• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:日本人は 人間にはならないのでしょうか)

日本人は人間にならないのか

このQ&Aのポイント
  • 日本人には人間としてのコミュニケーション意図が欠如しているという見解がある。
  • 日本人が偽善を嫌うことは、世界的なコミュニケーション拒否の反映である。
  • コミュニケーションの意図を持たない人間は、人間以前の存在であると言われる。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#155689
noname#155689
回答No.17

7か月ぶりのOK Waveです。 日本人は人間にはなりません。 人間になる大前提がないか 個々には前提があったとしてもその前提を日本人同士で共有できないからです。 人間になる大前提とは 自分の中に「自分に先行する絶対的な何か」があることです。 多くの日本人には「自分よりも大切な何か」と言った方が分かりやすいかも知れません。 「自分よりも大切な何か」がなければ即ち自己完結していますので 世界を相手に言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ必要がありません。 人間にはなりません、といういうよりも 人間になる絶対的な必要性がありません。 必要なときだけなればイイというぐらいの態度です。 他の回答や過去のQ&Aは読んでいません。

bragelonne
質問者

お礼

 ひゃあああああっ。われよりラディカルが現われたあああああ。  キューさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  変な言い方をすれば キューさんは もっと穏健で中庸に満ちた内容を述べるのをつねとしていたのではなかったか。  まいりました。また 独創的ですね。かんたんに分かるようにしかも鋭く説明した文章だと思いました。  そうかも知れないが そのままではまづい。ひらかなきゃと思っている人間です。  きょうは朝から数本の応答を書いてきました。ひとつ前のジネンさんにはまだ返答していません。  ので 腹も空きましたし おゆるしを得て休憩です。  くわしくはまた書きます。  そう言えば 顔を見なかったなぁ。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄につづいてあらためて 読み取ってまいります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  人間になる大前提とは  自分の中に「自分に先行する絶対的な何か」があることです。  多くの日本人には「自分よりも大切な何か」と言った方が分かりやすいかも知れません。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こういう切り口は 気づきそうなもののこれまでまだそういう議論に会ったことがありません。あるいは この切り口で《コミュニケーションの成否》を論じるところへつなぐ議論には会っていません。  まぁ簡単に言ってしまえば 《絶対》の問題 ないし《神》という主題なんでしょうが すべてが相対世界の中だけで動いているという世界にあるということなんでしょうね。つまり 相対世界であること自体の認識もないまま なのだと思います。しかもややもすると――つまり時には 外の世界との接触や交流でいざこざが起きたりすると―― この内向きのおらが世界が 絶対的な宇宙だということになる。こういうことなのでしょう。  ★ 「自分よりも大切な何か」  ☆ これは 親子の絆 あるいは 愛し合う二人というのが 昔からの相場なのですが 何とも この側面ではいやに 《合理的》になってしまったのでしょうか? だれもがそうでしょうが 自分がかわいいということであり それに終わってしまう場合が多いのかも知れません。  ★ 「自分よりも大切な何か」がなければ即ち自己完結していますので / 世界を相手に言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ必要がありません。  ☆ まことにそのとおりだと思います。ですからたとえば あの拉致被害者の身内の方々は この《内向き世界の自己完結》が解けて世界が開けたわけなのだと思います。決して個人の気持ちのみで発言をしているわけではないと考えられます。国家といった立ち場についても受けとめその国際関係という場を踏まえて発言するようになっていると思います。  そうたやすくいい手立ては見つかりませんが 見つからないのですが それでもこれらの人びとは 何とかして何らかのかたちで《言葉をとおして 異なる考えを持つ人びとと話し合いを持とうと 文字どおりコミュニケ―ションを図ろう》と努めています。そういうことではないかと考えます。  つまり決して鎖国は絶対的なものではなく 容易に解けることもあり得る。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  人間にはなりません、といういうよりも  人間になる絶対的な必要性がありません。  必要なときだけなればイイというぐらいの態度です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というかたちでさえも光が見えていると言っていいのではないでしょうか。  そりゃあそうでしょう。人間に 亜種があるわけではなく 出来そこないの存在があるとは言えないでしょう。世界において 必要なかぎりで意思疎通がおこなわれているのであれば 日本人もこれに参加するのは ふつうのことであるでしょう。オリンピックみたいなものかも知れません。  ふむふむ。この回答内容がきっかけになって 幅広い情報交換――哲学としての議論のことですが――がここですすめられるとよいと思います。ぜひとも世界を相手にして行って欲しいという願いでいっぱいです。

