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日本人は人間にならないのか
- 日本人には人間としてのコミュニケーション意図が欠如しているという見解がある。
- 日本人が偽善を嫌うことは、世界的なコミュニケーション拒否の反映である。
- コミュニケーションの意図を持たない人間は、人間以前の存在であると言われる。
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7か月ぶりのOK Waveです。 日本人は人間にはなりません。 人間になる大前提がないか 個々には前提があったとしてもその前提を日本人同士で共有できないからです。 人間になる大前提とは 自分の中に「自分に先行する絶対的な何か」があることです。 多くの日本人には「自分よりも大切な何か」と言った方が分かりやすいかも知れません。 「自分よりも大切な何か」がなければ即ち自己完結していますので 世界を相手に言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ必要がありません。 人間にはなりません、といういうよりも 人間になる絶対的な必要性がありません。 必要なときだけなればイイというぐらいの態度です。 他の回答や過去のQ&Aは読んでいません。
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> ○ 対話というものは 何が何でも 相手が続けて来ているのなら > その他方の相手は たとえ機械的にであっても 応対して続けなければならない。 > ☆ こういう命題をあなたは 突きつけているということですよね。 そういう命題を突きつけているのではなく 機械的にであっても対応し続けなければならないのか?という疑問を提出しています。 > こののっぺらぼうは 果たしてどこから来るのか。何でそうなるのか。 に対する私の回答が以下です。 > わたしがわたしでない状態になっても とにかく無視することはやめて > うんとかすんとかだけでも答えておけという考え方は 取らなかったという意味です。 まずはこの辺りまでを整理できればと思います。
お礼
つづいてです。 ★ 機械的にであっても対応し続けなければならないのか?という疑問を提出しています。 ☆ 分かりました。自分に不利なほうをえらんで解釈しがちですからね。それなら わたしの取っている方針とそう変わらない。 つぎは つぎも 読みとりにくいです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ > こののっぺらぼうは 果たしてどこから来るのか。何でそうなるのか。 に対する私の回答が以下です。 > わたしがわたしでない状態になっても とにかく無視することはやめて > うんとかすんとかだけでも答えておけという考え方は 取らなかったという意味です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 要するに何も答えないという考えを実践したことが 《のっぺらぼう》を生むということですか? そうかも知れないが――つまり 二次的に派生するかたちでは そうかも知れないが―― 基本的な起源は どうもそこにはないように思いますねぇ。なぜって 《何も答えないという考えを実践する》ことは あくまで応答としての判断であり措置であるからです。 いいかえると――強引になるでしょうが―― むしろ先にすでにのっぺらぼうの状態があって それに突き当たって《その相手を無視するという態度で応対せざるを得ない》という選択をするのですから。 でも 全体としては あるいは 事態の初めから終わりまでの全過程としては どちらがどうとかは言えないとは思います。そうは思いますが 公平な見方としてはそうなのでしょうが それでも言わなければならないことがあります。 たぶんこうすればよいではないかという提案を長くたゆまず続けていたという側が この無視するという方針に切り替えざるを得ないのであって もう一方の側は まったくの脳天気であるということも 当事者の一人としては言っておかねばならない言い分です。 残された記録を見れば ほとんど一目瞭然です。 だから おかしいのです。そのことが分からないわけがない。なのに こうやって しがみついてくる。ちなみに 反省しますという投稿内容のも見ましたか?
