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日本人は人間にならないのか
- 日本人には人間としてのコミュニケーション意図が欠如しているという見解がある。
- 日本人が偽善を嫌うことは、世界的なコミュニケーション拒否の反映である。
- コミュニケーションの意図を持たない人間は、人間以前の存在であると言われる。
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7か月ぶりのOK Waveです。 日本人は人間にはなりません。 人間になる大前提がないか 個々には前提があったとしてもその前提を日本人同士で共有できないからです。 人間になる大前提とは 自分の中に「自分に先行する絶対的な何か」があることです。 多くの日本人には「自分よりも大切な何か」と言った方が分かりやすいかも知れません。 「自分よりも大切な何か」がなければ即ち自己完結していますので 世界を相手に言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ必要がありません。 人間にはなりません、といういうよりも 人間になる絶対的な必要性がありません。 必要なときだけなればイイというぐらいの態度です。 他の回答や過去のQ&Aは読んでいません。
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- IDEA_MASTER
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No.9さんの考えを踏まえて、なぜ日本人であるヒロシ君(仮名)が幼稚なまま(人間になっていない)なのかを、考えてみました。 ○例えば、明治生まれ(※例)のヒロシ君の祖父が小学生のときに死んだのであれば、物心ついたときには老齢で、もはや存在感もなく、影響も受けず、いなかったも同然であった。あるいは小学生のときに別居したのであれば、そのときの<喪失感>があった。 ○また、ヒロシ君の祖父が既に粗末に扱われていて、家庭内で人間として扱われて居らず、「祖父」としての機能・役割を発揮していなかったからである、とも考えられます。 ○さらに、「戦争に負け、ヒロシ君の祖父が、威厳を示すことも神話や昔話を語ることもできなかったからである」とも考えられます。 つまり、ヒロシ君が、いい大人になった今でも毅然とした自己を持てず、他の爺さん相手に「愚生」と称し、幼稚なコミュニケーションをとることしかできない原因は、喪失感や渇愛が元になっており、それを、今でも他者に依存することで満たしているからだと考えられます。 そう考えると、《大衆》ゆえに というよりも、《環境》ゆえに ということになります。 >広い意味の上司に対してアース役となってのように下の者がこうむるストレス これが 問題でありいわば病原だとも考えていたのですが ヒロシ君(仮名)はストレスを感じず、むしろ使命感・正義感を伴って自ら進んでアース役となっているように見えます。その「コミュニケーション」は対象に対する「通常(普通)のコミュニケーション」ではなく、他者に対応するため・見せるため、そして同時に自分を守るためのアピールに過ぎないでしょう。 そういったヒロシ君の行為を爺さんが喜ぶのは当然であると考えられます。子供がいないぶん、仮の子供を相手することで自分を慰めているのです。 また、気が狂ったおサルさんが「宇宙人とか大統領が云々」などと言っていますが、あの珍獣に正気を取り戻させることができるのは質問者さんだけ かと思います。「早く人間になれ」という言葉は、哲学しているつもりのお猿さんにこそふさわしいと思います。彼の論理によれば、自分が見た「妖精」はいるけど他の存在は「確実にいない」ということのようです。 甘やかしすぎたのが原因でしょう。
お礼
この場合のアイディアは どういう意味あいだろう。おっと 〔そうだな さしづめふつうに〕アイディアの達人さん〔かな〕 お早うございます。ご回答をありがとうございます。〔やっと少しはまともな投稿を寄せましたね〕。 ただし どうなんだかなぁ。すべて推理推測の上に立てた議論の城ですからね。 基本的には もし運がよければそれぞれ本人の方たちが相手をしてくれることでしょう。 というのも そのように判断し応答する理由として こうです。 きわめて一般論ではありますが ひとは逆境ゆえに人格が磨かれることもあれば 順境ゆえにうんぬんというその反対の場合もあります。 子どもについては ともかく育てる大人はひとりいなければならないと思われますが そのほかは その境遇なり環境なりによって決まってどうなるこうなるとは 言えないでしょうね。教育の有無やその実際の場からの影響も大きいと言われますが 決定的な理由に挙げることもぎゃくにどうかと考えます。 ここに挙がったお二人とも コミュニケーションはじゅうぶん取れています。問題にするのが おかしいでしょう。 《妖精》のことを話す人は そういう特殊な分野として自己表現をこころみている。そしてそのことを自覚している。そういうことです。 こういうわけで ここであなたが問題提起をしようとするその事由が飲み込めません。あるいはつまり 意思疎通が取れているのですから 取れていないという《人間以前の状態》の問題として出す理由が 今回の文章からは見出せませんでした。 繰り返すなら 推理推測のあり方が そうではない内容もじゅうぶんあり得るのに 自分のひとつのアイディアにのみこだわっている。これゆえです。どうでしょう。