その他の回答 (59)

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.20

どっちでもいいは、案外どっちでもよくないんです。 ちょっとゆずれない、頑なな「どっちでもいい」なんですね。 分かりやすく言うと、 「いつだってプライドを捨ててやるというプライド」 みたいなもので、これってたぶんですけど、日本人だけじゃなくて 人類共通のもつ、人間的なコアな部分の「やせがまん」じゃないで しょうか。 あんまり宗教とか、民族とか関係ない気がするけど、違うかな。 ただ、これを「欺瞞利用」とか「逃げ口実」に使わない様に気を つけなければいけないのは言うまでもありませんが。

bragelonne
質問者

お礼

 ハートマインドさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ふうむ。今回はわかりづらいです。  ★★ (回答No.16) ~~~~~~~~~  全ては、「あいまいさ」の重要視からきていると思います。  「いいきれないもの」を重要に感じているのです。  ですから別に、ご要望とあれば「いいきっちゃって」もいいのです。  どっちでもいいのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この中の  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《どっちでもいい》は、案外どっちでもよくないんです。  ちょっとゆずれない、頑なな「どっちでもいい」なんですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううーむ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  分かりやすく言うと、   「いつだってプライドを捨ててやるというプライド」  みたいなもので、これってたぶんですけど、日本人だけじゃなくて  人類共通のもつ、人間的なコアな部分の「やせがまん」じゃないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どちらか一つに決めることなかれ でしょうか?   どっちにしろ 一つに決めてはならない。  つねに《どっちでもいい》と言いつつ 二つの可能性を保っている。  プライドを捨ててやると言いつつ 捨てることなく かと言ってそのプライドに固執することもない。  ★ あんまり宗教とか、民族とか関係ない気がするけど、違うかな。  ☆ そうなると どうなのかなぁ。  そうなると どうもこういう解釈になるのかなぁ。  ○ コミュニケーションをしてやってもよいが コミュニケーションが世界と人間にとってのすべてではない。コミュニケーションを推奨することで 鬼を首を取ったように響く言葉づかいをするのはよせ。  ○ このプライドは たしかに固執しようとして言っているのではない。いつでも捨ててもよいと思っている。思っているが ぢゃあ捨ててやろうというようなしろものでもないんだ。そこのところを分かってくれないと 人間とその世界というものは 始まらないんぢゃないかなぁ。  ☆ こうとると どうも次の指摘に合ってしまうかも知れません。卑屈気味ですから。  ★ ただ、これを「欺瞞利用」とか「逃げ口実」に使わない様に気をつけなければいけないのは言うまでもありませんが。  ☆ ううむ。どうなんですかねぇ。  何だかもったいぶっているだけのようにも感じますが?   何だか自分の値打ちを釣り上げているような雰囲気がありますね。  あるいはもっと説明を受けなければならないかも分かりません。どうですか?

