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法然と親鸞

法然と親鸞 法然は浄土での往生の方法として、出家や修行ではなく専修念仏のみでよいと説かれました。それを継いだのが親鸞だと思います。 今、法然の浄土宗より、親鸞の浄土真宗の方がよく広まっているのはなぜでしょうか?また、二派の考え方の大きな違いは何でしょうか?

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回答No.34

> 大乗仏教、小乗仏教。一つの説は、大乗は国家や、社会を救い、小乗は個人を救う。 > もう一つは、大乗は、出家者、在家者すべてを救い、小乗は、出家者だけを救う。 竹村牧男 『大乗仏教入門』  十地の道程を進めば、やがて仏になるはずです。そして、そこに菩薩の究極の目標があるはずです。しかし、菩薩のなかには、仏となることを拒否する者もいます。あえて仏にはならずに、菩薩のままでいたいというのです。それは、いつまでも衆生とともにいて、そして衆生救済に励みたいからなのです。[...]  一般に、仏になりえない者を「一闡提」といいます。大乗仏教では、本来、仏になりえない者はいないのですが、あまりにも煩悩が深重で善を修める能力のないものや、正しい教えと真理を誹謗する人などは、仏にはなりえない、一闡提と呼ばれるのだとあえていうのです。その一闡提のなかに、菩薩の一闡提もいるのです。それは、仏になる能力を欠くからではなくて、大悲によって自ら仏にならないからです。そうした菩薩の一闡提を、大悲闡提といいます。  大悲闡提の菩薩は、自分から進んでわざわざ苦しみ悩む人のそばに赴きます、むしろ自ら願って苦悩の深い世界、悪趣に生まれようとするのです。十地を上ってさらに仏となるよりも、あえて人間界やさらには地獄界に往って生まれようとします。自ら求めて困難の多い、重苦ののしかかる世界に生まれ、働こうとするのです。こうした菩薩を、願生の菩薩といいます。 [...] 仏になったからといって衆生救済の活動ができなくなるはずはありません。しかし大乗仏教徒たちは、あえて涅槃に入らない菩薩、仏にならない菩薩という考え方を提示したのです。ここにともかく、自ら悪趣に生じてまで、一切衆生を救済するのだという菩薩の理想が示されています。『法華経』の法師品第十には、「大願を成就せるも、衆生を愍むが故に、この人間に生れたるなり。」「清浄の土を捨てて、衆を愍れむが故に、ここにうまれたるなり」ちにあります。この切なる願いに、菩薩道の本義があると考えられます。  十地の菩薩道は、菩薩がいかに向上していくか、ということを描くだけが本意ではありません。むしろ、どのように一切衆生救済の主体となっていくかが主題であるともいえます。そして、その究極は、仏となることを自ら拒否し、あえて願って悪趣に生まれる菩薩となることにあります。ここに大乗仏教の核心があるのです。

5052ul
質問者

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ありがとうございます。 少し勉強してから、またあらためて質問を出します。

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  • otherwind
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回答No.13

真宗の場合、大谷派は徳川家と近いですから江戸時代に栄えていたが…という話、ちょっと最後分かり難いですね…。ごめんなさい。 えと、浄土宗のお寺に行かれると、葵の紋がばーんとついています。徳川家のあつーーーーい保護を受けていますから、江戸時代には大変に繁盛していたわけです。 が明治維新後は、徳川家とのつながりが強すぎて、その後、それ以上の発展はしていないでしょう。 横ばいだと思います。 何が言いたかったかというと、歴史の偶然で、豊臣秀吉恩顧の浄土真宗本願寺派は江戸時代はあんまり発展しなかったが、しかし、それなりに既に大きかったから、江戸時代も大きいまま生き延びた。で、明治維新がおきて、大谷派のお寺がどっと本願寺派に転派したから、結局、本願寺派+大谷派は、明治時代も巨大。 もちろん鹿児島県と山口県と言ったら、今でも人口の過半数が浄土真宗本願寺派の門徒でしょう。 ですから明治維新があっても、結局、足し算したら、門徒数は巨大なまんまだと思います。 大谷派は明治政府の半分いやがらせ(明治維新を行うのに最大の問題は、本願寺が幕府か薩長かどっちにつくかが最大の悩みの種だった。まあ簡単に言ったら東は幕府に少なくとも当初は着くに決まっていますけどね。豊臣秀吉恩顧の西は、薩長が強ければ着くでしょう。ミエミエではありますが。明治政府は東本願寺に北海道開拓させることで、財政の疲弊をねらった)で北海道開拓を命じられたが、大谷派自身も、今後の発展を考えて北海道を開拓し、北海道民のほとんどは大谷派なので、結局、門徒数を増やすことに成功した。(大谷派は北陸に多いので北陸から移民ですが、当たり前ですが、開拓地で人口は増えますから。) で、歴史の偶然なんですね。 教義じゃないです。 ましてや法然上人や親鸞聖人までは遡りません。 親鸞聖人のご著書に、自分の子孫に、寺を乗っ取らせて、日本制覇だっというような文章とか思想とか何にもありません。

