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唯物論と唯識論の接点は?在るでしょうか?
唯物論と唯識論の接点は?在るでしょうか? 唯識における精神は唯物で言えば何?
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回答のお礼ありがとうございます。 ただ認識として疑問がありましたので再度 >>唯識論は八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つである つまり唯識論は仏教から出たものだということです。 ですから、解釈ではないということです。 唯識における精神は唯物で言えば何? というとやはり今の科学では脳だと思ってしまいますね、、、 その先は科学では未開ということです。 脳は精神を伝える中間地点と、個人的には思います。ですから、脳を過大評価し最終地点というは結論が早すぎるかもしれませんね。 心と声の話では、声と心をわけることはできません。 心と体を分けることもできません。認識するために別々に見ることはできます。右手と左手のように別々に認識できますが、一体です。 この一体は生命存在、とりわけ人間と植物、また太陽と水のように、ひとつとして完全なものはなく、補い合って完全に近づいています。つまり生命は相互関係で成り立っていて、お互いの調和やバランスが必要だとわかります。 ですから、唯物と唯識とは補い合って一体であり、接点で言えば、自分の存在の心と体ということになります。 体は、動物というより、ある機能、システムが働いていると思います。 昔、心だけ家に帰って、体だけ置いていけと唯心論者のいい加減さを喝破した言葉があったと思い出しました。 しかし唯識論は仏教哲学ですので、勝手な判断は間違いなのでしょうね。 しっかり学ばないと間違える可能性がありますね。仏教では我見といって、勝手な認識に執着し、教えを素直に学ぼうとしないことはたしか、罪のひとつとしてあげられてるのを見たことあります。 マナ識、あらや識など説明も難しいものが含まれてますよね、簡単に脳と答えることも、実は間違いかもしれませんね。正しいことは仏教で見つけてください。 >> 人間の体と心は別ものだと思っています。 確かに認識する段階では二元論として対象を分けてより明確に認識する段階がありますが、その2つは調和を必要とし、人間存在の一人の人の中で完全に一体であるという現実またその2つを切り離すことができない存在であるということが重要だとおもいます。生命存在にとっていえばということですが。 接点でいえば、声と心という分けられない部分から、接点があるといえますね。 ただ、体は体の機能でしかないので、その心を、発現する装置というところまでしかいえないんでしょうね。無意識層が脳のどこにあるかということはまだ誰もわからないとおもいますよ。細胞レベルや遺伝子も考慮すれば、偶然ではない自己まで発展するはなしではないでしょうか?
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- AXIS_
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精神とは脳の「働き」である と言う他の回等者さんの意見がいまいちピンとこないのですが、まあそれは良いとして。 >質量がゼロといわれる粒子でも 大概は実際には質量があったということになるようです これは今調べましたが、難しいですね。 アキレスと亀のパラドックスについては、こちらをどうぞ。 http://okwave.jp/qa/q5353015.html owlsjpの解答の通りで良いのではないでしょうか? ついでにこれもhttp://okwave.jp/qa/q5378370.html
- kobarero
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唯物論は「物」とは何かを正確に答えられないと思います。 唯心論は「心」とは何かを正確に答えられないと思います。 唯物論も唯心論も最も本質的なことへの回答を持っていないと思います。それは、なぜかというと、「物」も「心」も記号であって実体ではないからです。「実体」は一つですから、唯物論も唯心論も結局同じ一つの実体に対して違う角度から見ているに過ぎません。ですから、実体において、唯物論と唯心論は接点を持っていると思います。 唯識における精神は唯物論においても精神だと思います。唯物論の場合は、精神は物質に規定されると考えるのだと思いますが、「精神」という記号で表現される「実体」は「唯物論」と同じ一つのものだと思います。
お礼
