- ベストアンサー
教育議論争についてどう考えるか
教育議論争があの時期に行われたことについて、その歴史的意味をどう考えますか?? 教えてください。 また、論争の争点について論者ごとの主張をわかりやすく教えてください。
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
>教育議論争があの時期に行われたことについて、その歴史的意味をどう考えますか?? 教えてください。 また、論争の争点について論者ごとの主張をわかりやすく教えてください。 あの時期とはいつのことだろうか? 仮に、”ゆとり教育”に関する議論があった時期であれば、歴史的意義は低いだろう 教育基本法改正の経緯でも同じことで言える そもそも、教育議論争(そもそも、この言葉が存在しえるのか?)という概念にしても怪しい 例えば、昨今のイジメ問題に関する論説で示唆すれば イジメ問題は、社会構造論(社会学的)見地での評論が多いが、これは片手落ちというしかない 実際に、諸外国ではイジメ問題に関して、臨床教育論・教育倫理学・臨床心理学などのフィールドで個別事象・個人・個別事例を勘案して検証し、問題解決が図られる しかし、日本の教育論争では、概して制度論もしくは、法整備などのマクロの視座での論争が巷説では多い もっとも巷説が専門的な知見がない故の障害はあるにしても、総論的すぎる認識で教育論をしている傾向はある はっきり言えば、質問者が求めるような教育評論家の論説は、現場無視(軽視)の論説が多く、一般人向けの総論的ものが多い。 総論を否定するつもりはないが、イジメ問題にして考えられるように、ミクロ部分への検証が皆無になってしまう危険性がある もちろん、制度論的なアプローチを否定するつもりもないが、専門的領域になれば途端に専門化してしまうし、専門的情報を平易に表現させて齟齬が生じないようにすることが難しい 齟齬による危険性は原状回復できない事例を鑑みるに、教育では厳格さを要請する傾向あると言えるだろう はっきり指摘しておくが、教育専門家は、評論家の類を基本的には評価しようとしないし、評価する価値を認めないだろう 積極力ある論説はあるが、それが端端汲々であったり、視野狭窄であることが多いからである 相対する事象が人間であり、しかも、個体別に検討する必然性がある分野だからこそ、総論的な対応は出来ない とかく総論的な評論に陥るしかない教育論は、相応の知識・知見なしには論説するに適切ではないのであるし、総論の危険性を大前提にしていない人間は、踏み込んではならない領域だろう そういう意味で、質問者には警告しておこう 要約解説は多々あるが、それを理解する大前提・知見が足りない一般人が理解するには適切さに大きな問題がある・・ということである 専門家ですら自問自答し続けている現実があるのだから