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日本人は人間にならないのか
- 日本人には人間としてのコミュニケーション意図が欠如しているという見解がある。
- 日本人が偽善を嫌うことは、世界的なコミュニケーション拒否の反映である。
- コミュニケーションの意図を持たない人間は、人間以前の存在であると言われる。
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7か月ぶりのOK Waveです。 日本人は人間にはなりません。 人間になる大前提がないか 個々には前提があったとしてもその前提を日本人同士で共有できないからです。 人間になる大前提とは 自分の中に「自分に先行する絶対的な何か」があることです。 多くの日本人には「自分よりも大切な何か」と言った方が分かりやすいかも知れません。 「自分よりも大切な何か」がなければ即ち自己完結していますので 世界を相手に言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ必要がありません。 人間にはなりません、といういうよりも 人間になる絶対的な必要性がありません。 必要なときだけなればイイというぐらいの態度です。 他の回答や過去のQ&Aは読んでいません。
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- heartmind
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こんにちは。 昨日、回答したつもりでいたのですが、反映されていなかったので もしかしたら、違反すること書き込んだのかなと一日待っていました。 あれから考えてみたのですが、歴史的な日本文化っていうのも今は世界中 で認知されていますが、では、例えば世界のカルチャーと比較してみて、 これぞ日本っていうはっきりしたを主張があるかっていえば、ちょっと わかんないですよね。 もっと歴史の波を漂ってきた様なものじゃないかと、一途さは感じるけど どうだっていう主張とは違う。まあ、そりゃあそうですよね、これが、 「わびさび」だ、こんにゃろーどうだまいったかって、それってそうとう おかしいですからね。大衆性っていうのはそういうところかもしれないで すね。 ただ、思考においても非思考というのは、重要な役割がありますし、 今日の人間の生活においても、根拠は未だふめいなのだけれど、こうだから こうだとしか言えないこと、例えば実証があれもこれもそれもそうだし、 何かに応用可能できそうだねっていうことなど、そういうことにはいいのか なと思います。 軍国主義とか極右っていうのは、そういうものを曲解して導いていったもの で本当は少し毛色が違うんじゃないかと思うんですね。だからって、全て、 間違いとも言い切れないのだけれど。 しかし、戦争は悲劇としか思えませんから、やっぱりそういう意味でも日本 には、批判精神もリベラルもあった方がいいと思いますね。
お礼
ハートマインドさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 この質問は 継続して問い求めていく性質の主題ですが まだつづいています。現実は 多様性であるようです。 投稿が反映されなかったとか。たしかアクセスが集中していて 時間をおいてあとで試みてくださいと出るときはありますが おかしいですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ では、例えば世界のカルチャーと比較してみて、 これぞ日本っていうはっきりしたを主張があるかっていえば、ちょっと わかんないですよね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たしかに日本の文化は――シントウのような生活の基礎にある文化は―― いわば縁の下の力持ちのようなものですから 表に貌を出さないですね。国家神道やそれと連動した軍国主義などは 表に出そうとしたかたちなのでしょうね。また 現人神という神主がいましたからね。 そもそもヤマト・ミワの大神(おほみわ)神社には ご神体はありません。前にそびえる三輪山じたいが 神と言えば神です。ヒモロキ(神籬:木)やイハクラ(磐座:岩)など具体的な神の依り代も あくまで仮りのものだと思われます。 次のような心性を示していると捉えられます。 大津皇子(おほつのみこ)は謀反の罪で死をたまわりました。本人がうたったかどうか疑問が出されていますが 辞世のうたです。 ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ (磐余の池に鳴く鴨を見ることは今日までか。 私は死んでいくんであろうな。) そして参照したいのは 次のうたです。大津皇子は二上山に葬られたのですが その姉である大来皇女(おほくのひめみこ)が歌ったうた。 うつそみの人なる我(われ)や 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を弟(いろせ)と我(あ)が見む つまり言いたいことは 具象としては せいぜいが山なんです。弟の霊としてと言いますか 心の奥の心と言いますかは です。 