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「間身体性」とはなんですか。
「間身体性」とはなんですか。 ネットを調べるとメルロポンティの言葉のようですが、この言葉を説明している言葉が私には難しすぎ、 困っています。どなたか(厳密な定義ではなく)、「だいたいこんな意味なんだよ」という程度で構いませんので教えてもらえませんか。
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2です。他回答者様のお答えはあらためてゆっくりと拝読させていただきたく存じます。 遠近法で絵を描かれたことはありますか? 物体を違う角度から描き直すと、また違った形になりますね。 それでも、他の物体との位置関係や大きさなどから、それが先程と同じ物体なのだとわかります。 もし移動する物体をパラパラ漫画のように描くなら、あ、動いているな~と、同一性を認めることが出来るでしょう。 これは、遠近法という約束事の中で繋がっている世界に約束のとおりに嵌まっている物体が、 その約束のゆるすかぎり、自然にその世界の一部として振る舞えるということにほかなりません。 つまり、その物体は遠近法の世界に属しているし、そうすることでしかその物体であることをわかる方法がありません。 その物体もそのまわりの物体も、本当は全然違う形なのかもしれませんし、移動すると皆で大きくなったり小さくなったりしているのかもしれません。ぐにゃぐにゃの四次元なのを無理矢理、遠近法でぴしっと揃えて描いているだけかもしれません。 さて、これは説明のためにわたしが遠近法と物体に譬えてみたものです。 身体に戻りましょう。 どんなに動いても、どんなポーズをとっても、身体は世界に違和感を感じません。大きさにも位置にも関係にも、不安なところがないのです。 いったい、身体はどんな世界の約束事に属しているのでしょう。その約束のゆるすかぎり、身体は自然にこの世界の一部として振る舞えます。 身体はその約束の世界に属しており、そうすることでしか身体であることをわかる方法がないのです。 そして、身体は「私」だけでなく「私たち」がみんなその約束の世界に属していることをなぜか知っています。 一人でもそこから洩れていたら、その洩れた人の存在については、誰も何もわからなくなってしまいます。 皆で加盟している世界、皆が錨を降ろして繋がれている世界、それも、身体をとおして感じられるということ、 それが間身体性の意味、意義です。 皆の身体において「見ること」が、それぞれ、ただカメラのようであってそれだけなら、それぞれの世界は繋がりのない主観になってしまうでしょう。 医学が身体の組織や器官をくまなく調べて、同じ造りや機能であることを発見して、薬を使ったり手術したりできるようになりましたが、 その医学では、同じ造りである身体をたくさん並べて病気の仕組みを見通すことができるだけです。 「私のもの」であり「私自身」である身体について考える余地がありません。 「私」ってなに、「世界」ってなに、という問いに、バラバラの主観でもないし、うわべだけ統一的に見える客観でもない答えをだせないか、 そんなところに、間身体性が切り拓いた哲学が位置しているのです。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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#4のお礼のコメント: 【ヨーガと間身体性が関係しているとは思いもよりませんでした。 「意識を意識する事はできない。--殆どは身体存在の奥底深い意識での行為」 というあたりが間身体性とつながるのでしょうか?】 回答者: ヨーガ四十数年ですが、間身体性という言葉自体に出会ったのはこんかい初めてでした。只、何事にもせよ、言葉や概念の演繹・理論は物事のほんの氷山の一角にもなっていない部分でしかないということは気付いていました。ヨーガは意識の深い層に進んでいく修行ですので、ことばはほんのちょいとしたきっかけでしかないようです。つまり間身体性の次元での修行が大事かなと存じます。 #8のお礼のコメント: 【つまり私達もですが、お互いに世界を造り、共有している現実性のことではないですか?これなら私にもわかります。】 回答者: miko-desiさん。御子様も私も、その意識や存在って孤立してした存在ではないようですね。みんな一つの中で、それぞれ多層に亙って全体の中のちよいとしたきらめきの反射が御子様や私っていう自覚意識のようですね。それを全部自覚意識している意識を単なる照り返しの私達自覚意識は気付けないのでしょうね。孤立存在はありませんね。 昔アヴェロンで狼に育てられた少女が発見されましたが、まぁ社会から切り離された存在ではどうも社会の中での意識と認識経験がなかったようです。(でも、この少女は後天的かどうかは分りませんが、小頭に近く、知能も低かったそうです。昔は精神薄弱とかいう言葉で私達の大学もカリキュラムを組んでいましたが、その授業の必読本でした。いまは発達遅滞児とか発達障害とかに名称をかえていますが。) そうなんです。宇宙や世界は基底の存在世界から、ランダムにあちこちに噴出している火山や温泉のようなものでもないし、間欠泉でもない。それは一つとなって全体が常に湧出的に変化している。というアメリカの物理学者がいうので、私達はインドの数先年前の学者と同じことをいっているとびっくりしました。つまりそういう全体世界の共有の中で世界はあり、私達があるのだというのです。21世紀の科学と一致するとは思いませんでした。
