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敬語について考える
- 敬語は言語表現であり、敬意を表わすものである。
- 敬語は上下関係を明示する言語規則であり、内外の関係を明示する言語コードでもある。
- 敬語はコミュニケーションの道具であり、第三者間の上下関係を表わす言語記号でもある。
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こんにちは。前回の続きで恐縮です。 また、4)を「日本人の美意識(美徳)」と置き換えていただいたほうが、より妥当のように拝察致します。 (1)でご教示下さった中国における敬語の衰退と消滅は、とても興味深いものでした。 本当にありがとうございました。 またその一方で、先の敗戦を経て世界観や価値観を大転換させられたであろう日本人にとり、 馴染み深い敬語というものが、一見衰微しつつあるような感があれども、 存続し続けているどころか二重敬語にまで及んでいる現状つき、 あらためて考えさせられました。 先のご質問(1)(2)における皆様のご回答のいずれも、とても頷かされ、参考になるものばかりでしたが、 中でも、(2)のNo.4の「日本人の美意識」、やはりこれが日本語の敬語の重要な本質の一つであろうと、私は考えます。 これは、日本通でない外国人に通常説明する際に、「それは日本人の美意識ですよ」 と言ってしまえば、多少なりとも、有無を言わさず相手に納得をさせやすいもので、 西洋哲学や論理で説明づけられない余地も包含するものです。 この場合の「美」とは、単に美術的、美観的な要素に加えて、精神面にまで及び、 例えば「信言不美、美言不信」につき、中国の大まかな意味合いが「甘言に騙されるな」であるなら、 日本のそれは「心が美しい/醜い」の精神性にむしろ重点が置かれる解釈と捉えられるのではないでしょうか。 そして「真善美」のうちの「真」「善」と互いに拮抗し、日本人の美意識/美徳がそれらに勝ることも多々あり得て、 例えば敗戦後の問題から政治家或いは企業幹部の引責辞任といった、非常に広汎な事例において散見出来ると思われます。 ただやはり、自国の文化を肯定した上での、言葉のかぎりを尽くした国内外への説明が為される必要性を感じるのですよね。 もちろん、敬語の悪しき点、時代性との絡みを鑑み、極端な国粋主義に陥らぬように重々注意すべきでしょうけれども。 この点につき、このたびのご質問に関心と期待を抱いているのです。 なお、日本語の敬語が「マクロ的に見ると、上下関係を肯定しているのでは」「平等主義と矛盾しないのか」 というご質問につきましては、 前者は教育機関や芸能分野の師弟関係にこそ現状では相応しく、 後者は(栄誉称号)といった尊称(称号)と平等主義との併存と捉えれば、さほど差支えがないように思います。 つまり、大革命時に「自由・≪平等≫・博愛」を掲げたフランスにおいて、幾多の政局の混迷を経て今なお、貴族の爵位や"de"が国内外の儀礼で用いられているということ、 さらには、コルベール委員会やそれに準じた企業幹部候補生として、 グラン・ゼコルの卒業生とまではいかなくとも、「それ」により若干有利に事が運びやすいという傾向は否めないこと一つとっても、 さほど日本の敬語がそれほど「平等主義」と矛盾するものとは、私としてはちょっと考えにくいところではあります。 来週初めに、是非また拝見させていただきますね。 よろしくお願い申し上げます。
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- ENERGAIA
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そもそも、人が日常において尊敬語・謙譲語を使うとき、相手の何を見てそうするのでしょうね。 社会的地位・個人的立場を見て、でしょうか。 相手の地位や、自分と相手との個人的な位置関係がわからず、しかしそれでも敬語を使うことはあるのでしょうか。 ほぼなさそうです。あるとすれば、自分の心の中で、相手の地位を確立しているからでしょう。ということで、 >そこで、敬語は比喩表現の一種ではないのかな、と納得したいのですが、 これに同意です。