それなら 言ってみれば 万能の心性だとも見られます。何にでも応用できるかも知れません。 そしてそれは 《非思考の場》に近いです。心性の奥の場としてのごとく ずいぶんと似ています。 そうしておそらく この《霊》が 直接に表に出て来てはやはり困るということではないでしょうか。いまでも《英霊》が 何かと言えば 人びとの口にのぼって あたかも社会の表舞台でいまなお活躍しているかのごとくです。 ★ しかし、戦争は悲劇としか思えませんから、やっぱりそういう意味でも日本には、批判精神もリベラルもあった方がいいと思いますね。 ☆ つまり 心の奥の霊とは別に――あくまで別にです―― 単なる経験合理性にもとづく推論をとおして人びとは互いに話し合いをおこなうということ。そのように《批判精神》を発揮することも大事だと考えます。 この話し合いの場は むろん思考の場ですから 思考として及ぶ限りの世界認識とそれにもとづく政策などの踏み出しの一歩を互いに問い求めていくことがやはり大事だと考えます。 こうだとすれば わざわざクリスチアニズムを持ち出さなくても じゅうぶん対話も議論もできるかと思います。そういう方向と むろんその実現を期したいと思います。なのですが 煙を揚げていさかいがつづいています。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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毛を抜いて吹くと自分と同じ子分猿がたくさん出てくる(ぶら何とかの人は何匹猿が居るか知らないが)、水簾洞斉天大聖は異界の旅でコミニケーションできないと征伐していましたね。 そういう方式もありますが、天竺に着くのですね。 猿はどうして主格となるか。つまりコミニケションのポジションですね。 三猿の喩、先の水簾洞斉天大聖、アルジュナの紋章、そして怒り猿。 それぞれ、人間存在の側面の象徴ですね。
お礼
自分の中の世界ですな。 ★ それぞれ、人間存在の側面の象徴ですね。 ☆ と言われても その回答内容が分かるひとは 幾人いましょうや。 それとも わたしの理解力が足りないか。 分からない回答をもらってもどうしようもないというところです。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
bragelonne殿、私のいっていることをご理解できますか?私のいっていることに対応できないままに、更に質問を起してサロンに姿を出してくるbragelonne氏にここで氏がいう人間以前にもっとも該当する愚劣な存在ではないかと愚考せざるを得ない。 恥という観念がなくなくなった人は日本人の社会では相手にならない。ということなのです。 外面、衣服をまとっていても、恥部を曝けて蠢く乳児以下です。
お礼
★ 私のいっていることに対応でき ☆ るというのは こちらが黙るということのようです。それは 人間の為すことではありません。 ★ 私のいっていることをご理解できますか? ☆ 《私のいっていること》が何であるか ご理解が可能ですか? 何の理由も根拠もなく おれの言うことに従え ということのようです。これは 縄文時代でも そういつも見られるような事件ではないでしょう。 ★ 恥という観念がなくなった人は日本人の社会では相手にならない。ということなのです。 ☆ 恥という観念を持っているというふりをすれば 通行手形がもらえ生きてゆけるという考えが甘い。これぢゃ 赤っ恥もいいところです。これぢゃ 日本人が死んでいる。日の丸の代わりに 《恥》という文字を書いた鉢巻きをしているだけです。中身は ★ 恥部を曝けて蠢く乳児以下 ☆ のそのまた以下です。 反省はするが その恰好を見せるだけ。何度でも反省する。その恰好だけ。豚はきれいになったと思ったら すぐまた泥の中を転げまわる。ほら 乳児以下の以下でしょう。 ★ 私のいっていることに対応できないままに、更に質問を起してサロンに姿を出してくるbragelonne氏にここで氏がいう人間以前にもっとも該当する愚劣な存在ではないかと愚考せざるを得ない。 ☆ この文章の意味するところが どういうことであるのか 分かりますか? これを ゴロツキと言うのです。 おれの言うことに従わなければ 非国民だと繰り返すだけの投稿。これに屈したら 日本は沈没します。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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bragelonneさんの、"思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは”というご質問での、“減らず口”とか、“大きな顔”という言辞は果たして人間としてのかかわりの次元の意識存在の言辞として見られるかだろううか? 私はその辺について未だにぶらじゅろん氏の意識性を疑問に思う。きえるべきかどうか、などとの言葉も独りの人間としての自己責任性を担っているのか。 そんな批判をしております。つまりこのような人間以前とかの質問テーマを出してくる資格があるのか。 私は氏に対して批判以前の判断をせざるを得ない。というわけです。だから以後は無論、訪問することを控えたいというだけです。
お礼