- amaguappa
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雀さんたちの賑やかさ。人間に身近な小さなものたち、蟻やミツバチを通しても 彼らの種の一体性は世界との一体性であることが感じられます。 おや、最初のリーダーが囀った、ほらあそこだ、、、次々と来るぞ、一羽、まとめて三羽四羽、 また集まった、ほらお食べ、賑やかなことだ、、、 ここに、クリヤさんの身体は一幕の布となって、あの一羽やあれらの一羽一羽、あの囀りや町内に響き渡る囀りに、布が延びて届くのです。 その届いた先で意識を生み、知覚を生みます。変幻自在に布の形を変えながら、ただずっと一幕の布であることの明らかさがあるだけです。 一体性や共有と感じられる世界は、自らの一幕性や一貫性にもとづきます。それを全体視したり見渡したり俯瞰したりしないので調和と知ることもできず、また、身をゆだねてたゆたうように自他の融合という構造にすることもできないのです。 というのが、メルロ=ポンティの持ち味で、 この布は絡まり合って拮抗しており、その全体を見渡した視点はないのが、メルロ=ポンティらしさです。 しかしわたし自身は、東洋の人間の性質なのか、 拮抗・絡まり・侵食する布という存在形式よりも、もう少し他律的な調和を信仰しているふしがあります。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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#3,4,5,6、8 です。 天河童さんのコメントを読書します。 う~ん、私は朝二時におきますが、起きてから直ぐに来ているのだろう、雀さんのリーダーの最初の一声は、今は四時半ころです。大きな声で町内中に聞こえる声です。それが20分間くらいです。 それからおおぜいが起きてきます。向かいの屋根裏からとか、いろんなところから出てきます。 おおぜいで一緒の世界を造り、一つに為ります。そのさえずりはたいへんにぎやかです。 彼らは言語による情報交換よりも、一体化による共有だと存じます。
- amaguappa
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クリヤさんのお話は瑞々しいですね。 共有というありようではありますが、 間身体性(メルロ=ポンティの)には猛々しいものが潜む、ということを加えたいと思います。 キアスム http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/42889/m0u/chi/ 此処ではない其処の知覚、また意識は、其処に生起するけれども その生起の全体が「肉」であり、 ここに対する其処、また別の其処であるような変形のなかに、一貫性と同一性が保存され、 全体は、共立の関係であると同時に、浸食の関係なのです。 共有し共立するという俯瞰が不可能な地平を抱き込んでいるのです。 人は知覚を偏重し、意識を偏重してきました。 ここ、においてそれらを我がものと所有することから、主観客観の二元論が生じています。 ところがその代償に、知覚や意識の総司令部として我の身体は、唯一なのか交換可能なのかというジレンマに陥りました。 (脳死や臓器移植の問題は、この轍に両輪を取られています。難しい問題です。) 解脱とはどのようにあれ、知覚、意識を、ここに我がものに所有することから解放しています。 全一的な一体性が動態のなかに捉えられるとき、 身体という「織物」が更新され織直される地盤には何も無く、 其処へ延ばし、其処を織り込み、其処を喰らいながら 夥しい浸食を抱き込んで、それを平素のスタイルとしている、 このように、間身体は激烈なものであるといえるかと思います。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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#3,4,5,6 です。 やはり一つの世界にあって、その世界での共有ということが通底すると存じます。 現場臨場が必ずしも条件でない、知識や言語、推理や定義、ないしは演繹という機能とは異なるものだと存じます。 ちょいと脇になりますが、私は此処数年、自分の食事のときなど施餓鬼とは違うのですが、野生の生物たちのお世話をします。 最初は家内の指示で残り物を分けていたのが、自分への義務になってきてしまい、生物達にも請求されるようになりました。 家内は今度は、顰蹙しているようです。 朝早く(2時に起床します)、おおぜいの雀さんが訪れます。 彼らに言語があるのかどうか。 それほど機能のある言語ではなさそうですが、なじみになるといろんな言動が分ります。分担役割もありますね。 確かに情報交換しているのですが、かれらは知の機能よりもむしろ臨場的に、間身体性経験や認識ですね。 おおぜいで必要な場を作り、そこで共有するのです。面白いですね。言語的知機能はなさそうです。 神と一体。エデンの中に居て、知の実をまだ食していないようです。 そういうのって、間身体性というのではないでしょうか? つまり私達もですが、お互いに世界を造り、共有している現実性のことではないですか?