5052ul
質問者

お礼

真宗内部分裂は言われるように政治権力者の都合でしょう。 親鸞は、寺も作らず、教義を文字として残すこともなく、まして、教団化して勢力を伸ばすなど、夢想もしていないですね。

  • otherwind
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回答No.12

> ”ないがしろ”というのは、当時のメジャー教団が、釈迦の教えをないがしろにしていたので、法然がそれを正そうとしたのではないかという意味です。念のため。 浄土仏教は、中国でも日本でも大乗仏教です(インドでもかなり古い時代の阿弥陀如来像発見とかいうニュースあったような気はしましたが)。 お釈迦さまというか歴史上の実在の人物としてのゴータマ・シッダッタさんがお亡くなりになられてから、何百年もたってからできた新興宗教です。(だからお釈迦さまの考えを反映していないという意見もあり得ますが、大乗仏教徒は、逆で、お釈迦さまが本当に言いたかったことだとしています。既にお釈迦さまのお考えにあったことだという考えですね。) 大乗仏典、あるいは、浄土三部経というのは、確かに、如是我聞とか我聞如是とかあって、お釈迦さまがどこそこで以下のような説法をされました、聞いていたのはだれそれです…という形式は取っていますが、それはお経がみんなそういう形式だという決まりと思えば良いです。 さすがに、お釈迦さまがお亡くなりになられてから何百年もたってから、お釈迦さまがどこそこで、だれそれにこう説法されました、私は、聞いたとおりに書いているだけで、一文字も勝手に話を作ってません、という議事録が、いきなり書かれても、歴史的事実としては、本当のことではないです。 大乗仏教としては、真理としては本当のことである、という考え。 ただ、考えようによっては、お釈迦さまはほとんど忘れて良いと思います。考えようですが。大乗仏教の伝統、正統としては、既にお釈迦さまのお考えにあったことだという考えではありますが…。 仏教ってお釈迦さまじゃないのぉ~、浄土宗とか浄土真宗とかの阿弥陀仏って誰なのぉ~は、スリランカとかの人からみたら大変素朴な疑問だとは思います。 阿弥陀仏?だれそれ?という…

5052ul
質問者

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大乗仏教、小乗仏教。 一つの説は、大乗は国家や、社会を救い、小乗は個人を救う。 もう一つは、大乗は、出家者、在家者すべてを救い、小乗は、出家者だけを救う。 これらは、まちがいでしょうか? 阿弥陀仏は、釈迦ではなく、仏さまの一人でしょう?法蔵比丘という坊さんが修行して菩薩になり、果てしない年月考え抜いて如来になったのでは?

