる話・災いがおこる・災い回避の話・死後の地位を施す金額によって得られるなどの話がある所は怪しい宗教です。 また、まともな宗教は、あからさまな勧誘は致しませんし、来る者は拒まず、去る者は追わずです。 本来の宗教は、毎日をどの様に受け止めて歩んだらいいのか、また、私に起こる物事をどの様な見かたをしたら良いのかを学んで、その人自身が精一杯の人生を歩むことが出来るように心を育てていただけるものです。 質問者様が仰っておられる災いは人的な事でしょうか。 関係を絶ったことによって神仏からの災いはありません。 むしろ勧誘していた人たちからの嫌がらせだと思われます。 中には拉致監禁して洗脳するなんてことも聞いたことがあります。 以前にある宗教団体から逃げてきた人を寺でかくまったことがあります。 弁護士さんからは半年は1人での外出をさせないでくださいと言われました。 その間、何回かその人の友達という人や親戚という人などが寺の様子を見に来ましたし、無言電話もありました。 ただ、その人が寺にいることは友達も親戚も知らないことだったんで、訪問者はすべて断ることが出来たんです。 入信するのは簡単ですが、脱会は大変です。 結局、一年かかりました。 その人は心に災いの言葉が深く刺さっていました。 災いが怖くてどうしようもなく、震えていました。 仏教の話をしながら生活を共にして普通の心に戻られたことがございます。 入信してからの脱会は大変です。 入信する気が無いんであれば、はっきりと断ることです。 優柔不断な態度を相手に見せるといつまでも誘われますよ。 以上です。

sirouchiko
質問者

お礼

有難いお教えありがとうございます。入信する気はないと言うと私もあなたぐらいのときは絶対入らないと思ってた、10何年も義理のお姉さんに勧め続けられて自分が入りたいと納得できたときに入ったとかいっていました。お金は要らないから新聞だけ毎日持ってこさせて、テレビ欄だけでも見てと言われ、私も有難い話なんだと思ってしまって・・・きっと彼女は足腰の立つ限り通い続けると思います。そしていずれ私が入信すると待っていることでしょう。両親を介護で看取って独身というところがいずれ私も辿るであろう境遇と似ているからでしょう。ただ私は大卒ですが彼女は中卒だったので通信で高卒資格をとって創価大へ進むべく昼も夜も働いていて、どちらもつらい仕事だからひとつの仕事にして今の二つの仕事と同じ収入が得られるよう転職したいとのこと。彼女にキセキを願わずにおられません。

  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2724/5433)
回答No.7

ご自身に家系を守ってくださっている菩提寺があり、その講和に満足し、仏教に帰依しているのならそれで十分ではないですか?そこから学び、そこに生きる糧を見出せばいいし、それを得ていると考えるならそれ以上のものなど探す必要もありません。 宗教というものを突き詰めていけば、あがめる対象がなくても十分に宗教となりえます。 宗とは尊ぶべきものという意味であり、宗教とは尊ぶべき教えという意味です。 例えば仏教はキリスト教のような創造主は居ません。そこにあるのは基本的に閻魔などを別にして人間以外の存在ではないのです。仏陀とは人間の到達目標です。誰もが到達できる究極の悟りを言います。でもそこに至る尊ぶべき教えを経文として伝えているから宗教なのです。 一方で神道は明治時代に神社神道となり教義がありません。一部教義を持つ神道(教派神道など)もありますけどそれは自然の営みの中から学び取ったものです。そちらは宗教ですが、神道は基本的には宗教とは言いません。神社神道は明治時代に明確にその姿勢を示しました。(近代になって道を逸れ始めている感もありますけど) 倫理は元は扶桑教という立派な宗教です。しかし宗教弾圧を受け解散されました、このとき出来たのがPLであり倫理研究所です。倫理研究所は宗教弾圧を受けるなか思慮を重ね、特定の神仏を据えることは排他に繋がると考えるに居たり、所謂神仏を崇拝する宗教色をなくしていきました。ここから更に倫理から分派したのが実践倫理ナントカという団体です。 これは基本的には対象物をなくしたというだけのことです。不変の教義があるわけでもなく、常に学び続けているという点でも宗教とはいえないと思います。 どちらを倫理と略して言っているのか判りませんけど、我が家にも近くの人が倫理なる冊子を置いていきますけど、普通に幸せを感じるために生きる模索を書いているだけで、間違ったことは書いていないと夫婦共に考えます。けど所属はしていません。 神仏を据えていないという意味では、所謂“宗教”ではありませんが、中心となる尊ぶべき思想という点においては宗教そのものともいえます。(もちろん誰かが提案した思想を至上と考えれば共産主義も自由主義も宗教となりえるわけです) これは言い換えれば金銭の問題ではなく、一つの思想を是とし他を排する思想すべてが宗教ということも出来ます。自由主義を押し付け他の思想を持つ国を攻撃する米国も、信じないものを虐殺した共産党も神罰を下すと脅かす宗教となんら変わりはありません。 つまりいかなる思想も強要すれば邪教となるわけで、それが「信教の自由」の真の意味なのです。 但し間違っているのは、宗教とは本来実践するべき思想であって、宗教が救ってくれるとかすがるものではありません。それこそが最近になって生まれ出ている胡散臭い宗教であり、詐欺集団でしかないのです。浄土思想でも念仏を唱えれば往生するとはいっても浄財を収めれば救われるなどとは言っては居ません。生きる努力は必要なわけです。キリスト教でも怠惰は宗教に対する怠惰ではなく生きることに対する怠惰なのです。 宗教にすがるといってもそれは導きを求めるものであり、導きとは自分が到達すべき目標であってそこへは自らの足でたどり着かねばなりません。だれも荷馬車に乗せて連れて行ってくれるものではないのです。

