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日本人は人間にならないのか
- 日本人には人間としてのコミュニケーション意図が欠如しているという見解がある。
- 日本人が偽善を嫌うことは、世界的なコミュニケーション拒否の反映である。
- コミュニケーションの意図を持たない人間は、人間以前の存在であると言われる。
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7か月ぶりのOK Waveです。 日本人は人間にはなりません。 人間になる大前提がないか 個々には前提があったとしてもその前提を日本人同士で共有できないからです。 人間になる大前提とは 自分の中に「自分に先行する絶対的な何か」があることです。 多くの日本人には「自分よりも大切な何か」と言った方が分かりやすいかも知れません。 「自分よりも大切な何か」がなければ即ち自己完結していますので 世界を相手に言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ必要がありません。 人間にはなりません、といういうよりも 人間になる絶対的な必要性がありません。 必要なときだけなればイイというぐらいの態度です。 他の回答や過去のQ&Aは読んでいません。
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bragelonneさんは「自分は人間である」と仰います。 ただし人間でないモノに接して自分がそれに同化してしまいそうになると 自分の人間性を守るために隠すことがあるそうです。 krya1998さんは「自分は人間ではない」と仰います。 なので自分を無くし神に占領されることで人間になるそうです。 bragelonneさんは「人は人間として生まれるのだ」と仰いますが krya1998さんは「人は人間に生まれない、人間になるのだ」と仰います。 私には以上のように見えています。 だから話が根本的に噛み合っていないとも。 柄谷が「日本人が《偽善》を嫌う」というのは 日本人は「人間は真善者ではない」ことを受け入れる意思がない それは「人間は真善者ではない」ことを前提とする世界宗教を 理解しようとする気がないことの裏返しで 理解しようとする気がない=コミュニケーションの意思がない=のっぺらぼう ということでしょうか。 柄谷が「日本人が《偽善》を嫌う」というとき 私は「そうでない人も日本にはいるが(bragelonneさんとか) そういう人は日本人じゃないのか」と思います。 でも、柄谷はそういう人たちを例外として扱うのでしょう。 日本人というのは柄谷の主張に該当する人たちのことですね。 冗談を交えてよければ 偽善の自覚がない日本人は井の中の蛙であることに気づいてない鈍感者か 井の中の蛙であることを認めようとしない馬鹿者である と言われているような気がしてきました。
お礼
3-3. ★ krya1998さんは「自分は人間ではない」と仰います。 / なので自分を無くし神に占領されることで人間になるそうです。 ☆ 余計なことでしょうが 何ごとも《自分を無くす》ことでは 解決出来ない。こう思いますが これには 例外はないと考えます。《無私・その精神》と言ったりしますが これは前もってそういう計らいにおいて努めるならば おかしなことになると考えます。覚えず無私の状態になっていたということは ありうるでしょうが。そしてただ そういう場合のみの話だと考えます。 3-4. ★ 「人は人間に生まれない、人間になるのだ」 ☆ これは意味が取れない。《〈人間になる〉ことを潜在性として持つ生物が生まれる》というのであれば それをも含めて 《人間に生まれる。つまり人間としての自然本性を持って生まれる》つまり ★ 「人は人間として生まれるのだ」 ☆ としか考えられない。潜在能力として見るかどうかだと思います。 3-5. ★ 柄谷が「日本人が《偽善》を嫌う」という ☆ のは もっと単純ではないか。つまり柄谷がどう見ているかではなく 日本人一般がどう見ているかです。つまり単純に 《ウソを嫌う。ウラに仕掛けがあることを嫌う。下心を嫌う。商売のために心をつくろうことを嫌う》など。つまり コミュニケーション論とは 話がかみ合っていないのではないか。それを問い求めるべき主題のための出汁にしたのは わたしですが。 3-6. ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 冗談を交えてよければ 偽善の自覚がない日本人は井の中の蛙であることに気づいてない鈍感者か 井の中の蛙であることを認めようとしない馬鹿者である と言われているような気がしてきました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この《偽善》は ですからコミュニケーション論における§1の《対話意志を表わすため 相手の話にまづは合わせる愛想》のことです。 