  • otherwind
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回答No.11

> 悪人正機といいますね。「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」悪人ですら救われるといわれていますが 法然上人のおことばです。 もう少し正確に言うと、親鸞聖人というのは一生、ただひたすらに法然上人のおことばを繰り返し繰り返し引用した方ですが、それを、唯円大徳という人が、親鸞聖人はいっつも法然上人のおことばを引用していたなぁ~と、歎異抄という本に、引用したものです。 親鸞聖人のオリジナルな思想・哲学ではありません。

5052ul
質問者

お礼

悪人正機・・・誰もが親鸞の教えとおもっていますが、実は法然なんですね。 真宗巨大化の中で、お株を取られたみたいなことかな? よくある元祖争いにはなっていないようですね(笑)

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回答No.10

> また、二派の考え方の大きな違いは何でしょうか? 法然と親鸞と言ったとたんに、親鸞は浄土宗と別に新たに一宗を興しておらず、法然上人のお弟子さんの一人なので、二派ではないです。 浄土真宗は、浄土宗○○派と一緒です。 また、親鸞聖人は法然上人の仰ったことを100%そのまんま信じていただけとご本人は思われていたため、考え方の違いはゼロとなります。 親鸞聖人のまわりに集まった人は、言ってみたら浄土宗鹿島門徒とでも言える集団です。 但し、端から見たときに、宗門とか信仰とか教団ではなくて、別の観点(それをどうやって持つのか、そんな観点はよくよく考えたら持ち得ないのではないか…という点はとりあえず棚上げにして…)からすると、法然上人のお弟子さんのうち、やや、一念義的危険思想偏向、異端じゃないのかと、他の人から見たら見えるお弟子さんというのもいらっしゃったかとは想像できますし、逆に、やや、多念義的偏向あって、つまんない人だなぁと思われていた方もいらっしゃったかとは想像できます。 法然上人か親鸞聖人か、という命題とは、直接には無関係になりますから、ごちゃごちゃに混同すべきではないと思いますが、たとえば、現代でも、浄土宗鎮西派のお寺から見たら、真宗のお寺はどこも、特に本願寺系のお寺は、なんだか、やや、一念義的危険思想偏向、異端じゃないのかぁ~と思えるのかもしれませんし、本願寺系の中でも浄土真宗本願寺派からみたら、真宗大谷派はやや、一念義的危険思想偏向、異端じゃないのかぁ~と思えるのかもしれません。 けれども、ここで間違ってはいけないのは、浄土宗鹿島門徒(浄土真宗のこと)であろうと、浄土宗西山派であろうとなんであろうと、それぞれのお寺は、自分は中道、法然上人も一念義でもなければ、多念義でもなく、自分もどっちでもない、正統派であると思っているに違いないという常識ですね。 念仏為本でもなければ信心為本でもどっちでもない。仏教でどんな仏教でも行=信なのは当たり前で、それを外して信心為本なんて、だーれも言っていないという常識。 すると、思想の違いということは調べようもないと言いますか、客観的には述べようもないです。 もしも、法然上人と親鸞聖人との違いということを語っている文章があったとすると、この理由で、おそらく客観的ではありえません。知りようがないことですから。 おもしろおかしく…という範囲ではあり得ますが(あるいは日本の歴史の教科書でものすごくたくさんある文明の中で根拠なく四つだけ選んで世界四大河文明とか言っているレベルではあり得ますが)、真面目に考えると比較のしようがないですよね。 あるお寺で一生聞法して、死んで蘇って、別のお寺で一生聞法して、比較するしかないですが、実際問題として無理です。

5052ul
質問者

お礼

法然も親鸞も一緒じゃねえか・・・ということですか? 一説には、 法然は、救われるための自力による念仏、親鸞は他力(阿弥陀)によりもう救われているという立場、との意見もあります。 もしそうなら、これは心の持ち方として決定的な差があるのではないでしょうか? この”他力”というキーワードは、”感謝”(俗っぽい言葉ではありますが)という心につながり、このあたりに、法然よりも親鸞がもてはやされる理由があるのでは? 念仏為本、信心為本、これは何でしょうか?

