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現在に生きる者は永遠に生きるとは
「現在に生きる者は永遠に生きる。」とはどういう意味でしょうか。
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哲学の質問ですね。その言葉をどのようなところで読みましたか。 言葉は多義的です。誰がどんな文脈の中で言っているのかを確認しないと、意味はわかりません。 また誰かが日常会話のような中でぽつんと『現在に生きる者は永遠に生きる』と言い出した場合には、どんな場面であるか、誰に向けて言っているのかという背景を考えながら、発言の意図を推察する必要があります。 例えば、将来を不安に感じて立ち止まっている人にアドバイスするつもりで発言されたことなら、今を懸命に頑張りなさいということを言いたいのかもしれません。 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの著作に『論理哲学論考』があり、その中に、次の一節があるそうです。 「同時に死に際しても世界は変化せず。終息する。」 「死は人生の出来事にあらず。人は死を体験せぬ。永遠が時間の無限の持続のことではなく、無時間性のことと解されるなら、現在のうちに生きる者は、永遠に生きる。」(論考6・431) これを次のように解釈している人がいます。 http://trakl.blog121.fc2.com/blog-entry-143.html 死は人生の出来事ではない。 なぜならば、ヒトは自分の死を体験しない。 宇宙(そら)でも、大洋(うみ)でも、果てが見えなければ果てはない。 視野の内に視野の限界は現れないように、生もまた、終わりをもたない。 時計の刻む時間ではなく、自分の意識、自分の人生で考えれば、終わりはない。 (あす死ぬと自殺や自爆を決めたところで、実際に死んでしまうまでは、生き続けている) ヒトが生きている自分の人生には自分の死というものは存在しない。 死は認識しえぬものとして人間の意識の中には存在しえない。存在し得ないものについて語ることも出来ないし、恐れたりすることもない。 知りえぬ彼岸の世界などに惑わされるのではなく、きっぱりと語りえぬものとして決別し、今をいかに生きるかを追及すべきなのだ。 生と世界に意味があると考え、そのように生きることを徹底的に追求していくことを通して今という時間を「永遠に生きる」ことが可能となるのだ。瞬間の中に永遠は瞬き現れる。 この浄土真宗の方のwebページの終わりにもウィトゲンシュタインの解釈がでています。 http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_7_23.html 『死が人生の中のできごとでないことは、お分かりいただけると思います。時間の持続という観点を排するなら、現在生きていることは、永遠の事柄です。さらに、わたしたちの視界には文字通りすべてのものが映っている、逆にいうと、映らないものがないのと同じように、わたしたちの生には欠けたものも、どこへ向かっているということもなく、それですべてです。この考えはすくなくともわたしにはぴったりきます。実際のところ「生」しか存在しないのではないでしょうか。 』 次のサイトは、前半部が広告?なので、webページの下半分を見てください。 http://clarisworks.blog54.fc2.com/blog-entry-97.html この方は、次のようなコメントをしています。 『ウィトゲンシュタインは、哲学者は哲学的命題を扱う職人であるよりは、むしろ苦悩や混乱を解決するセラピストのようであるべきなのだという考えが根底にありました。』 おそらく宗教者も、先や死を強く意識してその結果弱り切っているような状態の人を救済するという強い志向があると、『現在に生きる者は永遠に生きる』に似た表現を色々なバラエティでお話になるのではないでしょうか。 できる限り論理的に説明しようとしたのが、ウィトゲンシュタインかもしれませんが、この論理的な言い方が説得力があるのか、別の言い方の方が効果的で心情に訴えるのかは、状況次第でしょう。
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- 島崎 信也(@zakky74)
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時間の概念には、過去・現在・未来がありますよね? 通常、人間は生きていく中で、この過去・現在・未来の3つが常に頭に入っております。この状態では、生死が生じていますよね? 例えば、僕は33歳ですが33年前の誕生日前までは誕生しておりませんでした。死んでいる状態です。過去、僕は死んでおりました。そして、未来にどれだけ後になるかは分かりませんが、僕は何らかの理由でこの世を去る事になりますね。死んでいます。 遥かな過去と未来があって、そこでは僕は死んでいる状態でございます。ほんの僅かの間だけが、僕が生きている時でございます。 では、そんな過去と未来の時間をググッと幅を縮めてみたらどうでしょうか? 何十年という単位から、2年・1年・・・更に短くして2時間・1時間・・・更に2分・1分・・・そして2秒・1秒・・・どんどん時間を短くして今ここがどういう世界なのかを観てみましょう。 時間をどこまでも短く刻んでいくなら、今ここ(現在)に生きる事になりますね? どんどん時間を刻んでいきます。例えば、脳の中の電気信号は時間が掛かりますよね?ですから、ここでもまだ時間差が生じてしまいます。電気信号によって記憶にアクセスしたりする事は、時間差が生まれてしまい、これでは今ここではございません。 まだまだ、まだまだ。 ずっとずっと時間を細く、更に細く、益々刻んでいきます。 更に更に時間を細くしますと、プランクの長さまで来ます。10のマイナス44乗。 これでも相当に短い時間ですよね? これが測定できる最小の時間単位だといわれています。 そして、この最小の単位よりも更に短い時間へと刻んだら・・・ ところで、ここまで短い時間(もはや時間の最小単位を超えている世界)まで来ますと、そこから見えるこの世界はどういう世界でございましょうか? 光が生まれたり死んだりという世界は見えません。 原子が生まれたり死んだりなどと言う世界は見えません。 たんぱく質が生まれたり死んだりなどと世界も見えません。 たんぱく質の塊である人間が生まれたり死んだりという世界も見えません。 如何でございましょうか? そこまで短い時間、時間を超えた領域にまで時間を押し込めた今ここ(現在)に生きるものが観る世界は、生まれた現象や死んだ現象など存在しません。その世界では生死を観る事もありません。また、時間が流れているという認識もありません。 これが、現在に生きる者は永遠に生きるという意味でございます。 如何でございましょうか?