つまりは 日本人どうしでは この愛想のことで何ら問題はない。さすれば 異人とのあいだではどうか。 いえ 日本人どうしの間でも 異人の提出する主題をめぐる場合には 対話がはたらかなくなります。絶対や神という主題です。 § 4. 要するに 《キリストは邪宗なり。もしくは 外道なり》 というひとことで済まそうとするエラーが起きます。起きつづけています。 つまり みづからすすんで井の中にひきこもって行きます。 ブッダも 神道から見れば 外道なんですけれどねぇ。たぶん 自分たちの都合のよいように仕立て直したのでしょう。だから――それでは 何の解決にもなっていないのですが―― 居心地はそれほど悪くはないと言っていられるのでしょう。 キリストは 仕立て直しも する人がいるにはいますが そのような亜流はただの道徳規範であり わざわざ聖書を持ってこなくても それなりに儒教や仏教で間に合うはずです。つまり キリストは――その亜流としての神学や西欧哲学にしても 亜流であるかぎり大したものではなく しかも―― 仕立て直しは利かないわ 仏教が組み込まれたようには日本教の中にも入り込ませることもむつかしいわで 手に負えないといったところです。(マルクス主義ないし共産党さえ 或る種の仕方で組み込まれています。日本教というレヰ゛アタン)。 むろん欧米でも 個人の信仰としてではなく 組織仕立ての宗教は そのこと自体がすでに 亜流となってしまっています。この情況から日本人は やはり邪宗であり外道だとかんたんに結論づける人もいるようです。この結論を持って 今度はその人たちがあたかも攻守を変えて原理主義者のごとくになって キリストを目の敵にして攻撃しています。つまり 聞く耳を持ちません。 そんなこんなで とにもかくにも 異人・異者との対話が 不全に落ち入っています。愛想は 日本人は得意だと思うのですが 例外があるようなのです。たぶん クリアさんは この例外視を間違っていないと考える人びとの代表のひとりなのでしょう。 ほかにもっと大きな主題が潜んでいると思っていたのですが いまはここまでです。
補足
キュウさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 このご主張には 主題がいくつか それも大きなものが 含まれています。解きほぐす必要がありそうです。 § 1. 《偽善》をどう捉えるか――まづ対話において 相手の考えに賛成であろうと反対であろうと まづは出会いとしては(その挨拶ことばとしては) 相手が自分と同じ人間であるというその大前提を確認するという意味で 〔その考えを〕受け容れる。 つまり じつは 相手がどうも感じがよくないと思っているのだが それでも その本心をそのまま表わすのではなく わたしは善意の人間ですよと伝えるところの善を いつわってでも つくろう。 さらには 善意の人間ですよと言うだけではなく 対話に入るなら 賛成・反対の別なく 互いにその言おうとするところを 筋道立てて伝えあい理解し合おうとつとめる。 だからたとえば 見解の相違に合意したところで 一たん対話を打ち切る。 というように 話をすすめることをつねとする。 * 倫理一般の主題については ここで触れようとしていない。 § 2. 《原罪》観は イエス出現までのいっときの悪夢 ★ 「人間は真善者ではない」ことを前提とする世界宗教 ☆ というように 《人間は罪深い存在だ》というあやまった理解―― 一面での理解――が問題となっているようだ。わたしの見解は 【Q:われわれは原罪を犯せしや?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5059303.html を経て いまでは――イエスのあとでは―― その話題はチャラになっている です。《イエスのあとでは》というのは 歴史の初め・最初のじんるいの時からという意味です。さかのぼって そういう効果が現われたという意味です。イエスをどうでもよいと捉えるときは もともと原罪観はなかったことになっているし それでかまわない。 《自然本性》としては 記憶と知解の能力のほかに 特に意志が 自由意志としてそなわっている。ので この意志による自由な選択をとおして おのれの心に従うことも逆らうこともありうる。一般に心にやましさやむなしさが感じられる場合というのは 心に逆らっており それは 存在(=生命存在)が善であるという意味では 善ではない。負の善という意味で 悪と呼ぶ。 人間の愛は おのれの存在の同一性にとどまることである。その意志と意志を生かす知恵でありその実践である。