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学問は唯物論と観念論で構成されていますか?

すべての学問は唯物論か観念論か、その両方にまたがってると考えてよいですか? もし、唯物論でもなく、観念論でもなく、またその両方から構成されるわけでもない学問があれば教えてほしいとおもいます。 質問1:学問をA、唯物論をM、観念論をIとした場合、命題「A=M∪I」は真ですか? 質問2:上記の命題が真でない場合、どの学問がM∪Iではないのですか?

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  • ok9608
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回答No.6

感想です。 学問について 論理学、哲学、数学などの実証不必要なものと 物理、医学、経済学などの実証必要なもの の大きく2分野に 分けたらどうか ということですが 基本的に賛成です。 学問は何のために創られたのか その理由は広く人のために役立つことであろう と思います。学問した結果は 人が広く共通理解できる言葉で残しておく必要があります。それは 論理的かつ実証が一つの条件のように思うのです。 何点かの例外を除いて 学問は論理的かつ実証になっているということではないでしょうか。 私が例外と思うのは 哲学、芸術、数学のように思うのです。 哲学は 論理もあり非論理もありますが 実証は必ずしも必要ではないように思うのです。これでは 人が共通理解できるまとまった言葉としては無理でしょう。ただし論理型の哲学は 数学の一分野のごとく理解されると思います。 数学は 理論的で実証がないだけで 普遍的な言葉として ユークリッド幾何学のように 歴史を越えて 人に広く理解されていると思います。実証がないということは 論理思考の訓練には役立ちますが 数学の役割はそこまででしょう。 芸術は非論理的と思われます。Aさんの評価は高いがBさんの評価は低いと言ったチグハグがおきます。しかし 論理実証のメスは徐々には入って行っていると思いますが 今のところは例外分野のようにおもわれます。 以上、参考にはならないと思いますが。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

大変参考になります。 学問分類の最上位概念は、Science か Artか、ってことかもしれませんね。 ありがとうございました。

その他の回答 (7)

回答No.8

Mokuzo 100nennさん おはようございます。 朝活してますが、まだ眠いです。 回答者の見解が偏ってきているみたいなので、回答します。 Mokzou 100nennさんのレベルなら、20世紀初頭のアメリカ哲学である、プラグマティズム(行動主義・実用主義)はご存知のことと思います。 プラグマティズムは、チャールズ・サンダーズ・パースが「形而上学クラブ」という仲間内の議論の中で、カントの「プラグマティッシュ」という言葉からなづけたものです。 そのプラグマティズムの心理学者のウィリマム・ジェームスの思想は、 経験という概念のもとに、一元論と多元論、理性論と経験論、観念論と唯物論を調停して「第三の道」を創り出すことで、世界を経験論的・感覚論的・唯物論的・多元論的に考えるものでした。 現在においてプラグマティズムの思想は成功したか、否か、どうなっているかはわかりませんが、現在において「第四の道」を模索する時期かも知れません。 しかし、哲学の歴史を学んでいると、ほとんどやりつくしているように思われます。 今回のMokuzou 100nennさんのご質問の趣旨ですが、現在の学問は専門化、細分化されてしまっていて、本質(真理)がわからなくなっているように感じます。 学問を一元化するか、あるいはこのまま多元化すべきか?うーん。 ところでMokuzou 100nennというニックネームはいい言葉ですね。 私は、現在、畳二畳ほどのプレハブ小屋で思索してますが、将来は千利休が造った「国宝・待庵」で、余生をおくりたいと思っております(笑)。 私の点前がMokuzou 100nennさんの役に立てれば幸いです。 じめじめした梅雨の天候が続くようですが、ご自愛ください。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

