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奥の院の親鸞聖人の墓について

どこでお伺いしたらよいのか分かりませんでしたので、ここでお伺いいたします。 以前、高野山の奥の院に行った時、親鸞聖人を墓を見つけました。どういういきさつで、浄土真宗の親鸞聖人の墓が奥の院にあるのか、とても知りたいです。 もし、お知りの方は教えてください。 よろしくお願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • yuhkoh
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回答No.2

奥之院の入口近くに「熊谷寺」というお寺がありここは「円光大師法然房源空」「見親大師善信親鸞」「熊谷直実法力房蓮生」の修行場とされます。彼らは皆、浄土信者ですが、なぜ高野山に集まったのでしょうか。それは、平安中期ごろから高野淨土という信仰が盛んになりました。これは高野山を現世の阿弥陀如来の極楽淨土、あるいは弥勒菩薩の兜率(とそつ)淨土とする信仰です。そのため高野山では浄土教の行者が多数集まりました。当時の浄土信仰は密教や法華経による滅罪の修行を行い、戒律を守り、そして念仏によって淨土へ往生するという考えが主流であり、いわゆる現在の浄土宗・真宗のような専修念仏とは理論が異なっています。現に、高野山内の石碑などを調査すると「南無阿弥陀仏」の六字名号が数多くあります。 高野浄土信仰には、仏教以前からある日本古来の「山中他界」、つまり祖霊は山に集うという信仰が根底ともなっています。このような信仰は高野山に限らず、立山・恐山・月山・熊野・石鎚山・御嶽山などにも、現在でも色濃く残っています。そして高野山に納骨や供養塔を建立すると滅罪と浄土往生が必ず遂げられると広め、「聖(ひじり)」と呼ばれる布教僧が信仰の拡大を果たしました。 高野山での念仏は江戸時代に高野山の信仰を純然たる真言密教に戻すため、聖による大声での口称念仏(南無阿弥陀仏と唱える)の禁止や密教修行を行わないと真言僧としての資格を与えないなどが実施され、念仏は表舞台からひそめますが、民間信仰のなかでは生き続け、それにもとづき現在でも供養塔が建立されます。 なお、江戸時代は各大名家はこぞって高野山に供養塔を建立しますが、これは徳川家康が高野聖の助けを借りた(高野聖は全国にネットワークを持っているので、さまざまな情報が集まります)ので、天下統一後、高野山に対して大名並みの石高を与えています。そして全国に配札権(各国にお札を配る権利)や、納骨や供養を受ける権利を与えました。そして大奥が深く高野山を信仰したりと、徳川家と深く関係を結ぶことなり、山内に霊廟や供養塔が盛んに建立されました。そのため旗本や各大名家もそれにならい供養塔を建立したという面もあると、高野山大学の恩師より教わりました(もちろん信仰の面もありますよ)。ですから、山内のたくさん寺院がありますが、以前は○○院は○○国に札を配り、そこの地域の供養を行うと厳密に決められていたので(例えば、正智院は但馬という具合です)、現在のように好き勝手に宿坊に泊まることは出来ず、必ず自分の生国を預かる寺院に泊まり、そこで先祖供養を行うとしていました。昭和の始ごろでも高野山入口には番人がいて、参詣者に生国を聞き、宿坊の紹介状を発行していました。 高野浄土信仰については仏教民俗学の五来重著『高野聖』(角川選書)に詳しく記されています。

参考URL:
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4047030791/qid=1099145628/sr=1-14/ref=sr_1_2_14/250-0561084-0977804
i_love_chocochan
質問者

お礼

どうも大変詳しい内容をありがとうございます。高野淨土と言う言葉は初めて聞きました。当時の浄土信仰からそのようなことになったのですね。よく分かりました。

その他の回答 (1)

  • amida3
  • ベストアンサー率58% (448/771)
回答No.1

お墓ではなく、供養塔です。 高野山・奥の院には皇室・貴族関係をはじめ大名の供養塔の他に浄土宗の開祖法然上人など日本仏教各宗派の開祖の供養塔もあります。その中に浄土真宗のご開山親鸞聖人の供養塔もあるだけです。

i_love_chocochan
質問者

お礼

回答ありがとうございます。お墓ではなく、供養塔なのですね。勉強になりました。

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