この愛は 正負の善を全体として捉えて 判断をくだす。意志が愛であり 愛が意志である。 ここに 《原罪》は無用である。《人は罪深い存在だ》は 負の善としての悪が強いと感じられたときに そのことを強調して表現したものであるに過ぎない。 だから ここで言う《世界宗教》の・コミュニケーションにおける特徴は §1の偽善を言っている。そして それのみである。性善説・性悪説その他その他の主題は かかわらない。 §1の偽善は けっきょく愛嬌や愛想のようなものだ。むしろやはり単純に 善意ということだ。 § 3. この質問に沿って 3-1. 問いの発端 は 《われは人間なり》あるいは《われは人間にあらず》といったふうに命題を最初に置くところにはない。 どうもわたしの身の回りには §1の内容を満たしていないと思われるような・コミュニケーション不全症候群が見られる。ゆえに どうしたものか。あっ そうだ。だれかが《人間以前》という言い方をしていた。これを出汁にして 問うてみよう。これのみ。 3-2. ★ 人間でないモノに接して自分がそれに同化してしまいそうになると / 自分の人間性を守るために隠すことがあるそうです。 ☆ これは そう見えたかも知れないけれど わたしの心づもりとしては 違っています。 ○ 人間でない状態にある(つまり 人間以前の状態にある)人間に接して その接触関係が長くつづくと 《人間以前》がこちらにも状態として溜まってくる。ミラ―ニューロン現象。これを打開するのが 容易なわざではなくなる場合がある。 よほどのことでは こちらから門戸を閉めるというわざに出たことはなかったし そういう考えは持たなかったが そのように対話を絶つということが そのときにおいて 最も少なく悪いであろうと考えた。それは 共倒れを避けるためというのが 最大の事由である。また わたしよりほかの力量のある人が 対話の相手になるだろうと見越した。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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bragelonneさん、いろいろご親切にありがとう御座いました。 ガンディには様々なお話がありますね。真偽は結局分りませんが。 何を本当とするかは、そしてその事情などを理解する仕方は、結局受け取る側の問題でもありそうですね。 ネールについてもそりゃぁありますよ。様々な話が。全部を善意だけで信仰的に理解しようというのもむりでしょうね。お二人とも。 そのことは何事もそうなんではないでしょうか。 primeapeにももし機会がありましたら、このごろkrya1998とかいう奴、みなくなったな、とでも申し上げてください。
お礼
つぎ(No.41)のキュウさんとのやり取りを見てくださいませ。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
bragelonne さん ANo.37。無論私も親兄弟、友人達、ご近所さんや家族と、そして行き交う(年寄りになってからですが、)皆さんと親しく話し、心を通わしあっています。 私も拙い自分を曝け出して、お互いにリラックスしております。 はぃ、小学校低学年のある大人の心無い仕打ちは未だに心に傷跡が残ってはいます。 そのことを流し去るのは未だ時間を必要とします。 それにしても私が課題として向き合っているのは、優しい人に出会うこともそうですが、優しい人を受け入れ、自分を無くし、そのお方が私を占領しつくされることです。 神が占領した清らかな方は無論、ご自身もそういうかたであり、長年のご行為と生活で環境自体も決して逆風ではないでしょう。 そういう方は人に警戒や身構える必要はないでしょう。人に対してばかりではなく、全てに無警戒、警戒の必要がないでしょう。 そういう存在への歩きは私達の義務だと存じます。 そういう義務を課題として向き合っているという意味なんですよ。
お礼
ご投稿がつづきます。 かつて大学生のころ――ということは いまだこのわたしが出来上がっていなかったころ―― 友だちの一人が言いました。 ――ネールも(あるいは ひょっとして ガンディーでしたか) 非暴力 を掲げているけれども その実 持ち歩く杖には見えないように中に 剣を仕込んでいたよ。 と。この意味は こうです。 ――(意訳) おまえは底なしに明るい。わるく言えば脳天気だ。しかも 高校からの付き合いだが その底なしは どうもほんとうであるよう だ。 これは きわめてめづらしい。或る意味で見上げたものだ。学力は 学力だし 指導力を備えているやつもいる。おまえの場合は だれに でも心を開いて 誰とでも話ができるようだ。 だがな。まだ 分からん。どこかで人を嫌いどこかで人に対して警 戒をしているはずだ。計算しているとは思わないが どこかに 昔の 何かの事件を背負っていてそのために何かひとつ一途に心がけて来 たそういう結果なのではないか。 まだ 信用できん。おれはじーっとおまえを見守っている。 どこかに傷跡があり どこかで人を警戒しているはずだ。・・・ と。 これからあとは わたしは そうかそういうものか。なら警戒するという姿勢も大事なようだ。そうしよう。と一面では 心がけて来ました。それとは話として別のかたちで 三十歳ころ 背骨がとおりました。あとは 高度成長のころなどは特に わたしの話に人びとは耳を貸さなかったようです。