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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bragelonneさん、私も未だ二十歳に間がない頃の所謂る多感な折、コミュニケーションを断たなければ自己存立ができない思いに立ち至ったことがあります。 しかしコミュニケーションを自ら断絶することは自殺と同じであり、人間や人生に対する何か誤解や理解の不十分があるのだと存じます。 日本人について、宗教についてという事項に絡めてのご質問はそういう思いに立ち至る人への何か役立つといいと存じます。 人は誰しも謙虚さと忍耐強さがないと、若い頃の私のように、勝手に思い勝手に判断して断絶します。 これでは人は物質存在にしかなりません。 なお、CUE009さんのご付言に感謝を申し上げます。
お礼
ご投稿をもらいました。 ★(意訳) 若気の至り・謙虚さ・忍耐強さ・自分勝手・物質存在 ☆ こういう事柄を持ち出しても 議論は始まらない。 この質疑応答の場では 互いに他を批判することは 目的でもなければ しないものです。 質問の趣旨に沿って(それに対して) 回答者は自分の見解を述べるということ。これのみです。 わたしが批判していることは これが出来ないという場合に対してです。 三年も出来ない状態がつづくのならば そしてそれは 私的な雑談にしかならないと言っているわたしの考えを無視することになるのですから いづれかの時点で いくら続ける意志があるとしても その意志をとうとび答えるというのは 自分に対する侮辱にもなりますし 卑下にもなるという判断をとらなければならなくなる。このことは きわめてふつうのことであるしょう。 つまり わたしがわたしでなくなること・つまり魂の自殺をするということになります。 そういう自殺をえらぶことはしない。こうなります。 これだけのことです。 わたしは この文章を回答者が理解するとは思わない。三年の経験から言って 理解しても したとは言わない。 つまりこの文章は ほかのみなさんに向けてのみ書いています。 * 身を棄ててでも この回答者は 言葉をとおして自分の意志を伝えるというつとめをしない。その意味で人間にならない。人間以前の状態にあるひとと 何かを交わして何らかの意味があるとは思えない。と〔身を棄ててでも〕言っておきましょう。 * おそらくこの回答者は このわたしを消すということしか頭にはないことでしょう。はっきり言っておくのがよいでしょう。
繰り返しになろうが平行性が続こうが krya1998さんはコミュニケーションを続けようとしており のっぺらぼうになったのはbragelonne さんの方です。 bragelonneさんが内面でどうお考えであろうが 外から見ればそう見えます。 人間以前の相手にこれ以上深入りすると 自分まで人間性を失ってしまいそうだから コミュニケーションを絶った、ということはないですか?
お礼
つづいてです。 ★ bragelonneさんが内面でどうお考えであろうが / 外から見ればそう見えます。 ☆ 直前の返答に書いたとおり そのときそのつど最善の考えをえらんで行動しているわけですから その事態全体の観点に立って――事前においても もしそういうことが出来るのならば そういう見方をすることによって―― 何がまづかった かにがよかったといった分析を得ることが出来るでしょう。ですから その分析やそれにもとづく批判なり自分の反省なりがない時点では 悔いることはありませんし そういうご指摘に対しても 甘んじて受けるほかにすべはありません。 外から見てのっぺらぼうになったのは 応答をしないという方針を取ったわたしのほうであると見えても 仕方がありません。そういう局面でありそういう展開過程だというのみです。 ということは もっと簡単に問題を整理すると ○ 対話というものは 何が何でも 相手が続けて来ているのなら その他方の相手は たとえ機械的にであっても 応対して続けなければならない。 ☆ こういう命題をあなたは 突きつけているということですよね。 まぁ以前は そうでしたね わたしも。どのくらい前からでしょうか。ブロックをしたのは つい最近でした。相手の投稿を――むろん読んでいますが――無視したのは いつからだったか。今年初めころからか。いや もう覚えていません。この無視するという方針を取り始めてからは ひとつには けっきょくわたしはおのれの非力・無力を味わったし もともと認めていたのだけれどもあらためて認めたということがあります。だから 志を同じくする人で わたしよりも力量のある方が 対処してくれる。こう受け取らざるを得ないということもあります。 