sirouchiko
質問者

お礼

興味があるなんて言ってしまって、何も知らないでお恥ずかしい次第です。私の家に来てくれる勧誘者もそこまでは教えてくれませんが、皆自信満々で上から見下ろすように語ったり他者を批判したりします。私は商売に憧れ愛想よくするよう勤めてきましたが、お店でもこちらが恐縮しているのにぺこぺこした人なんていませんね。皆きっと心の支えがあるんだろうなと思いますが家族や親戚や友だちがいるのになんでお経唱えたり浄霊したりする仲間を大事にしてるのか残念です。友だちのくせに自分が情けないです。 自分は池田先生に救ってもらいたいんじゃないとか言う学会員さんも一緒に読経しようとか会館に集まろうとか聖教新聞を読んでとか選挙でいれてとか他の人を連れてきて仏壇を買いなおせとかお守り今だけこれだけ買ってとかうんざりでも直接言えません。うちの宗教やお経の批判もされました。きちんと知識を身につけて話せるようになりたいです。ありがとうございます。

noname#212854
noname#212854
回答No.6

 長年連れ添った夫が亡くなり、打ちひしがれて、まったく外出をしなくなった母を心配して、母の友人たちが、毎日のように様子を見にきてくれました。  その中には、それほど親しくはなかった人もいました。  その人たちは皆、ちょっとした知り合いが宗教法人の勧誘者に変身したのです。  時には、2人、3人と連れ立ってくる場合もありました。  それぞれの人が非常に熱心に通ってくれて、母を口説いていました。  数カ月後、母は毎日、お経のようなものを唱えたり、頭に手をかざしたり、熱心に手を合わせたりしていました。  どの宗教に入ったのか尋ねると、◎◎さんが誘ってくれた□◇会、××さんに誘われた◎×会と、10くらいの宗教法人の名前をすらすらと言いました。  その全部に入ったのだそうです。  みんな、私を心配してくれているのだから、一つだけでなく全部に入りました、と言う。  それから、しばらくすると、もともと外交的だった母は、毎日外に出歩くようになりました。  宗教はどうしたの? と聞くと、「私が熱心でないので、みんな来なくなった、」と言う。  結局、父が亡くなる前からの友人たちとの関係はずっと続いていますが、新たにできたと思われた宗教を解しての関係は、全部無くなりました。  「付け入る隙」が母にあったから、勧誘があったのでしょう。

sirouchiko
質問者

お礼

すごい話をありがとうございます。とても行動的なお母様で尊敬いたします。しっかりされているから宗教にまどわされないのですね。私も強くならねば。

noname#165491
noname#165491
回答No.5

その宗教に入ってる信者の生活は本当に毎日幸せなのか?、口先の言葉ではなく信者の日常生活の人間性を見て宗教の言葉が本物か?、付き合う価値が有るか?どうかを判断したらどうですか?。 災いや苦しみ、不幸は無宗教やどんな宗教の信者とか関係無く全員被りますしね。 宗教はあくまでも苦しみから抜け出して生きる為のヒントやきっかけを教えてくれるだけです。 祈った、拝んだ、お金を払っただけで助かる宗教は存在しないと思います。 最後に助かるかどうかは本人の努力と人間性次第と思います。

sirouchiko
質問者

お礼

ありがとうございます。ほんとにそのとおりだと思います。まず私の話を聞いてくれる人、聞いてなくてもいいけど話させてくれる人にはひととおり話してしまいます。私もその人の話がききたくてきいてると宗教だったりして、話そのものがおもしろければききますが、それで何をしようということになったとき、宗教活動だと、せっかくその人の話に共感していたのに、その人の考えをききたいのにもっとおもしろかったりやりがいのあることを求めてしまいます。その人がその宗教で救われたことは否定したり批判したりできません。できれば私が助けになりたかったのに力も信用もないから助けられなかったんですから。でもその人に具体的な助けを求めても応じてはくれないし期待するのも私のエゴだと思ってあきらめているのにましてや見ず知らずの宗教や宗教仲間に助けてもらおうなんてこれっぽっちも思えません。やはり親友とか思っていた人でも距離をおいたほうがいいんだと思います。こちらがさりげない優しさに心から恩にきていても宗教まで引き受けなくてもいいですよね。そのさりげない優しさに甘えたり期待したりする自分の弱さと戦っていきます。

