「喧嘩両成敗」について
「詳説日本史研究」という歴史参考書の「戦国大名の分国支配」の項で下記のような記述がありました。
記
戦国大名は、絶え間のない戦いに勝ち抜き、領国を安定させなければ支配者としての地位を保つことができなかったので、富国強兵のための新しい体制をつくることにつとめた。家臣団統制や領国支配のための政策をつぎつぎと打ち出し、なかには領国支配の基本法である分国法(家法)を制定する者もあった。これらの法典には、御成敗式目をはじめとする幕府法や守護法を継承した法とともに、国人一揆の取決めを吸収した法などがみられ、中世法の集大成的な性格をもっていた。また、喧嘩をした者は理由のいかんを問わず双方を死罪に処するとした喧嘩両成敗法や、個人の罪を同じ郷村に住む者にまで負わせる連坐(縁坐)制など、新しい権力としての戦国大名の性格を示す法も多くみられる。とくに喧嘩両成敗法は、それまで紛争解決手段の一つとして慣習的に認められていた決闘・私闘(喧嘩)を禁止し、すべての紛争を大名の裁判に委ねさせることによって、領国の平和を実現しようとしたものであり、この姿勢はのちの豊臣秀吉の政策にも受け継がれていく。
(以上)
少ないスペースの中で、わざわざ「喧嘩両成敗」が取り上げられていたし、ふと、某書で、赤穂事件に関して「天下の大法とされた喧嘩両成敗法を自力で実現したものでした。」と記述されていることを思い出し、この「喧嘩両成敗」ということについて、興味が湧いてきました。
私が疑問に思ったことは次の4点です。
1. 日本で、「喧嘩両成敗」という考え方というか、対処の仕方が出てきたのはいつ頃のことでしょうか???「御成敗式目をはじめとする幕府法や守護法を継承した法とともに、国人一揆の取決めを吸収した法などがみられ、中世法の集大成的な性格をもっていた。」とあるので、「御成敗式目」もネットで検索してみたのですが、「喧嘩両成敗」なんてことはなく、むしろ、第12条:「悪口の罪について」で、
「争いの元である悪口はこれを禁止する。重大な悪口は流罪とし、軽い場合でも牢に入れる。また、裁判中に相手の悪口をいった者は直ちにその者の負けとする。また、裁判の理由が無いのに訴えた場合はその者の領地を没収し領地がない場合は流罪とする。」とあり、むしろ「喧嘩両成敗」とは全く相反するのではないか???と感じるものでした。鎌倉時代以降、戦国時代の間で出てきたものでしょうか???
2. もし、そうだとしたら、鎌倉時代から、戦国時代までに、「喧嘩両成敗」という考え方が出てくるどのような変化があったのでしょうか???
3. ふと、「喧嘩両成敗」って言ったって、戦国大名にとっては、「優秀な部下を両方とも失うのはつらかった」のではないか???……だから、逆に喧嘩をさせないための事前の策として、こんな対処の仕方が出てきたのかなぁ……と考えたのですが、この素人の考え方を批判してください。「喧嘩両成敗」という考え方というか、対処の仕方が、戦国時代に出てきた時代的背景いうのはあるのでしょうか???
4. かすかな記憶の私的な経験ですが、少年の頃、先生方は、面倒くさかったのか???あの当時、先生の頭が悪かったのか???……「喧嘩は両方とも悪い、喧嘩はするな」と、先生に脅され、それでも喧嘩をして、先生に殴られたのを思い出しましたが、……今だったら、あの先生「懲戒免職」だよな、なんて考えながら、赤穂事件の江戸時代から、戦後しばらくは、「喧嘩両成敗」という考え方は生きていたのかなぁ???とか、今の時代にも残っているのかなぁ???なんていう疑問もわいてきました。
補足
回答ありがとうございます。ということは、御成敗式目も塵芥集も家臣を統制しようとしたものということでしょうか? しかし、塵芥集は家臣を統制しようとする条文よりも、領内全体を統制しようとする条文が多いかと思います。 そこはどういうことなのでしょうか。