いまいろんな場合いろんな見方を考え連ねて来ましたが さらに簡単な受け取り方もあります。いま思い出しました。要するに相手は 同じことの繰り返しになるのをいやだと思わなくなったということは 要するにその愚をいさぎよしとしないわたしとの対話を――声をかけ続けているにもかかわらず―― 欲していないということ。これが 事由になるでしょう。そう見なさざるを得ないということです。 そのことによって 自分がのっぺらぼうになった・あるいは見えたとしても それは 二の次です。わたしがわたしであること・自己の知恵の同一にとどまること こちらのほうがもっと大事です。そうでなければ 相手に対してもはやわたしは説得するといったことなど 出来なくなるでしょう。自分が自分でなくなるわけですから。わたしがわたしでない状態になっても とにかく無視することはやめて うんとかすんとかだけでも答えておけという考え方は 取らなかったという意味です。 でもね。この方針で――このわたしの方針で・この弱い部分の丸出しのわたしの方針で―― これまでけっこううまく行っているのですよ。あるいは うまく行くという感触を得ているのです。そういう途中の段階で 何かそれ以上名案はないという理論をおしえられて どうするんだ? と迫られるのでなければ いま方針を変えるわけには行かない。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ 人間以前の相手にこれ以上深入りすると 自分まで人間性を失ってしまいそうだから コミュニケーションを絶った、ということはないですか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ まづ(1) 存在が存在であるかぎりで 《コミュニケーションを絶つ》ということはありません。存在に自然本性として備わっているものを棄てるということは 無理です。 (2) いまのように対話の過程にありながら それを断ち切る(無視する)という選択を迫られるという情況というのは すでに《自分まで人間性を失ってしま》っています。状態としてそうです。自然本性としてではなく それが落ち入る状態として局面として位相としてそうなり得ますし もうなっています。すでに《深入り》しているのです。そういう場合だということは 前提です。 (3) ですから 問題は《人間性を失った》状態を どう改善するか このひとつの課題に集中します。 (3‐1) こちらもさらに《わたしがわたしでない状態》にすすんで入ることによって 言わば共倒れになっても仕方がないと考えるか。 (3‐2) あるいはそうではなく じっと様子を見るか。つまり 相手がどんどん人間性を失って行っても構わないと見るか。 (4) たぶん後者の選択が基本的に 人間という存在がすくわれるという道だとわたしは考えます。 (5) 要するに 人間以前の状態にある人・人間にはならないという人 こういう人は みづからすすんで自分の意志でそうしているのでしょう。(あぁ ニ千字)。
> 或る意味では これは相手がそういう状態になったということであって 相手のせいだ、ってことですか? 人間になれないのは 日本人のせいですか? それとも相手のせいですか? > いつからラディカルになったんかいな。 今年から名古屋の某巨大企業に 囚われの身になりまして。 名駅前のでっかいビルの味気ないオフィスに 毎日籠っていたらこうなりました。
お礼
名古屋かいな。 つづいてですから ごあいさつは省きまして。 ★ 相手のせいだ、ってことですか? ☆ わたしが クリアさんに限らず いまは全部解除していますが 一時 いくらかの回答者に対してブロックをしていました。すなわち 投稿に対して何も答えず放っておくという応対をしたのは それぞれに わたしなりに人間的に反応するかたちをとった結果です。 クリアさんについて言えば すでにここのやり取りにも書きこんだように もう三年も 同じことで同じやり取りを繰り返しているという事情がまづあります。 要するに これは好きくない・嫌いだ・気に喰わない ゆえに 変えろ。あるいは その質問は成っていない。控えろ。おれの前から去れ。こういう言葉をわたしは受けているということです。その議論その理由はない――気に要らないのみ――だということです。 時には 相手も反省することがあるんですよ。そう書いて来ています。その質問のほうを見てみてください。だが どうも倶に天を戴かずだそうで 決してその敵対心を消さないということのようです。 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~ その後応えなくなったのは ☆☆ (クリアさんの回答No.6へのお礼欄) ~~~~~~~~ ★ 1. 