《この場を借りたい》のでなく そういう意図が伝えられていたとは おどろきです。 ですが こんど述べられた内容は 語句そのものはわたしの使ったものでこそあれ その意味は すでに別の内容に解釈されています。 したがって わたしの表現した中身とは別のことがらに対して 《批判をして》おられるようです。 ただし 最後の文章つまり: ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つまりこのような人間以前とかの質問テーマを出してくる資格があるのか。 私は氏に対して批判以前の判断をせざるを得ない。というわけです。だから以後は無論、訪問することを控えたいというだけです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは またまた《〈お前を消すぞ〉と言いたい。あからさまには言わないが 言おうとしているのだぞ》ということのようです。 ★ つまりこのような人間以前とかの質問テーマを出してくる資格があるのか。 ☆ 資格があろうとなかろうと 最初の出会いから《おまえは消えろ》という信号を受け取っていたという意味です。これに抵抗しているというそれだけのことです。 つまりそちらは 哲学もへちまもありません。人の世をよくしようとする動きが気に入らないというだけです。このことを 延々と言い続けている。こうでしょう。 わたしはあなたの中の悪霊を追い出しているだけです。乗りかかったふねだからです。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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bragelonnさんは人間同士の真のコミュニケーションというものの存在性をご経験されました事やその記憶がありますでしょうか? それは両方が或いはどちらかが、真の意識存在であることが不可欠ですね。 大参謀たる西郷と幕臣たる山岡。大石と垣見五郎兵衛との出会いはどうでしょうかね。 ところで、primeape氏の名前の質問が全部しめきられましてね。 かの“おこりざるでござる”という登場の科白が大好きなので、私も浅学を省みずに誠心誠意回答を喜びを以って投稿したのですが、お礼欄では思いもかけずに≪罪状を否認するのだな≫という科白を頂戴し、今現在も痛く心に深手を負っています。 ぶらじゅろんぬさんと類似のご質問でしたが。 本日はついにたまりかねて、ついに怒りざるさんに投稿しようと思ったら、締め切ってあるんですね。 やはり、せっかくの投稿にあのようなお礼のコメントは、いかに怒りざるさんでも、人間性にかけるかなと感じます。primeapeという名前でどなたがだしているか覆面がかかってはいますが、無念さを起させるようなコミュニケーションも人間以前っていえませんでしょうかね。 そして知性があるものに不明な言葉の並びでの、質問や回答はどうなんでしょうかね。 欧米の文化に詳しいわけではないが、あまり同調はできない東洋の一離島の老人ですが、近代国家を創成している近代法の法諺に≪法と法に関する表現は、知性があれば悪魔にも通じることが要件である≫とあります。 意味不分明なことば並びは真に辟易ですね。比較的primeapeの名前の場合は文意だけは理解できなくもないのですが。
お礼
そうですね。 この場を借りたいとすれば貸してくれというのが 真のコミュニケーションではないでしょうか。
- heyboy
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ここも横ヤリですいませんです。 全部のログは読んでませんし たぶん誰かが言っているかもしれませんが 日本は「見ざる聞かざる言わざる」な 風潮もあるのでこのような記事に 具象化しただけではないのでしょうか? でもこの記事も当たってないわけではないけど 言いすぎかなあって思ったりします (国際感覚が無くてすいません) 自分もそうですけど 日本人は勇気や自信が足りないので 自然と「見ざる聞かざる言わざる」になりやすいけど 言わない人が果たして見てないのか? まったく聞いてないのか?と言えば 違うとは思いますが まあ推測の域からは越えません、、、。 自分的には楽観視してますが 外国の方が日本人を人間としてみていないのであれば 日本に訪れる事はないのだろうなあ と思ったりしますので、、、、、。 すいませんでした~。
お礼
ヘイボーイさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 そうですね。あたらしいご見解です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 日本は「見ざる聞かざる言わざる」な 風潮もあるのでこのような記事に 具象化しただけではないのでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おそらく こうであれば問題はないでしょう。あとは 何かのきっかけで 《見てみよう聞こうそして大いに言おう》となれば 何も言うことはありません。 戦時中も 《現人神》という命題を与えられいわば押しつけられ 人びとはこれを信じる振りをしていたと分かったという戦後の調査結果も出ています。三匹の猿をよそおっていたということでしょう。 