お礼
お礼が大変遅くなってしまいました。 いろいろ考えていて、混乱していますね。 敬語は比喩ですよ、と納得したい私と、 それで納得しない私と、その両者を、冷ややかに見下している私、 三人寄れば文殊の知恵とか言いますが、空回りが止まりません。 上下関係の比喩と言う説明は、確かに判り易いのですが、またまた何処かから、私が出てきて『天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず・・・』とか、言い出すんです。 ただ、このサイトは、見知らぬ人同士の、話し言葉の研究にはぴったりかも、敬語、丁寧語、タメ口等々色々な表現法があって面白いですね。 有難う御座いました。
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
敬語は比喩ではないかという推察は面白いと思いました。 確かに、事を報告、的確に説明するだけにおいては、必要性もなく、 かえって回りくどいのでは、と感じることも無きにしも非ずです。 そこにあえて情緒的なクッションを入れる。 さて、 「あなたのお家に子供が忘れ物をしたのだけどありませんでしたか、 本当に無いのならしょうがないけど、探しておいてください」 別に失礼じゃないし、的確に自分の要件を伝えていて、 分かりやすいっていう人もいるかもしれませんね。 「内の子供がそちらにお邪魔したようなんですけど、なんだか忘れ物してきたみたいなんです。 すいませんが、もし気づいたらまた教えてくれたらありがたいのですが」 同じ内容ですけど、ちょっと印象が違いますよね。 本来は、言葉は心を伝えるものじゃないかと思うんですね。 イデアって、このカテでは、イデアの大安売りみたいにとびかっているけど、 物に例えるとか、普遍的な例をあげることは、伝えたいことをより分かってもらう形を捕る という気持ちからくるものであって、結局は出発点は同じになりますよね。 客観的な事象「詞」を、主体的なオブラート「辞」でわざわざあやふやにごまかして、 つかみどころのないクッションをおいてどうとでもとれるようにすることは、 かえって、輪郭を分かりやすくすることでもあると思うのです。
お礼
『忘れ物してません?』 文字で書かれた文章ですと、この文字が、どんな意味を持つのかは、意外と曖昧で、そもそも、忘れ物をしたのは、誰なのかすら分かりませんね。ところが、これが特定の人の間で、特定の時間に発話されたとしたら、これだけで、ご回答の例に挙げられた意味は、殆んど全て伝わってしまいそうですね。あるいは、電話だとした場合でも、『忘れ物してません?』と電話口で尋ねる前に、相手から『忘れてるよ』と言われてしまうかもしれません。 言葉と意味、敬語と敬意の関係は一般的な記号論のように、単純なものではないようですね、敬語と言う部分的な対象に絞ったにもかかわらず、謎また謎の、迷宮のようです。 敬語は比喩、確かにそう申しましたが、『下さいな』『召し上がれ』『玉書』とかは、空間的喩えや貴重品の喩えが、判り易いですが、それで全てが収まらないから、困ってしまいます。 >つかみどころのないクッションをおいてどうとでもとれるようにすることは、 >かえって、輪郭を分かりやすくすることでもあると思うのです。 どうやら、頭が固くなったか、廻らなくなったか、 成る程と、納得するのか、えっ、何でと、疑問を表明するべきか、 学生時代に、教授から言われたら、成る程と納得していたでしょうか、 昔から変わっていませんね、えっ、何でと、疑問を表明して、叱られてましたね。 要するに、分かるということ自体が、あやふやだと理解しました。 有難う御座いました。
- mashumaro2
- ベストアンサー率58% (99/170)