- ノーバン(@nobound)
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やりとりがすごいのでちょっと怖い気もしますが・・・ 福田和也さんの本で「なぜ日本人はかくも幼稚になったのか」という本がありますが、「のっぺらぼう」=社会や世界の中で主たる意思やコミュニケーション力を持たない=大人になりきれていない=幼稚、子供っぽい ということで、「なぜ日本人はかくも幼稚になったのか」と同義的質問ととらえてもいいのでしょうか? だとすると、対米従属の平和ボケとか、資本主義社会や市場原理主義の負の側面の人間性や家族の喪失とか、お上依存の文句たれとか、理由らしきことがいろいろ出てくると思いますが、どれかひっかかるテーマはあるのでしょうか? あるいは質問で書かれている「のっぺらぼう」とはこれらのこととは全然違う意味なのでしょうか? 「人間になっていない」ということに自分自身の問題も含め、意識、関心はかなりあります。
お礼
福田和也 たしか悪魔だったかなんだったかで読んだ記憶があるのだけれど はっきりとは――あっ のうばうんどさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。――・・・。でもおもしろそうですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・「のっぺらぼう」=社会や世界の中で主たる意思やコミュニケーション力を持たない=大人になりきれていない=幼稚、子供っぽい ということで、「なぜ日本人はかくも幼稚になったのか」と同義的質問ととらえてもいいのでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ もちろんそうだと思います。 そうですね。これまでけっこう多くの関連主題について質問を挙げやり取りをして来ました。今回は 人間的交通あるいはコミュニケーションという分野に絞って取り上げています。 たとえば最近では 【Q:日本人は 魂が去勢されているのでしょうか?】 ~~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5867914.html 考えられることとして: 1 暴力団や右翼による脅しを――それらが必然的なことかどうかを別として――含めて 天皇制という禁忌とその観念における心理的な委縮もしくはむしろそのタブーへの賛同。 2 核戦力を持たない者にとって 核の脅威。 3 CIA。 4 昔からもともとだ。 5 その他。 6 いやいや腑抜けなんかではない。このやろう いい加減にせんかい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こんな質問をしました。そこでは ★ だとすると、対米従属の平和ボケとか、資本主義社会や市場原理主義の負の側面の人間性や家族の喪失とか、お上依存の文句たれとか、理由らしきことがいろいろ出てくると思いますが、どれかひっかかるテーマはあるのでしょうか? ☆ についてやり取りしていますよ。気が向いたら見てみてください。 ですから 今回は やはり意思疎通 この一点に焦点を当てています。それを横目で見つつと言いますか そういうかたちでしたら もろもろの主題についてもいわゆる《日本人論》として みなさんにも提出していただければありがたい。こう考えます。どうでしょう。 ちなみに上の質疑応答では ベンジャミン・フルフォードとかイルミナティまでも出てまいりました。陰謀論ですね。 ではお待ちします。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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bragelonneさん、お願いです。 どうか気付いてください。どうかごご自分を持ってください。そのためには協力をします。 私のメール・アドレスもおくってあります。
お礼
ここは公共の場として、OKWaveさんが開設しておられます。しかも電波という公共のものを使用しての場です。
- ha5050
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体も動かせず意思も伝えられない人がいます。その人を見て人間じゃないと言えますか?言えるのならあなたが人間じゃありません。
お礼
あぁ 《人間になろうとしても 出来ない状態にある》という場合でしょうか。――まづは ハー五十五十さん ご回答をありがとうございます。―― そうですね。冷徹人間になって言えば 《人間以前の状態にある》ということになるでしょうね。 意志表示ができるように・からだも動かせるように あらゆる手を尽くして自然治癒をたすけることが まづ第一でしょうね。 ですから この質問での《人間以前の状態にあるのではないか? 言葉で自己表現しようとしないのは 人間にはなろうとしないことではないか?》という問いは その直ったあとのことでしょうね。 どうでしょう?