ですから問題は 民主制の世の中になったあとも やはりこの猿のよそおいは たぶん部分的にでしょうがそれも肝心なところで 昔のくせを出して来る。ということではないでしょうか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 言わない人が果たして見てないのか? まったく聞いてないのか?と言えば 違うとは思いますが ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という見方に賛成しつつ ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 自分もそうですけど 日本人は勇気や自信が足りないので 自然と「見ざる聞かざる言わざる」になりやすいけど ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この事態にどう対処するか。ここに焦点は移ります。次の一歩です。 たぶん ★ 勇気や自信の足りなさ ☆ で扱うのではなく それよりもやはり 社会の仕組みを解剖して どこに腫瘍があるか どこで血のめぐりが滞っているか これを明らかにすることから哲学は出発すると思われます。 これまでのやり取りでは けっきょくこうなっています。 ○ 日本人も決して民主的な話し合いを拒むのではなく 拒むどころか大いに何でも採り入れようとしている。世界の料理がすべて日本にあるというくらいにあたらしいもの・異種のものにも積極的に取り組んでいる。思想についてもそうだ。――ただし ただひとつ 《絶対》の概念を扱いかねている。《キリスト》のことが分からない。 ○ それは どうも 日本人の短所の面が現われているのではないか。それは ちょうど《右向け右!》に同調しやすく ほんとうのことを見ても見なかったことにしようとするくせがある。まして ホンネは言わない。お上には逆らえないと思っているし アマテラス公務員は無謬性があるという神話にまいっている。つまるところいわゆる日本教である。 ○ つまり この日本教に合わないもの――もっと言えば 日本教の空気を読めずそれに従わないもの――は 閉めだすという傾向です。 ☆ ここにたどり着いています。 なお ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 自分的には楽観視してますが 外国の方が日本人を人間としてみていないのであれば 日本に訪れる事はないのだろうなあ と思ったりしますので、、、、、。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この疑問については 次のようにやり取りし考え合って来ています。 たとえばアメリカ人を取り上げてみると まづ一見すると なるほどコミュニケーションのかたまりであるかと思うほど 積極的に意思疎通をおこなっている。ただし 推測によると それは ひとつに組織の権限関係にもとづきその目的に沿って決まった内容のことを言っており伝えようとしているだけではないかと疑われる。ひとつに かれらには聖書という虎の巻があって それにもとづき 自分の意志を言葉で伝えようとしている。のであって それが ほんとうに一人ひとりのこころの中で消化されているかどうか これは まだあいまいなのではないか。 →回答No.43のやり取りなどを参照してみてください。 つまり そうしますと 潜在性としては むろんのこと日本人にもほかの国の人びとにも 意思疎通の能力も意志もある。けれども 往々にして(その国の歴史的な事情に応じて) まだまだその元気いっぱいの展開は出来ていない。こういった現状であるかとも思われます。 そんなこんなです。どうでしょう?
【Q:神とは何か?】のQ&Aを斜め読みしたら > わたくしのほうは《定義・論理必然》のもんだいとして とありました。bragelonneさんのは記号の方が考えやすい といったようなことが書いてありました。 最初からそう断っておけばイイのに・・・ 論理必然の問題としては 多分追いつけないので 文章を分かりやすくする作業に入ったら 少しは役に立てるかしら。 お休みなさい。
お礼
つづいてです。 【Q:神とは何か?】 ☆ この趣旨説明の文章は 自分で言うのもなんですが きわめて簡潔に言い表わしています。 記号だとか数式だとか言いますが 数式などは何も使っておらず あとは 記号は 単なるしるしですから 簡単に表わせるし 見て分かりやすいと思いますよ。ただそれだけだと思います。 簡潔だというのは たしかに《定義》の問題として書いたものです。 【Q:信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?】 のほかには わたしの挙げた質問にせよほかの人の質問にせよ かなり多くの説明を為していますよ。このところは 聖書やアウグスティヌスから引用することも少なくなって来ていますし。引用する場合も 覚えだけで書いていますし。だから 話し言葉になって来ています。 【Q:創世記にある失楽園にて、アダムとイブは蛇によって唆されて知恵の実を齧ったとされていますが、何故蛇は唆すような真似をしたのでしょうか?】 その回答No.6 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6055209.html ☆ これは 前回(No.44)に書いたところと呼応していると思います。どういう声を聞くかです。 あるいは 日常生活に身近なところでの議論とすれば 【Q:神とは何か?】の g3452sgp さんとのやり取りもおもしろいかも知れません。No.7&12&17です。 一度にあまり多いといけません。少しづつと行きましょう。