No.3です。勝手ながら補足をさせていただきますね。 日本人の美意識の一端である敬語のうちでも、謙譲語は独特なものに映ります。 古今東西において酷似する例として、そう多くは見当たりません。 (お隣の韓国では謙譲語があるようですね) その自ら畏(かしこ)まり、謙(へりくだ)ることで相手を高みに上げるという、 ある種の「引きの精神」が、 他の回答者の方々が列挙なさるところの「天皇制」「雅(みやび)」と関連性があるように察せられるのです。 たとえば伊勢物語の在原業平や源氏物語の光源氏を挙げますと、 やんごとなき貴種でありながら、それゆえ共に政争に巻きこまれ、 本来なら座するべき中枢から地方に下るという排除の悲運に翻弄されます。 「鄙(ひな)び」た周縁の地にて、現実の都ならびに「実景を断念」する代りに、 都を恋しく思い自らの心象に都を「失地回復」すること、つまり、 世が世ならと憂うほどに帝に対しても遜色のない皇統の血筋の者が、 政治的位相の敗北という劣等感の「代償」として志向する 精緻を極めた文化的な美意識と自尊心が「みやび」の本質と言えるのではないでしょうか。 そしてこの「みやび」を中央の頂点にて君臨し具現化するのが帝(天皇)であり、 だから帝個人ではなく、万世一系こそが文化的な理念として尊ばれるのであって、 現代に生きる私達日本人の頭の片隅に置かれた、 ある意味において信仰とも言えるような先の天皇制の存在と、 儀礼的体系的な敬語やら謙譲の精神などとが、 真に不思議ながらもどこかで通底しているように思われるのです。 それにしても、見られる、の「られ」は不思議ですね。 遠まわしに婉曲的な効果を狙ったものなのでしょうか。 地方ごとによっても用いられ方が異なりそうですね。 週末は京都に行くので、よろしければ私のほうは後回しになさって下さいね。 よろしくお願い申し上げます。
お礼
お礼が又しても遅れてしまいました。 読書台に本を二冊、開いて重ねたまま、ここ数日、一頁も進みません。 下に、脳物理学の本、その上に、文化人類学と言うか、文献学と言うのか、いわゆる「テクスト」に関連した、日本人には難解な神話の話。作り話のような偶然に、二つ開かれた頁の下に、両方とも、第○章 記憶 と。 千分の一ミリ秒という単位と数千年と言う時間を隔てた、別種のテクストが、同じ記憶に繋がっていくことを、そのまま抱え込むのに苦労しています。 それと、今週、金魚鉢が模様替えで、何処に何があるのか慣れるまで、使い方が判らず、これまた難儀しております。 いきなり、見苦しい、愚痴と言い訳で、本当に申し訳ありません。そんなことで、なかなか敬語の問題に、集中する時間か取れませんでした。 京都へのご旅行前の、忙しいところでご回答をお寄せ頂き、有り難く拝見いたしました。出発前から、平安の絵巻物の雅な物語に浸って、巻物の続きも、きっと愉しいものと成った事と、想像させる、行間でした。 敬語と平等主義の問題も気になるところですが、一先ず棚上げして、今回の質問の整理の頃合いかと考えています。それにしても、ご回答を拝見していて、敬語の問題と敬意の問題を区別したり、記号論的に考えることが、どういうことだったのか、ちょっと混乱してきましたね。 連休前の休日ですから、久々に、のんびり考える時間が取れそうです。 有難う御座いました。 あら、文字数がカウントされていますね。お礼も2000文字になっています。 やや、パリの写真ですか、金魚鉢の整理をしなければ・・・
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
「シニフィアンとシニフィエ」 付け焼刃的にウィキを見てみました。 鶏と卵の関係はいざ知らず、シニフィアンとシニフィエに関してはシニフィエが先なのでしょう。 列挙されている定義は、いずれも力関係における弱者が用いるもの、という共通点を持っているでしょう。 私は、これを怖れと総称したわけですが、その発露のひとつとしての敬意の生じる意義、という点について愚考してみました。 「あがる」と持ち上げ「くださる」と謙る用法もヒントのひとつになりますが、これは精神性の上下に関わってくるはずで、結局のところ、相手を「非動物的な存在である」と認識(あるいは表明)することが敬意なのではないか、という気がしてきます。 