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
1. 質問に意味性がないという批判なんです。 2. ここは公共の場として、OKWaveさんが開設しておられます。しかも電波という公共のものを使用しての場です。 一定の見解から、意味がないという批判には謙虚に思いをしてください。 人に何かを聞くときは、要領よく、読みやすく、要点を簡明に書くべきです。 批判を拒否したり、封殺することは自殺行為です。最も理性を尊重する哲学カテです。 しっかりしてください。私は思索と勉強しか此処に意味を求めません。 サロンでもないし、何かの誇示や実現でもありません。 そういうものはごみです。ごみは再生のために清掃しなければなりません。
お礼
★ 1. 質問に意味性がないという批判なんです。 ☆ この判断の表明には 意味がない。なぜならもし意味があるとしたなら ○ 《1. 質問に意味性がないという批判なんです。》には意味がないという返答なんです。 ☆ にも意味があることになる。 もしそれならというんで 延々と同じやり返しを堂々巡りのようにやらかすかと言えば それはやらない。どれだけ浅学でも その愚かさは分かるはずだ。 ★ 一定の見解から、意味がないという批判には謙虚に思いをしてください。 ☆ 早くその《一定の見解》を出してみろってんだ。もうかれこれ五十年も 同じことをわたしは繰り返している。 ★ 批判を拒否したり、封殺することは自殺行為です。 ☆ だれがいつ批判を拒んだのだ。事実に反することを言ってはいけない。批判に対してすべて反論して来ている。その反論に対して 何も言えなくなってそのように 小学生のようにばかを言い続けるのは どこのだれだ。 何でこんなくだらないことを もうかれこれ三年も続けなければならないのか。ばかも休み休み言いたまえ。 No.3(あるいはNo.4)には おぎなうべき説明をきちんと書いたのだから それにもとづき答えを書いてよこしたまえ。 これからのちは 答えがなければ無視する。ここまででも武士の情けだった。こんなあほうは始めてだ。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
なんとかいう現代生存の日本の二人の誰かの話についてのbragelonneさんの見解と意見募集でしたか。 OKWaveのコーナーで、bragelonneの意見だか何だかを一所懸命読解して、私の浅学でお伝えすることの意義性を認識しえません。 第一に、その二人の意見のここがどうかという話をbragelonneさんとして分りやすく短く書いて欲しい。 第二に、bragelonneさんの知りたい事をbragelonne自身の簡明な簡明な簡明な文章で書いて欲しい。 たくさんのお知識はご質問ではご披瀝することもないですものね。 ここは何かを教えてもらいたいというサイトだと存じます。 ご研究やお読書のご披瀝の場でもないです。だれであれ質問者の何かの意図を実現をする場でもないと存じます。
お礼
めんどうだなあ。 ☆☆ (趣旨説明) ただしそうだとしても こののっぺらぼうは 果たしてどこから来るのか。何でそうなるのか。さっぱり見当がつきません。冗談を交えてよければ 《大衆》ゆえにという答えが出されるかも分かりません。 ☆ このように分からないから 知恵をお貸しくださいと言っているにすぎません。 中で二人の対話における用語や文脈が明らかでないとの補足要求を受けたので その説明をしただけです。 質問者が自分の見解を述べて みなさんから意見募集をしてどこがわるいのですか? いったい何を言ってるんだ。 ★ OKWaveのコーナーで、bragelonneの意見だか何だかを一所懸命読解して、私の浅学でお伝えすることの意義性を認識しえません。 ☆ ぢゃあ 来るな。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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コミュニケーションは双方性であることはいうまでもありませんでしょう。 コミュニケーションが成立しない原因もいろいろありうるでしょう。 日本人といわずどこの国の方もコミュニケーションは大変ですが、日本人が国際的に物慣れていない事はよく指摘されます。 これを以って日本人が人間以前とか言うフレーズは不適当ではないですか。 日本人同士も何かとそういうギクシャクがありますが、このことについても同じではないでしょうか? 国際宗教っていうのはたいへん疑問詞のつく言葉ですね、言葉遣いですね、口はしっても別に結構ですが。
お礼