  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.19

> ただし どうなんだかなぁ。すべて推理推測の上に立てた議論の城ですからね。  洞察しているつもりでいるのだが、わからないようですね。 > 基本的には もし運がよければそれぞれ本人の方たちが相手をしてくれることでしょう。  ヒロシ君とオコリザルはまだ出てきてないみたいですね。 > きわめて一般論ではありますが ひとは逆境ゆえに人格が磨かれることもあれば 順境ゆえにうんぬんというその反対の場合もあります。  例えば、一卵性双生児で、全く同じ環境に育っても、少しづつ違いが出てくるのは、やはりそれぞれに違った環境が少しづつあるからでしょう。  逆境であれ、順境であれ、環境によって左右されることは普遍的なことでしょう。それぞれの環境がそれぞれ個人にどのように現れるかは複雑です。 >その境遇なり環境なりによって決まってどうなるこうなるとは 言えないでしょうね。  環境によって100%決まる、と言えます。あるいは精神的な側面まで考えると「半分」は影響してきます。と言えます。 >教育の有無やその実際の場からの影響も大きいと言われますが 決定的な理由に挙げることもぎゃくにどうかと考えます。  いえ、何かのぎゃくのケースとして決定的な例として挙げたわけではないので。 > ここに挙がったお二人とも コミュニケーションはじゅうぶん取れています。問題にするのが おかしいでしょう。  そう思うのは勝手ですが、それぞれがそれぞれの思惑に従って言いたいことを言っているように見えますが、、、。 >繰り返すなら 推理推測のあり方が そうではない内容もじゅうぶんあり得るのに 自分のひとつのアイディアにのみこだわっている。これゆえです。どうでしょう。  いえ、挙げた例がすべての理由であるとは言っていません。こだわりと言うより、今まで質問者さんと例の回答者さんたちのやり取りを見て、「今回はこういうことだろう。」と判断したわけです。  いずれにせよ、質問者さんが自分で「コミュニケーションが取れている」と考えているのは、勘違い・思い違いかも知れず、もう一度検討しなおし、考えてみてはどうでしょうか。コミュニケーションのとれないもの同士が、「お互いに言葉のやり取りをしている」という現実のみから、「コミュニケーションが取れている」と判断しているだけかもしれませんよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ふむ。アイディア・マスターことアクシスくんか。  この投稿に関するかぎり 特に争点はないようなのだが。  ★ コミュニケーションのとれないもの同士が、「お互いに言葉のやり取りをしている」という現実のみから、「コミュニケーションが取れている」と判断しているだけかもしれませんよ。  ☆ むろん そうかも知れないですよ。それで どうなのか。  これだけになったけれど あしからず。

noname#155689
noname#155689
回答No.18

追加。 死にたくないから生きているような日本人には 人間になるのはつらいと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 きびしいいい。  でもはっきりとネクラという言葉で表わして その状態を捉えたほうがよいかと思われます。それがまづ第一歩であるとさえ考えられます。  なぜ生きるのか? に対しては 《生まれて来たから。死にたくないから》という答えが いまでも多いように思います。  そうなんでしょうかねぇ。  龍馬たちのように行動しない人びとのあいだには 応援する人びとと関心のない人たちがいるんでしょうか。  どうなんですかねぇ。  考えるに どうも無関心は多くはなく それよりも行動する龍馬らやそれを応援する人びとをあざ笑う人たちが いるのでしょうか? どうせ世の中は変わらないのさ。変わってもまた同じように住みづらい世の中になるだけさと。そんなら いちいち掻きまわさずに じっとしていろと。――これらの声というのは 《死にたくないから生きている》の議論を積極的におまえらも飲んでおとなしくしていろ と言おうとしているのでしょうか? そういう元気はあるのでしょうか?  あぁ そういうかたちで 《人間になりたくない》とだだをこねているのでしょうか。  ということは そういう人たちも 《人間になるということ・言葉で意思疎通を図るということ》 これを知っているということにもなります。そうであるのかも知れません。  議論をバラ色のほうへ引っ張って来たでしょうか?