質問に意味性がないという批判なんです。 ☆ この判断の表明には 意味がない。なぜならもし意味があるとしたなら ○ 《1. 質問に意味性がないという批判なんです。》には意味がないという返答なんです。 ☆ にも意味があることになる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この返答の繰り返しになるゆえです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 事由として有効であるはずです。そうでないと言うのならば 論証すべきだと考えます。というよりも これは 自明です。これこれだ――いや これこれではない。と永遠につづけるだけなのですから。 つまり 《誰の所為》という問題ではない。そういう観点からの問題ではない。ただ 対話をつねに持ちつづけるという大前提に立って そのつど相手に応じて対処している。それだけのことです。 ★ ~~~~~~~~~~ 人間になれないのは 日本人のせいですか? それとも相手のせいですか? ~~~~~~~~~~~~~ ☆ ひとは そうでない選択を取るのも自由ですが 一般にしんがりを放っておくことは出来ず見捨ててしまうことは ほんとうは出来ないはずです。関係性(社会性)の絶対という見方が おそらく有効だと思っています。九十九匹よりも 迷える一匹のほうを大事にするという考え方のことです。 それに対して ひとつには そのときの相手の状態にもよる。あるいは 待ったなしの情況というものもある。あるいは わたしが応対しなくても わたしと同じこころざしの人が応対する。ということも考え合わすことがあり得ます。 考え方として 社会全体の責任だという意味では 《日本人の所為》という答え方もあるかも知れませんが まづ一人ひとりは その場でその相手との交わりという特定の(文学的に言えば 一回性の)場で それぞれの考えに沿って行動します。自分にも相手にもふさわしい筋道においてあるいは一般的にも考え方として妥当な事柄をえらぶことにおいて それぞれ考えるところを行動します。 そして 事態をきちんと把握しようとするなら それは 長期的に事態の初めから終わりまでを見て取らなければならない。その結果 何が問題で そのとき誰がどの点でわるかったか それに対して改めてどうすればよいかなどを考えなおしておくことでしょう。 少なくとも途中で 誰がわるい・誰の所為だというのは 早とちりなのではないか。 もうひとつもらっていますね。
× krya1998とコミュニケーションする意図を ○ krya1998さんとコミュニケーションする意図を krya1998様、失礼しました。 > わたしも考えるところがあれば応答してまいります。 事前に断っているから問題ない、とか言わないでね。
No.23は間違えたですね。 コミュニケーションする気持ちはあるけど うまく言えない、じゃあ 回答として意味をなさないですね。 +++++++++++++++++ bragelonneさんはANo.8以降 krya1998とコミュニケーションする意図を 持ってないですよね。 これは人間やめたってことですか。
お礼
するどいなぁ。いつからラディカルになったんかいな。 キュウさん ご回答をありがとうございます。 その後応えなくなったのは ☆☆ (クリアさんの回答No.6へのお礼欄) ~~~~~~ ★ 1. 質問に意味性がないという批判なんです。 ☆ この判断の表明には 意味がない。なぜならもし意味があるとしたなら ○ 《1. 質問に意味性がないという批判なんです。》には意味がないという返答なんです。 ☆ にも意味があることになる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この返答の繰り返しになるゆえです。 ほかの質問(ゴロツキ論)で 再開しています。もっとも 再開していなかったとしてもその場合にも 上の事由で抗弁します。 ★ これは人間やめたってことですか。 ☆ 或る意味では これは相手がそういう状態になったということであって――つまりは《人間以前の状態にあるというその姿が 凝り固まった》ということであって―― 対話の他方の相手であるわたしは その状態をみづからの内に受け取り受け容れあたかも同じ状態になったということでしょうね。同じ状態になってみせた。という――不遜であつかましい言い分ですが――ことではないか。 ミラーニューロン現象です。そういう鏡面理論です。 パウロという人によれば 《わたしは 日々 死んでいるのです》とか。
