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ラッセルの Problems of Philosophy の1章 ht
ラッセルの Problems of Philosophy の1章 http://www.ditext.com/russell/rus1.html を読みましたが、問題提起が少し馬鹿らしくないでしょうか? ラッセルが言っているのは、実在(reality, physical object, matter)するものと、現象として見えるもの(appearence, mind, an idea in the mind of God)があって、後者の現象としてみえるものが他の人と違うからって実在するものが本当に存在しないのか?ってことですよね。 >”But if the reality is not what appears, have we any means of knowing whether there is any reality at all?” >”doubt suggests that perhaps there is no table at all.” ラッセルがいっているのは、「現れたものは他の人がまったく同じ認識をもてないから、そこに実在は存在しない(かもしれない)」 対して私の主観ですが、現象として現れたものを~があると表現するのは言葉ですね。言葉はそれが不十分であるために他の人と現れたものに対して完全な情報を伝えきれない。よって他の人と違う見解が生じたりする。でもだからといってそもそも実在そのものが最初から無い、というのはどうかな?と思いますけどね。現象を起こした何かは存在するわけですから。 ラッセルにしてみれば言葉を使わない他の動植物にとっては世界は存在しないことになるんでしょうかね。 幻影の可能性も考慮して実在がそもそも無い可能性がある、という分には問題ないですけど、そんな当たり前のこといわれてもな、と思いました。 何かこちらで読み違いしてたり、違う意見の方いましたら教えてください。
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- 雪中庵(@psytex)
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>Aさんが死んだらすべて世界そのものは存在しなくなるのか もともと「無い」ものが、「そのあと存在しなくなるのか」も何もありません。 1つの議論(それを否定する)の中でさえ人は、「認識とは独立して外的存在が あり、結果的に意識が派生している」という、量子論と共に百年前に葬られた 素朴唯物論に回帰してしまうほど、強固な先入観に支配されているのです。
- old_sho
- ベストアンサー率38% (20/52)
読み違いをされているとお見受けしますが。 その個所の訳は、 >But if the reality is not what appears, have we any means of knowing whether there is any reality at all? >だがもし現実が [私たちの感覚に] 現れないものだとしたら、そもそも何らかの現実が存在するか否かを知る手段があるだろうか? >doubt suggests that perhaps there is no table at all. >懐疑論は、そもそも机などないのではないかという疑問を提起する。 これから見て、「 ラッセルがいっている」という表現であなたが言われてることのいくつかは、「哲学上の諸問題として述べている」と見るべきでしょう。 >現象を起こした何かは存在するわけですから。 と仰るのですが、「現象がある」と「現象を起こす何かがある」とは違うでしょう。そんな当たり前のことから始めないとネ。当たり前のことから始めたって、曲解する人が跡を絶たないじゃない? 三章までは日本語訳が公開されているのですね。
お礼
>これから見て、「 ラッセルがいっている」という表現であなたが言われてることのいくつかは、「哲学上の諸問題として述べている」と見るべきでしょう。 なるほど。ご指摘ありがとうございます。
「もの」とは何でしょう? たとえば机とはいったい何を指してそういうのでしょう。 あるときは長方形であり、別な時にはだいけいであり、ある場所からは茶色く、別な場所からは白く光って見える。個々人の感覚与件はどれ一つとして同じではない。 机について我々が持っているのは感覚与件のある集合であり「もの」とはこの無数の感覚与件の群ではないのか。 といった具合に「もの」を感覚与件に還元して感覚与件言語ですべてを説明しようとしたのが初期のラッセルです。 しかしいかに多くの感覚与件を挙げてもそれらは机というものにはならない。 つまり「もの」は感覚与件言語では語ることはできても構成することはできない。 そこでカルナップの物理主義が登場するわけです。
お礼
ふむふむ。
ラッセルを時代遅れと決め付ける人は、 未開人とじゃれあうことで「俺はバカより頭がいい」と自己正当化するでたらめ折衷理論家です。 無脳なひと。 他の方の回答にも見受けられますが、哲学的意見に関して一理あるということがいえますが、 日本では権威という考え方がその判断に関係してきます。 質問者様の解釈は正しいものであり、その通りというほかの回答はありません。 しかし、歴史的に見ると、ラッセルの英語は、国定最高教育機関=大学に於ける「日本英語教育の教科書」であるという側面があり、 質問者様がおそらく学部学生であり、更に英語科・文系英文関係の文学講師の授業受講に際して、 縁あって 購読していらっしゃるという場合、受験英語の規則が適用されます。 権威主義は悪ですが、事実として、また、 内容としては、無条件で「採点する側」に正当性が授与されるということです。 講師は、線形生成文法的な論理学を持ち出し 基本的に文法上の意味をきいてくるはずです。 この哲学カテでも、権威のかけらもないのに「お前を採点してやる」というバカらしい人間がいますが、 「制度としての大学」のケースでは、残念ながら採点するのは一人の講師です。 うまがあわないようなら、これから先 受講しないことです。 落とされないように授業に沿って受験生の気持ちで回答してみてください。他意はありません。 愚か者は愚かものであり、独断主義的なものです。 そういう老いぼれは、公の規範・規則を受け入れることは死んでもないでしょう。 (団塊無法の高齢者に対しては) -- (タヒねよと心で唱え無視するよう心がけましょう)