どうもありがとうございます。 方丈記みたいですね。 私は、城の天守閣か、大寺院のお堂の様な広い部屋に住みたいです。

回答No.7

再々再度の補足に対する、再々再度の再度の回答をします。 美学も、哲学も、「学」と言っている以上、学問の範疇に入るんじゃないですか? 主観を中心とするものかは、別として。 主観を中心とするから、観念論という訳でもないですよね? 観念論というのはすでに申し上げているように認識論上の区分です。 そして観念というのは実在の反映とか、「写し」です。 だからほとんど実在といっていいものです。 美学は主観と客観の中間、感性に基づきます。 主観だけでは、美というものは解明できません。 美は主観的であるとともに、普遍性があります。 主観的だから、何が美かは、人それぞれです。 あなたが、あるものを美しいと言っても、別の人はそれを美しいとは言わないかもしれません。 カントは「判断力批判」で、美的判断を「趣味判断」といっています。 美は趣味と同じだから、趣味といったら各人いろいろな趣味があるように、美もそれぞれ。 にもかかわらず、美しいものは誰が見ても美しい、普遍性があります。 カントは人間には共通の共通感官、とか共通感覚があるからだ、といっています。 でも、それはよく考えると循環論、あるいは堂々巡りになります。 いずれにしても、美は主観的であるとともに、主観を越えたものです。 古代ギリシャでは、美を「イデア」といいました。 美の範型・モデルがあらかじめ先天的にあり、私たちは主観を通してその「イデア」を垣間見るのだ、と。 だからギリシャ的にいえば、主観は、客観的に普遍的に存在する「美のイデア」を知るための手段にしかすぎません。 つまり、美は主観の中にあるわけではありません。 そして次に、哲学ですが、哲学には依然として唯物論・唯心論、観念論・実在論の考え方の対立が、残っています。 あなたは哲学なども、主観を中心とするもの、といいますが、主観を中心としない哲学もあります。 唯物論・実在論は主観を中心としません。 唯物論・実在論は、主観だけでなく、人間がいなくたって、実在は、物質はある、という考えですから。 哲学もいろいろです。 それでも哲学は学問です。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

何度もありがとうございます。 碩学の皆様からのアドバイスを聞き、私は学門に対するtaxonomyは、まず最初にArt と Scienceに二分するのが良いと思うようになりました。

回答No.5

唯物論の論拠は物理学です。 その物理学の探求の果てに、量子論のコペンハーゲン解釈 において、人間原理(特に「強い人間原理」=認識を生じる べく物理は定められているor認識される事によって存在は 生じる)といった、観念論に至ったのだ。 その根底にある不確定性原理の「相補的不確定性」における 『相補性』を成す2対、即ち「位置(S)と運動量(St)、時点(T) と質量(Ts)」とは、時間軸(自我仮説=観念論)と空間軸 (空間仮説=唯物論)の相容れない両立ぶりを示している (絶対的確定=無限不確定(無)への発散)。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

回答No.4

補足に対する再度の回答に対する、再々度の補足に対して、再々度回答します。 ご承知の通り、デカルトは「省察」の第1で、学問を数学・幾何学・代数学のようなひとつの原理・原則から必然的に導き出せる演繹的学問と、その他の経験的にそれを確かめなければならない、実験などによって検証しなければならない、経験的学問とを区別しています。 あなたはその経験を必要としない学問に論理学と、哲学などを含めているかもしれませんが、論理学にもいろいろあって、記号論理とか、形式論理などは経験を必要としませんが、超越論的論理学(カントのいう先験的論理学)などもあり、その場合は経験の論理ですから、経験が全く必要ないとも言えません。 それに哲学にしても、デカルトからスピノザやライプニッツなどの理性主義・合理論のように経験を必要としない哲学もあれば、ロック・ヒュームなどの経験を必要とする哲学もあり、どちらも必要とする、両者を総合したカントやヘーゲルの哲学もあります。 歴史学や医学や心理学・経済学などは仰るように実施調査が必要で、経験を必要とする学問に分類できるかもしれませんが、物理学にしてもその中に入るかもしれませんが、同じ物理学でも理論物理学もあるし、理論経済学というものもあり、さまざまです。 だけど、そのような学問の分類と、唯心論・唯物論、観念論・実在論の対立がどのような関係にあるのでしょうか? 私は別な事柄だと思いますが、論理学に観念論的な論理学なんてなく、唯物論的な論理学なんて無いように、医学にしても唯物論的な医学もなければ観念論的な医学もなく、心理学にしても唯物論的な心理学もなければ、観念論的な心理学もないし、経済学でも唯物論的な経済学も観念論的な経済学もないと思います。 ただ、哲学に関してはまだ、そのような対立が残っていますが・・・・・ したがって、学問の分類として唯物論も観念論も関係ないと思います。 ただ、演繹科学と経験科学の区別があるだけだと思います。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >ただ、演繹科学と経験科学の区別があるだけだと思います。 そうすると、科学で無いもの、たとえば美学とか哲学など主観を中心とするものは学問の範疇に入れないということになるのですか?