> どうも《絶対》観 あるいは キリスト論 > ここにほとんどすべては 落ち着くもののようです。 よかった、話が戻ってきました。 ANo.24で > その収拾はどうつければよいか。 > いましばらくは 成り行きにまかせましょうか。 となりましたので 私にとっては非常に気になっていた部分を話題にさせて頂きました。 同じANo.24ですが > というのも いわゆる原理主義というのでしょうか > 聖書を文字どおりに受け取るという読み方が > アメリカではえらく有力であると聞くからです。 ブランジュロンヌさんに言われずとも あなたのキリスト論が新しいのは認めています。 (認めてきたつもりなのですが、伝わりませんでしたでしょうか。) 認めてきたから ●人間になる大前提とは自分の中に「自分に先行する絶対的な何か」があること という切り口を思いついたんです。 > ほとんど まるっきりあたらしい。したがって分かりにくい。 分かりにくいんだから、せめて表現を分かりやすくしないと 表現につまずく人が増え > 《絶対》観 あるいは キリスト論 に集中できず無駄だと思い 少しでも分かりやすく伝える意思はないのですかと問えば それには答えず【Q:神とは何か?】を読めという。 私だってキリスト論の話が先に行くことを希望するのに 答えてくれないと不満が先行してしまうではないですか。 普通の書き言葉・話言葉では 新しいキリスト論を伝えることが出来ないのか?は 私は結構大事なことだと思います。 ●人間になる大前提とは自分の中に「自分に先行する絶対的な何か」があること をブランジュロンヌさんの新しいキリスト論から発想したと申しましたが 同時に私の最近の経験から導き出したことでもあります。 ブランジュロンヌさんからは > そんな程度だったのですか?(cf.ANo.22) と言われてしまいましたが 絶対がないと私が弱くなると言ったら > 真実を明らかにしているということかも知れません。 > ただし問題は、あくまでキリスト論をどう扱うかにあります。 ここでは問題ではない、とは何ですか(怒 まあ、先に行くと仰るなら行ってもイイですけど(笑 先に行くならお願いですから 【Q:神とは何か?】の趣旨説明を分かりやすくして下さい。 分かりやすく、とは ☆☆ (No.24お礼欄) ~~~~~~~~ アメリカ人のコミュニケーションについて抱いたところの (中略)といったうたがい》をも呼び起こします。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり《日本人に限った話じゃない》として捉えようとしています。 つまり、と簡潔化できるなら最初からやって、ということです。 時間があるときに【Q:神とは何か?】のQ&Aをじっくり読んでみます。
お礼
キュウさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ブランジュロンヌさんに言われずとも あなたのキリスト論が新しいのは認めています。 (認めてきたつもりなのですが、伝わりませんでしたでしょうか。) 認めてきたから ● 人間になる大前提とは自分の中に「自分に先行する絶対的な何か」があること という切り口を思いついたんです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あっ これはお見それしました。或る種の仕方で 住み分けが成ったというように――つまり あなたはキリストとは別なところにいて発言するというように――思っていました。言いかえると キリスト論に対して大したことも言えないのに ぐぢゃごぢゃ言う人とは違うと思っていました。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 分かりにくいんだから、せめて表現を分かりやすくしないと 表現につまずく人が増え > 《絶対》観 あるいは キリスト論 に集中できず無駄だと思い 少しでも分かりやすく伝える意思はないのですかと問えば それには答えず【Q:神とは何か?】を読めという。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いやあ 《つまづきの石》とは もともと言われています。 そもそも いわゆる伝統の考え方とは違うことをイエスは言い始めた(または おこない始めた)のですから。 隅の親石というのがあります。家の土台として四隅などに基礎としての石を置きます。伝統の石工や大工の親方がそれにふさわしい石をえらぶのですが 伝統の知恵にしたがって これぢゃどうしてもだめだと言って捨てていくわけです。このようにそれまでの歴史から見てだめだと思われた石が じつは はりつけになったあと よかったのだと見なおされるという話です。《無力 あるいは 死》から出発しています。 十字架上のイエスにすべて〔の知恵の宝〕が隠されているとさえ言うのですから 伝統も何もあったものではありません。