- heartmind
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どの辺がピンとこないのか分からないけど、ちょっと切り口を変えてみますね。 まず、自分の意志を決めないという立場というのは、より現実に近づきたい という気持ちからくるともとれるのではないでしょうか。 現実というのは、どう考察しても曖昧さが残って、人間が決めつけられない、 ものですよね。例えば雪の結晶の形には、ある法則性が導き出せるけど、厳密 にいえば一つとして同じものはないとも言えます。 曖昧なことを重要視するということは、現実をまるごと、認識したいというこ とにつながります。 しかし、こういう立場は決して非論理的とも非科学的とも言えないんじゃない かと思うのです。現実から理論が離れて独り歩きしてしまうことを避けること ができると思うのです。 事実が予想と外れたのならばいつでも仮説をひっこめる準備ができている、 これは重要なことですよね。 逆にイデオロギーをもって何かを信じてそれを死守することは、創造科学的 な考えで事実を捻じ曲げてしまう恐れがあります。 何も信じなくても、それが信じていることになる、ということになります。
お礼
あぁ そういう柔軟な姿勢を言っているということでしたか。 ハートマインドさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 つまり (1) すでに問い求める姿勢でいるということ。 そして おそらく別のやり取りでもあったように (2) 全体観に立つということ。 だから 言ってみれば (3) コミュニケーションを人格と人格とでおこなう。あるいは 境地と境地で 響き合うかたちを 細かい話に優先させる。 (4) そのあと 細かいところで詰めの作業をおこなうときには 必要なところで 言葉によって互いに確認しあう。 こういった絵柄を思い描いていますか? まづは 胸襟を開いて人を知る。人と人とで ぶつかり合うかのごとく互いに知り合う。 どうも こういう心のようですね。 あれもこれも どっちもあり。そしてそれらを全体としてまづは飲み込む。 ここに重心を置くのでなければ コミュニケーションと言ったって 大したことないよ。となるのだからと。 西郷と海舟だか知りませんけれど たしかに日本人的でもあります。 しかも ★★ (回答No.21) あんまり宗教とか、民族とか関係ない気がするけど、違うかな。 ☆ と言いたいのですね。斬新ですね。そういう見方に立って もののあはれ視点の普遍性を言おうとしているでしょうか。 (ふるい人間だと思われるといけませんが こういう意思疎通論は 女性はあまり言わないですよね。何だか初めて聞いたように思います。つまりあるいは 西郷と海舟との肝胆相照らすコミュニケーションの場面を 女性どうしとして思い描くことは 初めて気づきました。あぁ やっぱりふるい人間だったか)。 あるいは 男と女のコミュニケーションも まづは基礎において 人格どうしの交通関係としてあるという理論にもなります。 ということで 外国人との対話もそのようにまづはすすめられるのがよいでしょうね。 ★ 逆にイデオロギーをもって何かを信じてそれを死守することは、創造科学的な考えで事実を捻じ曲げてしまう恐れがあります。 ☆ ですから これら学問もイデオロギーも 理論も専門情報も みなおのれの境地の中にしまってあって その人格どうしの対話の中に 道具や材料として持ち出すということ。そういう話し合いの仕方をおこなうということ。 これでよろしいですか? ハートマインドさん。 * 局面が変わったかどうか。変わったとしたら おおきな仕事につながっていきます。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
自分では心を開いてきたと思ってきましたが、これは難しいことですね。 人を消すことをおぼえたのは、つらい試練でした。私は本当はまだその試練を超えられない。 これは自己を物質化してきた悲しいやり方です。 私はこの傷を、今もどうやって回復するかの課題に向き合っているのです。 あぁ#33だったかな?