回答No.3

補足に対して、再度回答します。 すでに申し上げましたように、唯物論・唯心論、観念論・実在論、というのがまだ残っているのは承知していますが、それは17世紀のデカルトの心身二元論に始まる対立で、心とか精神が実体だという考えは批判され、否定されたのですから、いまや心身二元論というのはありません。 したがって、唯物論・唯心論、観念論・実在論という対立の構図そのものがもはやないと考えています。 何度も繰り返すようですが、その構図が残っていて、依然として議論されているのは承知していますが、それはトラック競技でいえば周回遅れのランナーと同じだと思っています。 せいぜいそれが有効なのは19世紀と20世紀の半ばまででしょう。 今は21世紀ですからねえ。 学校も周回遅れの考えを生徒に教えているので、生徒も洗脳されて、デカルトの心身二元論を正しいものと思っているのです。 何の根拠もなく、無批判に。 あなたもカントの「純粋理性批判」の弁証論の中の1章、「実体論的誤謬推理の批判」を読んでみてください。 デカルトの心身二元論がもはや無効だということが分かると思います。 私たちは「私は・・・・・」といったり、「時間は・・・・・・」といったりすると、その主語を実体的に存在するものと錯覚する傾向があるのです。 アリストテレスも「文法で主語に置かれたものが実体である」といっています。 そういって、主語と実体を同一視しました。 主語が具体的なもの、物質であったら、実体と考えたとしてもそんなに間違いではありませんが、ひとたび、抽象的なものを主語において語ると、それも物体のように実体的に存在するように錯覚します。 かつて、古代ギリシャのプラトンも「魂は・・・・・・」といって、その魂を実体、そして永遠に不死の実体といいました。 それも「魂」を主語において、それを実体と錯覚したものでした。 カントはそれを激しく攻撃しました。 主語に置かれたからといって、実体とは限らない、と。 それは実体論的誤謬推理なのだ、と。 それが実体であるかどうかは言葉だけからは判断できない、直観によって規定される必要がある、と。 直観によって規定される必要があるとは、それが感覚によって確かめられるか、どうか、ということです。 心とか精神は目に見えません、感覚もされません。 どうしてそれが実体であることがあるでしょうか? このカントの批判以降、心身二元論は維持できなくなりました。 同時に、唯心論・唯物論、観念論・実在論という対立も維持できなくなりました。 ても、まだ周回遅れのランナーが今もいるということです。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

再度の投稿ありがとうございます。 すると、学問領域を大分類しようとするときに、分類のキーワードには何がふさわしいのでしょうか? 私は数学や論理学、哲学など、実験や実地調査を必要としない学問領域と、歴史学や医学や心理学、経済学など、実験や実地調査が必要な学問とに大分類するのが良いと思いますが、いかがでしょうか?

