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法然と親鸞
法然と親鸞 法然は浄土での往生の方法として、出家や修行ではなく専修念仏のみでよいと説かれました。それを継いだのが親鸞だと思います。 今、法然の浄土宗より、親鸞の浄土真宗の方がよく広まっているのはなぜでしょうか?また、二派の考え方の大きな違いは何でしょうか?
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> 大乗仏教、小乗仏教。一つの説は、大乗は国家や、社会を救い、小乗は個人を救う。 > もう一つは、大乗は、出家者、在家者すべてを救い、小乗は、出家者だけを救う。 竹村牧男 『大乗仏教入門』 十地の道程を進めば、やがて仏になるはずです。そして、そこに菩薩の究極の目標があるはずです。しかし、菩薩のなかには、仏となることを拒否する者もいます。あえて仏にはならずに、菩薩のままでいたいというのです。それは、いつまでも衆生とともにいて、そして衆生救済に励みたいからなのです。[...] 一般に、仏になりえない者を「一闡提」といいます。大乗仏教では、本来、仏になりえない者はいないのですが、あまりにも煩悩が深重で善を修める能力のないものや、正しい教えと真理を誹謗する人などは、仏にはなりえない、一闡提と呼ばれるのだとあえていうのです。その一闡提のなかに、菩薩の一闡提もいるのです。それは、仏になる能力を欠くからではなくて、大悲によって自ら仏にならないからです。そうした菩薩の一闡提を、大悲闡提といいます。 大悲闡提の菩薩は、自分から進んでわざわざ苦しみ悩む人のそばに赴きます、むしろ自ら願って苦悩の深い世界、悪趣に生まれようとするのです。十地を上ってさらに仏となるよりも、あえて人間界やさらには地獄界に往って生まれようとします。自ら求めて困難の多い、重苦ののしかかる世界に生まれ、働こうとするのです。こうした菩薩を、願生の菩薩といいます。 [...] 仏になったからといって衆生救済の活動ができなくなるはずはありません。しかし大乗仏教徒たちは、あえて涅槃に入らない菩薩、仏にならない菩薩という考え方を提示したのです。ここにともかく、自ら悪趣に生じてまで、一切衆生を救済するのだという菩薩の理想が示されています。『法華経』の法師品第十には、「大願を成就せるも、衆生を愍むが故に、この人間に生れたるなり。」「清浄の土を捨てて、衆を愍れむが故に、ここにうまれたるなり」ちにあります。この切なる願いに、菩薩道の本義があると考えられます。 十地の菩薩道は、菩薩がいかに向上していくか、ということを描くだけが本意ではありません。むしろ、どのように一切衆生救済の主体となっていくかが主題であるともいえます。そして、その究極は、仏となることを自ら拒否し、あえて願って悪趣に生まれる菩薩となることにあります。ここに大乗仏教の核心があるのです。
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- otherwind
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> 内部的な教義解釈はいろいろあるが真理、信心は一つしかない。 > ところでotherwindさんは、ご宗旨は何でしょうか? > 何が真理だとお考えですか? いえ、自分たちの宗派以外を認めないセクト主義は自己矛盾していると考えることもできますね…と言いたかったものです。
お礼
浄土宗、真宗本願寺派、大谷派でセクト主義のような対立はあまり耳にしませんが、それなりにあるのでしょうか?