お礼
だれかやさしいこころのひとが よきことばをかけてくれることでしょう。
- AXIS_
- ベストアンサー率12% (9/71)
今までの他の回答者さんとのやり取りを見ていて、質問者さんは、 ○とにかく他者とコミュニケーションをとりたくて仕方ない。 ○また、それだけでは飽き足らず、自分を認め、賞賛して欲しくてしょうがない。 このように感じました。どうなんでしょうか。そうだとすれば、それは今現在の環境で、寂しいからでしょう。自分のことだから解ると想いますが。
お礼
ご投稿をありがとう。 そうだと言って欲しいですか? ★ ○ とにかく他者とコミュニケーションをとりたくて仕方ない。 ☆ というよりも――わたしも 後ろに引きさがるということを言うためではありませんが―― 日本人の特に若い人たちが 世界に向けてコミュニケーションを発信していくようになって欲しいです。 ★ ○ また、それだけでは飽き足らず、自分を認め、賞賛して欲しくてしょうがない。 ☆ いや《飽き足らず》ということはありません。あたらしい発信が日本人から現われるならば 満足です。 そうさなぁ。多少は《褒めて欲しい》と思っているところがあるだろうか。 ★ そうだとすれば、それは今現在の環境で、寂しいからでしょう。 ☆ そうさなぁ。いまでは《さびしい》という状態もそれほど問題にならないって言っちゃあウソになるかなぁ。ならないと思うんだけれど。これからもういっぺん二十歳前後からの人生を始めるのではないかという予想をしているのだけれど こればっかりは分からない。 これでよかったかなぁ。
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
>何だかもったいぶっているだけのようにも感じますが? >何だか自分の値打ちを釣り上げているような雰囲気がありますね。 本当にこういう風に思われているのなら心外ですが、 まあ、しょうがないですね。 私は、質問者様が、「日本人の理解できない部分を理解したいという意図」 があってこの質問をしたと誤解していました。ですから、人類共通のという 言葉を使って共感できる部分を提示したつもりですが、もし、「批判したい」 ということだけが目的でしたら、まあ、そうですね、そういうところがある ことは認めているところですから(先の回答どうりです)反省しなければな りませんし、今後の課題でしょう。 となり、話は終わってしまいますが、それでいいんですか。
お礼
ハートマインドさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ☆☆(No.21お礼欄) あるいはもっと説明を受けなければならないかも分かりません。どうですか? ☆ これが真意です。論理をたどっていくと それまでに書いたようになりました。 ★ 私は、質問者様が、「日本人の理解できない部分を理解したいという意図」があってこの質問をした・・・ ☆ 焦点があるかたちで そういう方向性を同じくするというところでしょうか。 ☆☆ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~ ただしそうだとしても こののっぺらぼうは 果たしてどこから来るのか。何でそうなるのか。さっぱり見当がつきません。冗談を交えてよければ 《大衆》ゆえにという答えが出されるかも分かりません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これが焦点です。《理解できない部分》にこの《のっぺらぼう》は入ります。そういうかたちです。 そのときも 頭を一度休めたほうがよい状態にあったかも知れませんが いまも ごらんのように 朝から十数本返答を書いていますので あまり回らなくなっているかと思います。あしからず了承してやってください。 これから 休憩に入るところでした。 もう少し説明を伸ばしてくださるとありがたいです。
