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ソシュールの《言語記号の恣意性》説は成り立たない
ソシュールの言語記号の恣意性という仮説について すでに何度も問い求めて来ていますが それは成り立たないことを例証します。それについて問うて さらなるよい問い求めが出来たらと思います。 (1) 音素が意義素でもある。というかたちで シニフィアン(しるし)とシニフィエ(意味)とのあいだに《自然で論理的な絆が ないのではなく ある》ということを例証し 恣意性が支配しているとは見られないことを明らかにします。 (2) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった三つの語における特には子音としての音素(すなわち / n / および / g / )にそれとしての意義素があるという仮説を提出します。 (3) すなわち まづ語義としての類似性は こうです。: 《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。 《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。 《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。 そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。 (4) と見て さっそく仮説を推し出します。 音素 / n / :《否定相》という意義素を帯びる 音素 / g / :《過程の相・移行の相》という意義素がある すなわち いま母音は措いておいて / nVgV /という形態素として考えて行きます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。 すなわち / nV / なる形態素(ナならナ)は 《否定相》のもとに捉えられたモノを表わすと仮説され / gV /という形態素(グだとかギだとか)は その《ナというものが移行する》という意義を示そうとしていると仮説します。 (5) どうでしょう? / na / が決してそのままでは 《草木や波風や胸騒ぎ》のことを指し示すという意味ではありません。そのナを用いて自己表現する話し手が 《否定し消滅して欲しいもの》として 具体的にそれら三つに絞って当てはめた。 / gi / では その否定を受けての移行や消滅の過程を 語義として指し示す恰好である。 (6) すなわちこれは 子音の / n / や / g / が同じというかたちでシニフィアン(≒音素)が同じ語であるなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。 / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。 ちなみにこのとき ソシュール(もしくは丸山圭三郎)の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く ただナ行やガ行の子音として互いに差があることによってのみすなわち恣意的にその音韻が / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったに過ぎないと言っています。 言いかえると このささやかな例証では / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 自然でかつ論理的なきづなが見出されるという説です。 (7) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。 けれども ここでも / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。やはり 《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュール≒丸山の説では そんなことはあり得ないというものです。 nage-ru 投げる (障害なく 延びて行かせる) naga-su 流す (障害を避けて 延びて行かせる) naga-reru 流れる (障害を避けて 延びて行く) naga-i 長い (障害なく延びた状態にある) (8) さらに語例を伸ばしましょう。 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。そして この場合は 《恣意性》を否定するというのではなく いわゆる《有縁性》として 音素と意義素とのあいだにつながりがある〔だけだ〕と見られても仕方がない語例ではあります。 nago-ya-ka 和やか (障害が消滅した状態) nago-mu 和む (障害が消滅していく) nagu-sa-mu 慰む (障害を除去させる) negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜 (障害の消滅を希求) nega-u 願う (障害の消滅を希求) つまり みんな / nagi / なぎ =和ぎ という語と縁のある意味をもった語です。