仮りにはりつけにされたあと その十字架から――神の話の伝統にしたがってように――降りてきたなら 人びとは 《隅の親石につまづかなかった》。でも 神は つまづきの石を置いたと言われます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ 普通の書き言葉・話言葉では 新しいキリスト論を伝えることが出来ないのか?は 私は結構大事なことだと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いまいちばん分かりやすい言葉としては 《非思考の場》だと思います。そういう場として ひとの心には窓があるのだという意味です。ところが これは 人間の理性ないし経験思考によっては ついぞ分からない。ゆえに 非思考と名づけます。つまり 考えるではなく 信じるという行為です。 非思考の場は・つまり心の窓を超えたところは 非思考であり非経験ですが この窓を開けることは 人の経験行為です。 【Q:信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6010202.html 《無神論》も信仰であると言っているのですから この質疑応答などは 分かりやすいかも知れませんね。 或る晴れた日 あなたにこの心の窓をたたく音が聞こえます。何だろうと思って耳を傾けたところ どうも わが心の力のみなもと〔である神〕ではないかと感じた。 この声を受けとめ 受け容れることが 信仰です。細かく言えば その声を受け取ったという領収証を切るのが 有神論です。切らないのが 無神論です。どちらも自由であり 互いに同等である。信教と良心の自由という公理として そういうことになっています。 そういう神を イエスは指し示したというわけです。おしえは 人間の言葉で表わしていますから それは《考える》ものです。表象しうるものです。象(かたち)に表わせたものは 《信じる》ものではありません。たとえ理念の美であっても 高邁な精神であっても 表象しうるものは 経験思考の領域に属します。信じるというのは あくまで・どこまで行っても 《非思考》です。 ただその非思考の場でなぞの何ものかに対して《領収証を発行する》ことは 経験行為です。発行しなくても それを受けとめたというのは 非思考の場におのれが立ったことを意味します。それをもって 信仰――つまり 無神を信じるという領収証の発行になる――となります。 教会に行くのは 信仰に何の関係もありません。しいて言えば 目に見えない教会が 世界に人間のいるところどこでも 息づいていると言えると思います。 ニ千字ゆえ つぎのご投稿に移ります。
本来のご質問に何も答えてないですね。 上に媚びて下に威張るなんて 日本人に限った話じゃないと思います。 日本人にその割合が圧倒的に多いというなら 根拠を示して欲しいと思います。 次になぜ私を生かさないかですが 多分私が弱いんです。
お礼
つづいてです、 ★ 上に媚びて下に威張るなんて / 日本人に限った話じゃないと思います。 ☆ これは コミュニケーション論としてになるのでしょうが ここでは問うていません。 そして 質問は【Q:日本人は・・・】という言い方をしていますが これは《外国人は 出来ているのに 日本人は なぜ出来ないのか》と言った意味合いではありません。 その点 柄谷らを出汁に登場させていることがわざわいになっていますが――つまり かれらは 世界のほかの国の人びとは 異者と意思疎通を言葉を用いて図っているのに 日本人は・・・》というなじった言い方をしているので これを取り上げたわたしがわるいのですが―― わたしは ほかの国の人びとは措いておいても 日本人はどうして言葉をとおしての対話が出来ないのか? という問い方が基本線です。 ただし 外国人とくらべるということも あきらかに しています。 さらにただし とは言うものの 外国人の場合にも じつは同じようにコミュニケーション――人間的交通――は まだ実現していない部分もあるのではないかとも捉えようとしています。 その事例は 回答No.14お礼欄および回答No.24お礼欄に書いています。 ☆☆ (No.24お礼欄) ~~~~~~~~ 〔アメリカ人のコミュニケーションについて抱いたところの〕《組織の中の身分や権限の関係によってのみ話をしているのではないかといったうたがい》は いまここで 《聖書という虎の巻からの文章をみづからの意思とするかたちに 安易に落ち着いてしまうのではないか? といったうたがい》をも呼び起こします。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり 《日本人に限った話じゃない》として捉えようとしています。ただ わたしは 実際の交通の経験としてはとぼしいので 外国人論は控えています。出すときは 推測だとことわって出しています。 ★ 次になぜ私を生かさないかですが / 多分私が弱いんです。 ☆ これは 真実を明らかにしているということかも知れません。 ただし問題は 上に述べた事情から行けば あくまでキリスト論をどう扱うかにあります。それについての対処が定まらないままに《自分が弱い》と言っても まだことは始まらない。こうも考えられますが いかがでしょう? どうも《絶対》観 あるいは キリスト論 ここにほとんどすべては 落ち着くもののようです。どうでしょう?