形象と実在ということで僕も考えては衣類のですが 「物」も「心」も記号 と言うのは成る程と思いました 実体は一つですから唯物論の言う精神も唯識(唯心)論の言う精神も同じものですね 私は唯識論で言う精神の世界は唯物論で言えば性質の世界だと思っているのです。 勿論精神が性質で出来ていると思うので そう思うのですが 鋭い観点をどうもありがとうございました(*^^)v
- ga111
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>一般の意識+表象、思考などが 唯物では脳と言う訳ですね もともと、お互いに排除しあう考え方なので、そうやって割り切って考えるのも問題があります。 >私には脳における化学反応や電磁気反応と私たち意識は本質的に違うものの様に思えるのです >脳の働きが精神です と言われると 我々は化学反応なのだろうかと・・・ 現代生物学的(唯物論的)にはそういうことです。これは私はかなり証明されていると思います。だからといって、それが唯心、唯識を否定することにはなりません。視点が違うということなんですが、分かりにくいかなあ。
お礼
僕は脳と性質をPCとソフトに喩えます PCで通信しコミュニケーションしてるともいえますが ソフトが無かったらそれは出来ません PCとネットによって此処で意見交換できるわけですが ソフトはプログラムによって実現しますが 実際に必要なのはソフトの性質です ソフトがどのような性質を持ってるかでコミュニケーションやワープロ 表計算などが出来るのです。 脳も化学反応や微弱な電磁力等で動きますが それによって発生する性質が我々を実現すると考えているのです。
- AXIS_
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>核は点と言っても体積は一応在る訳で 点は面積も長さも無いので 数学ではないですが 質量がゼロの粒子も物理学であるとされていると思うけど? >物理学の世界には実際には点は考えられない アキレスと亀のパラドックスですねえ 解らない人にとっては、パラドックスになるのではないですかねえ >またその性質がその状態や要素を実現してるのだと思います。 「その性質がその状態や要素」が何を示しているのか良く解らないけど、 大体そんな感じで良いんじゃないかな。色や光の種類や強さなどで考えれば良いのでは(^^)v
お礼
質量がゼロといわれる粒子でも 大概は実際には質量があったということになるようです 物質がエネルーギーで出来ているという事は 粒子が在る という事は質量もあると考えるのが 自然な感じですが まあ物理学はよくは知らないので 一つの推測に過ぎませんが。 アキレスと亀のパラドックスは 僕としては アキレスと亀の間の無限の中間点は 追いつくまでの時間の無限の中間時点が対応しているので それを追い越す事ができると思います。 >「その性質がその状態や要素」が何を示しているのか良く解らないけど、 失礼しました あるエネルギーが在って(物質とか)それが持つ性質がそのエネルギーの状態や要素を 実現している と考える訳です。 性質と言うものが本当に在るのかどうかを考えたりしています。
- ga111
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唯物論(存在、物質が意識を規定する)の対語は唯心論(意識が存在を規定する)です。 唯識は「意識が存在を規定する」とするから唯心論に近いのですが、「無意識も存在を規定する」としています。すなわち、第7識と第8識はいわゆる無意識です。これは、唯物論的、生物学的、心理学的でもあると思います。すなわち、唯物論と唯識論はそういう関係にあるということです。(ウキペディアの 唯識 も参照) 「唯識における精神」= 一般の意識 + 表象、思考など と仮定すると、それは指摘のあるように、唯物論では脳でしょう。
お礼
一般の意識+表象、思考などが 唯物では脳と言う訳ですね 私には脳における化学反応や電磁気反応と私たち意識は本質的に違うものの様に思えるのです 脳の働きが精神です と言われると 我々は化学反応なのだろうかと・・・ どうもありがとうございます<m(__)m>
- AXIS_
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核は点であり、点は0次元の空でもあり、全体でもある。 性質や、エネルギーの強さ・密度は陽子や中性子の数や回転するときの角度や速さで性質が決まるのだろうか。
補足
ちょっとよく分かりにくいのですが 核は点と言っても体積は一応在る訳で 点は面積も長さも無いので 数学ではないですが 物理学の世界には実際には点は考えられない アキレスと亀のパラドックスですねえ >性質や、エネルギーの強さ・密度は陽子や中性子の数や回転するときの角度や速さで性質が決まるのだろうか。 陽子・中性子の状態や角度以外にもいろいろな要素があって性質が決まると思いますが またその性質がその状態や要素を実現してるのだと思います。 もし何でしたらもう少し分かり易く書いてくださるとありがたいです ありがとうございます。