- ij246810
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法然上人の開かれた浄土宗の教えの真意を受け継ぎ、浄土真宗を開かれたのが親鸞聖人ですから、親鸞聖人の教えと今日の浄土宗の教えの違いが分かれば良いことになります。 今日の浄土宗の教えは、簡単に云えば、念仏を称えれば死んで極楽往生ができると云う教えです。 これは、決して法然上人が教えられた、真意ではないのでして、今日の善恵房の開いた浄土宗と法然上人の開かれた浄土宗の教えとはまったく違うことになります。浄土真宗の教えでは、「信心正因称名報恩」と云われます。これは、信心が、助かる為の因と云うことで、念仏は、阿弥陀仏の御恩に対するお礼です。くわしくは、浄土真宗の教えを学んでいただきたいとおもいます。
お礼
今日の浄土宗は、念仏で極楽往生できる、と法然の教えを曲解している。 本来の法然の教えは、真宗の考え方である”念仏は阿弥陀仏の御恩に対するお礼”ということですね。
- otherwind
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>> 「浄土宗は、法然上人の教えられた浄土宗とは、まったく違う教えです。」 > ここはよくわかりません。 全くの推定に過ぎませんが、この方のご回答を素直に読むと、このご回答の意味は下記となると推定します。 この方のご意見では、 法然上人のみ教えはただひたすらに念仏だけするというもので、法然上人のみ教えは今は浄土真宗が原型そのまんまに近い傾向。むしろ、現在の浄土宗○○派は、念仏以外の行もややウェイトが高めに思われるので、法然聖人のオリジナルなみ教えとはやや違うのではなかろうかと思っている… そういう意味ではないでしょうか? なお、仮に上記だとしても、私はこの方のご意見が正しいのかどうかは、まったく分かっておりません。 分からない=おかしい、とか、間違いという意味ではまったくなくて、単に知りません。 というのは、私はそういう比較が可能になるためには、まず真宗で一生聞法して死に、生き返って、浄土宗で一生聞法するしかないと思うからです。知ることが不可能な気がします…。 但し、それは私の今の感覚だけであって、明日になったら全然別の感覚を持っているかも知れません。そういう意味で批判とかでは全然ないです。 なお、事実として真宗では念仏だけしているわけではない事実はありますね。浄土三部経も読誦します。 もちろん、正信偈や、ご和讃、御文章拝読等あります。 真宗最大の法要である報恩講は、宗祖親鸞聖人に対する報恩謝徳のために営まれる法要ですから、当然、浄土宗にあるわけもありません。法然上人の掛け軸がかかっていない真宗のお寺はないでしょうが、いっくらなんでも親鸞聖人の御真影は浄土宗のお寺にはないでしょう。つまり親鸞聖人に対する崇敬(さすがに信仰とは言えませんが、崇敬がないとは言えないでしょう)はさすがに浄土宗にはないと思います。たとえば御伝抄の拝読もあり得ないはずです。 これらは雑行ではない…とは真宗門徒からするとなるのだとは思いますが、というか行ですらないのでしょうが、第三者からみたら………分からない気もちょっとします。 カトリックでマリアさま崇敬の行為、跪く等の行為があったとして、プロテスタントの人からみたらどうなのでしょうか…。信仰ではない、崇敬であるともちろんカトリックの人は言うのは、それは分かりますよね。でも、プロテスタントの人からみたら跪く等の行為、実際の身体の動き、行動はどう見えるのか…。なんか限りなく信仰チックにも見えるなぁ~という感想は心中、あり得るのではないでしょうか…。 あるいは、人生、念仏以外、全部、雑行なんじゃないかなぁ~と、真宗門徒以外からみたら、見えるということはないでしょうか? 法然上人は、たとえば、独身の方が念仏しやすいなら独身で念仏しなさい、結婚した方が念仏しやすいなら結婚して念仏しなさい………等々等々、結局、 そのまんまのあなたで念仏しなさい と仰ったのだと思うのですね。 念仏以外のことはやっちゃだめなんではなくて、やってもやんなくても良い、と仰っておられるのではないでしょうか? 関係ないと。障碍にならないと。念仏には障碍はないと。 子どもの七五三(簡単に言ったら厄年です。男性の厄年は何歳…というやつの一番メジャーなのが七五三)に行ったら、念仏は弱っちいもので、もう七五三に行っただけで台無し、念仏の功徳は一発で消え去ってしまう、そのくらい念仏はたいしたことがないものだ…という発想ではないようには思いますね。
お礼
浄土宗は念仏以外の行のウェイトがやや高めなので、法然の専修念仏の教えからはすこし外れている、ということですね。