お礼
> おおぜいで必要な場を作り、そこで共有するのです。~そういうのって、間身体性というのではないでしょうか? つまり私達もですが、お互いに世界を造り、共有している現実性のことではないですか? これなら私にもわかります。 ありがとうございます
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.3のお礼、ありがとう御座いました。 ANo.3のお礼の内容で概略はそれほど外れてはいないようですね。 私も始めても勉強でしたので、あまり深くは理解しておりませんが。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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#4ですが、一番上のがURLではありませんでした。 http://www.geocities.jp/body_of_knowledge/03_meeting.html というのです。 なおもうご存じでしょうが、ご参考に。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%93%E6%80%A7%E6%84%9F%E8%A6%9A http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%93%E6%80%A7%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E7%B3%BB 私も勉強になったのです。 体が覚える、臨場、そして百聞一見に如かず。 朱に交われば赤く(朱かく)なる。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.3ですいろいろご勉強はされているようですが、補足で関連HPをご紹介します。 私もこれらをこれから勉強します。 1. Body of Knowledge - 身体知研究会(東海大学) 2. http--atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp-kiyou-pdf06-6-449-460-kawamura.pdf 3. http--idaten.c.u-tokyo.ac.jp-sympo-11-yamamoto_11sympo.pdf 4. http--www.embody.jinkan.kyoto-u.ac.jp-materials-sugawara080525.pdf 5. http://www.geocities.jp/zizi_yama60/com/Comtoha.html 6. http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/981013.html 7. ちょいと抜書きをしました。(サーチではURLの紹介に出てくるのですが本文を開いても場所が分りませんので) 【さらにメルロ=ポンティ-の間身体性を引用して、つまり人間の身体は孤立したものではなく、・・・本来、共同的、感情的、表現的なものとして、相互の関係の中でのみ存在する、ということだ。 身体の本質はコミュニケーションにある、といってもいい・・・と言う。 ...】 8. 私達インド哲学の勉強中の者もみんなでやると、みんなと同じような勉強にも為ります。きょうつうしてくるのです。 中には変わり者がいて、全然どこかの宇宙に身をおいている人もいるのです。ちょいと違うご勉強をされる方もおられます。 ヨガは身体も身体の構えも、そして身体の構成要素としてもプラナなどが大事ですし、瞑想も最後の目的への大事な行です。 こういうたくさんの行は、無論、意識や知識のないようでありますが、実際の行では体自体(からだじたい)が覚え、且つ、実行していきます。 しかし、そういうプロセスでも決して機械的になったり、無意識になることはいけないと戒められています。 意識を意識する事はできない。意識が意識しているのは、その内容や記憶、経験などです。 そしてこの意識にも数段階あり、氷山の一角しか意識内容を意識できていません。 殆どは身体存在の奥底深い意識での行為となっています。 間身体性というタームとそのメカニズム、その性格の理解は修行にはとても大事です。 でも間身体性という用語を私達は使っていません。サンスクリットですので適当な日本語は今、分りません
お礼
教えてもらったURLをちょっとだけみました。けっこうボリュームがあります。少しずつ勉強します。 ヨーガと間身体性が関係しているとは思いもよりませんでした。 「意識を意識する事はできない。--殆どは身体存在の奥底深い意識での行為」 というあたりが間身体性とつながるのでしょうか?
