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「ペラギウス論争」とは結局?
「ペラギウス論争」とは結局?
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ペラギウス主義(この場合 ペラギウスおよびカエレスティウス)をアウグスティヌスと比べてみるならば ○ 律法・理性(知性)・自由意志の尊重に対して 恩恵・信仰(超理性・非思考)・《自由にされた自由意志》が第一に来る。 ☆ というところだと思います。 専門的に学んだわけではありませんで 解説から引きます。ペラギウスらは 自由意志を恩恵によって与えられたものとしているので そこらへんが複雑になるようです。つまりそれに対してアウグスティヌスは 初めからの自由意志をそのまま持ち出すことを控えて 恩恵によって《自由にされた》自由意志というふうに説明しようとしているようです。 ▲ (金子晴勇:ペラギウス主義について) ~~~~~~ ペラギウス主義は恩恵の内容として自由意志を考えているので 自由意志と恩恵との関係は 内容的にも両者は《同一的》である。さらに自由意志により律法を実現し 永遠の生命に値するという功績思想を展開しているゆえに 《連続的》である。 しかるにアウグスティヌスはこの連続的見方を アダムの堕罪以後では自由意志は罪の奴隷的拘束のうちにあるので 神の恩恵によりこの奴隷の縄目から自由にされなければならないと説く。 ここから彼は 《自由にされた自由意志》を強調する。 このようにしてペラギウスの連続的な考え方は否定されるが 連続性の真理契機は保存され生かされる。つまり ペラギウスと同様に 律法は自由意志によって実現されるとみなしながらも そこに自由意志が罪の奴隷状態から解放されるという中間規定が入って来て 義への愛が自由意志により生じ 愛が律法を成就することになり ここに非連続が連続へと質的に飛躍することになる。 (アウグスティヌス著作集 9 ペラギウス派駁論集 1979 〈総説〉pp.344-345) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここで《愛》は 無根拠だと捉えます。無根拠において持ち出されているのだと考えます。 かんたんですが あとは 三人目のペラギウス主義者であるユリアヌスの議論があると思います。これは ご存じのように 情欲論です。いわゆるクリスチアニズム正統派は アウグスティヌスが『ユリアヌス駁論』で応じています。 ▲ (金子晴勇:ユリアヌス駁論の解説) ~~~~~ 主題となっている争点は アウグスティヌスの『結婚と情欲』をユリアヌスが徹底的に批判したことから 原罪と情欲の関係に移行している。 そのさい結婚と性欲との関連に論争が向けられ 性欲を賛美するユリアヌスとそれを罪の担い手とみなすアウグスティヌスとの間に大論争が展開した。 (アウグスティヌス著作集 30 ユリアヌス駁論 2002 p.514) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この議論の内容は 要約しがたいように思います。わたしにはまだ出来ていません。 基本的には 先に見た議論と同じ筋だと わたしには思えるのですが なかなかうまくまとめ得ずにいます。 たとえば モーセの律法をこのわが身において実現することができるのは――アウグスティヌスにあっては―― 恩恵によって《自由にされた》自由意志によって初めて可能となる。情欲からの自由を得ることができるのも 同じようなのだというふうに言おうとしていると思うのですが 果たしてどうでしょう? かんたんですが。
お礼
ぶらじゅろーぬさん、回答をありがとうございます。