> これについては わたしは 黙していましょう。 ありがとうございます。 > 名古屋かいな。 どういう意味でしょう(笑 bragelonneさんは 自分が自分でない状態を人間性を失っている状態と仰っていますが bragelonneさんが普段、自分であるときは人間である、つまり bragelonneさんは人間である、ということですね。 次にbragelonneさんは日本人だと思いますが 日本人は人間でない(人間になれていない)と言うとき bragelonneさん個人と日本人の違いは何ですか? あるいは bragelonneさんは人間である、ということではなかったときに bragelonneさんが人間でないと喝破するkrya1998さんと bragelonneさんとの違いは何ですか? OKWaveに時間をとりすぎて 昨日から今日の午前中の予定がすっかり狂ってしまいました。。。 しばし失礼します。
お礼
つづいてです。 ★ ~~~~~~~~ > 名古屋かいな。 どういう意味でしょう(笑 ~~~~~~~~~~~ ☆ わたしのプロフィルを見れば分かります。あっ 県しか書いてないか。 ★(意訳) ~~~~~~~~~~~~~~ 《わたしがわたしである》・人間である・日本人である vs. 人間以前の状態・人間性を失っている・人間でない ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これらすべては 前者の概念群について 潜在性という見方で捉えてください。それが 顕在している状態もあるでしょうし 潜在のままだということは 後者の概念群が 状態としては現われているということだと考えます。 時間をたっぷり取って調整してくださいね。 おおいに助かりました。またのちに。
補足
おぎないます。 ☆☆ (お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~ ★(意訳) 《わたしがわたしである》・人間である・日本人である vs. 人間以前の状態・人間性を失っている・人間でない ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここで《日本人である》を《人間である》と同じ場所に置くのも変ですね。まちがいました。 《人間である日本人だ》とでも取ってください。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
私のことで不明なことがあるという、ご指摘なので以下に補足します。 【bragelonneさん、私も未だ二十歳に間がない頃の所謂る多感な折、コミュニケーションを断たなければ自己存立ができない思いに立ち至ったことがあります。】この部分は私の曽ってのつらい経験を申し上げています。そういう経験をしたという単なる枕です。 【しかしコミュニケーションを自ら断絶することは自殺と同じであり、人間や人生に対する何か誤解や理解の不十分があるのだと存じます。】この部分は私のその後の反省で、自分でコミュニケーションを断絶することは正しくもないし、自分の為にもならないと思った思い出をこの上の枕に続いて申し上げたに過ぎません。 【日本人について、宗教についてという事項に絡めてのご質問はそういう思いに立ち至る人への何か役立つといいと存じます。】この部分は、bragelonneさんのこのご質問が、日本人の宗教やコミュニケーションの展開に有益であることを願うという事です。 【人は誰しも謙虚さと忍耐強さがないと、若い頃の私のように、勝手に思い勝手に判断して断絶します。】私の判断では、私もそして多くの方も、謙虚さと忍耐強さがないとえてして勝手な誤解をしていって、自己を閉じようなどという結論を持つものでしょうという自分の考えを申し上げております。 【人は物質存在にしかなりません。】そうやって自己を閉じると人間であって、物質でしかない存在になりますよね、ということです。
お礼
投稿がつづきます。 ★ 自己を閉じようなどという結論 ☆ 果たして 開いたことはあったのでしょうか。 ★ 物質でしかない存在 ☆ ということは 人を消しても何も感じないということを言っているのでしょうか? そうなったんでしょうか? いまも そうなんでしょうか?
