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思想、判断、思考はすべて過去によって決まっているか
思想、判断、思考はすべて過去によって決まっているか 別の問い方をすれば、人間に自由意志はあるかということになります。 以前私が質問した、死刑は許されるべきかというものに関係があります。 一人の人間は過去によって作られるというものです。
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おそらく全ての事象は人間であっても例外なく因果律で決まっています ただその因果を人間は知りえませんので 人間の世界に矛盾がある様に 人間の思考と行動は自由だと考えた方がいいでしょう 自由と言っても人間が考えたとおりに現実がなる訳ではなく 飽くまで宇宙の真理の法則に適う思考・行動をした時のみ 思った通りに行くのです。 人間は選択して実行しなければなりません。自由の刑に処せられている?のでしょう。
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- pupurr
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今その瞬間しか自由はないといいます。 結局 「今」しか与えられてません。 自由とは、イチローのように『獲得していく自由」しかありません。 本当の自由は束縛のない状態をいいます。 人の欲の自由は、束縛ですが、大半がきずいてません。 過去でいえば、仏教ではアラヤシキというものがあるそうで、いいものも悪いものも蓄積するそうです。 前世ともからむ話ですね。 思考などは生命レベルで変わるでしょう。 一日でも何万回と生命レベルは変わり、そのつど、いろんなことが湧き上がってきますね。 仏法の十界論を学ばれるといいですよ
- maimaisus
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結果的に考えるとそう言う事になる。 人間の自由意志に関しては、考え方、見方の問題だと思うけど。
- mmky
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思想、判断、思考はすべて過去によって決まっているか ○ 過去・現在・未来はつながっているのですね。 現在のあなたは過去のあなたとは違うものですが、過去の責任は現在のあなたしか取ることができないということなのですね。現在の瞬時瞬時の判断が未来のあなたのありようを決めているわけですから、それが過去になってもその時点でのあなたの判断に対しての評価は存在するということですね。 理由は簡単で、過去と現在、未来の自分はまったく違うと言い張れば誰も責任など取るものがいなくなりますからね。それでは社会を構成することさえ出来ませんね。 個人としても反省なきは猿のようなものですか、いや猿でも反省しますかね。 まあ、死刑の話が出てますので付け加えますとね。刑務所で十分に罪を反省した者が死刑に処されても天国に帰っているのですね。つまり現在の自分は過去の自分とはちがうものなのですね。 むしろうらみ続けた家族のほうがいいところに帰っていないというギャグのような世界があるのですね。当然十分に反省しなければそういうことはありませんけどね。でも現状は死刑囚にも十分な反省期間は与えられていると思いますよ。 理解できるかどうかはわかりませんが参考までに
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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【思想、判断、思考はすべて過去によって決まる】という判断が分りやすいのですが、実際層でもないようですね。 現在というのがあるとすれば、そういう要素は比較的大きいけどどうもそれだけではないことが、哲学という欧米思考方式では追いつけないところですね。 まぁそれに人って全ての【思想、判断、思考はすべて過去】を記憶していたり、意識していたり、そうだという受け入れをしてませんですね。 実は私もテツガクシャさんと同じ観念で長く居ましたが、そうでもなさそうだと感じてきました。 いろんな要素が自分と自分の中と外を形成しているのだという事です。 自分の【思想、判断、思考はすべて過去】だけではなさそうです。 げんざいですら、そういうことで、未来というのがあるならそれは制限された無制限のバラエティだと存じますが。
- moonliver_2005
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どの哲学者の理論によるかで答えは大きく違うでしょう。 ウィトゲンシュタインという哲学者の理論では、世界は「永遠の真理、因果律、自然法則、物理法則、数学の定理・・・」そういう決まり切ったものは何もなく「ものはあるようにある。起きることは起きる。あるのは論理だけ。」という世界ですから、人の自由意志は世界の中で最大限働く余地があり「求めれば得られる、叩けば開かれる、捜せば見出せる。」と考えることができ、そういうように考えることの出来る人が幸福な人ということになっています。 Wの考え方を発展させると、思想ないし観念が社会の変革を引き起こすのではなく、世界を変えるのは事実や出来事であるということになります。そしてそういう世界を変える事実や出来事の根源に人間の自由意思があって、幸福を求める人間が世界を変えるという人間観・人生観になります。ただし世界の出来事の本質は偶然が支配するもので、「たとえ欲したことすべてが起こったとしても、それは単なるいわゆる幸運にすぎない。6.374」ということですから、逆に欲したことすべてが起きなくとも落胆したり不幸をかこつ必要はありません。 「自由意志」に関する重要な哲学的論点として「人間は自己の行為に道徳的な責任を追うのか、そして、もし負うとすればどのような意味で負うのか?」ということがあります。普通、哲学者や倫理学者は「道徳的責任は自由意志を前提とする。」と考えます。つまり、「あることをするかしないかは本人の自由意思なのだから、人々は自己の行為に責任を負っており、各人が何をするかに応じて、社会から賞賛や非難を受ける。」と考えています。 「自由意思」の存在を肯定した場合、「自由意思はどのようにして具体的な行為と結び付くのか?」という哲学上の問題を生じます。この問いは、多くの哲学者を悩ませてきましたが(Wikipedia)、ウィトゲンシュタインは「自由意志は、未来の行為をいま知ることができないということに成立する。(5.1362)」「われわれは、自由意思は世界の限界を変えることができると考え、自由意思を具体的な行為と結び付けている。」というように、この問題の答えを出しています。
補足
>「ものはあるようにある。起きることは起きる。あるのは論理だけ。」 意味がよくわかりません。物事は論理的に起きるということなら因果律なんですけどね。
- 雪中庵(@psytex)
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#1の者です。 >本人の実体?は唯一な過去の集積ではないでしょうか 「過去の集積」という場合に、「環境による過去の影響(認識性とは独立 した外的環境)」と、「無(=不確定性無限)の潜在的自我仮説性の時系列化 (自我仮説と時空仮説の相補分化)」は、分けられるべきです。 前者は「二次的産物としての自己」、後者は「宇宙の第一原因としての自己」 となります。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
思考(内)と感受(外)は連続的であり、それは「過去(=経験=時間)」と 環境(=空間=予測=未来)の交差(時空4次元)において生じています。 「その人の過去が生んだ」とも、「時代が生んだ」とも言えるのです。 そんな事を言い始めれば、「本人」の実体はなくなります。 そうした全ての“前提”をひっくるめた上で、やはり責任は100%当人 にあるのです(その再発防止の対策の責任は周辺になるにしても)。 もし、そうした「原因は過去にある」というのが、因果律を指すので あれば、因果律において動く駒である「存在(=有限的性質)」そのものが、 認識体の不完全さ(不確定性原理の相補的不確定性の非決定的定性化) によって生じている以上、「当人=認識に原因がある」というのは 確定的になります。 (「一人の人間は過去によって作られる」にしても、その「過去」を 含む宇宙は、「一人の人間の認識において作られる」という話で)
補足
>そんな事を言い始めれば、「本人」の実体はなくなります。 では実体はあるんですか? 本人の実体?は唯一な過去の集積ではないでしょうか >そうした全ての“前提”をひっくるめた上で、やはり責任は100%当人にあるのです 上の文と論理的につながっていません >「当人=認識に原因がある」というのは確定的になります。 一人の人間の認識の能力も過去によって作られます。 それはその人の過失によるものではありません。
補足
語尾に~すね。が多いのは人をおちょくるためでしょうか?