- pupurr
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唯物論は事物の本質ないし原理は物質や物理現象であるとする考え方や概念。 唯識論は八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つである。 また唯識思想は、一切を「識」のみとする思想なので、極端なニヒリズムやエゴイズムに陥る危険性があり、瑜伽行や禅定を通じて学ばないと危険であるとされる。 接点で言えば「色心不二」があります。 体を構成し働かせる仕組みを「色法」、精神面の働きを「心法」 潰瘍性病変はストレスで胃粘膜の最表層部の細胞が剥がれ落ちる変化や病変をきたすので、心と体は一体の反応をします。 また声(色)と心(心)は一体で不二です。 「色心不二なるを一極というなり」という言葉があります。 「一極」とは真理の究極をさします。これひとつしかないということだそうです。 また人間と環境は一体であると「依正不二」では説きます。 人間がおかしくなれば、生態系がおかしくなったり、その相互依存の関係を忘れたことで環境破壊の問題が出てきたともいわれてます。 接点で言えば「色心不二」があります。
お礼
仏教での解釈をどうもありがとうございます 「色心不二」ですか 成る程そう思える面はあります ただ僕の考えは違っていて 人間の体と心は別ものだと思っています。 勿論関係は密接に在る訳ですが 体は動物 精神は人間と基本的には思っています しかし仏教の深い観察を教えていただいて 成る程とも思います 「色心不二」を接点と思いたいところですが 残念ながら私の考えと違う所があるので 大きな勉強におなったと感謝したいと思います 大変ありがとうございました<m(__)m>
- Mokuzo100nenn
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拙者は単純化して、物理学が唯物論で数学が唯識論に例えられると思っています。 その接点は数多くありますが、むしろ、相違点が重要で、その代表的な物に”無限”があります。 無限という概念は認識論である集合論から19世紀の数学が略完成させたとのことですが(ゲオルグ・カントール)、物理学では21世紀の今日でも無限の値をとりうる物理量(Observable)を発見していないと思っております。 (浅学な拙者が知らないだけかもわかりませんが) 現代物理学は数学という表現方法に依存せざるを得ないので、一旦、自然界の現象を良く記述する数学モデルに置き換えられると、その先の議論が数式を操作することに置き換わってしまい、数学上の特異点があると、自然界に無限が存在するかのごとき錯覚に陥ります。 しかし、これは物理学=唯物論において無限が発見されたことにはなりません。 紛らわしいことに、物理学では無限大という言葉を使いますが、これは一般に最大値を考慮する必要が無いほど大きな有限の値を意味しております。その傍証として、物理学では無限小という言葉を導入していることからも明らかですね。 観念論である数学に対比し、唯物論である物理学は数学モデルの解に頼るだけではだめで最後は観察・立証しなくてはなりません。 数学が公理系を用いて観念論で進めてよいのに対して、物理学では公理の導入は認められず、観測事実のみを原点としなければなりません。
お礼
素晴らしい見識だと思います 私も大学で「理科数」というのをやりましたが 自然現象を数学で表すのは難しかったのを憶えています 確かに数学のように物理が納まる筈はありません ブラックホールやビッグバンの特異点と言っても 点ではないと思います ある程度の体積は在るのではないでしょうか 数学が観念論で 物理学が唯物論という考えもそのとおりですね 唯識と唯物がこれで関係が証明されるというかどうかは別として 良いアイディアをありがとうございます(*^^)v
- juyjuy
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No.2,No.3です。 >もう一度失礼ながらお聞きしますが 貴方は脳の働きに過ぎないと思いますか?< そうです。精神というのは脳の働きにすぎません。 ただ、なぜ「脳の働き」が我々が「精神」という名をつけるほど、複雑(気に食わなければ「高度」といってもいいですが・・・)なものになったかは「哲学」と「自然科学」のさらなる研究が必要です。 今の学説では人類の祖先から500万年、アフリカの気候変動に対応できる「偶然に生まれた」精神作用が「適者生存」で発達し旧人(すでに宗教心を持っていたと言われています。)から新人(5万年前にアフリカから世界に広がりました。