回答No.16

前回までは、 「コミュニケーションの意図を持たない【人】」→「【人間】ではない」→「のっぺらぼう」という推論過程のみに焦点をあてて回答していました。 で、その前段階(本音と建前)について、柄谷氏に関するものをリンクしておきます。 >>> http://mblog.excite.co.jp/user/melodylane/entry/detail/?id=9663727 「柄谷行人との対話」 / 浅田彰 ▼ 浅田 日本社会はホンネとタテマエの二重構造だというけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。 柄谷 偽善には、少なくとも向上心がある。しかし、人間はどうせこんなものだからと認めてしまったら、そこから否定的契機は出てこない。 ★「柄谷行人との対話」 / 浅田彰★ by gungnir0 (2010/01/13 0:00) <<< 最近、紙面を賑わしている「100歳以上の老人」問題は、日本人の持つ「偽善の無さ」が暴かれたと考えることができるかもしれません。 柄谷関連でも、たとえばNAM関連にて、本音と建前の問題は重要な要因になっていると思われます。

bragelonne
質問者

お礼

 じねんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 柄谷関連でも、たとえばNAM関連にて、本音と建前の問題は重要な要因になっていると思われます。  ☆ たしかに《偽善》ないし《〔コミュニケーションのために〕顔をつくる》の前段階には 《本音と建前》の主題があるようです。  まづ浅田発言は これだけでは何とも批評しがたいとは思います。  ◆ 浅田: 日本社会はホンネとタテマエの二重構造だというけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。  ☆ これは どうなんでしょうね。たぶん 非公式な私的な集まりやまじわりにおいては ホンネの言い合いになるでしょうし その仲間の中で或る程度においてボスがひとり決まっているでしょうから しばしばその音頭取りの発言(つまりその人間のホンネ)によって集団の意向が決まるとすれば 《ほとんどホンネ一重構造》であるのかも知れません。  ただし 公式な話し合いやら取り決めにおいては そう簡単に行くものではないと思います。たしかに一たん取り決めが成ったなら それは まづ《一重構造》という様相を呈するでしょう。けれどもそれが ホンネの一重なのかタテマエのそれか 必ずしもつねにはっきりと決まっているわけではないのではないでしょうか。  また どちらの一重構造に決まるとしても そのときにもなお確かに《ホンネ‐タテマエ》の互いに入り組む二重構造が尾を引いているのではないかとも考えます。たとえば派閥に分かれていたなら 一たんは決まった一重構造の結論に従ってまとまりを見せますが そう簡単に一重構造だと言いきってよいとは思えません。そうではないでしょうか?  で 問題は このホンネにしろタテマエにしろ つまりはそれらの二重構造にしろ そのように表現された何らかの意志というものが はっきりと言葉によって表わされているか? この主題です。  しばしばたとえば執行部一任という結論に決まる場合さえ珍しくありません。一重構造に一たん成ったと言えそうですが そのあと・もしくはその裏にうごめく事情はどうなっているか。これにも注意をして見守る必要があるということではないでしょうか。  そこにおいて 柄谷の言うように如何なるかたちのものにせよ 《偽善》を持ち出すことは 確かに二重構造を或る意味で活性化させるものとも考えられます。  ■ 柄谷: 偽善には、少なくとも向上心がある。しかし、人間はどうせこんなものだからと認めてしまったら、そこから否定的契機は出てこない。  ☆ いわゆる理念を この偽善は表わそうとするものと思います。そのままタテマエを担うとも見られますし あるいは《ホンネ‐タテマエ》の入り組み構造のほかにさらに何らかの看板(旗印)のごとく掲げるという場合もあるのでしょう。そうして 柄谷の言おうとしていることは これなら(理念を表わそうとする偽善としてなら) 言葉によって伝えようとする意図があるし 内向きではないであろうということだと思います。  言いかえると 日本人の場合には コミュニケーションをとろうとすると 偽善の様相を帯びるということなのでしょうか? ホンネでは 異なる考えの持ち主とのあいだに意見を交換するという意図もかたちもまづあり得ないということなのでしょうか? タテマエにしても 同じなのでしょうか?  分かりませんが こうやって考えて来ると 案外このような《前段階》での準備的な思惟において じつはすでに 何ともそのハラが必ずしも決まっていないままの《のっぺらぼう》という姿も見え隠れしている。ということかも知れなくなりました。  ★☆ 〔ホンネとタテマエをめぐる攻防 // そこに偽善ないし理念を容れるかどうかの思案〕→「コミュニケーションの意図を持たない【人】」→「【人間】ではない」→「のっぺらぼう」という推論過程  ☆ つまりこの最初の段階で ややもすればすでに《のっぺらぼう=顔無し》になっているのではないか?  ★ 柄谷関連・たとえば NAM 関連  ☆ について じつはわたしは詳しくありません。初期の作品は読んでいますが その後ほとんど読んでいません。その評価は 実際に言って 何とも定まりません。ひと言で言えと言われれば 定まらないということは 魅力がないということです。断定するわけではありませんが 誰かから魅力をおしえてもらわないと読もうという気が起きません。正直なところです。  ★ 最近、紙面を賑わしている「100歳以上の老人」問題は、日本人の持つ「偽善の無さ」が暴かれたと考えることができるかもしれません。  ☆ たしかに《偽善》という切り口で迫ることが出来るかも知れません。と思いますというところが いまは精一杯です。どうでしょう。