そうすると、「あなたは私に比較して(動物的ではなく)明らかに人間的です」 このことを言語によって表現しようとするのが敬語ではないかということになります。 そのように表現された側は、あるいは、逆に、「私はあなたより動物に近い存在です」という意図を表明された場合、敬意を受けたと感じることができるのではないでしょうか。 無論、この場合の精神性・人間的という言葉は多義的なものであって、いわゆるヒューマニスティックという意味とは別物を意図しています。 単に「本能的な感情によってのみ動いているわけではない」といったような意味に解釈していただければ、と思います。 やくざの子分が親分に使う敬語も、天皇陛下に対する敬語も上のような意味で同根であろう、という意図です。 端的に言うと、敬語とは本能からの脱離を目的とした表現ではないか、ということです。 人間存在自体が本能のみの動物からの脱離(あえて進化とは申しませんが)であったことからも、また、それに言葉が(おそらく)決定的な役割を果たしたであろことなども考えると、一層そう思えてきます。 猿などが服従の印として毛づくろいを行なうことは知られています。 犬猫などによく見られる行為では、信頼と服従の表明として飼い主などに腹部を上にしてみせます。 いずれの場合も、自らの弱さを敢えて示すことによって相手に対する畏怖を表現していることになるでしょう。 本能の壊れてしまった(あるいは本能以外に存在意義を見出そうとすべく出現した[のであろう])人間としては、詞の加工によって、怖れとしてのシニフィエを具体化させたのではないでしょうか。 「>する、を、しなさる、しなされる、と言い換えて、なぜ敬語になるのか。」という点にここで感想を述べさせていただくのが良いと思いますが、 「為す」という語が、創造につながるということがひとつの鍵かもしれません。 (意図して)為すためには本能以外の力が必要とされますから、単に「する=行なう」よりは上位の行為という暗黙の(あるいは無意識的な)了解が敬語らしめているのではないか、ということです。 「辞の意味作用」に関して何ら探求することもなく、取りとめもない妄想的な感想になってしまったようです。
お礼
>付け焼刃的にウィキを見てみました。 私も、自分で使っていながら、シニファイン・シニフィエと言ったカタカナ言葉は苦手で、時々どっちがどっちか判らなくなります。ちょっと、私もウィキ見てきました。 いゃ~困った。 「海」という文字と、「うみ」と言う音を全く無前提に同列に扱っていますが、絶望的な話し言葉の起源はともかく、文字の起源すら問題として意識されていないような気がします。 便利なサイトですから、此処だけの事であって欲しいですが、結果として、どちらが先かは、難しい問題です。ともかく、此処は言語ではなく「敬語」の問題ですから、そちらに戻ることにします。 質問者が無意識的に敬語を社会的現象として、出来るだけ客観的な表現で分類したのに対して、ご回答者様は、敬語を主観的・自主的な人間性の上下関係・優劣の表現として考察されたのでしょうか。 同じ敬語でありながら、方や使わされていて、方や積極的に使っているとしたら、そうした違いを、社会的なもの・個人的なもの、つまり形容詞をつけて、社会的敬語と個人的敬語と名付けても、何も解決しませんね。 話は変わりますが、質問文の(5) 5)敬語は第三者間の上下関係を表わす、言語記号である。 これは、客観的現象と主観的現象が予定調和宜しく見事に融合する場合と、決定的に決裂する場合を含みそうですが、ちょっと時間が有れば考えてみてください。 5)敬語は第三者間の上下関係を表わす、言語記号である。 これは、A.B.C.Dの四人の人物の関係で、AがBに対して、CとDの間の行為について語る場合の敬語表現です。例えば、A<B/C<D(<は上下または敬意の方向)の場合、発話者がAとしてBに対して、CがDから頂いた、ではA<Bの関係が表現されていません、この辺りは、四者の関係が沢山有って、数学的な思考が必要で、敬語が個人的なものか社会的なものかを判断する鍵がありそうですが、どう思いますか。難しいですね。 ご回答有難う御座いました。
- VenusAurea