> ネクラという言葉で表わして > その状態を捉えたほうがよい さらに >ねくら ねあかではなく 貴方は生きているかもしれませんが、言葉が死んでいます。 『これぢゃだめぢゃないか。しっかりせい。(「語論おぢぢ名言集」より抜粋)』www 生き返ってください。 応援しています。
お礼
ナナニスくん おはよう。回答を寄せてくれてありがとう。と先輩風を吹かしまして。 たしかに最初に《ネクラ》を問題にして あとでは《ネクラかネアカかに関係なく》と言っている。細かいところを突いて来ました。 やり取りを経過を追って確認しましょう。 ◆☆(No.19) ~~~~~~~~~~~~~~~ ◆ 死にたくないから生きているような日本人には 人間になるのはつらいと思います。 ☆ きびしいいい。 でもはっきりとネクラという言葉で表わして その状態を捉えたほうがよいかと思われます。それがまづ第一歩であるとさえ考えられます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしには《ネクラ》の問題かと思われたのですが あとでキュウさんはそれに対して疑問を呈しています。 ◆(キュウさんの回答No.22) 根暗なのかな。 / よく分からない。 ☆ そこでわたしは次のように応えています。 ☆☆ (No.22お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~ だったら 言葉を用いて・つまりこの場合には日本語では用を満たさないわけでこの英語を用いてどう表現するかという意味でのコミュニケーションの問題に 多くの人びとが突きあたっているはずと思えるんですがねぇ。 確かにネクラかネアカかに関係なく もしそうだったら そうなるでしょうねぇ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この二つの文をむすぶ言葉は 《〈思えるんですがねぇ〉という見方ににもとづくのだったら》です。すなわち その文の中にも それと同じ意味を示そうとする言葉の《もしそうだったら》があります。 ということは ネクラの問題だと思ったけれども それに限られないようだという意味あいで言っています。言い直しています。 《ネクラかネアカかに関係なく》というのは 《ネクラの場合にもネアカの場合にも あるいはそのような区分を超える場合にも》という意味です。 ★ www ☆ って どうゆうこと?
聖書に書いていることが真実だと信じている基督人は 真実を問われたとき聖書に書いてあることを答えればいいわけですが 日本人だと自分で考えないと答えられないです。 コミュニケーションの意思はあっても答が考えつかないときは どうすればイイのでしょう。 面白いことを言って煙に巻くと好感度が上がるみたいなんですが 僕は面白いことも思いつかず、ついつい黙ってしまうんです。
お礼
つづいてです。 この見方・問い方もあまり耳にしていません。 考えてみます。 ★ 聖書に書いていることが真実だと信じている基督人は / 真実を問われたとき聖書に書いてあることを答えればいい ☆ これは どうなんでしょう。いま分かったと思ったことは このように何でも答えが書いてある本がある場合 そうすると いまの課題であるコミュニケーションは その《文字》がちょうど独り歩きをしてしまいがちになるのではないか。つまり みづからの自己表現としての意思疎通 これがむしろなおざりになるのではないか。 リトルキスさんとのやり取りで次のように考えました。 ☆☆ (No.14お礼欄) ~~~~~~~~~~~~ だって 英語を使うにしても けっきょく中身のある対話ができるかどうか これが問われているというわけですから。 英語の話者は 放っておいてもコミュニケーションを大事にしているかのごとく 誰とでもと言ってよいくらいに意思疎通を図る。まづはそうですね。ただし それでは自分の意思決定のことをほかの人の同じく意思決定とのあいだを取りはからって 言葉で伝えようとしているかどうか。組織の中の身分や権限の関係によってのみ話をしているのではないか。 といったうたがいがまだ残りますね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり 《組織の中の身分や権限の関係によってのみ話をしているのではないかといったうたがい》は いまここで 《聖書という虎の巻からの文章をみづからの意思とするかたちに 安易に落ち着いてしまうのではないか? といったうたがい》をも呼び起こします。これは実際にどうなのか わたしには分かりません。接触が乏しいですから。推測です。 でもこの推測は当たっている部分が多いかも知れません。というのも いわゆる原理主義というのでしょうか 聖書を文字どおりに受け取るという読み方がアメリカではえらく有力であると聞くからです。 