過去のQ&Aをさかのぼる余裕はありませんが bragelonneさんがANo.41のお礼で整理をして下ったので 議論の経緯がおぼろげながら分かったと思います。 本質問に対する回答を古い順にあらためて読み直してみましたが 文字を追うだけで疲れてしまい頭の中がこんがらがってしまいます。 それでもクリアさんがANo.4で ●「国際宗教」という言葉が受け入れ難い。 と仰っており、続けてANo.5-6で ● 言葉づかい、文体ともに灰汁が強すぎて 何が言いたいのか、何が聞きたいのか、非常に分かりにくい。 と仰っていますが、ブランジュロンヌさんが相変わらずなので ● 議論の内容以前に、bragelonneさんの議論のやり方や態度が許せない。 殴ってやりたい。 と仰っているのは分かりました。 つまりクリアさんはブランジュロンヌさんの存在を否定したいと 明言されてましたね。 ブランジュロンヌさんの文体や言葉づかいに対して苦言を呈していたのは 1人は2人だけではなかったと思います。 ブランジュロンヌさんも自覚されていると思います。 以前に較べれば少し読みやすくなっていると私は感じますが それでもまだ十分特異な文体・言葉づかいだと思います。 ついでに言えば柄谷の文章も分かりにくいです。 思想家の中には難解な文章への憧れがあるのでしょうか? ブランジュロンヌさんの文章が分かりにくいというクリアさんの文章も 私にとっては難解です。 ANo.6で > 質問に意味性がないという批判なんです。 と仰ってますが 私にはどう読んでも ●文章が読みにくくて質問の意味が分からない としか言ってないと思う。 その後もやりとりは続いていますが クリアさんの「国際宗教というのは止めろ」「文体を改めろ」 という要求は変わっていないと思います。 ブランジュロンヌさんはクリアさんに 国際宗教という言葉のどこが(何が)受け入れ難いのか?を 聞けばよかったと思います。 クリアさんはブランジュロンヌさんに なぜ日常的な書き言葉や話し言葉を使わないのか?を 聞けばよかったと思います。 > コミュニケーションが成立し得ないような人間関係 案外コミュニケーションのスキル不足が コミュニケーション不成立の最大の原因だったりして。 > コミュニケーションの意図をもたない あらためて問います。 ブランジュロンヌさんは日常的な話し言葉では議論が出来ないのか? 出来ないとしたらそれは何故なのか? その頑なさが鉄仮面に見えて怖いです。 (鉄仮面はブランジュロンヌ語の「のっぺらぼう」の新訳です。)
お礼
こんばんは キュウさん。ご回答をありがとうございます。 さて今回の内容に対しては――あたらしい切り口が見られるのですが―― ほぼすでにお答えしているかたちになっていると考えます。 基本的なご返事としてはつぎです。 ☆☆ (No.18補足欄) ~~~~~~~~ ★ (回答No.18)~~~~~~~~~~~~~~~~~ 人間になる大前提とは 自分の中に「自分に先行する絶対的な何か」があることです。 多くの日本人には「自分よりも大切な何か」と言った方が分かりやすいかも知れません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こういう切り口は 気づきそうなもののこれまでまだそういう議論に会ったことがありません。あるいは この切り口で《コミュニケーションの成否》を論じるところへつなぐ議論には会っていません。 まぁ簡単に言ってしまえば 《絶対》の問題 ないし《神》という主題なんでしょうが すべてが相対世界の中だけで動いているという世界にあるということなんでしょうね。つまり 相対世界であること自体の認識もないまま なのだと思います。しかもややもすると――つまり時には 外の世界との接触や交流でいざこざが起きたりすると―― この内向きのおらが世界が 絶対的な宇宙だということになる。こういうことなのでしょう。 * すなわち 《絶対的な何か》の主題は キリスト問題なのです。よって次です。 ☆☆ (No.41補足欄) ~~~~~~~~~~~~ § 4. 要するに 《キリストは邪宗なり。もしくは 外道なり》 というひとことで済まそうとするエラーが起きます。起きつづけています。 つまり みづからすすんで井の中にひきこもって行きます。 ・・・ キリストを目の敵にして攻撃しています。つまり 聞く耳を持ちません。 そんなこんなで とにもかくにも 〔* このキリストを主題とする場合の〕異人・異者との対話が 不全に落ち入っています。愛想は 日本人は得意だと思うのですが 例外があるようなのです。たぶん クリアさんは この例外視を間違っていないと考える人びとの代表のひとりなのでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ したがってたとえば ★ クリアさんの「国際宗教というのは止めろ」「文体を改めろ」 / という要求は変わっていないと思います。 ☆ というまとめが来ます。つまり視点もしくは焦点は 微妙に違って わたしの解釈のほうが合っているのではないかと いまのところ考えます。 つまり わたしの文体問題もあるにはあるでしょうが そもそもは キリスト問題だと取っています。 ★ ブランジュロンヌさんの文体や言葉づかいに対して苦言を呈していたのは / 1人は2人だけではなかったと思います。 ☆ も同じであり 要は キリストとは何ぢゃい? なんです。 つまりこれについてさらに説明しなければなりません。 たとえば世に明らかにされているいわゆる《キリスト教》論は ほとんどすべて わたしのキリスト論とは違っているということです。前者は 日本人に分かるように(その著作者本人が 日本人として 分かった限りでのかたちにおいて)解説しているということです。違和感をそれほどは持たれないということです。 