- ベストアンサー率33% (5/15)
お返事、拝読しました。 やはり、前々回ご質問のうちに再投稿させていただくほうがよかったのですね。 なんだか気持が乗らなくなりまして、他の御熱心な回答者がたに任せておれば充分かと…。 ただ、あのときの簡単な投稿で、私は、一つ、美智子さまの例を挙げておきました。 私が、そのときの美智子さまの言動を美しいと感じた、その事例によって、質問者さまにも、「対等」ということをも、お感じいただけるか、と思っていた部分はあるのです。 「敬語が対等になったら」ですって!これは、おもしろくなってきました。 ああ、おことわりしておきますが、もちろん、私は誰に対しても、いついかなるときでも、「対等に丁寧な言葉遣い」をする、したいと思うわけではないです。ですから、 >ご回答者様は、きっと周りから「良い人」と言われていませんか。 なにをそんな(笑) 周りの全ての人から、ですか? あり得ません。そんなことは、私の、このサイトでの評判を御覧になったら、それだけで一目瞭然でしょう。(爆) …こんなことを言わせたいおつもりだったのですか?いやな人ですねえ(笑) それはさて置き、まじめな話、周囲が、私に関して言うことは、極端な賛否(強い疑いも含めて)両論に分かれる傾向はあるようで、要するに、ある傾向の顕著な人によっては、それぞれに、「良い人」とも「悪い人」とも両方、極端に別れる傾向をもって評価を頂戴することが、わりに多いようです。 もちろん、当の私自身は、自分が、そのどちらかに完璧に含まれているという感覚もありません。 まぁ殆どの人は、こんなものではないですか? 私にとって、センチメンタルでウェット過ぎる人は、それが「良い人」であろうが「悪い人」であろうが、どちらにせよ勘弁してほしい人です。(笑) 個人的な蛇足でした。 >最後に1)を選ぶあたりに、「良い人記号」が見え隠れしています。 >私のように、根性の曲がった人間は、こうした点が、我々の願望であって、決して事実ではないと、疑ってしまうんですね。厄介な人間です。 「良い人記号」って、何かいな?と思いましたが(マジで) 1)を選んだと言いましても、あくまで、「強いて」ですからね。 まあ、おのれ自身に対して「敬意」を持つなんどが、それだけで「良い人」に入れてしまっていいのかどうか分かりませんけども。 青島幸男氏のような敬語の用い方もあるし。 「良い人」とか、何かしら良さそうなことに対して「願望」が持てるくらいなら、それだけで「良い人」の基本的資格くらいはあるんじゃないですか? もっとも、疑うまでもなく、実態が伴っているのではないからこその願望とも言えそうですけどね。(笑) そして、ご自身で「根性が曲がった」とか「厄介」とか、そういうふうに自らを評されるのは、やはり、質問者さまも、少なくとも基本的に「良い人」の範疇に入るのでしょう。 さて、どうも私、文法的なことについて疎く、関心も薄いのです。 詞と辞に関する分かりやすい御説明を、ありがとうございました。 >「られる」と言う音が、どのように敬意の意味に、繋がるのだろうか? 音韻そのものに関しては、単に言い易さのことも大いに関係しているはずと思いますが、 純然たる、あるいは単純な敬意を込めて表現するとき、極端な場合、殺人を犯したときにすらも、「お弑になった」とか何とか言うんでしょうかね? 「敬意」と言うよりも、対象相手の行為について、その行為そのものを、どこまでも「尊重」するという姿勢の表明、強調でしょうか。 もしかしたら「八百万の神」信仰と関連してるかも? 気が向いたら、より考察を深めるよう心がけておきます。
お礼