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回答No.9

ごめんなさい、かな漢字変換ミスがありました。 > 権力奪取するためには、振興勢力を味方につける必要がありますが、振興勢力が起きていないと味方につけようがありません。ある程度、農業とかの生産力が高まっていて、ある程度豊かになっていないと、ご懇志とかもらいようもありません。 誤; 振興勢力 正; 新興勢力 新たに勃興してきた勢力、です。

5052ul
質問者

お礼

了解しました。

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回答No.8

何よりも大きな条件は、もちろん、時代ですね。 中世の荘園経営が完璧にうまく機能していたら、新たに権力奪取とか、できっこありません。権力の空白、移行期、下克上、むちゃくちゃという、動乱の時代であったということが、必要です。 これは別に、蓮如上人から顕如上人までだけに当て嵌まることではなく、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康にも当て嵌まりますね。 生まれた時代という条件は完全に必須条件です。 権力奪取するためには、振興勢力を味方につける必要がありますが、振興勢力が起きていないと味方につけようがありません。ある程度、農業とかの生産力が高まっていて、ある程度豊かになっていないと、ご懇志とかもらいようもありません。 一揆おこせるくらいもりあがっていて、はじめて、その人たち(正確には階級)を味方につけて、その階級を踏み台にしてのし上がれます。ドイツのナチスとか。(もちろん参加する側もうまい汁を吸えるとか、少なくとも身の安全ははかれるとか、守護大名に年貢をおさめなくてすむとか、当然、利用できるものがないと参加する意味はないですが) さすがに鎌倉新仏教の教えが革命的だったから、その後の日本の歴史に影響があったのではなくて、応仁の乱以降に、顕如上人などが活躍できたというのが、歴史への影響。 心じゃないです。力です。 法然上人や親鸞聖人は、たいへんに偉い方で、心の底から尊敬はしていおりますが、教団、権力、政治、歴史…という点では、実際の影響は直接には何もないに近いと思います。 法然上人や親鸞聖人は現実以外の全てを変えられる仏法者。これは最大の賛辞です。 鎌倉新仏教が、ルターの宗教改革…なわけは全然ありません。現代日本人の精神に何の変化も影響も与えていません。プロテスタンティズムの精神とは異なります。応仁の乱以前と以後で一回だけ日本人の精神は変わったかもしれませんが、鎌倉新仏教によっては日本人の精神には特に何も起きていないでしょう。 で、戦国時代なら、本願寺は、大々名ですね。 そうなると、毛利家だってうまーーくつきあおう(毛利家はダントツで一向宗とのつきあいは巧く、特筆に値します)とか、豊臣秀吉も徳川家康も明治政府も対本願寺政策はかんがえざるをえなくなるわけです。 たとえば、明治維新後、明治政府は真宗大谷派に北海道を開拓せよとなりますが、これも一方的にいじめ、いやがらせだけとは言えません。大谷派から見ても、北海道で100%シェアとれれば、徳川政権は倒れても、新天地開拓できて、新たに教団の発展がのぞめます。つまり、巨大権力同士というもの、妥協なんですね。完全につぶしにかかって、死にものぐるいで反抗されたら、自分も深手を負ってしまいますから得策ではないです。 江戸時代、真宗のお寺と言ったら、大谷派が圧倒的、本願寺派は少数でしたが、明治維新で、一気に転派。それだけみても、教義でどうのこうのではないのが、現実、実際、歴史で、誰にも教義が問題だと言わせない事実のつみかさねがあると思います。 あくまで私見ですが…。 一なんちゃって門徒ですので、専門家ではありません。

5052ul
質問者

お礼

鎌倉新仏教は歴史や時代に影響を及ぼさなかった。 新思想も、原点を忘れてやがて巨大化、権力集団となってしまったから、ということでしょうか。 思想は、その人の思いを離れて、独り歩きするのは歴史では珍しくないことです。ただ、法然、親鸞は、誰もが持つ苦悩をどうしたら解決できるか、という難問に従来にはない全く新しい視点から一つの答えを出した。それは現在でも通用する問題意識だ、と考えていいのですね。

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回答No.7

> もともと高田派や仏光寺派…が開拓していない地域があったから布教ではなくて乗っ取りできたのも決定的な条件… 一旦、ほぼ書き終わったところでブラウザがクラッシュしたこともあり、タイプミスがありました。 誤: 開拓していない地域があったから 正; 開拓していた地域があったから