ここでは 母音が交替していますね。であっても / nVgV /という語の形態には変わりなく しかも語義には 類似性が見られます。 どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。 (9) ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。 (あ) オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。 ・ 郭公は その / k / の音素をじっさいの鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。 ・ 日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。 (い) あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。 つまりさきほどの: nagi 和ぎ nago-ya-ka 和やか nago-mu 和む これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。有縁性の場合です。(ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。 といった考察は すでに成されています。 (10) 派生語ではだめなので さらにさらに語例を増やします。ここで子音の清濁の違いにかかわらず 同じ意義素を帯びると仮説します。すなわち / g / = / k /:《過程相・移行相》です。 nuku / nuke-ru 抜く/抜ける (障害・邪魔の除去・離脱) noku / noke-ru 退く/除ける (障害・邪魔の離脱。除去) nugu / nuge-ru 脱ぐ/脱げる (同上) nugu-u / nogo-u 拭う (同上) nige-ru / niga-su 逃げる/逃がす (同上) noga-su / noga-reru 逃す/逃れる (同上) (ただし ここまで来ると 障害や邪魔は 離脱する者のほう ではなく対立する相手の側に 設定されている。) noko-ru / noko-su 残る/残す (同上) (ただし 上の補注と同じように 視点の移動が見られる。 消滅したもの・除去されたもの〔Aとする〕のほうではなく 以前の状態のままに留まったもの〔Aの否定=非A〕のほうに 焦点が移ってしまった。 (11) おぎなうべき議論の一端として: 音素・・・・=・・・・意義素 _______________ / n / = 同定相・否定相 / g / = 反出相;反定相・疑問相・変化相 といった仮説を前提としています。 いま / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相) といった複合によって / nVgV / なる音韻(シニフィアン) =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ) といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。 (12) ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。それは 恣意的に決められたとしか言いようがありません。 つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。 (13) うえの(11)における 音素=意義素 の仮説は その意義素がなぜ現われるのか。これについては 長くなるので割愛します。 次の書き込みなどを参照してください。 【Q:ソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8508948.html その回答No.1のお礼欄などです。
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再々々度(?)の「お礼コメント」を拝受いたしました。 > ★ 「音素組 / na, nu, ne, -n / = 意義素 否定相」のようなあり方なんじゃ… > ☆ 問題ないと思いますよ。細かく言えば おっしゃるとおりのことでしょうが こういうことではないでしょうか? つまり 意味というのは文を別とすれば 語義に決まっています。独立した語でなくても 形態素が 意味の最小単位であるのが ふつうです。 > (一音素が 語である例はあります。ロシア語で v=(英)in ; s =(英)from などです)。 > ところが それを踏まえて――形態素が語の素であり意味の素でもあるという一般の理解を踏まえて――そのさらに細かいところで《素粒子》としてのハタラキもが見出されると言っているだけなのですから。