★ 日本人が国際的に物慣れていない事・・・を以って日本人が人間以前とか言うフレーズは不適当ではないですか。 ☆ これには 岩井克人は答えています。趣旨説明では簡単につぎでした。 ◆ (岩井) 世界と言語を使ってコミュニケーションする意図・・・をもたない人間 ☆ この短い定義は 次の場合にもあてはまります。 ★ 日本人同士も何かとそういうギクシャク(* ≒《コミュニケーションが成立しない》こと)がありますが、このことについても同じではないでしょうか? ☆ 《言語を使ってコミュニケーションする意図を持たない》という定義があてはまると質問者は考えています。その疑いがあるという意味です。 ★ 国際宗教っていうのはたいへん疑問詞のつく言葉ですね、言葉遣いですね、 ☆ これについては 二人の対話の中からそれぞれの次の発言をもっておぎないます。 ◆ (柄谷行人・岩井克人:『終りなき世界―90年代の論理』)~~~~ 【岩井】 ぼくは日本人は百パーセント レイシストだと思いますよ。〔・・・〕上に媚びて 下に威張るというね。明治以来 日本は常にそうだったと思うんですね。そして それと同時に 白人もふくめた意味での外人排斥的なレイシズムもある。(pp.129-130) 【柄谷】 暗黙にではなく 露骨にそうですね。 ぼくがいやなのは こういうときにはアメリカ人は〔そのような日本人のことを〕偽善的だと批判することですね。 たしか漱石が 現代日本人は偽善をいやがるあまりに 《露悪主義》になっているということを言っています。これは近代文明批判であったのでしょうが 特に日本人に当てはまるのではないかと思う。 以前に 中曽根〔康弘〕が黒人のIQが低いという発言をして問題になったときに テレビで景山民夫という男が中曽根さんはほんとうのことを正直に言っただけだと言って それが受けていました。 ぼくはものすごく腹が立った。こういう《正直》なんかより 《偽善》のほうがいいのだと。なぜなら 日本語では 《偽善》は善のように偽ることですが 偽善者は少なくとも《善》を意識し《善》であろうとしているわけですから。 ところが 日本人は《偽善》のほうを嫌う。自民党の議員が同じことをすれば 許さない。それは 自民党の方が《正直》だからです。これも じつは宣長の言う《やまとごころ》と結びついているんですよ。それは《漢意(からごころ)》=《偽善》の批判だったから。 もちろん 人間は偽善者であるほかないと思うんです。しかし 人を残らず偽善者たらしめてしまうような《善》とは 結局 神 絶対的な他者としての神ですね。言いかえれば 世界宗教ですね。 ぼくは 儒教もそのなかにいれています。もちろん親族形態や先祖崇拝のイデオロギーとなった儒教ではないです。儒教は《天》をたえず意識するのです。日本人に比べれば 韓国人にはそういう意識が強くある。政治家もきちんとしゃべる。どうも 日本人だけが あの正直さ=やまとごころに帰着してしまったようですね。日本のポスト・モダニズムは そういうものです。(pp.130-131) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 質問者の当てている焦点は 岩井の言う《人間以前の存在》というところです。 そしてその意味合いとしては 質問者に即して述べるなら こうです。 一方で ちょうど柄谷は《やまと心》と言っていましたがその《もののあはれを知る》というように人と人との交わりを大事にする―という社会としての基礎的な生活の場がある。それは ともかく《そこにひとがいる。またわたしという人間がいる。同じくわたしと自称するほかの人もいる》という基礎的な交わりの場において互いに人間であると認め合っている情況が 一方では確かにしかもはじめに あります。 ところが他方では しかもほぼ同時に その《わたし》という人間を生かしていない状態が そこここに見られるのではないか。すなわち《言葉を使って意志疎通を図る意図を持たない》存在がいる。そうとしか受け取られない情況 これが見られる。 こういった意味あいにおいて 《人間以前の状態》にあるとうたがわれます。ゆえに 《日本人は 人間にはならないのでしょうか?》
- 来生 自然(@k_jinen)
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「のっぺらぼう」というより「千と千尋の神隠し」の「カオナシ」でしょうか? >>> 私の日記からの引用 ありとあらゆる「もの」(外見上の「まね」)を取り込み、泥でコピーを作り出して肥大化していく「カオナシ」は、自身のアイデンティティが見いだせずに、「知的欲望」に依存し、他者のコピーを取り込むことによってのみ、自身のアイデンティティが表現されうると思いこんでいるかのごとくである。 あらゆるものを吐き出した「カオナシ」は、自身のアイデンティティの拠り所が、「もの」ではなく、外部(全体)との「つながり」の内部にあることを見出す。ゼニーバ(銭婆婆)との共同作業の中に「カオナシ」は自身の居場所を自ずから知る(というより感じ取る)のである。。。 <<< このあたりの一般的な(?)解説(いわゆる日本人論との組み合わせ)は http://abecasio.s23.xrea.com/text/notes/10.html などで見ることができます。
お礼