今世界にいるすべての人類の事です。)にいたり今日のわれわれと同じ感情、同じ精神構造(脳の働き)を持つようになったと言われています。 今の人類は(多分旧人も・・)言語によるコミュニケーションが出来ます。これも脳と声帯の発達によるものでこれにより「伝統」「精神文化」の伝承が出来るようになりさらに複雑な(高度な)思想が生まれてくるようになりました。 例えば質問者様の「人は精神によって出来ている。」という考えはかなり複雑なものです。 新たに立論しようと思えば過去の多くの哲学者・思想家の言説を十分吟味して他の哲学者、思想家との違いを明らかにしないと少なくとも世の中では認められません。すでに同様の事を言っている哲学者はギリシャ、中国、中東・・イスラエルを含む・・に沢山います。 そんなことは普通哲学者や思想家に任せておけばよいので、我々素人は多くの「まじめな」本を読み、ネットに書いてある事だけを信じないように注意しながら、自分の考えとして持っていればいいと思います。 私は技術者でしたが(今は退職しています。)自然科学、考古学、歴史が好きで沢山本を読んだだけの素人です。 ただ、この回答欄の中に明らかに定説と違う回答があるときは(見つけたらですが・・)現在の定説を紹介し誤りを正したいと思っているだけです。 貴重な議論をさせていただきありがとうございました。
お礼
こちらこそどうもありがとうございます。 私は大学も中退の しがない人間です 哲学科に行きたかったのですが 父の許しが出なくて 仕方が無いので中退して自分で考えました 我流哲学で考えています 哲学の世界は興味のある人には非常に面白い世界ですので どうぞ色々とご覧になって発見を続けてください まことにありがとうございました 失礼をお許し下さい またいづれ(*^^)v
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
唯物論は、「物質が世界の本質=心は二次的に物質(脳)の中に生じる」とする立場で(一般の人が日常なんとなくそう感じているのを素朴唯物論という)、観念論(唯識論、唯心論)は、「心が世界の本質=宇宙は心の中に生じている」という立場です。 物理学は、物体の性質を本質的に追求していくものですから、基本的に唯物論ですが、量子論の根本として不確定性原理が明らかになり、その「不確定性」が二次的に生じるのではなく物質の本性が確率波動であるとするコペンハーゲン解釈、さらにその確率性が有限化(存在性)するのは観察においてであるという事実の延長に、「人間原理=宇宙は認識を可能にするようにできている」という立場が(かなり宗教がかっているにもかかわらず)アカデミックに認知されるようになったのです。 「唯物論の物理の追求の果てに、観念論に至った」と言っても良いのかも知れませんが、それは「心が先」という事ではなく、「自我仮説(心)と時空仮説(物質)が、(不確定性原理の相補的不確定性を介して)相補分化している=全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)補完である」という事なのです(心が「先」な訳でもなく、先にあるのは無)。 全ての存在性が量子的な確率波動に基づくなら、無限につめ込むと存在確率の山が平らになり、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇の中に、仮想的な認識体の断面を切り、その仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光の向うに、自我仮説の補完(相補的不確定性)としての時空仮説を認識するのです。 (詳しくは過去の回答をご参照下さい↓) http://okwave.jp/qa/q5741329.html
お礼
私の考えは唯物論かもしれませんねえ 不確定や観察の問題は科学の一つの問題であって 哲学の世界に任される事もあるのではと思います しかし現代科学の最先端の解釈を教えてくださって どうもありがとうございます これは現代に生きる人間として知るべき解釈だと思いました はっきり言って最後の方はやや分からないような表現も在りましたが 自分なりに考えてみました ありがとうございました<m(__)m>
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お礼
私が唯識と唯心を混同してしまったようです。 ご指摘どうもありがとうございます 心と体は調和してないといけないですが 体(命ある)だけ在って心が無い(脳死とか) という事もあります 心だけ在って体(脳も)が無いというのは無いようですが 私は我々心を実現する為に体で生きる事を大切にしているのだと思います だから心があまり無いような動物は殺して食べている訳です どうも重ねて御解説頂き まことにありがとうございます<m(__)m>