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.15

全ては、「あいまいさ」の重要視からきていると思います。 「いいきれないもの」を重要に感じているのです。 ですから別に、ご要望とあれば「いいきっちゃって」もいいのです。 どっちでもいいのです。 ですから、そういうアイデンティティをいい方に生かせばいいので あって、悪い方に作用しない様に心がければいいわけです。 だから、そんなに目くじらを立てるほど問題ないのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ハートマインドさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ですから別に、ご要望とあれば「いいきっちゃって」もいいのです。  ☆ これなら 納得! つまり ですから  ○ 言いきっちゃってください。必要な場合には 言いきること。これは大事だ。  ☆ という約束にしてくださいませ。ですから  ★ どっちでもいいのです。  ☆ では困ります。困るときがあります。  つまりもっと要望を持って目くぢらを立てるとしますと  ★ 「いいきれないもの」を重要に感じているのです。  ☆ であれば それは それこそ《あいまい》を超えた曖昧さの美学ですから  ○ 《言いきれないもの》についても――それが表象し得ないもの(つまり 神)ではないのであれば―― 何とか意識的にわざとでも表現を見つけるように努めそれを工夫して言葉に表わしてください。特には 気が進まないかも知れませんが 欧米のおっちゃんおばちゃん おにいちゃんおねえちゃんたちに あるいはもうひとつ イスラームの人びとに向けて 表現を伸ばして行っていただきたい。  ☆ 中国・韓国などは 欧米向けの説明が功を奏せば それによってうんと楽に話ができるようになると思います。  ★ ですから、そういうアイデンティティをいい方に生かせばいいのであって、  ☆ というときのアイデンティティがもし従来からの日本社会の中でのみ捉えられたそれであるとすれば もうひと回り大きく(あるいは 一皮剥けたかたちになって)世界社会における日本人としてのアイデンティティを築き上げていただきたい。  昔からそうでしたが 何とも《内向き》であるように感じます。老爺の苦言です。

回答No.14

No.2 & 11です 自由意志との絡みについては、 http://okwave.jp/qa/q6072270.html のNo.24に、私の見解を記しておきました。

bragelonne
質問者

お礼

 11. そのように考えてくるなら じねんさんには是非 次の質問に示した仮説についてご自分の見解を明らかにすべきお立ち場だとお伝えしますが 強引でしょうか?    【Q:神とは何か?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6057191.html  ☆ まるまる我が田に水を引きっぱなしですが この主題については そういう問題をはらみそういう問い求めの段階にある。こう考えての問い掛けです。  はっきり申して じねんさんは 寄り道をしておいでになっています。(道草の効用を知らないわけではありません)。たぶん 自然科学での勘違いの可能性を残してあとは ここに述べたことは おおむね妥当な方向であると考えますが いかがでしょうか。