5052ul
質問者

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了解しました。

  • otherwind
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回答No.6

> 今、法然の浄土宗より、親鸞の浄土真宗の方がよく広まっているのはなぜでしょうか? 教義の差(仮にそういうものがあるとして)によるものでは全くないのではなかろうかと思います。 親鸞聖人ご自身は、法然上人の仰られた(と親鸞聖人が受け取られた)ことを、そのまま信じておられただけであり、親鸞聖人独自の思想といったものは一切なにもないと思われていたと考えられます。 仮に、仏法が永遠不滅の真理であるとしますと、仏教である限り、哲学思想ではないので、独自性ですとか、先人の言っていないことを言う、今あるその分野での論文を何百と読んで、既に言われていないことを言って学会に貢献する…といった発想とは少し違うかも知れません。 親鸞聖人の御著作である「教行信証」は、あくまでも100%、法然上人の仰られたことをノートに書いたもの、法然上人の教えの聞書という性格のものであると考えられます。非常に単純、大雑把に言えば。 真宗教団が何故、大きくなったかは、歴史の偶然が、必然となったのではないでしょうか。偶然に教団が大きくなったら、ある程度、大きくなったところで、必然的に、さらに大きくなった…のではないかということです。 親鸞聖人の時代には、浄土宗鹿島門徒(?)とでも言うべき少人数はいたことはいたであろうということは考えられますが、親鸞聖人ご自身が、ご存命中は、ほぼまるっきり無名に近い方ですので、親鸞聖人がどうのこうので浄土真宗の教団が今日の門徒数になったとは考えにくいです。 蓮如上人は大変に子沢山な方で、その後、真宗高田派等、他のご宗旨のお寺を、本願寺教団が巨大化していく際に、蓮如上人の子孫(いとこ同士でご結婚ですとか、叔母と甥でご結婚ですとか)が、各地方の大寺(会社で言うと支社)を、まあ、はっきり言ってしまえば乗っ取っていく、その大寺にくっついている末寺(会社で言えば出張所)も一緒に、その地域のご門徒さんもねこそぎ…というときに、ご一家衆の人数が物理的に物凄く多いというのは有利な条件の一つですね。 他の真宗○○派の場合、親鸞聖人から直接に面授のお弟子(親鸞は弟子一人も持たず…ということで、阿弥陀様を対等、平等に信じる仲間、御同行、御同朋ですが、表現がややこしくなるので、不正確ですが「弟子」とします)さんから、さらにお弟子さん…、つまり法脈ですが、本願寺教団だけは血脈という、神話、ナラティブを、有効活用できたという強みがあると思います。 蓮如上人以前に、色々な条件が既にもちろん準備されていたと考えるのが穏当で、いきなり、スーパーアイドル一人の登場で、席巻…というのは話としては面白いですが、現実的ではないでしょうが、それまでに準備されてきた大量な条件が、一気に爆発したということは言えそうです。(そもそも覚信尼さんが、土地の所有権を親鸞聖人のお弟子さんの共同名義に寄付して放棄した正にそのことによって、どの親鸞聖人のお弟子さんの派閥よりも上に立つ権威を得た等は後から、事後的に見たら決定的な条件ですし、もともと高田派や仏光寺派…が開拓していない地域があったから布教ではなくて乗っ取りできたのも決定的な条件…)。 ある戦略的に重要な地域(既に真宗の門徒さんが多数開教されている地域)を本願寺派にしておいて、次の段階でそこの大寺の住職さんの目つきが気に入らないというただそれだけでいちゃもんをつけて、異安心で破門、破門されると、真宗地域では水ももらえないので、追い出された住職一家は、道ばたで行き倒れて餓死、そこにご一家衆が乗り込んで…ということができるためには、既に、本願寺教団に強力な権力がないといけませんね。真宗以外のの他のご宗旨の人も助けようがない、助けたら自分も餓死に追い込まれるというくらい恐怖政治というか権力がないとできないことです。ばんばん実行して大きくなったわけですが。つまり権力があったということですね。 このことは、逆に、権力はある程度大きくなると、ますます大きくなれることを意味します。ますます強化できるわけですね。追従してくる人数がますます大きくなるからです。本願寺教団にくっついたら得とみんなが思えばますます巨大化です。 秀吉の刀狩り以前であれば、真宗の門徒は、簡単に言ったらほとんど武士的というイメージで大枠、間違いないと思います。白戸三平の漫画は除く。武装集団であると思って良いと思います。その後、武士で真宗門徒になっていたら自分が損しますから、後の時代ではあり得ないことですが、結局、下克上な時代では、どっちについたら得するか(というより生き延びられるか)ですよね。信仰とかではないです。