つまり 音素に意義素があるという・原子核と電子のようなものがあるのだと。(あれっ タトエが適切では ないかな)。 ⇒もとより、「形態素の最小単位が1音素に相当することがある」というのは了解です。それは、どのレベルでもよくあることです。/φ/(ゼロ形態)なる術語もあります。 ただ、私の言いたいのは、日本語の音素の最小単位は /あ・か・さ・た・な…/ である、ということです。これを /a・k・s・t・n…/ のようにチョン切るとすると、これはもう電子でなくクオークにまで分割してしまう、というのと同じではないかと…。 > ★ (3)ソシュールは、このような種類の有縁性があることはつとに確認し、認めています。そしてそれを比較的多く持つ言語を「相対的恣意性の言語」と 呼んでいます。そしてさらに、多くの言語が多かれ少なかれ「相対的恣意性」の要素を持つが、中でもドイツ語やラテン語は特にその色彩が強い、とも言ってい ますがな。 > ☆ これは 初耳です。告白がいかに恥づかしかろうとも聞いたことがありませんと申し上げざるを得ません。 ⇒そうでしたか、知らないことは罪でも何でもありませんよね。でも、前回のご質問にお答えしたり議論したりした際も含め、時々「変だな~」と思うことがありましたが、これが関係あったかも知れませんね。 > ☆ オノマトペや赤ちゃん言葉や派生語を例外として除いてあとは ほかの部分ではひとつの言語の語彙はすべて互いに言語記号(その聴覚映像)の差だけで成り立っているのだと言っているはずです。 ⇒あと感嘆詞のような言葉も例外としていますね。 > くわしいご説明をお願いするよりほかにありません。 ⇒以下に、ソシュールの訳本より引用しておきます。 (1)「記号の恣意性の根本原理は、各の言語において、徹底的に恣意的なもの、即ち無縁のものと、相対的にしかさうでないものとを、識別することを妨げない。記号にして絶対的に恣意的なものは、単にその一部のみである。その他にあっては、恣意性を頭から否定するわけではないが、そこに程度を認めるやうな現象が生ずるのである:記号は相対的に有縁化されうるのである。」 (2)「有縁的なものが一つもないといふ言語は、存在しない:すべてがさうであるやうなものはといへば、之は考へようにも、定義上不可能である。この二つの極限 ― 最少の組織作用と最少の恣意性と ― の間に、すべての可能なる変種が見出される。諸種の特有語は常に二つの秩序の要素 ― 徹底的に恣意的なものと相対的に有縁的なものと ― を含有してゐるが、その比は頗るまちまちである。これは言語の分類に当って考慮されるべき重要な一特質である。」 上記は(1)(2)とも、ソシュールの"Cours"をはじめて邦訳した小林英夫氏の『言語学原論』からの引用です。久しぶりに本棚の奥から引っ張り出してきました。カビ臭いです。(院時代の、小林先生とのやりとりが落書き風に残ってました! おお、なつかし…。) > 通時・共時について説明いただきましたが これは今の問い求めには直接の関係がないと見て差し支えない思います。 ⇒はい、了解です。ただ、前便の訂正だけさせてください。各行の3項目(setとsystem)以下がすべて逆になっていました! ごめんなさい。 (訂正後) 通時言語学:たて糸、箱の中の将棋駒、set、paradigm、連合体に注目。 共時言語学:よこ糸、盤上に組まれた駒、system、sintagm、統合体に注目。 と訂正させていただきます。失礼しました。 以上、再々々々伸(?!)まで。
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- Nakay702
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再度「お礼コメント」をありがとうございました。 >★ Aは「模倣的有縁性」、Bは「個別言語の歴史的有縁性」、Cは「言語の構造的本質的有縁性」と呼ぶことができるかも知れない。ソシュールが、「言語記号はすべからく恣意的である」と言ったのは、このCの範疇においてであった。 >☆ というとき これまで書き記してきたわたしの文章は そのことに合っているとは考えます。何ら行き違いは生じていないと。 >もっとも 《Bは「個別言語の歴史的有縁性」》については ご説明を読んでも何のことかよく分かりません。 ⇒Bの「個別言語の歴史的有縁性」は、特定言語内での有縁性探索ということで、bragelonne様の研究はこの部類に比重があると思います。ソシュールの術語を借りて言えば、「相対的恣意性」の探求、ということになるんでしょうね。 ところで確かに上記のBとCとは、我ながら弁別しにくい面があると思います。以下に、幾つかの術語で区別を試みます。 B系列的:philology、文献学的、局所的、分析的、Japaneseを「国語」と呼ぶ C系列的:linguistics、自然学的、全体的、網羅的、Japaneseを「日本語」と呼ぶ でも、やっぱまだはっきりしまへんかの…。 >★ なぜ、該当例がなさそうだと言えるか。「有言の要素を用いて無限の表現を可能にする」という言語の本質に悖るからである。ほんの僅かな音声数(「国 際音声字母協会」によれば、母音・子音の両方を加えても89個の音声しかない)と、数万~数十万個もの語彙との、いわば「直接対応」を求めるからである。 そして、このいびつな対応関係を可能にする仕組み、それこそが他ならぬこの「言語記号の恣意性」という柔軟構造なのである。 >☆ おっしゃっている意味が読み取れません。 > 音素: / n / = 意義素:同定相かつ対極として否定相 >これだけで 語の生成をじゅうぶんにこなしています。音素と意義素とのあいだに《調音としての自然性から来る論理的な位相としての意味の絆》がおそらく統計的に有意において見出されます。 >どうしてこの事実を見ないのか よく分かりません。 ⇒分かりにくい表現だったかも知れません(あ、12行上で誤植発見:「有言→有限」)。 またまた、曖昧で、どーもすみません。「直接個々の単音に意義素を結びつけようとする考え方に無理があるのではないか」と申しあげたいのですが。 実際によりよく添えば、「音素 / n / = 意義素 否定相」ではないと思うんですよ。「音素組 / na, nu, ne, -n / = 意義素 否定相」のようなあり方なんじゃないかと思われるんですよ。そうじゃないですか? (分かりやすくするため)遺伝子は22000個あるそうですが、その1個1個を区別する要素(塩基)は、たった4つ(AGCT)だけしかありません! この4つだけで、どうやって22000通りの区別を生み出すんですか? 「組み合わせ」でしょ。Aの特性がどうだからとかBにこういう特徴があるから云々…ということではないらしいですよ。Aの両隣に何と何が来るか、というような順列・組み合わせによるんですね。 印欧語では、例えばrecicle, repeat, returnなどのre-は反復を表しますが、これは「音素 / r / = 意義素 反復相」ではなく、「音素組 / re- / = 意義素 反復相」が正しいところ。 (1)単音/ n / や/ r /を、そのまま、それぞれ「否定」や「反復」に結びつけようとするのは、B「個別言語の歴史的有縁性」の場で検出したことを、C「言語の構造的本質的有縁性」に相当するように見える関係に置き換えるようなものでしょう。 (2)このような実体に添って考えれば、両者の関係の有縁性は一層薄れ、恣意性が一層際立ってくるように思いませんか? (3)ソシュールは、このような種類の有縁性があることはつとに確認し、認めています。そしてそれを比較的多く持つ言語を「相対的恣意性の言語」と呼んでいます。そしてさらに、多くの言語が多かれ少なかれ「相対的恣意性」の要素を持つが、中でもドイツ語やラテン語は特にその色彩が強い、とも言っていますがな。 >通時と共時との区別について どうしてそれが必要であるのかが分かりません。言語の生成以来 現在までの期間を取れば ぜんぶが 共時かつ通時となります。言いかえると 短い期間としての共時を取っても その中で《識別》しなければならない語例があり それは 過去の時代の語彙が受 け継がれていることにおいて通時的でもある。と言ってよいのではないでしょうか。 ⇒「分けなければ分からない」、「分析してから総合する」、「言語構造解明のために必要…」。 通時言語学:たて糸、箱の中の将棋駒、system、sintagm、統合体に注目。 共時言語学:よこ糸、盤上に組まれたコマ、set、paradigm、連合体に注目。 >《有縁性》というのは――わたしの仮説の拠って立つ視点からすれば―― 一たんすでに《音素=意義素》にもとづいた語が生成したあと やはりそれら言わ ば基礎語彙からさらに二次的三次的に派生してくる語群のことに関してであり その語群のあいだでの事象を言うのではないのですか? ⇒ソシュールは、「恣意性」に対立する意味要素の用語として広く「有縁性」なる語を用います。私も、彼に倣ってそのような使い方をしています。 なお、「派生関係」は確かに有縁性を示す事柄の1つですが、特に「関係づけの意味合い」を持たせる必要がなければ、文字通り「派生」「派生語」「派生形」などのままでいいと思います。 以上、再々々伸まで。
お礼
こんばんは。まづは ご回答をありがとうございます。 ★ 実際によりよく添えば、「音素 / n / = 意義素 否定相」ではないと思うんですよ。「音素組 / na, nu, ne, -n / = 意義素 否定相」のようなあり方なんじゃないかと思われるんですよ。そうじゃないですか? ☆ これは 問題ないと思いますよ。細かく言えば おっしゃるとおりのことでしょうが こういうことではないでしょうか? つまり 意味というのは文を別とすれば 語義に決まっています。つまり 独立した語でなくても 形態素が 意味の最小単位であるのが ふつうです。 (一音素が 語である例はあります。ロシア語で v=(英)in ; s =(英)from などです)。 