敬語の記号論に挑戦したつもりですが、時間と空間の問題も絡んできたようです。 魚河岸を美智子様がご視察に訪れたと、想像して見ましょう。 時間と戦争している魚河岸では、業界用語と罵声が響く中で、美智子様を中心に異質の時間と空間が形成されることでしょう。そこでは、業界用語を標準語にして解説したり、動作も言葉遣いも、ゆったりとした雅を帯びることでしょう。こうした時空を誰でも作れるわけではなく、どこぞの社長あたりでも、魚河岸に入れば廻りから、「もたもたすんね!」とか「じゃまだじゃまだ!」と追いまくられるのが関の山でしょうか。 しかし、こうした時間と空間は、其処で使われる言葉を説明しても、敬語の説明にはなりませんね、恐らくすべての個人はそれぞれこうした時間と空間を大なり小なり伴っていて、そうした時空の上下関係を揺らぎを伴いつつ確認していくのが、敬語の役割でしょうか。 「良い人」記号にしろ「悪い人」記号にしろ、記号は溢れていますよ、よく言われる第一印象ではないでしょうか。聞くところによると、普通、人ははじめて会った人を、5~6秒で、仲良くできるか、二度と会いたくないかの間で、多様な判断をするらしいです。5~6秒が短いとお思いかもしれませんが、目に入る刺激が、一次視覚野へは1ミリ秒(1000分の1)前頭葉付近まで、200ミリ秒で達するらしいですから、相当大量の記号を処理しているはずですが、残念ながら、自分たちのしている事なのに、知ることが出来ない、悩ましい記号ですね。 何処かの哲学者が「私的言語は不可能」と言ったとか、敬意と言う個人的な感情が記号になるのか、記号と記号ではない感情それ自身という、それとは。 有難う御座いました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
昭和59年出版という旧い本ですが そこからヂャワ゛語における《敬語》事情を引用してまづ紹介します。 ▲ 石井和子:ジャワ語の基礎 ~~~~~~~~ 1. 普通体:ンゴコ( Ngoko )語としてのヂャワ゛語 2. 丁寧体:ンゴコ語と共通の語彙のほかに クロモ( Krama )丁寧語を用いる。 3. 尊敬・謙譲語:一部の語彙として クロモ・インギル( Krama Inggil )語群がある。 4. ンゴコ体とクロモ体の中間=マディヨ語:数としてごく一部。 5. 文例 Ngoko 体・・・・・・・・・・・Krama 体 (1) Gedhang iki tak-pangan.・・・Pisang punika kula tedha. バナナ-この ぼく-食べる。・・バナナ-この 私-食べます。 (2) Radhione tak-dandani.・・・・Radhionipun kula dandosi. ラヂオはぼくが修理する。・・ラヂオは私が修理します。 (3) Gedhange ko-pangan.・・Pisangipun panjenengan dhahar. バナナは君が食べる。・・バナナはあなたが召し上がられます。 (4)Radhione ko-dandani.・・Radhionipun panjenengan dandosi. ラヂオは君が修理する。・・ラヂオはあなたが修理します。 6.語例 Ngoko 体・・・・Krama 体・・・・・Krama Inggil 体 _________________________________________________________________ ・ ある: ana・・・・・・・・wonten・・・・・―――― ・出かける:budhal・・・・・bidhal・・・・・ tindak ・起きる: tangi ・・・・・・ tangi・・・・・ ・・ wungu ・ 買う: tuku ・・・・・・・tumbas ・・・・・ mundhut ________________________________________________________________ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 言語は 語としては記号にしか過ぎませんから その用い方ないしその習慣化した情況として複雑であればあるほど 人びとの心は広がると言えるのかも知れないですが 必要以上に複雑である場合もあるとすれば どうなるでしょうか。 むろん 日本語で《貴様》だとか《御前》という尊敬語が 俗語に変わり果てたように言語事情は 動態的な過程にあることも重要だと考えます。 そうして考えるならですが――現代ヂャワ゛語事情に明るくないままに言うのですが―― 敬語ないしそれとしての記号に 何らかの《尊敬の念》なり あるいは《みやびなる意識》なりが備わっているとはとても思いませんし 思えません。 