そしてこの好悪の感情で・感情だけで世の中を渡っていくというのが 顔無しです。意志の欠如と言ってもいいと思います。人間として生きようとしています。けれども人間になろうとはしていません。言葉をとおしての自己自身の表現 これはありません。感情とその思いこみ一本だけです。 千と千尋は――つまりその作品についてのわたしの感想は―― こうでした。 1. 親たちは 一生懸命に仕事をして来ているが その反面では ただの貪欲であり 豚である。 2. 親たちもこれについて 内に省みようという気はある。 3. ただし自分たちの仕事や生活の場そのものにおいては もう如何ともしがたい。と思っている。 4. その内省の中身の一端を 自分たちの子に託して 夢なり反省なりとして描いてみよう。それが 千と千尋の物語となって現われた。 5. けっきょくのところとしては 作品の最後あたりで 親たちが豚から人間に戻るというとき 千尋の頭にパッとひらめいたものだあったんでしたっけ そのような或る種の神業によって 〔人間への復帰が〕成し遂げられた。 6. その場面は あざやかに描かれていたという印象である。最高だとは言えないが ほかにすべはなかったかも知れない。人間の計らいといったいやらしさを その鮮やかな場面では感じなかった。 7. ひとつ不自然と思った箇所は 終わりのほうで 婆の妹の家へ千が電車に乗って出かけていくのだったと思うが その婆の妹の描き方が あいまいだという印象である。けっきょくどういう人物なのか。どういう役目を担ったのか。どう位置付けられているのか。分からなかった。 8. 要するにこれは いわゆる現代物質文明社会の中で 人間と人間的自然を取り戻し そしてなかんづく《わたし》を見出したいという問い求めである。 9. 最後の場面における豚から人間への復帰は 描き方としてあざやかであったと同時に 思索としてはそれ以上の内容を得られていないと白状しているということ。またそれは ひらめきという展開のほかに 実際にはそれほどうまく描かれるとも思えないとは思われるのだけれども それは 映像描写における限界であるのかも知れない。 10. 映像による表現も限界を超え得るかも知れないが 一般には言葉による文章表現のほうが 密度が濃いように思われる。 ■ (阿部) ~~~~~~~~~~~~ さきほど僕は、千とカオナシは、アイデンティティクライシスのなかで表裏をなしているともいった。そしてこのカオナシから発散されるアイデンティティクライシスこそが、この作品がもっとも現代性をもっている証左となるんです。 カオナシは作品全体がしめす反世界にすら違和をかたどるために、その下半身が主に透明状態――あるかなきかの状態で表象される。彼は喋れない。飲み込んだ者の言葉遣いや声をもちいて喋ることはできる。 彼が一見もっている顔は仮面にすぎない(しかし何という見事な仮面でしょう――角度によって表情が変わり、とくに俯いたときには悲哀を発するのです)。 そして縁側から湯屋に入るときふと登場する寂しげな彼の片足は、彼が飽食を繰り返し、番頭や仲居を飲み込んだときには、怪物的に多足化してしまう。 自らと同質な者と見込んで眷恋した一見「寂しげな」対象・千には、「あなたにはあたしのほしいものは出せない」と拒絶されてしまう――ここではたぶん「おたくは自身を他者に反射できない」という真実が語られているはずです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このあたりの評言は くだらんと思いました。 a. 女に振られることと《アイデンティティクライシス》とは 基本的にはつなげる必要はないでしょう。関連していても つなげる必要はない。 b. ひとが堕落することと コミュニケーションが取れないということとも 一対一に対応しているものではありません。 c. 仮面であっても まづは何の問題もないという互いの認め合いがむしろ 大事です。 d. 《下半身が主に透明状態》というのは 阿部に対してではなく作品に対しての批判になるのかも知れませんが 意味がよく分からない。 e. 《カオナシは作品全体がしめす反世界にすら違和をかたどるをかたどるために、その下半身が主に透明状態〔となっている〕》。――《反世界》というのは すでに上に見たように 親らは豚から人間に戻るのだから そしてそれは 何も豚である部分を取り除くというようにではなく そうではなく 豚ないし無明の部分をも内に持ちながら 清浄になると言っているのだから わざわざ《反世界》と言うこともない。まして《反世界にすら違和を持つ》という見方は 阿部のであるか作品のであるかを別として いただけない。
補足
じねんさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 そうですね。じねんさんは わたしの問い返しとしての問い掛けに答えるときとそうでないときとがあって わたしは正直に申して困惑するのですが いつものわたしのように応答してまいります。 いきなりですが 《顔無し》という表現が持つ意味内容は おそらく《人間以前の状態》を表わしているであろうと考えますが 作品に出て来る《カオナシ》との比較対照は 果たしてどうでしょうか。あいにくですが まづこれが わたしの偽らざる感想です。 千と千尋は どういうわけだったかもう覚えていませんがテレビの再放映で見ました。阿部嘉昭が引き合いに出しているほかの作品は ことごとく見ていません。ナウシカも知りません。ときどき紹介やらとして触れているのに出会いますが まだ魅力を感じて見てやろうと思ったことはありません。――そういう片寄った情報ですから 割り引きして受け取ってもらわねばならないかとも思いますが 阿部の論文についてとともに わたしの評言をつづっておきます。 ■ (阿部嘉昭) ~~~~~~~~~~~~~~ あの「春日様」はその顔部分に紙の護符をつけ、中国の文官のような帽子・黒衣をまとっているんだけど、あれは最初僕は顔に護符をつけたまま蘇った中国版ゾンビ――『霊幻道士』シリーズに描かれた死者だとおもいました・・・。「紙」が中国世界においていかに霊力をもっているかという民俗的想像力を駆使していたからでもあります ――ちなみにいえば、その「紙」は『千と千尋』においては空を飛ぶハク[龍]を襲う紙の小片――千に取り憑く紙[銭婆の化身の姿]――へと作品内で変遷してゆきます。あるいは「面」的なものは、 自我のない「カオナシ」がアリバイ的につけている面 へと隔世遺伝します。そういう同じ物質的想像力の「連鎖」が、あの作品においては前半顕著だった非親和性を緩和させる動力になっています ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 必要以上に引用したかも知れませんが このように《アリバイ的にでも面――つまりたとえ仮面でもという意味です――をつけている》なら それは 柄谷の言う《偽善》ですし そこに《言葉で表現すること》を添えれば岩井の言う《コミュニケーション》ですし わたしはそれを簡単に《貌をつくる》と言ったそれだと考えます。 ですから 《顔無し》ではないのです。ずっとつねに顔が無いのではないと言わねばなりません。 基本的にそういうもんだいが横たわっていると考えますが どうでしょう? ★ 自身のアイデンティティが見いだせずに、「知的欲望」に依存し、他者のコピーを取り込むことによってのみ、自身のアイデンティティが表現されうると思いこんでいる。 ☆ これについては どうでしょう。わたしに言わせればですが わたしの考えでは 仮りにいやしくも《アイデンティティが見出せずに》というところで これは救済せねばならないと思ってしまいます。《わたしがわたしであ》ろうとしていると採れるという意味です。それなら まづは見守っていけばよい。これが わたしの結論です。 《思い込んでいる》のではいけませんが その場合にも《他者のコピーを取り込む》ときにそこにとにもかくにもおのれの意志があると 見なすかたちでにせよ 思ったならよいであろうとわたしは見ます。夢遊病者でいたのではいけません。そうでなく おれはまだ発展途上にあるがいまはこの《コピー》でしのぐだと思っていたとすれば じゅうぶん見上げたものです。これを 人にも言葉で説明しうるほどであるなら コミュニケーションは断たれていません。 ですから この《仮りに仮面をかぶってのかたちにおいてでもその自己表現をしうる》というのであれば だいじょうぶだと考えます。 ★ あらゆるものを吐き出した「カオナシ」は、自身のアイデンティティの拠り所が、「もの」ではなく、外部(全体)との「つながり」の内部にあることを見出す。ゼニーバ(銭婆婆)との共同作業の中に「カオナシ」は自身の居場所を自ずから知る(というより感じ取る)のである。。。 ☆ これでひとまづよいでしょう。さらにそこからは 情況をさらによく把握し 自分はどういう位置にあって その場所はおのれにとってふさわしいのかどうか 自分はさらになお何を望むか こういったことについて考えていくなら よいでしょう。 《のっぺらぼう》史観という場合は その《人間以前の状態》にあっても 言葉はじつはさえづっているのです。むしろおしゃべりです。ただし仮面も素面もありません。たぶん何らかの――生きることについての・あるいは要するに生活についての――思い込みはあるでしょう。好き嫌いと言ってもいいと思います。
- kusirosi
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・日本人は 人間にはならないのでしょうか 日本人は人間ですφ(.. ) zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz
お礼
くしろしさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですか。そうでしょうね。潜在性としてと言いましょうか。 ただ 生まれたまま育って そのままで人間になったと言えるかどうかも 問われることがあります。 いづれにしましても 趣旨説明を読んでみて 考えてください。 もし岩井克人らの見解に異議があるのでしたら それとしてひととおりの議論において示すようにしてください。 もしそういうことが出来ないようでしたら それこそまだ人間になっていないと言われかねませんよ。どうですか?