ところが それを踏まえて――形態素が語の素であり意味の素でもあるという一般の理解を踏まえて――そのさらに細かいところで《素粒子》としてのハタラキもが見出されると言っているだけなのですから。つまり 音素に意義素があるという・原子核と電子のようなものがあるのだと。(あれっ タトエが適切ではないかな)。 それでは ここで ちょっと母音のことに触れてみます。 / a / : 不定相;不定法::ma 目 / mö-ra 守ら〔‐ず〕(未然形) / i / : 概念相;概念法::mi 見 / mö-ri 守り(連用形・名詞相当) / ö / : 保留相;連体法::mö 守 / mö-rö- 守る‐(連体形) こういった隠れた《法則》があるとにらんでいます。 ア a と口を開けたら 不定の恰好です。不定としては定まった。《未だ然らず》。 これを イ i に移して緊張を加える。緊張のぶんとして ともかく概念として定めたいという法 mood =気分。 以上の二つの法を承けて いまいちど保留しておこうという気分が 保留相⇒連体法。連体というわけは あとで何らかの語につなげようと思っているという意味です。むろん この母音 ö は口の中ほどのところで あいまいにオともウともいう音韻ですから 保留の相です。 ほら 音素=意義素に成っていましょう。 ★ この〔* 遺伝子の要素〕4つだけで、どうやって22000通りの区別を生み出すんですか? 「組み合わせ」でしょ。 ☆ 音素のばあいの組み合わせは 音素どうしのそれだけではなく ひとつの《音素=意義素》が どういう具体的なモノ・コト・サマに対応することになるかで 数限りなく出来ます。モノゴトの数だけ組み合わせが出来ます。つまり / n / なら何を同定するかで 幾通りにも活用され得ます。すぐれものです。否定相の場合には 対象とするモノゴトを みづから(= / n / )の対応によるのではなく すでに別の語と成っているその語に添えて否定すればよいのですし。見-ヌ;守ら-ヌ;目(ま)守(も)ら-ヌ;見守(まも)ら-ヌ;・・・。 ★ 印欧語では、例えばrecicle, repeat, returnなどのre-は反復を表しますが、これは「音素 / r / = 意義素 反復相」ではなく、「音素組 / re- / = 意義素 反復相」が正しいところ。 ☆ 豹変したぢゃないかと言われましょうが そうですよ。そのとおりですよ。 つまり 音素 r = 意義素:一般代理相ゆえに 何かひとつのコトをそのまま代理してここに / r / でつくる形態素を置いて示しますよという恰好です。代理したコトが重なるようになりますから 反復相を帯びます。 そして 母音は 乱暴に言えば如何ようにも添えればよい。とさえ考えられます。re- という母音を添えたとしても 発音はすでにイへと変化してるぢゃないですか。先ほどの / a / =不定相と / ö / =保留相とは 互いに意味合いが似ています。あいまいさが共通です。だから それらの母音交替は よく起きます。ana 己(あな)-勝ち=強ち ∽(交替しうるというシルシ) önö 己(おの)-れ;己(うぬ)-惚れ。 ★ (1) ☆ のご批判にはお答えしました。 ★ (2)このような実体に添って考えれば、両者の関係の有縁性は一層薄れ、恣意性が一層際立ってくるように思いませんか? ☆ 基礎語彙にかんする基本的な生成としては 《法則》が 《音素=意義素》においても 《音素列なる形態素》においても 守られていると思います。派生関係や音韻なり社会的な言語習慣なりの意味関係などとして 変則的な変化をこうむって 法則が破られることはいくらもあるのだと見ます。つまり 《恣意性が目立つ》ようになって来る。 ★ (3)ソシュールは、このような種類の有縁性があることはつとに確認し、認めています。そしてそれを比較的多く持つ言語を「相対的恣意性の言語」と呼んでいます。そしてさらに、多くの言語が多かれ少なかれ「相対的恣意性」の要素を持つが、中でもドイツ語やラテン語は特にその色彩が強い、とも言っていますがな。 ☆ これは 初耳です。告白がいかに恥づかしかろうとも聞いたことがありませんと申し上げざるを得ません。 ■ (うりがだい氏 下記質問への回答No.10) ~~~~~~~ 【Q:言語の生成】http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8964916.html ソシュールは「言語には差異しかない」「言語はネガティヴな差異の体系」といい、もしかしたら言語なんて存在しないかもしれない、と考え晩年に「沈黙の10年」に陥りました。 ソシュールは言語をプラトンのように自然なもの、言語とそれの指し示す対象との間には、その結びつきの必然性はない、恣意的である、と言いました。 たとえば、文字「猫」と音声「ネコ」との間には必然的な結びつきなんてない、それを「サル」と呼んでも、「ヤマ」と呼んでも一向に構わなかった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このようであるはずですよ。オノマトペや赤ちゃん言葉や派生語を例外として除いてあとは ほかの部分ではひとつの言語の語彙はすべて互いに言語記号(その聴覚映像)の差だけで成り立っているのだと言っているはずです。 くわしいご説明をお願いするよりほかにありません。 通時・共時について説明いただきましたが これは今の問い求めには直接の関係がないと見て差し支えない思います。 有縁性か派生語関係か これも表現の問題であるかと思います。有縁性という用語に出来るだけ合わせて用いるようにします。派生語としての有縁性といったかたちで。