それだったら 日本人の場合とはちょうど外向きと内向きの違いを伴ないつつけっきょくは 同じようにコミュニケーション下手だということになるかも知れません。聖書の文句にもとづこうとする基督人は そういうもとづこうとする典拠が何らなく意思疎通に億劫な日本人と 背中合わせに同じ位置にいるかも知れません。どちらも《人間以前の状態にある》のかも知れません。 それにつけても 柄谷らは ともかく《偽善》というやり方を基督人らは持っているから それに関するかぎり コミュニケーションのまねごとはうまいのだと言おうとしているのかも知れません。 ★ 日本人だと自分で考えないと答えられないです。 / コミュニケーションの意思はあっても答が考えつかないときは / どうすればイイのでしょう。 ☆ という問いを じつはほんとうなら基督人もいっしょに問わなければならないのかも知れません。 これは 《分からない》という答えを用意すればよいのでしょうね。考えてみますと。 ううん。主題にとって幅が広がりました。そして その収拾はどうつければよいか。 いましばらくは 成り行きにまかせましょうか。
- ノーバン(@nobound)
- ベストアンサー率13% (299/2140)
No、9です。 「人間になる」とか「意思疎通の仕方」とかはまだまだよくわかりませんが、「のっぺらぼう」あまり自分を出さないということでいえば、確かに最近の日本人は学校、会社、職場などで目立つ行動、浮いた行動はあまりとらないようにみえますが、いわゆる一般大衆のとき、生徒の親やお客として「モンスター」ぶりを発揮しているように思えます。 それらは理不尽な場合も多いと思いますが、同感してしまう場合もあります。(高い給食費払っているのに、まずい給食を出すな、とか) ある場面においては、特にここのようなネット言論などで、のっぺらぼうというより、逆にいろいろ意思表示したい大衆の人達が(自分も含め)増えているのかもしれません。それは一見、怪獣と呼ばれるように前より退化したようにもみえますが、より積極的になっているのではないでしょうか? 大人しいのっぺらぼうより、ごろつきの幼稚園児のほうが、個性的でおもしろいのではないでしょうか?そう思います。(いったいいくつなんだといわれそうですが・・・)そしてその社会的変化に学校、役所、病院、駅員の人たちなどの公的機関の応対が追いついていないようにもみえます。(一流ホテルとかはきめ細かいですよね。) よく学校教育などで、「これからは個性を大事にとか自分で考える力を」とかいわれますが、個性を育てるには、自己主張にせよ人間関係にせよ、どっかでごろつきとか、猛獣のような時期を通過することが必要なのではないかと考えます。その大変な養育をどこが担っていくのか・・・
お礼
ノウバウンドさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ・・・個性を育てるには、自己主張にせよ人間関係にせよ、どっかでごろつきとか、猛獣のような時期を通過することが必要なのではないかと考えます。その大変な養育をどこが担っていくのか・・・ ☆ おもしろいですね。ううーん。でも どうでしょう。いわゆる《通過儀礼》としてですよね。 ですから その通過儀礼として いろんなかたちが考えられるのではないでしょうか。 すなわち (1) 大人たち(あるいは 伯父さん伯母さんの場合が多いでしょうか)に交じってにしろ 祭のときなどに青年としての町の先輩に交じってにしろ 成人としての通過儀礼を迎える。――これは 慣習でしょうけれど 或る程度は 社会に生きる人間にとって正式の儀礼になっている。あるいは なっていた。 (2) いわゆる反抗期がある。家族の中で親に対してにしろ 学校で教師らに対してにしろ 大人たちにゆえもなく反抗する。 (3) ふだんは ★ 目立つ行動、浮いた行動はあまりとらないようにみえますが、いわゆる一般大衆のとき、生徒の親やお客として「モンスター」ぶりを発揮しているように思えます。 ☆ これは どういうわけなのでしょう? よく分かりません。突如自己主張に目覚めたのでしょうか。テレビドラマでちらっとモンスターペアレントを見ましたが ずいぶん確信を持って行動していますね。 ★ それらは理不尽な場合も多いと思いますが、同感してしまう場合もあります。(高い給食費払っているのに、まずい給食を出すな、とか) ☆ ひょっとしたら これも 大きくは遅れてやって来た・かたちを変えた《通過儀礼》なのでしょうか? (4) ネット荒らし。 ★ ある場面においては、特にここのようなネット言論などで、のっぺらぼうというより、逆にいろいろ意思表示したい大衆の人達が(自分も含め)増えているのかもしれません。