5052ul
質問者

お礼

回答NO9からNO14まで詳細にお答えいただき、ありがとうございます。 以下、私なりのまとめや感想をNOごとに記します。違っていたらお聞かせ下さい。なお、その節は当方細かい文字に読みにくさを感じていますので(苦笑)簡略にお願いします。 法然の浄土宗より、親鸞の浄土真宗の方がよく広まっているのはなぜか? 教義の差ではなく、真宗は血脈を中心に拡大し、さらに、組織力に長けていたから。 下剋上では寄らば大樹の陰の心理が働いた。

回答No.5

bungetsuです。 お読みいただきありがとうございました。 >>法然は土佐へ、親鸞は越後へ(一説には佐渡?)配流になったわけですが、弟子親鸞の方が重い罰のように思います。当時の支配層(政権、旧仏教)にとっては、親鸞の思想の方がより危険と判断されたからでしょうか? 法然は、長承2年(1133)の生まれ。 親鸞は、承安3年(1173)の生まれ。 建永元年(1206)の追放時、法然は73歳、親鸞は33歳でした。 従って、親鸞は若いだけに過激な行動を起こしかねない「危険分子」と考えられ、僧籍を剥奪され、俗人の藤井善信(よしざね)として越後国府(現上越市)に流されました。 >>出家や、苦行、喜捨など大きな決断がないと手に入らない浄土行きの切符が、在家で念仏だけで得られるというのは、とてもラデイカルな発想だと思いますが、法然にはこのような考え方がどうしてできたのでしょうか? 法然は、永治元年(1141)に武士であった父・漆間時国(うるまときくに)が夜襲を受けて死亡。時代は、平清盛が全盛を極めた頃であった。法然9歳であった。父を失った勢至丸(後の法然)は、菩提寺で出家をし、才気を見込まれ、13歳で比叡山に上がった。 久安6年(1150)、18歳の時、比叡山西塔黒谷(さいとうくろだに)の叡空(えいくう)に師事し、その頃から法然坊源空(ほうねんぼうげんくう)と名乗った。 叡空は、融通念仏の祖・良忍に念仏を学び、かたや円頓戒黒谷流(えんとんかいくろたにりゅう)の戒師(かいし)でもあった。 円頓戒とは、最澄の大乗戒に始まるもので、速やかに仏道を成就できると言うものであった。 叡空は融通念仏とともに円頓戒の奥義を法然に授けたと言われている。 法然はその戒律を守りつづけ、仏典の研鑽に努めた。その研鑽は20年以上にも及んだと言われている。 安元元年(1175)、法然43歳の時、中国の善導(ぜんどう)が「感無量寿経」(かんむりょうじゅきょう)を注釈した「観経疏」(かんぎょうしょ)に目を開かされた。 この「観経疏」が先に述べた、 「人の心は散漫だから、心を定めることはできない。それでも口で念仏をとなえれば、阿弥陀仏の本願によって極楽に迎えられる」 と、書かれてあった。 それに目覚めた法然は、専修念仏で極楽に行けると弟子たちに説き、ここに浄土宗が開かれた瞬間であった。 >>特権階級だけでなく、衆生を救いたいというところから来たのか、結果的に、遊女や極悪人までもが浄土に往生できるということになったのか。当時の支配的な仏教(天台宗、法相宗など)が、本来の釈迦牟尼の思想をないがしろにしていたのか? 安元元年(1175)、目を開かされた法然は、比叡山を下りて京都西山の廣谷(ひろたに)に移った。次に、東山大谷の吉水に、現在の知恩院の地に草庵を結んで専修念仏の道場とした。 やがて、噂を聞きつけた僧や男女、貴賎(きせん)を問わず、多くの弟子や信者が集まるようになった。 法然は言う、 「口で念仏をとなえる以外の修行や学問は不要だ」 との説法は、まさに画期的な教えであった。 また、当時の人々の心の中で支配していたタブー(女性の月の忌(い)み(月経)など)の一切を否定し、仏法に忌みはないとした。また、 「僧が戒律を守れないならば、戒律にこだわる必要はない、ただひたすらに念仏をとなえよ」 とも言ったといわれている。 そのため、弟子の中には無軌道に走る者もいた。 当時の宗教をないがしろにはしていませんが、新しい宗教が民衆の中から生まれる時には、従来の社会規範と対立し、アンチ・モラルの側面をもつことは止むを得ないことかもしれませんね。 そして、当然のこととして、天台宗や他の修派からの攻撃も、これまた、避けて通ることのできないものだったのだと思います。 いずれにしても、源流には「お釈迦様」があっての宗教ですから、その解釈の仕方が違って生まれたのが浄土宗です。 後の日蓮宗にも通じることです。