ANo.30のbragelonneさんのお礼に対する krya1998さんの返答も 第三者に向けて開かれたモノであることを期待します。 (普段使い平易な言葉で分かりやすく書いて欲しいです。) krya1998さんの目的は bragelonneの態度だったり思想性だったりを 転向させることですか? (思想のゴロツキの方も同じ話になってましたし。) Q&Aのルールを犯しているかも知れませんが ご賛同頂ければ幸いです。
お礼
これについては わたしは 黙していましょう。
お礼
ひゃあああああっ。われよりラディカルが現われたあああああ。 キューさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 変な言い方をすれば キューさんは もっと穏健で中庸に満ちた内容を述べるのをつねとしていたのではなかったか。 まいりました。また 独創的ですね。かんたんに分かるようにしかも鋭く説明した文章だと思いました。 そうかも知れないが そのままではまづい。ひらかなきゃと思っている人間です。 きょうは朝から数本の応答を書いてきました。ひとつ前のジネンさんにはまだ返答していません。 ので 腹も空きましたし おゆるしを得て休憩です。 くわしくはまた書きます。 そう言えば 顔を見なかったなぁ。
補足
お礼欄につづいてあらためて 読み取ってまいります。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ 人間になる大前提とは 自分の中に「自分に先行する絶対的な何か」があることです。 多くの日本人には「自分よりも大切な何か」と言った方が分かりやすいかも知れません。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こういう切り口は 気づきそうなもののこれまでまだそういう議論に会ったことがありません。あるいは この切り口で《コミュニケーションの成否》を論じるところへつなぐ議論には会っていません。 まぁ簡単に言ってしまえば 《絶対》の問題 ないし《神》という主題なんでしょうが すべてが相対世界の中だけで動いているという世界にあるということなんでしょうね。つまり 相対世界であること自体の認識もないまま なのだと思います。しかもややもすると――つまり時には 外の世界との接触や交流でいざこざが起きたりすると―― この内向きのおらが世界が 絶対的な宇宙だということになる。こういうことなのでしょう。 ★ 「自分よりも大切な何か」 ☆ これは 親子の絆 あるいは 愛し合う二人というのが 昔からの相場なのですが 何とも この側面ではいやに 《合理的》になってしまったのでしょうか? だれもがそうでしょうが 自分がかわいいということであり それに終わってしまう場合が多いのかも知れません。 ★ 「自分よりも大切な何か」がなければ即ち自己完結していますので / 世界を相手に言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ必要がありません。 ☆ まことにそのとおりだと思います。ですからたとえば あの拉致被害者の身内の方々は この《内向き世界の自己完結》が解けて世界が開けたわけなのだと思います。決して個人の気持ちのみで発言をしているわけではないと考えられます。国家といった立ち場についても受けとめその国際関係という場を踏まえて発言するようになっていると思います。 そうたやすくいい手立ては見つかりませんが 見つからないのですが それでもこれらの人びとは 何とかして何らかのかたちで《言葉をとおして 異なる考えを持つ人びとと話し合いを持とうと 文字どおりコミュニケ―ションを図ろう》と努めています。そういうことではないかと考えます。 つまり決して鎖国は絶対的なものではなく 容易に解けることもあり得る。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 人間にはなりません、といういうよりも 人間になる絶対的な必要性がありません。 必要なときだけなればイイというぐらいの態度です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というかたちでさえも光が見えていると言っていいのではないでしょうか。 そりゃあそうでしょう。人間に 亜種があるわけではなく 出来そこないの存在があるとは言えないでしょう。世界において 必要なかぎりで意思疎通がおこなわれているのであれば 日本人もこれに参加するのは ふつうのことであるでしょう。オリンピックみたいなものかも知れません。 ふむふむ。この回答内容がきっかけになって 幅広い情報交換――哲学としての議論のことですが――がここですすめられるとよいと思います。ぜひとも世界を相手にして行って欲しいという願いでいっぱいです。