bragelonne
質問者

補足

 じねんさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。あなたとの対話は久しぶりなのですが その間 大きな収穫があったと 自負しつつ ご報告いたしましょう。  【Q:信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6010202.html  ☆ 19件の質疑応答ですが 中で オウケイさんとのやり取りで わたしの提起する《非思考の場》――または 心の明けもしくは伸び――に対して かれは それに対応する《脳内活動》があるだろうという提起をしています。わたしはてんで知らないのですが――そう言えば ちょうどあなたに《量子脳理論》のことをおしえてもらったことがありましたが―― 要するに 哲学では 《エポケー》にあたるような瞬間が脳内においてもどうはたらいているかを知ることになるのではないかと考えます。あるいは あたかも人間の存在過程において《特異点》が成り立ったかの一瞬 これのことです。たぶん じねんさんには その方面の専門的なこととしても 方向性としてご関心がおありではないかと考えます。  ところで  ★ 前野氏の受動意識仮説 およびその関連実験の結果  ☆ これもいちどおそわった記憶がありますが これについては いまもわたしの反応は かんばしい結果ではありません。  1. 意志行為に関して 右手を動かすかどうかという主題は 意味がないのではないか。  2. たとえ思弁的なことがらであっても 生活の中でどう考え結論としてどう行動すると考えるか こういった人間の自己表現としての意思決定に沿ったことでないと 何とも言えないのではないか。  3. あるいはこれは そのまま受け取るなら 意志による判断つまりその決定作業が 意識にのぼっていない前から 脳内活動として起きている。と言うのでしょう? それを無意識と呼ぶというのでしょう? 呼んでもいいでしょうけれど それも 意志行為ですよ。  4. あるいは 記憶および知解の両行為とも合わせて 人格としての自己表現の動きです。それぞれその一端を担い 同じことですべてがそれぞれ一環を成しています。ことさら《無意識》の部分を取り立ててもしょうがありません。  5. わが意識が感知あるいは関知していない部分だからと言って なぜその部分だけを取り立てるのでしょう? 意識に わが意志行為にとっての優越的な地位を与えようとすることが たぶん おろかなことであるのと同じように 無意識の部分にぎゃくに優位性を付与するというのも おそらく いただけないことではないでしょうか?  6. 要するに 《わたし》は《わたし》という人格の全体で 世界にあって自己表現し他者と交通しあって 生きています。なぜ部分を拡大しようとするのでしょう?  7. したがって 部分として取り上げるなら 《非思考の場》なのです。部分であるのでしょうが それは 先験的(超越論的)であるならそのことによって やはり人格の全体に対応していると考えられます。心の明けもしくは伸びを――つまり平たく言って その瞬間のひらめきを――或る種の仕方でひとは拠りどころとして みづからの表出や表現を得て生きて行く。  8. 無意識というのは この先験的な非思考の場のあとの経験的な意志行為の中の一環です。しかも 非思考の場という仮説によれば つまりそれがいわゆる信仰なのですが この信仰は いわゆる有神論のほかに それと同等の信仰として無神論をも含むと見る仮説です。  9. もし無意識を取り立てるという場合には 経験思考――ただし 意識にのぼる前の段階をも含めた広い意味での思惟――に属すものなのに あたかもそれが神のごとくひとを行動に促したり制御したりしてみちびくという仮説の内容に成りがちである。これが 観念の神です。想像の産物としての神です。  コギトの神つまりいわゆる理性崇拝と同じ愚のあやまちです。経験世界のことがらを 非経験であるはずの神に仕立てている。  10. よって  ★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  心という概念で捉えられる現象は人の脳内のみならず、関連し繋がり合っている自然界そのものの営みであり、その営みは脳が消滅しても消え去ることはなく、自然界の中で受け継がれていく。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と明らかにされた命題は まだ何とも反応しがたい。《無意識》の取り立て過剰はないと思いますが まだ《非思考の場》をどう扱うかがはっきりしません。  