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ありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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現在を本当に生きることができればそれは永遠をいきることになります。 現在をもてるということはえんえんであるということです。 過去、現在、過去、未来という区分をしていますが、いつも過去であり、未来ではないですか。 いえ過去も未来もないのが常人ですね。無論、現在もない。人はそんな存在であることを自覚できていない。
お礼
ありがとうございました。
- hanniyagi
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仏教の経典に 「比丘(仏教修行者、物乞いをして礼を言わない乞食、の意味)達は。一日一度の粗末な食事しか取っていないのに、何故あんなにも生き生きとした顔をしているのでしょうか」との問いに、釈迦は 「彼らは、過去を悔やむ事も、未来を憂うる事もなくむ、ただ、今、だけに生きているから、あんなに、生き生きとした顔をしているのだ。」と答えた。 また「この国をどう治めればよいのでしょうか」との国王?の問いに、釈迦が 「東から大きな山が人々を飲み込みむながら押し寄せて来ています、西からも、大きな山が人々を飲み込みむながら押し寄せています、北からも、南からも、大きな山が押し寄せて来ています。逃れる術はありません、あなたは、どうしょうと云うのですか。」と聞くと 国王は「それでは、今、を正しく生きるしかありませんね。」と答えた。と言うような説話がありますが。 ご質問の「現在に生きる者は永遠に生きる」の作者の念頭にむ、上述の言葉が念頭にあったかどうか、は西洋思想のニュアンスもあり、判断しかねます。 しかし、人間、自分が生きているという意識は常に今想起している意識であり、人間の意識が、今しかない、のではなく、世界が今しか存在むしていないのであり。過去は既に無く、未来はまだおきていない。と共に、過去も未来も今の中に在る。今=永遠 と捉える事は、出来る事でしょう。 「悟って一日生きるは、悟らず100年生きるに勝る」という言葉にはそういう意味もありそうです。 共に。べるの減せるが、者
お礼
ありがとうございました。
- cincinnati
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生きるということを考えたときに人が真に生きているのは「今」だけで、過去も未来もそれぞれ記憶と想像の世界でしかないことを考えますと、今生きている時に生きていなければもちろん未来も生きていないということが言葉のお遊びのようですが言えると思います。つまり「今」をどのように生きているかそれが問題だというわけです。 もし現在の人生が生きるにあたいしないと感じておられるならば、おそらくその「生」は「死んでいる」と言えると思います。もし現在、死んでも悔いないほどの歓喜に溢れているならば、その「生」は「文字どうり生きた生活」と言えると思います。しかも未来も飲み込んだ現在であり、瞬間の内に未来と過去を含んで悔いのない人生なのではないかと思うのです。 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 ヨハネによる福音書 11章25~26節 これは聖書の言葉です。聖書のいたるところに永遠の命という言葉や考え方が述べられています。聖書ではまた「罪の支払う報酬は死である」と述べています。つまり罪がある人生は死にゆく人生であり、実は生きているようでも死んでいるとイエスは述べています。イエスは日々の激しい労働や自ら招いた罪の結果に死んでいるような人々を哀れに思い、「私を信じるものは」つまり私と同じように生きるものは「死んでも生きる」と述べられました。 >「現在に生きる者は永遠に生きる。」とはどういう意味でしょうか。 もしあなたが現有の罪を全く赦されて、心が雪のように白くなり、動機においても行いにおいても曇りのない瞬間を生きることができるならばその瞬間は未来を凌駕するであろうということだと思います。人間的な言葉を用いれば、圧倒的な歓喜を今、体験できているならばあなたはあたかも未来の様々な不安や圧力から解放されるということだと思います。 私はプロテスタントのクリスチャンでモルモン教、エホバの証人、統一教会とは関係ございません。クリスチャンの体験は言葉をつないで説明できませんが、現在死んでいたものが永遠に生きる者にされるという体験でした。ご質問者様の上の質問はどうやら聖書でのべられていることと同じであると思い至った次第です。
お礼
ありがとうございました。
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