- otherwind
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> 親鸞聖人が、法然上人は「他力は義なきをもって義とす」と言われておられましたと…親鸞聖人が、法然上人のお言葉を、そのまんま、なにも足さず、なにも引かず、ただ、そのまんまを引用しておられる部分を仰っておられますか?であれば、 あくまでも「であれば」です。 繰り返しになりますが… ( 1) 親鸞聖人ご本人が浄土真宗という語で示しておられたのは、新たな宗派ではなくて、親鸞聖人が法然上人のみ教えをそう呼んでいるだけだと思います。 ( 2) 親鸞聖人ご本人の主観、気持ちとしては、ただ法然上人のみ教えを、何も足さず、何も引かず、そのまんま信じていたということになると思います。 ( 3) これは仏法というものがそういうものだからだと思います。思想・哲学の場合、他の人が書いた論文を大量に読んで、よし、これは誰も言っていないなということで、新たな発見を発表することにより、学会に貢献する…ということがあると思いますが、仏法というのは、思想・哲学とは異なるということがあるのだと思います。 ( 4) 一方で、別のレベルとして、第三者から見たときに、親鸞聖人のテクスト(書いたもの)、あるいは、誰かが親鸞聖人がお話になられたことを書いたものの中で、確かに法然上人はこれこれこう仰いましただけで限りなく終わっている部分、ほぼ、単なる引用としか思えない部分、それはこういう意味ですと多少あったとしても、特に変わったことを言っているとは思えない部分もあるものの、一方で、これはいくらなんでも法然上人は言ってもいないし、書いてもいないし、法然上人だったらここまでは言わないだろう…と思われる部分がある…という第三者の感想、感覚、直観というものは、もちろんあり得ると思います。別のレベルの話として。 ( 5) 悪人正因と他力は、法然上人を引用しているだけの部分にあたると私は思います。 ここまでは、これまでに私が書き込みさせていただいたことの繰り返しになります。 ( 6) では、これはいくらなんでも法然上人は言わないだろう…部分、これは、繰り返しではなく、今回、新しいご紹介になりますが、それは、現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)だと思いますね。 ( 7) 但し、これはまた、既に書き込みさせていただいたことの繰り返しに戻ってしまいますが、そのことが、浄土真宗(言ってみたら浄土宗親鸞派?)の門信徒数が、他の浄土宗宗派より多いように見えることの理由では全くないとは思います。 もう一つ、例を挙げます。 現在、鹿児島県では浄土真宗本願寺派の門徒さんの人数が大変多いと思います。けれども、これは、現在の教義の差によるものではないし、ましてや、親鸞聖人や法然上人ご本人にまで遡る話ではまったくないと思います。歴史的偶然だと思います。具体的には廃仏毀釈でお寺がほぼなくなり白紙状態になった→言ってみたら早い者勝ちみたいになった。ゼロ発進、リセットですね。そのときに、西本願寺がきびきび動いた。ということだけで決まっていると思います。何か各宗派のお寺がいっぱいあって、どこでも選べる状態にあって、パンフレットとか比較検討した…ということではないと思います。
お礼
現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)これは全く知りません。
- otherwind
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> 法然は、救われるための自力による念仏、親鸞は他力(阿弥陀)によりもう救われているという立場、との意見もあります。もしそうなら、これは心の持ち方として決定的な差があるのではないでしょうか? この”他力”というキーワードは、”感謝”(俗っぽい言葉ではありますが)という心につながり、このあたりに、法然よりも親鸞がもてはやされる理由があるのでは? いえ、他力は法然上人のお言葉であって親鸞聖人はそのまんま引用しておられるだけと私は思います。 もちろん、一説には…というのを否定するものではありません。 私の考えとは違うというだけです。 他の人が他の考えをお持ちになられるのはその方の自由だと思います。 > 念仏為本、信心為本、これは何でしょうか? 多念義か一念義かという、まあ、法然上人のお弟子さんたちの中で、それぞれ自分のことは棚上げにして、まあ、人間ですからね、人間というのはそういうものですが、勝手に相手を、お前は多念義的偏向がある、あるいは、それはお前が一念義的偏向があるからだ…みたいな、ナンセンスな、どうでもよい争いのようなことが、どうもあったみたいなんですね。