IDEA_MASTERのプロフィール
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- 登録日2010/06/09
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- アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めなかったか
アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めなかったか 古事記などが伝えるスサノヲとアマテラスの物語には われわれ現代人が人間を考えるための恰好の題材を提供していると考えます。そこで 表題の件で問います。質問者なりにあらすじをしるしますので ○ ほかの人びとはスサノヲを咎めてもアマテラス自身はそうしなかった。それは何故か。 について 見解を示してください。 スサノヲは イヅモで復活する前に タカマノハラの世界でアマテラスの《なぜわたしの領域にやって来たのか。それは領土を奪いにではないのか 》という疑いによって悩まされていた。かれは 理屈で弁明するよりは 非行・愚行を繰り返すという破廉恥な抵抗によって 自己の知恵の同一にとどまろうと欲した。その一つに。 アマテラスオホミカミが 忌服屋(いみはたや=清浄な機屋)に坐(ま) して 神御衣(かむみそ)を織らしめたまひし時 〔スサノヲが〕その服屋 の頂(むね)を穿ち 天の斑馬(ふちうま)を逆剥(さかは)ぎに剥ぎて堕 (おと)し入るる時に 天の服織女(はたおりめ)は見驚きて 梭(ひ)に 陰上(ほと)を衝きて死にき。(古事記) とさえ記されている。 もちろんスサノヲは 殺そうと思ってそうしたのではないであろう。だが あえてこのような事をも辞さなかった。 そこで これらの天つ罪と呼ばれる非行のあと 罰を受けて追放されたのだが しかもなおかつその上で イヅモ・スガの宮での復活を受け取ることになった。こうなると つまりあたかも神の国が生起して身は復活し ひとの歴史が前史から後史へ入ったとすると おそらくこの神の国は 過去へとさかのぼり 後史が前史をも覆う・つまり前史を完成させるということが 生起するのではないか。 それは こうだ。この世にあっては 神の国は地上の国と混同して互いに入り組んでいるのだ。地上の経験的で相対的な人間の愛が ちょうどその向きを変えられ回転せしめられてのように あの神なる愛につらなるという〔観想的な〕事態を見ることになるのではないか。なぜなら 《その皮を剥いだ馬を機屋の屋根を破ってその穴から落とし入れて その結果 服織り女たちは驚いてしまい ひとりは 梭(=杼=shuttle)にほとを衝いて死んでしまった》という経験の中のスサノヲの前史の心を すでに その後史の心がおおうと見られるから。ちょうど 王はその宮からわたしの声を聞かれ 王に叫ぶわたしの叫びがその耳に達しました。(旧約聖書詩篇18・6) とすでに言ってのように 前史の愛のなかに後史(または 王の本史)の愛がたしかに はたらいていたと見出されたかのように。あるいは 〔神の愛は〕処女の胎から あたかも閨(ねや)から出てきた花婿の ように 道をかける巨人のように躍り出た。 (旧約聖書詩篇 19・5;アウグスティヌス:告白 4・12〔19〕) というのが 事の真相であるのではないか。これによって機織り女が驚いたのでないなら それは 何故か。機織り女も 肉の眼によってではなく 心の内なる眼で なぞ(神の愛)を見たか。 この事件のあと 《ゆえにここにアマテラスオホミカミは見畏(かしこ)みて 天の石屋戸(いはやと)を開きて さし籠もりましき》。つまり その身を隠した。 もう一例を引こう。 スサノヲは アマテラスの疑惑を疑い返し やはり自己の知恵の同一にとどまろうとして この上の事件を起こす前に 次のような愚行をおこなったと記されている。 アマテラスオホミカミの営田(つくだ)の畔を離ち(境界を取り除き) その溝を埋め また その大嘗(おほにへ)を聞こしめす殿(アマテラス の神聖な御殿)に尿(くそ)まり散らしき。(古事記) これは いわゆる反体制の運動のようなのだが そのあと しかすれども アマテラスオホミカミは 咎めずて告りたまひしく ――尿(くそ)なすは 酔(ゑ)ひて吐き散らすとこそ 我(あ)が 汝弟(なせ)のミコト(=スサノヲ)は かく為(し)つらめ。ま た田の畔を離ち 溝を埋むるは 地(ところ)を惜(あたら)し (=土地が惜しい)とこそ 我が汝弟のミコトは かく為つらめ。 と詔(の)り直したまへ〔ども なほその悪しき態(わざ)は止まずて 転(うたて)ありき〕。(古事記 承前) 要するに アマテラスは なお疑惑を解かなかった。 * 疑惑を解かないけれども 咎めもしなかった。なぜか? 《疑うなら つまりそう考えるなら 我れあり。》と考えていたという答えをひとつ用意していますが いろんな解釈があると思われ みなさんの知恵を拝借したいところです。