それは一見、怪獣と呼ばれるように前より退化したようにもみえますが、より積極的になっているのではないでしょうか? ☆ これが いまの問題です。 まづこれも 通過儀礼つまりは 乱暴に言ってしまえば はしかのようなものか? 《より積極的になっている》にもかかわらず 《怪獣と呼ばれるように前より退化したようにもみえる》。――《行動するのっぺらぼう》 ですよね。 ですから もし通過儀礼を経て来ているとしたら よほど《意思疎通》の仕方を知らないということでしょうし 《人間にはならない》というかたちが現われているように思えます。 (5) つぎの事例は 実際としてわたしにはよく分かりません。 ★ 大人しいのっぺらぼうより、ごろつきの幼稚園児のほうが、個性的でおもしろいのではないでしょうか? ☆ ううーん。今は子どもでも中には大人のように 暴れまわるタイプもいるということでしょうか? ★ そしてその社会的変化に学校、役所、病院、駅員の人たちなどの公的機関の応対が追いついていないようにもみえます。(一流ホテルとかはきめ細かいですよね。) ☆ そうなんですか。――どうでしょう。それにしても 《幼稚園児》のごろつきですか? こういった事例というのは 応対というより 或る程度は社会化あるいは人間化のために訓練として対処するという考えをわたしは持っていますが ふるいでしょうか? 《人間化》を経るというのが 人間であるという捉え方で 互いに子どもでも人間として応対することに変わりはないと思っているのですが。 ホンネとタテマエの組み合わせのような対応の仕方もあるでしょうし――タテマエの上にさらに上部の概念としてメタ・タテマエを掲げる場合さえあるのではないかと思えたりしますし―― あとは そうは言っても それらの本音の気持ちや多少の倫理的なタテマエとしての概念や理念にしても それらはすべて日本社会という世界の中にあっては きわめて相対的な人間関係としてしか働かないので いちいち言葉で表わして意思疎通を図ろうとする必要性を感じないといった見解も出されています。 とうぜん今では 世界との接触が多く成って来ているのですから この意思疎通の機会や必要性は知られて来ていると思うのですが もしそうだとすると 上に考えてみた《通過儀礼としてモンスター化する時期》というのは ほんとうに日本人が人間になる歴史的時間の中にある。ということかも知れません。 分かりませんが 見守っていくとよいとも思います。どうなんですかねぇ。
今は生きる理由が分からないが いつか理由が分かるときが来るかも知れない それまでは死にたくない だから今は理由も分からず生きている。 生きる理由を問われて もっとましな答を探すが見つからない。 でも何とか答えたいので 中途半端に本心をしゃべってしまった。 暫くこんな状態が続くのかと思うと 辛くなる。 > ネクラという言葉で表わして > その状態を捉えたほうがよいかと思われます。 根暗なのかな。 よく分からない。 ++++++++++++++++++ 全くバラ色に向かってませんが 宜しかったらツッコミを入れてみて下さい。
お礼
こんばんは キュウさん。ご回答をありがとうございます。 ★ でも何とか答えたいので / 中途半端に本心をしゃべってしまった。 ☆ そんな程度だったのですか? でも分かりやすいと思いました。 考えてみれば 聖徳太子の時代に 景教でしたかネストリウス派のクリスチアニズムが来たとかいう歴史は措いておいて すでに戦国時代から――江戸時代も 研究しようと思えば―― 《神》の概念はけっこう身近にあったとも考えられます。明治以降を考えれば まったく自由に研究だけとしても 知ろうと思えば知ることが出来たと思われるのに 一向に 《異人》とか《異者》あるいはいわゆる《異教》ということについて さだまった対応の仕方を持てていないようです。 ブディズムが やはり個人の思想ないし信仰としてではなく 国家の宗教としてあるいは――おそらく親鸞を除いて――集団の宗教として成り立ち推移してきたように クリスチアニズムも こんどは国家に対抗するような宗教としてまた目に見える教会に集まる世界としての宗教(生活習慣)として受け容れられた。だけだったのでしょうか。 わたしという人間の場合は いやに特殊なのでしょうか? というのも 中学校からの英語の学習において すでにこの言葉を話す人びとと どうやって話し合いを無理なく滞ることなくすすめればよいのかと考え始めたのは です。この英語という言葉をしゃべる人たちというのは いったいどういう人間なのかを問い始めたのは。 特殊ではないと思うのですが。多くの人がその経験を共有してくれると思うのですが? だったら 言葉を用いて・つまりこの場合には日本語では用を満たさないわけでこの英語を用いてどう表現するかという意味でのコミュニケーションの問題に 多くの人びとが突きあたっているはずと思えるんですがねぇ。 確かにネクラかネアカかに関係なく もしそうだったら そうなるでしょうねぇ。 ひとつには このように英語話者とどうやって話をするか。この主題なんだと思うのですが この主題は放棄しても生活にとって影響はなかったということなんでしょうかねぇ。 ちょっと要領をえないままになります。