法然上人からみても、親鸞聖人からみても、そもそも多念義か一念義かと区別すること自体が完全にナンセンスというお話があるんですね。 同様に、念仏為本、つまり、行が主という傾向と、逆に信心為本、つまり信が主という傾向、に二つに分けるというナンセンスなお話があります。これも同様に、行=信。行と信とは一体なので、分けて考えて、どっちがより大事なのかという、分ける発想そのものが間違いというお話です。 ただ、ご存じと思って例として書いたものですので、ご存じなかったのであれば、すみませんでした。 話の本筋ではなく、単なる例なので、お気になさらないでください。 何の例かというと、浄土宗鹿島門徒と他の浄土宗○○派、法然上人のお弟子さん筋、どこでもまったく同じことを信じていても、お前は信心為本という極端な傾向があるとか、お前は多念義的傾向があるとか、そういう、客観的には、絶対に分からないこと、単に、自分を棚上げにして、他人と俺とは違う、俺は中道、俺はバランス取れているが、お前は偏向しているというような、ナンセンスな言質というのはあり得るという例です。 もしも、ご宗旨の違いを分かろうと思ったら、まず、一つのご宗旨で、一生聞法してみる。死んで、よみがえり、別のご宗旨で、また、一生聞法してみる…ということをやらない限り、比較のしようは、絶対にないですよね? そして、そんなことは無理です。 ですからご宗旨の違いを語ること自体、間違いなく嘘にしかならないというのが私の考えです。 (嘘でも面白ければ良いとももちろん思いますので誤解のないように願います。秘密のケンミンSHOWの、県民性とか、血液型占いとか、星占いとか、罪にならない範囲、冗談で言う範囲、別に良いと思います。) ただ、信仰というのは、人生ですよね。 すると、他の人生を変わって生きられません。 だから、真面目に考えるとご宗旨は比較できません。 逆に考えてみましょう。仏法は永遠不滅の真理であると仏教者なら思うわけじゃないですか。すると、日蓮宗の人なら、本当に本当に日蓮宗を信じていたら、世界の全ての人が日蓮宗です。仲間です。表面的には別のご宗旨の名前がついているかも知れません。でも、真面目に考えたら、キリスト教もヒンズー教も、中身は日蓮宗であることになりますね。本当に日蓮宗を信じていたら。でなければ自己矛盾です。信じていることになりません。 つまり、ご宗旨の違いはないことになります。 表面的な言葉遣い、もんごんの違いはあるでしょうね。けれども言葉で語れない真理、本質は一つであると思っていなかったら信じていることになりません。世界の全ての人が救われるはずです。 信心は一つ。 屁理屈に聞こえるかと思いますが……(^0^;) そういう考え方もあり得る…程度に聞き流してください。
お礼
内部的な教義解釈はいろいろあるが真理、信心は一つしかない。 ところでotherwindさんは、ご宗旨は何でしょうか?何が真理だとお考えですか?
- ij246810
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法然上人は、まぎれもなく、親鸞聖人のお師匠様で、先生です。法然上人には、380余人のお弟子があり、親鸞聖人は、そのお一人でした。そして、法然上人が亡くなられた後、お弟子の一人の善恵房と云う人が、今日の浄土宗を開き、今日に至っています。親鸞聖人は、ご存知ように浄土真宗を開かれ今日に至っています。親鸞聖人は、先生である、法然上人の教えの真意を汲み取られ浄土真宗と真の字を入れられ、善恵房は、ただ形だけを受け継ぎ、宗名も、そのまま浄土宗を開いたのです。このことは、本願寺八代目の法主、蓮如上人の御文章1帖目15通にこのように云われています。「されば自余の浄土宗は、もろもろの雑行を許す。わが聖人は、雑行をえらびたまう。この故に真実報土の往生を遂ぐるなり。この謂れあるが故に、別して真の字をいれたもうなり」。とかかれてあり また、先生であらせられる法然上人の真意も、本願寺三大目法主覚如上人の書かれた「口伝釥、一四、体失不体失往生の事」を読まれると分かると思います。 また、浄土真宗が今日、日本中に広まっているのは、まったく蓮如上人のお力であります。 質問に法然の浄土宗とありますが、今日の浄土宗は、法然上人の教えられた浄土宗とは、まったく違う教えです。
お礼
ありがとうございます。 真の浄土宗なので浄土真宗ですか。これは明快なお答えですね。 つまり、本来なら、真宗の宗祖は親鸞ではなく法然である。と、いえるわけですね。 「浄土宗は、法然上人の教えられた浄土宗とは、まったく違う教えです。」 ここはよくわかりません。
- otherwind