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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50年にもなりましょうか?碧海純一さんの法哲学の本で間主観という言葉を新鮮に読みました。 「間身体性」って事柄が非常に多様な世界に言われ、使用されますから意味や側面も多様のようですね。 でもこの自分の生きている肉体的存在や自分という生活存在(具体的肉体存在)がともにする、或いは現場存在する状況や場面での、意識性や感覚性がそこで条件付けられる事実をいうのではないですか? 一緒に現場経験をしているものの現場認識や事実の理解など。 ともに寝起きしているものの環境制約や意識などの形成など。 私は先生に付くことなく、殆ど何事も独学ですのでそういう人は現場経験がありません。「間身体性」がないのです。 でもヨガということではハタの場合もラージャの場合も一流に出会っています。そこでは記憶と現場経験があります。つまり「間身体性」で醸成したものがあります。 法学も同じ、図書館学もその実務も、大学事務も。そして労組の活動も。 理論とその勉強だけではないです。そこでは好むと否とに拘らず、「間身体性」で醸成されたものでなりたっています。そんなことをいうのではないでしょうか? 朱に交わって正に赤くなったのでしょうか。寝起きをともにした家族とは・・。 昔は気脈とか血脈とかいいましたが。そんなことではないですか? 眠っていても教室で勉強した事というようなこと。 そのように検索の結果、勉強しましたが。
お礼
あたがとうございます。丁寧にお答えくださったので,多少は理解が進んだきがします。 自分なりの理解は 状況や場面に、身体をもった自分が関与することで、自分の意識や感覚が変化する というもきですが 違っているでしょうか・・・・
- amaguappa
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たとえば遠近法や透視図法があって、 そこで建物や事物のかたちを対象として浮かび上がらせて把握することがてぎるでしょう? 同じように、こころのなかに身体的図式というものがあって、 まなざしは、そこで身体を対象とすることができます。 それと同時に、 あたかもカメラのような視点として、事物を対象とすることができます。 わたしそのもの、という身体を、一対象として(対他的に)とらえることと意識としてとらえることの二元論ではなく、 視点の機構として、そもそも身体的図式にのっとっているのだ、と考えようということです。 いずれにしても、他人が咀嚼した言葉より、ご自分で『知覚の現象学』に体当たりして、なんとなくでも感じられたことの方がすっと胸に落ちていくと思います。
お礼
>そこで建物や事物のかたちを対象として浮かび上がらせて把握することがてぎるでしょう? >同じように、こころのなかに身体的図式というものがあって、 >まなざしは、そこで身体を対象とすることができます。 ここで分からなくなります。「自分が自分の身体をまなざす」ことはできないと思いますので、こころのまなざしが自分の想像上の身体を思い描くということでしょうか? 間身体性とは心のまなざしで身体を思い描く一方で,その身体をもって対象を捉えるという意味なんでしょうか?? 自分で『知覚の現象学』を読んだらどうかという提案は最も適切なアドバイスだと思います。ただ,買ってはみたのです(みすず)が、歯ごたえがありすぎます。
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お礼
何度も丁寧な説明ありがとうございます。 >皆で加盟している世界、皆が錨を降ろして繋がれている世界、それも、身体をとおして感じられるということ、それが間身体性の意味、意義です。 少しわかりかけてきました。