回答No.13

こんばんは、bragelonneさん。 うーん、ちょっとまえに新聞で目にしたお話がふと浮かぶ。 どんな話かって? 【社内の英語公用語化は“必然”なのか 本間正人氏×内田樹氏】 http://news.livedoor.com/article/detail/4901970/ http://www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?p=293 http://sankei.jp.msn.com/life/education/100427/edc1004272047001-n1.htm

bragelonne
質問者

お礼

 りとるきすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  だめ。今回の資料はだめ。いえ 資料そのものは だめではありません。この質問にとっては 答えをみちびくものではありません。  だって 英語を使うにしても けっきょく中身のある対話ができるかどうか これが問われているというわけですから。  英語の話者は 放っておいてもコミュニケーションを大事にしているかのごとく 誰とでもと言ってよいくらいに意思疎通を図る。まづはそうですね。ただし それでは自分の意思決定のことをほかの人の同じく意思決定とのあいだを取りはからって 言葉で伝えようとしているかどうか。組織の中の身分や権限の関係によってのみ話をしているのではないか。  といったうたがいがまだ残りますね。  日本では 社会や会社における成り行きにしたがって もうあまり物を言わない。その限りでコミュニケーションを図らない。  たとえばアメリカでは 権限や身分の関係にしたがってその職務上の話をしきりにおこなう。つまり物を言う。ただしこれが コミュニケーションを図っているとただちに言えるのだろうか。  さぁ どうですかねぇ。  * アメリカ人は その言葉による交通の能力において その外形として《人間になっている》。内側ではどうか。こういう問題ですかねぇ。(わたしは詳しく分かって言っているのではありません)。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄の《拒絶》は ちょっと言い過ぎたかも知れない。ごめんな。

回答No.12

#12 【《偽善》】   人間の宿命としての《偽善》については私としては痛感し理解しております。   存在し、しかも存在していてはいけない。   そこに誠実に対処し、そしてなおそこに自己を置いてはいけない。   永遠のさすらい、歩み先を行かなければ行けない。   生まれさせられ生き行かされる飛ぶ矢としての宿命的二重性という意味での付き纏う偽善です。   しかし日本人が嫌う《偽善》はそういうものではない。  しかしもっとも嫌うタームは世界宗教という語ですね。これは人間的欠落の部分の多い存在の用語でしょうね。嫌いです。

回答No.11

 【日本人が《偽善》を嫌うという話ですが】 という表現に異議を感じました。つまりここでの《偽善》という言語により意味する事に理解をもてないという事です。  【それは日本人の世界宗教性のなさということの裏返し】 ◆世界宗教という言葉に対して空虚さと虚構性を感じました。世界宗教があったら、これくらい罪悪はないと存じました。  【日本人が世界的な意味でコミュニケーションを拒否している】 ◆というフレーズで表示される内容に認識の隔絶を感じました。なんでそんなことをいうのかという意味です。  【人間は偽善者であるほかはない】 ◆それをしも敢えて偽善ということばで表現する生き方に疑念を持ちます。 【世界と言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ、・・・。そういう意図をもたない人間は ある意味で人間以前の存在なわけですね。】 ◆人間以前という言い方をする人の人間存在を私は寂しく存じます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【☆ 広い意味の上司に対してアース役となってのように下の者がこうむるストレス これが 問題でありいわば病原だとも考えていたのですが どうもこの篩も目が粗いと思い始めています。】 ◆そういうことで職場やいろんな人間関係は動いていかない、というのは私の46年間のサラリーマン生活です。  【《のっぺらぼう》と名づける事態(症候群)にあるのではないか。】 ◆私達は時として《のっぺらぼう》にならざるを得ない生き方を有史依頼して基底massが、それでは済まないし済まされては来ていないのが、自分自身であり、社会であると存じます。 但し、こういうふうに無機質的社会になり、誰しもlonely cloudとしてその群衆の中ですれ違うという存在、代替的存在同士になってきていることは確かです。一つの自己疎外でしょう。殊更にあたらしくない問題ですね。自己と(神が発したことばでない)ことばを持つことになった人間の宿命ですね。この超克には心情と真情という自己性の再度の実現的認識が必要で、bragelonneさんとともに私も自己の誠実性をもとめていきたい。  質問に対して意義性と関心をもてないのですが、乗りかかった舟を出るために一応、所感をまとめました。bragelonneさんのこういうsituation、構えの取り方に私は最大の批判と疑念を禁じえません(疑念という語で敢えて押さえました)。私も閑人です。しかし遊びをしない遊びにいます。神の遊びに翻弄されながら自己を生きていることを許されています。そんな私からの批判の投稿です。  二十代三十代のころの私であれば、もしかして自分の側の間違いだろうと分っていても、こういう友人を怒鳴りつけ、ぶん殴っていたと思います。今もそんな気持ちですがもうぶん殴らないで、そっと立ち去ります。