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> そこで他力ですね。 と言われても、ちょっと、私には何のことか分かりませんが、たとえば… 親鸞聖人が、法然上人は「他力は義なきをもって義とす」と言われておられましたと… 親鸞聖人が、法然上人のお言葉を、そのまんま、なにも足さず、なにも引かず、ただ、そのまんまを引用しておられる部分を仰っておられますか? であれば、うーん、ですから、引用です。 コピーです。 法然上人のお言葉です。 親鸞聖人はそのまんま引用しておられるだけです。 私のコメントが頓珍漢ならすみません。
お礼
「他力」も法然の言葉なので、親鸞の教えではないと。ただ、言葉は同じでもその意味するところは違うということもあるのでは? コピー、引用だから、という理由だけでは少し解りにくいですね。
- otherwind
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> 教義の差が門徒数に反映されたわけではないということですね。 私は教義の差が…というよりも教義が、門信徒数に反映されたわけではないと思います。そうではなくて、中世は、自分で自分の身を守る時代と言われますが、つまり、秀吉の刀狩りより前ですからそうなのですが、そのときに、たまたま、偶然に、浄土真宗のお寺が増えたということだと思います。歴史上の偶然だと思います。 > では、思想上の違いはどうでしょうか。 少なくとも親鸞聖人は、法然上人のみ教えと何一つ違っていない、法然上人のみ教えを何も足さず、何も惹かず、ただ、法然上人のお言葉をいただいただけ、と思われていたというのが、何度も繰り返しになりますが、私の考えです。つまり少なくとも親鸞聖人は法然上人と思想上の違いは何もないと思われていたと思います。(もっと正確に言うと、繰り返しになりすが、仏法は、思想ということではない…云々となりますが…)
お礼
ともかく、法然=親鸞 どこも変わるところはない、とのお考えですね。
- otherwind
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> 法然は、救われるための自力による念仏、親鸞は他力(阿弥陀)によりもう救われているという立場、との意見もあります。もしそうなら、これは心の持ち方として決定的な差があるのではないでしょうか? この”他力”というキーワードは、”感謝”(俗っぽい言葉ではありますが)という心につながり、このあたりに、法然よりも親鸞がもてはやされる理由があるのでは? 親鸞聖人ご自身は法然上人の仰ったこと、そのまんまのつもりだと思いますね。 そうなってしまうと、では、違うという場合、拠って立つところ、観点、の置き方が大変難しい問題になると思います。 もちろん、誰でも、お二方の著作を読んで、ここは違うっぽいなぁと思うのは、思う人からみたら、実感として思うんですから、止められないですよね。 それぞれの人の任意になると思います。 が、親鸞聖人ご本人は違うとは思っていないと思いますね。 それも無視できないと思います。 それが一つ。 二つ目は、教義によって、現在の浄土宗の信徒数と、浄土真宗の信徒数が決まっている…ということは、私はないと思います。 たとえば、江戸時代に、江戸に出てきた人、まあ、普通常識的に言って、長屋の大家さんが日蓮宗だったら日蓮宗になり、浄土真宗なら浄土真宗になるわけですよね。故郷で日蓮宗の人が江戸では浄土真宗になり、故郷で浄土真宗の人が江戸で日蓮宗になるのが、普通。一般的。習慣。慣習。 何故か? 教義はなーーーーーーんにも関係ありませんよね。 そうではなくて、たまたま、まったくの偶然で、大家さんが何かによって来まる。 これは規則とか法律とかではまったくなくって、大家さんは何宗ですか? だったらそれにしときます。 なんだかしらんけど。 つまり、 そんなこたあ、どうでも良いからです。 おおらかな気持ちです。 寛容。 それだけです。 何か大家さんと違う宗派だと困るとか、いじめられるとか、村八分とか、ルール違反とか、なーーーーんにもありません。 そうではなくて、日本人はおおらかなんです。 気にしてないわけです。 どうでも良いわけですよ。 ご宗旨がどこかなんて。 江戸以外ならどうなのか?村にお寺がありました。前の住職さんは天台宗でした。今の住職さんは真言宗です……というのは全然普通じゃないですか。いや、教線拡大とかそういうことではなくて、単におおらか。お坊さんの側も何か教線拡大とか思っているわけではないという。東大出ていても、京大出ていても、特に関係ないというような側面もあるわけですよね。