宗教は教義の内容より、同業相手を見下したり引き下げたるすることで
いつも争いの種を作っているように思います。
それをやるなら、表看板が何であろうといくら変えようと
どこに入信しても根元は争う姿勢であり、攻撃体制ですよね。
それが宗教戦争の常でありますよね。
信仰を調べてみました。
命名字解より
「信」は《言部》に分類され、「誠也。従人従言。会意。」=「誠である。“人”と“言”に従って成り立つ。会意文字である。」と記す。
◆「信」の部首である「言」について、『説文解字』は《夊(チ、なつあし)部》に分類し、「直言曰言,論難曰語。従口䇂声。」=「直に発言するを言といい、論難するを語という。“口”と“䇂”に従い、“䇂(ケン)”を音とする。」と記している。(“䇂(ケン)”については未詳)。
◆また、「言」が「口」と「辛」から構成され、「辛」を“針”とする解釈が一般的である(下図参照)。
《字形成り立ち図:「辛」、「言」、「信」》
◆上図に明らかなように、「辛」は「言」と「信」の部首=パーツとなってはいるが、「辛」が意味するのは“針”ではなく、植物の種子である。例えば、ひまわりが花を咲かせた後に残る種子である。
◆山椒(サンショウ)や唐辛子(トウガラシ)、胡椒(コショウ)などの植物の実は香辛料として使われるだけでなく、漢方薬としても古くから用いられた。
◆そして、本来は種子を意味する文字であったものが、それが持つ「辛さ(辛さ)」から“からい”、“(涙が出て)つらい”という意味が派生したものである。
◆人の口から発せられた音を植物の実に例えて「言」という漢字が生まれ、それに「人」(=イ:にん偏)が加えられて「信」という字になったのである。
◆「信」は「申」に通じて「もうしのべる(申し述べる)」といういう意味を持つ。
◆そして申し述べたことに対する責任を負うというのが「信」の字義である。
◆ということで、以上が「信」という漢字の解字、成り立ちと字義である。
「仰」は《人部》に分類され、「挙也。従人従卬。=挙げるなり。“人”と“卬(ゴウ、ギョウ、たか‐い、われ)”から成り立つ。」と記す。
◆「卬」という字は、立った人と跪(ひざまず)くひとが向かい合う形に象(かたど)ったもので、跪くものが目上の者の話しを拝聴している様子を表している。
◆「卬」という字には、「たかい」、「むかえる(迎える)」、「たかぶる(昂る)」「あおぐ(仰ぐ)」、「」あおぎみる(仰ぎ見る)、「われ(吾)」などの意味があり、「仰」の古字でもある。
◆上述のように、「卬」という字には、幅広い意味があることから、“イ(にんべん)”を付けて「仰」、“之繞(しんにょう)”を付けて「迎」、“日(ひへん・にちへん)”を付けて「昂」というように、意味付けを細かくして伝わりやすくした。
◆これが「仰」の成り立ちであり、その字義は位置とか位のたかいものを見上げる、リスペクト(尊敬・敬意)を持つtぽいことである。
【主な意味】
[1]あおぐ(仰ぐ)。見上げる。
[2]あおぐ(仰ぐ)。尊敬する。敬意をはらう。
[3]公文書で通達文のタイトルに付ける文字。
[4]【日本】:仰(おお)せられる。仰(おっしゃ)る。[尊敬語として使う]。
[5]【日本】:仰(おお)せ。身分が高い人から出された、言葉や命令。
・・・・・・など。
偉いとされている人が、おっしゃった言葉なのでしょうが
信仰は「教えを鵜呑みにして疑いを持たず」であるなら
言われたことそのまま従うアホウでいろってことに感じます。
私が大切に思うのは「自分の道」であり、それは自分の中にあります。
人の道も、あらゆる教義も精査の対象ではあれども
外のものを崇めたて祀るという信仰は、個人的には必要としていません。
自身で咀嚼し、自身の力で自身の身になったものだけが
自分の道の一部となり、いずれも全体採用ではありません。
自身の外に掲げてあるだけにとどまるものは、本当に必要なのでしょうかね?
必要としてる人が採用するのは構いませんが
それは自分で考える力をなくさないの?と聴きたくはなります。
誰でも好きにするのはいいですが、争いの種は撒かないでほしいと思いますね。
お礼
>時に殺し合い、時に助け合う それは人の道ではなく、畜生の道という。