回答No.2

唯心論と唯物論が、存在論上の対立。 観念論と実在論が、認識論上の対立。 存在論上の対立というのは、世界が何によって成り立っているかという考え方の対立で、心とか精神によって成り立っているというのが唯心論、それに対して物質によって成り立っているというのが唯物論。 認識論上の対立というのは、世界が何によって成り立っているかはとりあえず棚に上げて、それが観念を介して間接的に認識できるというのが観念論、それに対して観念など介せず直接的に認識できるというのが実在論。 したがって、唯物論と観念論という対立はありません。 よく観念というと虚構だとか幻想と考える人が多いですが、デカルトやロックやカントにとって観念というのは実在です。 たとえば、ゴハンを食べるのも観念、車に乗るのも観念、セックスをするのも観念、観念でないものを探すのは大変なくらいです。 つまり世界に存在するものはたいてい観念です。 観念は実在の反映です。 実在そのものではないけど。 そしてそのような対立が始まったのは17世紀にデカルトが、世界を心的なものと物体的なものを二元的に分離し、心を実体、物体を実体と言って心身二元論を唱えてからです。 そこから、唯物論と唯心論の対立が始まりました。 認識論であれば、カントから、観念論と実在論の対立が始まったとされます。 デカルトにはそのような認識論上の対立はありませんでした。 なぜって、デカルトにとって、心と身体の結びつきは神がそれを保証していたからです。 神の存在が疑わしくなって、心と身体を結び付けているきずなが、無くなり、その結果認識論が始まりました。 つまり私の認識が、対象の的中するきずなが何であるか、が問題になったからです。 カント自身はどちらかといえば実在論者でした。 カントはデカルトの神に代わって、「カテゴリー」の存在が私の認識と対象の一致を保証しているものと考えました。 カントは現象と物自体を区別し、時間空間の中にある物理的物体は自然科学ですべて認識できるが、しかし時間空間の中にない、霊とか魂とか、その種の「モノ」は認識できないと言いました。 そしてカントは「純粋理性批判」の第2部の弁証論の「実体論的誤謬推理の批判」で、デカルトの心が実体という説とプラトンの魂が不死という説を共に誤謬推理だとして批判し、徹底的にデカルトの心が実体という説を論破しましたので、以後、誰ひとりとして心とか精神を実体という哲学者はいなくなりました。 いい換えると、心とか精神は独立の実体ではなく、身体や脳の派生体、その機能と考えられるようになりました。 現代のアメリカの「心の哲学」のデネットや、チャーマーズにとって、心は身体という物理的なものに基礎を置く、何らかの随伴現象だと考えられています。 帰納主義の考えによれば、心とは刺激・インプットと反応・アウトプットを中継し、それを転換する装置と考えられています。 このように考えの背景のもとにあなたの質問を考えると、まず、唯物論と観念論の対立というのは存在しない、ということ。 そして観念というのは虚構でも、幻想でもなく、実在であり、正確に言うと実在の反映ですので、「すべての学問は唯物論か観念論か」というのは無いと思います。 無いのですから、「唯物論でもなく、観念論でもなく、またその両方から構成されるわけでもない学問」というのもないと思います。 したがって、唯物論OR観念論という選択肢はありません。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

ありがとうございます。 先生の文章はいつも明快で、助かります。 存在論と認識論は互いに独立に成立していると理解しましした。 先生の解説によれば、学問は 1.唯心論であり観念論である学問 2.唯心論であり実在論である学問 3.唯物論であり観念論である学問 4.唯物論であり実在論である学問 の四種類があるということでしょうか。 1.の例として宗教学や教育学 3.の例としては理論物理学 4.の例としては実験物理学や全ての工学 などが浮かびます。 しかし、2.唯心論であり実在論である学問の実例が浮かびません。 また、数学は上記の四分類のどれになるのでしょうか。 一見、1.の唯心論であり観念論である学問のように思いますが、人類が滅亡した後の世界で、人工知能が数学を駆使して課題を解決する姿を考えると必ずしも数学は唯心論ではないと思いますがいかがでしょうか? 私の理解に不足なり誤解なりがあれば、ぜひまたご教示いただきたくお願い申し上げます。

  • yuniko99
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回答No.1

私の存在性思想は唯物論でもなく観念論でもなく、その両方にまたがって主張されています。 私のことを見て頂ければ分かると思います。検索しても出ます。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

それ学問ですか? 学問の属性分類に関する質問なのですけど。 ありがとうございました。