なので、今の感覚で言ったら、お寺のご宗旨がしょっちゅう変わっているわけですが、村の人、なんか気にしているのかというと、気にしていないわけですね。 そういう側面も普通にあるわけです。 もちろん、先に述べたように、蓮如上人の子孫で、日本制覇!みたいな時代、そういう動きも日本の歴史にはあるわけです。が、上述の側面も、一方ではあるわけですよね。 三つめ、「他力」というのをどういう意味で理解しておられるのか、よく分からないのですが、仏恩報謝の意味みたいですね。であれば、無理矢理に強いて言うならば、うーーーん、流行らせたのは蓮如上人かも。 ただ、親鸞聖人ご自身は、法然上人と違う信心を持っているとは、決して思われていなかったと思いますね。そして、門信徒の人数は、教義の結果ではないと思います。くどくなりますが。
お礼
まず、読みやすさへのご配慮ありがとうございます。 教義の差が門徒数に反映されたわけではないということですね。 では、思想上の違いはどうでしょうか。 そこで他力ですね。 こんな解釈があります。 生きていることはそれだけですでに悪にまみれている。そんな罪深い存在が救われるとしたら、そんなことは、とても自分でできるわけはない。それでも、生きていけるのは、何か大きな力が働いているからだ。 親鸞はこの大きな力を阿弥陀仏と考えた。つまりすでにその他力=阿弥陀仏のはからい、は現世にも及んでいると。 親鸞は、自分自身を、肉や欲にとらわれたけがらわしい存在ととらえ、そんな自分が、救われる道を求めた。そして法然の教えをわがものとした。 しかし、法然にはそんな発想はないのでは。
- otherwind
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> ”ないがしろ”というのは、当時のメジャー教団が、釈迦の教えをないがしろにしていたので、法然がそれを正そうとしたのではないかという意味です。念のため。釈迦の教えの原点は身分の差なく平等に誰もが救われる、というものでしょう。とすれば、法然の考えはごく自然なものに思えます。ですが、専修念仏が極楽往生の唯一の手段といいきるのはやはり驚くほかありません。私は感覚的には、苦しい修行、試練を乗り越えたところに光があるとどうしても考えてしまいます。が、さらにつきつめると、高みに達した人間、またそのとりまきがおごり高ぶる危険性を排除できないというところから、親鸞の「他力」の概念が生まれたようにも思います。 大変素晴らしいお考えと思います。感動しました。 ただ私は仏教というものは、哲学・思想とは異なって、新たな考えを次々出していくものとは思っておりません。釈が変わることはあり得ないことではないですが、それはむしろ、オリジナルなテクストに還れということで、変わるものだと思います。 仏教の歴史を考えてみるに、おそらく伝統的には、報土には無分別智を得た菩薩しか住めないはずなのに、阿弥陀仏の極楽浄土には凡夫も住んでいるようにお経に出ているのだから、極楽浄土は報土ではないんじゃないかなぁ、それなら説明できるよという考え方があった。 あるいは、報土には無分別智を得た菩薩しか住めないが、阿弥陀仏の極楽浄土には凡夫も住んでいるようにお経に出ているのは、凡夫にも修行をがんばれという方便でお経にそう説いてあるのであって、実際には極楽浄土には凡夫はそのまんまでは往けない(が修行というものそんなに難行ではない、やればできる)ということじゃないかなぁという考え方があった。 これが釈のメインストリームだった。 がっ、善導大師が、 阿弥陀如来の極楽浄土が報土であるのもお経の通り、 凡夫が報土である阿弥陀如来の極楽浄土に往けるのもお経に書いているとおり、 テクスト内在的に素直に読め!、当該のテクストの外部から、自分の勝手な知識で整合性を取ろうとするな!書いてあることを素直に読め!、 如来の本願力に乗ずれば、凡夫でも報土に往生できると、そのまんま読め!、素直になれ!、と言った(勝手に考えすぎるなと)。 法然上人は、この善導大師の御釈に、うなずかれた。 という歴史を、親鸞聖人が、教行信証に、そのまんま書いているだけ…と考えた方が、今の私には、すんなり入ります。 法然上人→親鸞聖人にての変質は多分何もないと思います。
お礼
凡夫が往生できるかどうか?教義の解釈がいろいろあるわけですね。 法然は善導大師のサジェスチョンにより凡夫、衆生も往生できると考えた。 法然と親鸞 前に書きましたが、他力、についてはいかがでしょうか?これも法然の教えのうちにあるものなのか?それとも、これこそが、親鸞のオリジナルなのか? あるいは、「他力」という概念自体それほど重要な思想ではないのか?
お礼
ありがとうございます。 少し勉強してから、またあらためて質問を出します。