お礼
>質問者様がおそらく学部学生であり、更に英語科・文系英文関係の文学講師の授業受講に際して、縁あって購読していらっしゃるという場合 ただの趣味です。 私はラッセルを馬鹿にして喜んでいる訳ではないです。1章を読んでみて彼の英語がすごく綺麗で、できるだけ一般人にわかりやすく西洋哲学について語っているという印象を受けました。難しい言葉を並べてわかったような哲学ぶってる人よくみますので、その点は敬意を評したいと思います。しかし、根本的な何かがずれていると感じたので、このまま読み進めていっても大丈夫なのか、という強い疑問を抱いたわけです。 まだ3章までしか読んでませんが、ライプニッツ、バークリー、デカルトにしろラッセルも含め人間至上主義といいますか、「世界(神・自然) vs 人間」 というような観念的な構造が根底にあると思います。対して私の世界観ですが 「宇宙 vs 生命体」といいますか、わかりやすくいうと私は、"I think, therefore I am" よりむしろ、 "When I don't think, still I am" と思います。 手塚治虫の「空気の底」(だったかな)という短編を集めた文庫本があったのですが、その中に、「この部屋からでたら実は世界は存在しないんじゃないか」、と思った少年が用意されたと思われる世界を欺こうとするような話があり、それを読んで子供心に「ああ、そういうこと考えたことあるある。」、と感じたものでした。そういうのって生きている中で一度は誰もが考えるようなことで、結局映画マトリックスのような裏の実際の世界というものに実生活のなかでたどり着けないので、自然にそういうことを考えなくなります。 問題はそこで、他の存在を認めるかどうかだと思うんです。デカルトは”if he did not exist, no demon could deceive him”として、「私が思う」という実感を頼りに世界の存在を認めている。ラッセルは3章で本能が matter の存在を知っている、としている。結局自分自身の感覚を頼りに世界と対話していて、自分自身でそれをやっている分にはそれ自体は何も問題はないのですが、これを第3者に向けて、「世界は果たして存在しているのか?」と問えば、人は自分なりに世界を実感として捉えている訳で既にその人の世界は存在している。だからその問いを聞いて感じることは、「はい?あなたにとっては私の世界は存在していないように思えるのですか?」ということになりませんか。 つまり、そういう問いを第3者に投げかける行為というのは、他人の世界が存在していることを前提にはなされていない。 >”Such philosophers are called 'idealists'. When they come to explaining matter, they either say, like Berkeley, that matter is really nothing but a collection of ideas, or they say, like Leibniz (1646-1716), that what appears as matter is really a collection of more or less rudimentary minds.” 人間から少し視野を広げれば、ライプニッツやバークリーといったidealistは心を持たない者には物質は存在しない、といっているようです。つまり、他の動植物にとっての世界は???な訳です。進化論になじみのある現代人からすれば、進化の長い歴史のなかで人間は他の生き物からの派生形であるならば、人間以前の生命体が思考をしていないとは考えずらいです。私は概念というのは現象のパターンで、それを他人と共有するためにつくられたのが言葉だと思っています。それゆえに、言葉というものは、世界が存在しなければ生まれてこなかったと思います。それなのに彼らは、言葉が存在しなければ世界は存在しない、というようなことを言っているので違和感を覚えるのです。 まとめると、彼らにしてみれば他人・他の動植物の世界は存在していない、というような考えが根本にあるようで、どうもしっくりきません。
変化の系列と考えるわけです。
お礼
ふむふむ。すいませんよくわかりませんでした。(笑)
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
量子論的にいえば、不確定性原理の確率波動性(絶対化によって無限不確定 (=無)化する)が、有限な存在性に収束するのは、不完全な観察(階層現象 表面的な定性化(=非光速性))によってです。 つまり、世界は、無(無限不確定性)の潜在としての認識可能性に対する 相補分化として派生しており、そもそも「自分にとっての宇宙」は、自分に とってしか存在しないのです。 (ラッセルを含む西洋哲倫は過去の遺物(物理でいえばニュートン力学)です)
お礼
>「自分にとっての宇宙」は、自分にとってしか存在しないのです。 このあたりよく聞く話なのですが少し曖昧な点がありますね。 パターン1:Aさんが死んだらAさんの世界は存在しなくなり、Bさんの世界は存在し続けるのか パターン2:Aさんが死んだらすべて世界そのものは存在しなくなるのか Problems of Philosophy の2.3章を読み進めていくとデカルトの話がでてきて明らかに、ラッセルやデカルトはパターン2で話を進めていますね。
ラッセルも質問者様もどちらも正しいと思います。 ただ、ラッセルは、言葉の限界の問題もあるのだろうけど感覚器を使って刺激を受けた段階で個人差が生じる問題があるねと言いたかったのだと思います。 あえて言葉の限界の問題は触れていないということでしょう。 >ラッセルにしてみれば言葉を使わない他の動植物にとっては世界は存在しないことになるんでしょうかね。 言葉もそうですが、人間と他の生物では感覚器の仕組みが全く違いますから、感覚器を使って刺激を受けた段階での種の格差が生じる問題がより鮮明になってきますね。
お礼
>感覚器を使って刺激を受けた段階で個人差が生じる問題があるねと言いたかったのだと思います。 ラッセルはそこから急に「本当にリアリティは存在するのか」と展開しているので、違和感を感じました。
- Anti-Giants
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当たり前のことをあえて疑ってみることは、哲学の特徴のひとつだと思います。
お礼
ふむふむ。
お礼
どうもご回答ありがとうございました。