お礼
ひゃあああああっ。われよりラディカルが現われたあああああ。 キューさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 変な言い方をすれば キューさんは もっと穏健で中庸に満ちた内容を述べるのをつねとしていたのではなかったか。 まいりました。また 独創的ですね。かんたんに分かるようにしかも鋭く説明した文章だと思いました。 そうかも知れないが そのままではまづい。ひらかなきゃと思っている人間です。 きょうは朝から数本の応答を書いてきました。ひとつ前のジネンさんにはまだ返答していません。 ので 腹も空きましたし おゆるしを得て休憩です。 くわしくはまた書きます。 そう言えば 顔を見なかったなぁ。
補足
お礼欄につづいてあらためて 読み取ってまいります。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ 人間になる大前提とは 自分の中に「自分に先行する絶対的な何か」があることです。 多くの日本人には「自分よりも大切な何か」と言った方が分かりやすいかも知れません。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こういう切り口は 気づきそうなもののこれまでまだそういう議論に会ったことがありません。あるいは この切り口で《コミュニケーションの成否》を論じるところへつなぐ議論には会っていません。 まぁ簡単に言ってしまえば 《絶対》の問題 ないし《神》という主題なんでしょうが すべてが相対世界の中だけで動いているという世界にあるということなんでしょうね。つまり 相対世界であること自体の認識もないまま なのだと思います。しかもややもすると――つまり時には 外の世界との接触や交流でいざこざが起きたりすると―― この内向きのおらが世界が 絶対的な宇宙だということになる。こういうことなのでしょう。 ★ 「自分よりも大切な何か」 ☆ これは 親子の絆 あるいは 愛し合う二人というのが 昔からの相場なのですが 何とも この側面ではいやに 《合理的》になってしまったのでしょうか? だれもがそうでしょうが 自分がかわいいということであり それに終わってしまう場合が多いのかも知れません。 ★ 「自分よりも大切な何か」がなければ即ち自己完結していますので / 世界を相手に言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ必要がありません。 ☆ まことにそのとおりだと思います。ですからたとえば あの拉致被害者の身内の方々は この《内向き世界の自己完結》が解けて世界が開けたわけなのだと思います。決して個人の気持ちのみで発言をしているわけではないと考えられます。国家といった立ち場についても受けとめその国際関係という場を踏まえて発言するようになっていると思います。 そうたやすくいい手立ては見つかりませんが 見つからないのですが それでもこれらの人びとは 何とかして何らかのかたちで《言葉をとおして 異なる考えを持つ人びとと話し合いを持とうと 文字どおりコミュニケ―ションを図ろう》と努めています。そういうことではないかと考えます。 つまり決して鎖国は絶対的なものではなく 容易に解けることもあり得る。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 人間にはなりません、といういうよりも 人間になる絶対的な必要性がありません。 必要なときだけなればイイというぐらいの態度です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というかたちでさえも光が見えていると言っていいのではないでしょうか。 そりゃあそうでしょう。人間に 亜種があるわけではなく 出来そこないの存在があるとは言えないでしょう。世界において 必要なかぎりで意思疎通がおこなわれているのであれば 日本人もこれに参加するのは ふつうのことであるでしょう。オリンピックみたいなものかも知れません。 ふむふむ。この回答内容がきっかけになって 幅広い情報交換――哲学としての議論のことですが――がここですすめられるとよいと思います。ぜひとも世界を相手にして行って欲しいという願いでいっぱいです。