5052ul
質問者

お礼

法然、親鸞、その時代での歩みもふくめた解説ありがとうございます。 ”ないがしろ”というのは、当時のメジャー教団が、釈迦の教えをないがしろにしていたので、法然がそれを正そうとしたのではないかという意味です。念のため。 釈迦の教えの原点は身分の差なく平等に誰もが救われる、というものでしょう。とすれば、法然の考えはごく自然なものに思えます。ですが、専修念仏が極楽往生の唯一の手段といいきるのはやはり驚くほかありません。 私は感覚的には、苦しい修行、試練を乗り越えたところに光があるとどうしても考えてしまいます。が、さらにつきつめると、高みに達した人間、またそのとりまきがおごり高ぶる危険性を排除できないというところから、親鸞の「他力」の概念が生まれたようにも思います。

  • kishn_an
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回答No.4

お礼ありがとうございます。 回答番号:No.1です。 蓮如の功績は大きいと思います。親鸞は学者肌で布教活動には熱心ではなかったようです。 親鸞という人は、すごく理屈っぽい人だったのではないでしょうか。感謝の念仏というのも、何のために念仏を唱えるのか、理詰めでつきつめた結果なのかなと思います。 なぜならば、「念仏を唱えるから極楽に行かせてください」というのは、阿弥陀仏と取引することになります。取引しようとするのは自力によるはかりごとなので、他力本願の信仰にはなりません。 また、阿弥陀仏は「念仏を唱えくれれば極楽に連れて行ってやるが、そうでないヤツは知らんぞ」と言うような心の狭いお方ではないはずですので、極楽往生を願って念仏を唱える必要はないという結論になります。 では何のためなのか?と、とことん理詰めでつきつめていくうちに、理屈をこえて「有り難や、自分はもうすでに救われている」と感じる神秘体験に至ったのではないかと思います。禅でいうところの悟りのようなものかもしれません。そのあたり凡人には伺い知ることのできない境地なのでしょう。 私は学がありませんので、難しいことはわかりません。

5052ul
質問者

お礼

さらにくわしい説明ありがとうございます。 理屈っぽい!! なるほど。 もう救われている、などとはたしかに理屈の世界です。 が、凡人なりに考えてみました。 悪人正機といいますね。「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」悪人ですら救われるといわれていますが、私はむしろ悪人をこそ救おうとしたのではと思います。 悪人とは、自分の都合で人を殺めたような悪人などもそうですが、私たちの心の中の悪です。そうです誰もがやましい心、利己的な心があります。そういう悪すべてひっくるめて引き受けますというのが、親鸞の教えでしょうか。すべてを阿弥陀仏に預けなさい。そうきずいた時点でもうあなたは救われていると。

5052ul
質問者

補足

「もう救われている、などとはたしかに理屈の世界です。」 まちがえました。 こちらの方です。 もう救われている、などとはたしかに理屈をこえた世界です。

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