ことば自体が うつくしいと感じるなら それはおそらくその語を用いた人の仕草や表情あるいは そこにいる人びとの思いの感じられる雰囲気などなどからかもし出されていると考えます。ヂャワ゛語も敬語の普及は 身分ないし社会階層の違いに対応していると考えます。丁寧語であることを超えた《尊敬・謙譲語:一部の語彙としての クロモ・インギル( Krama Inggil )語群》は消える運命にあると考えます。社会階層を区別し 上下関係の保守として排除の論理が効いているあいだは生き延びるでしょうが。 みやび(雅)とは そもそも み(御)や(屋)⇒宮 そして ‐び(《そのような様子を見せる または 様子で振る舞う》の意を添える)がついて出来たのですから けっきょく宮中のしきたりとしての仕草や振る舞いや着物や あるいは御殿やその調度などの様子を言ったもののようです。 一般に人間の姿や振る舞い あるいは考えやおこない これらにうやまいの気持ちを込めて表現できなかなぁと考えたことから ふつうのていねい語としての敬語は生まれたのでしょう。その視像は 心に残るものであって そこに自然の秩序のようなものを見るというところから そのような意味を表わす語を添える。これが ル・ラル レル・ラレルという補充用言(助動詞)だと思います。(辞です)。 すでに社会における地位や身分が出来ていてそれにもとづき現われて来た習慣は 宮なら宮でおこなわれるものという意味をそのまま表わす語が それとして出来てくることをうながすものと思われます。 自然と人為 あるいは ふつうのうやまい言葉と文化的な尊敬語との違いは おのづからあるだろうと考えます。
お礼
ジャワ語の敬語は、複雑だそうですね。 ご紹介頂いた、バナナと言う敬語表現が、全く違っていますね、その点、ラジオの敬語表現が語尾変化に留まっているあたり、中々興味深いですね。 それと、アルファベットが使って有りましたが、ジャワ語の文字はどんなだったか、余計なことが気になってしまいました。 兎にも角にも、バナナの敬語には驚きました。 日本でも、話し言葉と書き言葉の間や公用語と言う難しい言葉も有りますが、例えば当該案件と言う言葉から敬語的意味は見つけられませんね。特殊な宗教・儀式の用語で、詞全体がが敬語表現で変わる例は、神輿とか玉璽、神輿は尊敬語だったか、「ぎょくじ」の漢字を確認するために広辞苑を見ると、玉書と言う手紙の尊敬語が見つかりましたが、いまどき誰も使わない、但し、「ぎょくしょ」と打ち込むと、玉書と一発で出たのは、偶然か。 う~む、バナナの敬語にどんな背後があるのか、謎ですね。 ご回答者様のジャワの敬語と雅の関係は、もう一つ理解できませんでしたが、現代の日本でも、魚河岸、やっちゃば、等々の業界用語、学習院、松涛界隈の特殊世界で地域用語、こうした言葉の使い方の、違い、つまり、魚河岸で話される日本語と松涛界隈で話される日本語の違いが、ジャワ敬語の現状ではないのかな、と、言われたのでしょうか。 雅から辞の敬語表現に関する考察は、上流階級に対する、模倣を仲間に入れていただければ、賛成に廻りたい説明ですね。 それでも、ラレル、単に「見られる」という音だけでは、敬語なのか受身なのか判断がつきませんね、こうした不正確な言葉は、順次使われなくなるのか、きっと、まだ、代替品が見つかっていないから、生き延びているのかな。 大変勉強になりました、有難う御座います。
- ENERGAIA
- ベストアンサー率9% (5/53)
愚考、愚生は見ていて解るように、他者の言や主張を基に考えている、自発的でないものです。 する を なさる にするとなぜ尊敬語になるかというと、しているより、なさるの方が、より自分の意志力を使って自発的にしている という意味になるのだろうから、偉いんでしょう、やはり。 する は、単にしているという意味に取れます。 なさる、される だと、文字通り自分の意思と意識を使ってしている、という印象を受ける。 より自分を確立している人でなければできないということなのでしょう か?