回答No.10

No.2です >>> 日本人であったり イラク人であったり アメリカ人であったりはするんだけれど 人間ではない。 <<< この文章を単純に捉えるなら、(いや、正確に読み下すなら)「人」(したがって○○人とは言える)と「人間」の違いを述べているということになろうかと思います。 ようするに、個として捉えられる(関係を排除した)「人」なのか、全体(ないし他者)との関係を伴う「人間」なのかでしょう。 したがって、 >>> コミュニケーションが成立し得ないような人間関係 <<< ではなく >>> コミュニケーションが成立し得ないような分断された人 <<< といった表現の方が適切でしょうし、そういった観点から言えば、「のっぺらぼう」といった概念は不適切かも知れません。

bragelonne
質問者

お礼

 じねんさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  わたしの解釈を先に――そしてそのことによって 一方的にといったかたちに見えてしまうかも知れませんが あしからずおゆるしを願って――述べてまいりますが:  ひとの自然本性は――つまりまづ基本的に 存在そのもの・そして能力として記憶や知解およびなかんづく意志 これらは―― 安易にその語を使ってしまいますが 善です。ただし 意志行為あるいはつまり自由意志 これによって人は その自然本性としての善(つまりたとえば おのれの心です)にさからって最終の判断を決め行動にも表わすことが起きます。顔をあからめたり心にやましさを感じたりする事柄をも自分の自己表現とすることが起きます。  したがってこのような生まれたままのという意味での自然の状態だけでは おそらくひとは人間にならないのだと考えます。  それは おそらく一度は誰でも 意志決定をしていると思います。知解をとおして合理的であろうとする具体的な意志を発揮するようにと促された経験を持つとは思います。いわゆる善悪の判断を促された経験をも持つはずです。――ただし 一度そうしたあとでは 慣性の法則よろしく 惰性で生きる場合もあり得ると考えられて来ます。  簡単な推理ですが おそらくこの生きることの慣れが のっぺらぼうという意思表示のあいまいさ(つまり 顔無し)を生んでいるのではないか。  取り敢えず これが いまのわたしにとってこの主題についての基本的な考えです。  このまま話をすすめてしまうわけですが この慣れとしての自然のままの生き方(あるいはつまり 生き方といった方針をむしろ無化する心情)が そののっぺらぼうのまま 社会的にひろがるとすれば それは だいたいにおいて同じ言葉を話す人びとという範囲であろうと考えます。つまり 民族です。  つまり のっぺらぼうという自然交通において生きる人びとも とうぜんのごとく 民族としてのヒトであります。日本人でありイラク人でありうんぬんです。  民族という社会の範囲が いわば壁になっていれば  ★ コミュニケーションが成立し得ないような分断された人  ☆ であります。  こうして考えて来て思ったのですが 問題のひとつとして  ○ 意思疎通を 慣性として成り立った生活における気持ちや心情のみで取り合うのではなく おのれの意志としての自己表現を確かに言葉を用いておこなう。この経験を 一度は誰れもが持ったのではないか。もしそうだとすれば なにゆえ そのあと惰性に落ち入り慣れとしての意思疎通をこれほども好きになってしまったのか?  ☆ まだにわか仕立てですが 今回のじねんさんの文章に接してこう考えるように促されました。よろしかったら あとを継いでください。わたしも考えます。

関連するQ&A