  • osietete4
  • ベストアンサー率21% (81/369)
回答No.4

>私自身心が弱く誰かにすがりたくなることもあります。 >父が他界したばかりで母も長く車椅子生活を送っており、 >そのせいではなく私は嫁に行けず出産適齢期もとうに過ぎています。 そういう人を宗教は狙います。 >いろんな方がいろんな形で誘ってくださいます。 >強引に自分の信仰を押し付けようと >仲間まで連れてきて宗教行為を強要されるのには、 >いくら友だちでも上司でもうんざりします。 明らかに、あなた狙われてます。 >今まで金銭の要求はされたことがないのでいい宗教だとは思いますが、 信者になったら要求されますよ。ちなみに、あなたが「>和尚様に機会あるごとに説法もいただきお経もついて読んだりする」のも、お金を宗教(仏教)にはらってることになります。 >どれかに入信しなければいけないくらいなら >その方々との一切の関係を絶ってもいいと思っていますが、 >そのことによってもたらされるかもしれない >災いまで受け入れる覚悟って難しくないですか。 手っ取り早い解決策は、嘘でもいいので「私はすでに○○の信者になったから、他の宗教に行く気はない」って宣言することです。たいていの人は、それを聞けば勧誘をやめると思います。信心深い信者が勧誘員の場合は「もし、あなたが無理やり他の宗教へ改宗を進められたら嫌でしょ?」って付け加えれば、相手は文句を言わないとおもいます。お試しあれ。 [追記] 宗教にはサークル(料理教室やダンススクールみたいなの)のような側面もあります。神なんて信じてないけど、サークル的な感覚で宗教の集まり(ミサなど)に参加してる信者もいたりします。もしあなたがサークル的な感覚で、宗教の集まりを楽しめて、値段(募金、お布施など)が高くないと感じるのであれば、宗教に勧誘されちゃってもいいと思います。入信(改宗?)されちゃったあとで、気に入らなければ「やっぱやめた!」ってやめればいいだけですから。

sirouchiko
質問者

お礼

率直なご指摘ありがとうございます。なんだか気が楽になりました。 私は家の宗教を信仰するから他には入りませんと言った事はありますが、否定されて不快になったり、仏壇なんて戸を閉めときゃいいのよと言われ、楽だなと思ってそうしてみたりしました。間もなく父が亡くなり檀那寺の和尚様や兄に叱られたものです。宗教をめぐって人間関係がこじれるのってほんと嫌です。自分も家の信仰を捨てて改宗したからあなたもした方がいいと言われたりするのです。  拝んだから思いがかなったって言われたけど拝まなくても思いがかなったかもしれなくても証明のしようがありませんよね。 親しかった友だちにしつこく誘われて、あんたにその宗教やめよち言わんのやけん私にも入れち言わんでよと言ってそれから疎遠になっているとおつれあいが事故死されていて、宗教に救われたことになるのかなあと思ったこともあります。 悩みを相談してくれた友だちも宗教仲間を連れて私を救いに(?)きてくれるようになって、友情は宗教に負けたなと思ったりもしました。その人はおつれあいがご病気であんたは神に救われちょんのな?と尋ねたこともありますが、それは違うんでとかいう答えで、祈ることは家族の健康だろうになと思いました。 もう疲れます。

noname#203300
noname#203300
回答No.3

 私は妻を7年前に癌で亡くしています。  仕事上で会った奴は私が妻を亡くしているのを知ると目を輝かせて(確かに表情が変わった!)宗教の話を始めました。こんな奴の信仰する宗教なんて宗教の部類にも入れたくない。某学会です。勿論、怒って席を立ちましたから仕事の話も中途半端。それで良いと思っています。あんなのと取引しても碌な事がない。  私自身は仏教徒。妻も曹洞宗のお寺の墓に埋葬してあります。ですが、今の宗教はどれも疑問に感じていますので深い信仰心はありません。ただ般若心経を学んではいます。これはものの考え方や生き方には役に立つと思っています。  私は自分の信じている宗教を褒め称えて押し付けるような人間は人として信じてはいません。それが私の宗教観なのです。