- 日本人は 人間にはならないのでしょうか
日本人は 人間にはならないのでしょうか 《コミュニケーションする意図を持たない人は 人間以前である》と岩井克人が述べています。この見解をめぐってその主題の具体的な把握をおこないたい。これが 問いの内容であり ねらいです。 柄谷行人との討論で 岩井克人が 次のように発言しているところです。 ◆ (岩井) ~~~~~~~~~~ 日本人が《偽善》を嫌うという話ですが それは日本人の世界宗教性のなさということの裏返しなわけですが 同時に 日本人が世界的な意味でコミュニケーションを拒否していることの裏返しでもあるわけですね。 いま柄谷さんが 人間は偽善者であるほかはないと言われたんですが その場合の人間とは 世界と言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ人間という意味なんですね。そういう意図をもたない人間は ある意味で人間以前の存在なわけですね。もちろん 日本人であったり イラク人であったり アメリカ人であったりはするんだけれど 人間ではない。 (柄谷行人・岩井克人:『終りなき世界―90年代の論理』1990 p.131 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしとしては この――もしそうだとすれば――コミュニケーションが成立し得ないような人間関係においては とうぜんのごとく広く漠然とした意味での社会的な身分の上下関係(これをわたしは アマテラス‐スサノヲ連関関係と言っていますが)から来るのではないかと思っていました。思っていましたが どうもその分析手法からもこぼれ落ちる事例があるのではないかと思うようになりました。 どうやら別の問題点があるのではないか。要するに 広い意味の上司に対してアース役となってのように下の者がこうむるストレス これが 問題でありいわば病原だとも考えていたのですが どうもこの篩も目が粗いと思い始めています。 《大衆の原像》ということを思っているのですが それ自体は大した内容でもないとやはり思います。 問題は――ただの推測ですが―― 顔のない存在のごとくして自分の意志を決められず表示し得ずしたがって当然のごとく相手と意思の疎通が出来ないということ この《のっぺらぼう》と名づける事態(症候群)にあるのではないか。 ただしそうだとしても こののっぺらぼうは 果たしてどこから来るのか。何でそうなるのか。さっぱり見当がつきません。冗談を交えてよければ 《大衆》ゆえにという答えが出されるかも分かりません。 柄谷が《偽善》と言っていることについては 軽く漠然と《顔をつくる》――自分の貌をつくる――ことと採れば きわめてふつうのコミュニケーションすなわち社会的交通になるのだと考えます。 取り敢えず思ったことをそのまましるしました。 この問題に関心のある方は どこからでも自由に取り組んでみてください。わたしも考えるところがあれば 応答してまいります。どうでしょう。
- 私達は日本に住んでいますが、何を信じさせられて生きていると思いますか?
私達は日本に住んでいますが、何を信じさせられて生きていると思いますか?
- 世の中は屁理屈だらけでできているのでしょうか!?
世の中は屁理屈だらけでできているのでしょうか!? たとえば菜食主義についてです。 これに反論する菜食主義でも肉食主義でもないただの屁理屈主義は 「植物だって命だろう」もしくは 「外を一歩歩けば微生物からミミズまで殺している」 と言います。(だから間違っている、と) それに対する菜食主義者は何も言えなくなります。 この矛盾に対してはこのようなロジックが成立してしまいます。 そしてその理屈に対しての材料(攻撃)はえんえんと引き出しがあるのです。 こちらが質問をしているのに都合の悪いことに対しては「質問に応える義務はない」といいながら、後日、敵(反論者)にあれこれと質問をし(というよりは誘導質問なのですが)、無視されたりかわされたりすると「都合が悪いから逃げた」のだと言う始末。 うんざりしてまともな参加者はいなくなり、結局はトピックスごと乗っ取られます。 たとえば一斉に仲間を募り個人攻撃や人格攻撃、はたまた障害者への差別や人権侵害の発言もしています。 このような心理と、彼らのようなモラルハラスメントに対してはどのような「理屈」で答えればよいか、哲学的、理論的に何か高度な技術の助言をください。 (菜食主義、動物愛護をわかりやすい例にだしたのですが、菜食主義などに対するテーマに偏らず、あくまでも理屈対屁理屈、もしくは屁理屈対屁理屈の論法のヒントで、ということでお願いします)
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#127170
- 回答数11
- 世の中は屁理屈だらけでできているのでしょうか!?
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