お礼
う~む、実の所、人間の本質に模倣の要素は不可欠では、などと考えている、質問者からしてみると、耳が痛いですが、自発的意思を尊重すると言うことは、文字通り有り難い事で、当然敬意の対象となることでしょう。確かに、最近の言語の流行を見れば判るように、意味が伝わる限りで簡略化していますし、それは、言語の本質的傾向です、しかるに、敬語はその傾向に反して、一般的に、文字数を増やして複雑化していますね。有り難い自発的意思に対して自ずと敬意も生ずることでしょうね。 しかし、記号論的に考えると、敬語は、一般的な音と意味の繋がりが、一寸違うんですよね、例えば、fish・魚は音と意味やイメージが繋がっていますが、敬語の、愚問・拝見・上げる・下さる、とかは、空間的イメージが比喩的に繋がっているような気がします。 そこで、敬語は比喩表現の一種ではないのかな、と納得したいのですが、見られる、の「られ」には、全くその気配が無い。これこそ、記号の恣意性で片付けても良いのですが、敬語の中に、なぜ混ざっているのか、納得がいかないですね。 敬語に関して、何度も質問しておきながら、落とし所を見失ったようで、困っております。 愚問にお付き合い頂き、有難う御座います。
- VenusAurea
- ベストアンサー率33% (5/15)
前々回の御質問のほうに、もう一度、添えておこうかなぁと思っていたのですが、なんとなくグズグズしてるうちに、こちらの御質問を見かけたので、以前の続きみたいなことで、こちらに投稿しておきます。 「詞と辞の違い」なんて、私には、よく分かりもしないのですけれど、 上下関係でもなく、内外の関係でもなく、恐れでもなく、 「・・・等々」のなかに、 むしろ、「対等」であることの表現も入れておいていただきたいのです。 強いて言えば、 1)に近いかな?
お礼
ご回答有難う御座います。 今回の質問は前回とは、一寸視点が違いますから、こうした率直な御回答は、大変助かります。余計な所で、一言多いくせに、肝心な所で、舌足らずの質問者は、こうしたチャンスを大切にしたいと思います。 まず、詞と辞の問題です。 国語の厳密な意味は私も存じませんが、ここでは単純に、例えば「見る」を「見」と「る」に分けて、「見る」「見れば」「見た」「見られる」等々の言葉の、変化しない部分を「詞」変化する部分を「辞」と考えて、この変化する部分の意味作用を中心に考えてみたいと思っています。ここの例では、敬語として「見られる」の「られる」を分析する、と言うことに成るでしょうか。 勿論、詞の部分に、色々な概念の指示があって、辞の部分は、その補助的要素と言う違いが有りますが、私たちの脳は、色々な音を、詞と辞に区別して聞くわけでは有りません、「られる」と言う音が、どのように敬意の意味に、繋がるのだろうか? と。 対等の件も、出来れば、以前の質問のうちに、確認しておきたい所でした。 敬語が無くなる状態は、どういうことか、ということでしょうね。 敬語が対等に成ったら、その時、敬語は存在しているのだろうか、と言い換えた方が、判り易いでしょうか、誰に対しても、対等に丁寧な言葉遣いをする時、それがはたして敬語なのかも、人によって、色々な意見があると思います。 ご回答者様は、きっと周りから「良い人」と言われていませんか。 最後に1)を選ぶあたりに、「良い人記号」が見え隠れしています。 私のように、根性の曲がった人間は、こうした点が、我々の願望であって、決して事実ではないと、疑ってしまうんですね。厄介な人間です。 大変参考になりました、有難うございます。
- 1
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お礼
桜が散り急ぐのは、 世界中を水玉模様に、 素早く変えるためでしょうか、 何処から始めると、争いの種になると、知っているのでしょう。 では、お言葉に甘えて、また後ほど。 春の京都に、難しい顔は似合いませんから。