わたしのキリスト論は ほとんど まるっきりあたらしい。したがって分かりにくい。 事情は かんたんなことなんです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ブランジュロンヌさんは日常的な話し言葉では議論が出来ないのか? 出来ないとしたらそれは何故なのか? その頑なさが鉄仮面に見えて怖いです。 (鉄仮面はブランジュロンヌ語の「のっぺらぼう」の新訳です。) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ もっとも基本的な理論は 最近のものでもありますから 次がよいと思います。お手数でもいちど読んでもらわねばならないと思います。 【Q:神とは何か?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6057191.html ☆ 趣旨説明のみでもかまいません。 ★ ついでに言えば柄谷の文章も分かりにくいです。 ☆ 柄谷については 基本的にわたしは 何とも評価のしがたい文章だなあと思っております。不可でもないのでしょうが その世界観について行けるかと問われれば むつかしい ついでに言って 岩井克人は 分かりやすい文章を書きます。経済学の視点をも解説してくれます。《市民制》といった方向については賛同します。人間論あるいはキリスト論のほうでは 未知数です。 ★ 鉄仮面 ☆ すでに 石頭だと言われています。
お礼
ひゃあああああっ。われよりラディカルが現われたあああああ。 キューさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 変な言い方をすれば キューさんは もっと穏健で中庸に満ちた内容を述べるのをつねとしていたのではなかったか。 まいりました。また 独創的ですね。かんたんに分かるようにしかも鋭く説明した文章だと思いました。 そうかも知れないが そのままではまづい。ひらかなきゃと思っている人間です。 きょうは朝から数本の応答を書いてきました。ひとつ前のジネンさんにはまだ返答していません。 ので 腹も空きましたし おゆるしを得て休憩です。 くわしくはまた書きます。 そう言えば 顔を見なかったなぁ。
補足
お礼欄につづいてあらためて 読み取ってまいります。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ 人間になる大前提とは 自分の中に「自分に先行する絶対的な何か」があることです。 多くの日本人には「自分よりも大切な何か」と言った方が分かりやすいかも知れません。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こういう切り口は 気づきそうなもののこれまでまだそういう議論に会ったことがありません。あるいは この切り口で《コミュニケーションの成否》を論じるところへつなぐ議論には会っていません。 まぁ簡単に言ってしまえば 《絶対》の問題 ないし《神》という主題なんでしょうが すべてが相対世界の中だけで動いているという世界にあるということなんでしょうね。つまり 相対世界であること自体の認識もないまま なのだと思います。しかもややもすると――つまり時には 外の世界との接触や交流でいざこざが起きたりすると―― この内向きのおらが世界が 絶対的な宇宙だということになる。こういうことなのでしょう。 ★ 「自分よりも大切な何か」 ☆ これは 親子の絆 あるいは 愛し合う二人というのが 昔からの相場なのですが 何とも この側面ではいやに 《合理的》になってしまったのでしょうか? だれもがそうでしょうが 自分がかわいいということであり それに終わってしまう場合が多いのかも知れません。 ★ 「自分よりも大切な何か」がなければ即ち自己完結していますので / 世界を相手に言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ必要がありません。 ☆ まことにそのとおりだと思います。ですからたとえば あの拉致被害者の身内の方々は この《内向き世界の自己完結》が解けて世界が開けたわけなのだと思います。決して個人の気持ちのみで発言をしているわけではないと考えられます。国家といった立ち場についても受けとめその国際関係という場を踏まえて発言するようになっていると思います。 そうたやすくいい手立ては見つかりませんが 見つからないのですが それでもこれらの人びとは 何とかして何らかのかたちで《言葉をとおして 異なる考えを持つ人びとと話し合いを持とうと 文字どおりコミュニケ―ションを図ろう》と努めています。そういうことではないかと考えます。 つまり決して鎖国は絶対的なものではなく 容易に解けることもあり得る。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 人間にはなりません、といういうよりも 人間になる絶対的な必要性がありません。 必要なときだけなればイイというぐらいの態度です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というかたちでさえも光が見えていると言っていいのではないでしょうか。 そりゃあそうでしょう。人間に 亜種があるわけではなく 出来そこないの存在があるとは言えないでしょう。世界において 必要なかぎりで意思疎通がおこなわれているのであれば 日本人もこれに参加するのは ふつうのことであるでしょう。オリンピックみたいなものかも知れません。 ふむふむ。この回答内容がきっかけになって 幅広い情報交換――哲学としての議論のことですが――がここですすめられるとよいと思います。ぜひとも世界を相手にして行って欲しいという願いでいっぱいです。