sirouchiko
質問者

お礼

なんだかわかります。宗教の座談会に呼ばれて、我が宗教を貧乏人と病人の宗教と言われたことがあると悔しそうに話されてるのが印象的でした。あの時助けたから今自分が苦しいときに助けてくれるだろうなんて期待しても裏切られちゃったりしますよね。 衝撃の事実を教えて頂き恐れ入ります。どんなにかつらくお寂しいことでしょう。私は父とは相性が悪く憎んでみたりもしましたが、そんな私でさえ、ここまで育ててくれたこと、父本人にしかわからない苦労、死に際のことなど考えるとひとりのときはなんとも胸が苦しく涙が出ます。ましてや愛していた伴侶を失う悲しみときたらもう壊れてしまいそうです。 宗教で救われる方はいいですよね。 私は回答者様の宗教観に共感させて頂きました。 どうもありがとうございます。

  • KoalaGold
  • ベストアンサー率20% (2539/12475)
回答No.2

災いが来ると信じていたらすでに染められています。災いは来ません。だいじょうぶ。

sirouchiko
質問者

お礼

救われます。本当にありがとうございます。回答者様のお言葉を信じて生きることにいたします。呪われていると思っただけで災いが起こるもの、心理的な作用だけで本当に病気になってしまったりするものだと、だからわら人形は効果がある場合があるときいたことがあり、私が心から憎んだ人を呪ってみたり、愛する人に呪ってやると言ってみたりしたことがあるものですから。宗教でも道徳でも自分がしたことは良くも悪くも自分に帰ってくるみたいなこと言われますよね。あと伝記みたいな時代劇の中で武士道というか?殺気を感じて身をかわしたが、それは、相手に対して自分が抱いた殺気が相手から跳ね返って自分に来たとかありました。他人は鏡だとかも言われますね。となると一番怖いのは自分の心の中ってことになりました。気をつけます。

  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.1

宗教は歴史的に人に生き方を教えてきました。神道は人智の及ばない領域での神の力添えを願う宗教です。無病息災、家内安全、五穀豊穣、大漁祈願、夫婦和合、大願成就、学業成就、安産祈願。それが神道です。おかげさまで今年も米が採れました。その喜びを神に見せるのが祭りの意味です。歌と踊りで体全体で喜びを表現して神様に見てもらおうとしたのが、祭りなのです。一方、仏教は日本人に心のあり方、暮らし方を教えてきました。災いは煩悩から生じる。どうすれば煩悩にとらわれない心を持てるのか。それが仏教です。こうして神道と仏教は相互補完的に車の両輪のように日本人を教化してきました。 しかし西洋では必ずしもそうではなかった。宗教改革直前のローマ・カトリック教会は無邪気な信者を食い物にする悪徳商会みたいなものになっていた。教会が発行する免罪符を買えば、罪は許されるというセールストークで売りさばいた。そんなこと聖書のどこに書いてある?ルターはそう疑問を唱えて宗教改革が起こった。 今日の新興宗教の中には、宗教改革直前のローマ・カトリック教会のような教団があります。まさに無邪気な信者を食い物にしている悪徳商会です。といって私はローマ・カトリック教会を否定しているわけではありません。ローマ帝国から蛮族と蔑まれたゲルマン民族を文明人に教化した歴史的役割は否定できない。また西洋人は教会から食い物にされたことで疑うことを覚えて近代科学にも目覚めました。教会が果たした功罪はどちらも否定するものではない。 では日本はどうか。日本では宗教改革が起きず、疑うことを覚えず、近代科学にも目覚めなかった。そのまま現代日本に至っています。日本の学問は、東洋あるいは西洋から輸入し、まるで聖書のように日本人に叩き込まれたのです。学問的方法論でなく、宗教的方法論で日本人は教育されている。 だから日本人には新興宗教、悪徳商会に対する警戒感が微塵も育っていないのです。私は決して宗教そのものは否定していない。しかし悪徳商会に組するものでは断じてない。 質問者さんがどういう生き方を選択するか。それは質問者さんご自身でよくよく考えられたい。私は決して新興宗教の教祖になどなるつもりはないからです。

sirouchiko
質問者

お礼

とても知識にあふれたご回答ありがとうございます。教祖を目指されない回答者様こそを師とあおぎとうございます。父は太陽熱温水器と床下乾燥機に、母は蟹と青汁に、私は布団とボイラーと男性に財産をつぎ込んでしまいました。今さら宗教にまで支払うお金は作れないと思いますが・・・宗教も学問として、歴史に沿って、哲学とも比べて学んだら自ずから生き方がみえてきそうなんて思っちゃいます。複雑で深いですね。もっと勉強してみたいですが、難しい本を読むよりこうして教えて頂くと身に付きそうです。何度も読み返してひとつずつ理解してゆきます。