お礼
ひゃあああああっ。われよりラディカルが現われたあああああ。 キューさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 変な言い方をすれば キューさんは もっと穏健で中庸に満ちた内容を述べるのをつねとしていたのではなかったか。 まいりました。また 独創的ですね。かんたんに分かるようにしかも鋭く説明した文章だと思いました。 そうかも知れないが そのままではまづい。ひらかなきゃと思っている人間です。 きょうは朝から数本の応答を書いてきました。ひとつ前のジネンさんにはまだ返答していません。 ので 腹も空きましたし おゆるしを得て休憩です。 くわしくはまた書きます。 そう言えば 顔を見なかったなぁ。
補足
お礼欄につづいてあらためて 読み取ってまいります。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ 人間になる大前提とは 自分の中に「自分に先行する絶対的な何か」があることです。 多くの日本人には「自分よりも大切な何か」と言った方が分かりやすいかも知れません。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こういう切り口は 気づきそうなもののこれまでまだそういう議論に会ったことがありません。あるいは この切り口で《コミュニケーションの成否》を論じるところへつなぐ議論には会っていません。 まぁ簡単に言ってしまえば 《絶対》の問題 ないし《神》という主題なんでしょうが すべてが相対世界の中だけで動いているという世界にあるということなんでしょうね。つまり 相対世界であること自体の認識もないまま なのだと思います。しかもややもすると――つまり時には 外の世界との接触や交流でいざこざが起きたりすると―― この内向きのおらが世界が 絶対的な宇宙だということになる。こういうことなのでしょう。 ★ 「自分よりも大切な何か」 ☆ これは 親子の絆 あるいは 愛し合う二人というのが 昔からの相場なのですが 何とも この側面ではいやに 《合理的》になってしまったのでしょうか? だれもがそうでしょうが 自分がかわいいということであり それに終わってしまう場合が多いのかも知れません。 ★ 「自分よりも大切な何か」がなければ即ち自己完結していますので / 世界を相手に言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ必要がありません。 ☆ まことにそのとおりだと思います。ですからたとえば あの拉致被害者の身内の方々は この《内向き世界の自己完結》が解けて世界が開けたわけなのだと思います。決して個人の気持ちのみで発言をしているわけではないと考えられます。国家といった立ち場についても受けとめその国際関係という場を踏まえて発言するようになっていると思います。 そうたやすくいい手立ては見つかりませんが 見つからないのですが それでもこれらの人びとは 何とかして何らかのかたちで《言葉をとおして 異なる考えを持つ人びとと話し合いを持とうと 文字どおりコミュニケ―ションを図ろう》と努めています。そういうことではないかと考えます。 つまり決して鎖国は絶対的なものではなく 容易に解けることもあり得る。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 人間にはなりません、といういうよりも 人間になる絶対的な必要性がありません。 必要なときだけなればイイというぐらいの態度です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というかたちでさえも光が見えていると言っていいのではないでしょうか。 そりゃあそうでしょう。人間に 亜種があるわけではなく 出来そこないの存在があるとは言えないでしょう。世界において 必要なかぎりで意思疎通がおこなわれているのであれば 日本人もこれに参加するのは ふつうのことであるでしょう。オリンピックみたいなものかも知れません。 ふむふむ。この回答内容がきっかけになって 幅広い情報交換――哲学としての議論のことですが――がここですすめられるとよいと思います。ぜひとも世界を相手にして行って欲しいという願いでいっぱいです。