- Nakay702
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「お礼コメント」をありがとうございました。 >もし日本語において 必要にして十分な《音素=意義素》の例証が出来たときには こちらから確かに では日本語は 例外言語ですか? と問い返すことが出来るはずなのです。つまり なぜ例外言語なのかを 恣意性論者が 立証する責めを負うことになるはずなのです。 ⇒いいえ、「《音素=意義素》の例証」は、日本語のみでの例外的現象ではありません。それどころか、そういう現象の見当たらない言語の方が稀有でしょう。皆無かもしれません。それは、ソシュールの『言語学原論』もとっくに想定済みでしょう。 >ランガージュと言ったって 個々のラングをつうじてしか捉えられないものではないのですか? あるいはつまり 仮想の概念としてランガージュを 立ててもよいでしょうが その言語機能といったものは 実際には個々のラングをつうじてしか議論することは出来ないはずです。 ⇒もちろん、架空の言語を分析すべきだなどとは言いません。「多くの(できればすべての)言語に共通の」現象を対象にするのが、構造主義の提唱する言語構造論だ、と言っているのです。 >ソシュールの目にはおそらく、「日本語の言語環境・民俗性・風俗習慣などから拠って出てきたことで、言語の本質に由来することではない」と映ることで しょう。ですから、それはむしろ「言語風土論・言語心理学に近いものであって、私の関わる言語構造論とはいささか土俵が異なるかも知れませんよ…」、など とのたまうのではないかと思います。 >☆ 納得が行きませんね。そんなことを言うのなら 《シニフィアン≠シニフィエ》なる仮説は それがほとんどの言語に広く見られることは 単なるそういった《言語習慣》によるに過ぎない。と返すことが出来ます。 ⇒根元のところで行き違いがあるようですので、少しく視点を変えて整理しましょう。 音素と意義素の関連性が認められ得るレベルにはどのようなものがあるか、大別すれば次のようになるでしょう。 A.オノマトペ 文字通り自然への模倣です。いわば、音による写真のようなもので、特に擬音語は多くの言語に共通性が認められるが、擬態語ではそれほど共通性が高くない。また擬音語でも、その表現法は各言語の音韻体系の特徴に依存するので、諸言語間で類似性のばらつきがある。例えば、「鶏の泣き声のシニフィアンは、多くの言語で[k]音を含む」が、これを全然含まない言語もある。(例えばタイ語では「イッイイッイ~」のように鳴く、という)。 B.個別言語の意味場 当該言語発生以来の歴史的経緯の中で、音素と意義素の関連・有縁性が形成される。その過程中では、類推・同化・他言語との接触・民間語源その他各種の人工的変更などが関わるだろう。その中から有縁性の例を抽出するのは通時言語学的な作業だが、分析・識別・同定などの作業では共時言語学の素養も要求されるだろう。 C.言語の本質部分(印象的直結部) 言語音自体の持つ、聴覚映像効果が特定の意味と結びつくか否か、もし結びつくとしたらそれは何かなどに関する考察である。すなわち、いかなる認識方法で音声と意味の関係する有様が了解される仕組みになっているのかを探るもので、認識論などとの関わりも出てくる可能性がある。 以上により、Aは「模倣的有縁性」、Bは「個別言語の歴史的有縁性」、Cは「言語の構造的本質的有縁性」と呼ぶことができるかも知れない。ソシュールが、「言語記号はすべからく恣意的である」と言ったのは、このCの範疇においてであった。したがって、これに該当する有縁性の例はまず検出されないだろうと思われる。(見込み薄といえども、候補の1つにあげ得るものとして / n / の否定相があげられる、かも知れない。) なぜ、該当例がなさそうだと言えるか。「有言の要素を用いて無限の表現を可能にする」という言語の本質に悖るからである。ほんの僅かな音声数(「国際音声字母協会」によれば、母音・子音の両方を加えても89個の音声しかない)と、数万~数十万個もの語彙との、いわば「直接対応」を求めるからである。そして、このいびつな対応関係を可能にする仕組み、それこそが他ならぬこの「言語記号の恣意性」という柔軟構造なのである。 (ちょっとしんどくなりましたので、ここまでとさせていただきます。) 以上、再々伸まで。
お礼
ふうむ。厄介な〔と映る〕議論を持ち出して来られましたね。――こんばんは。まづは ご回答をありがとうございます。 わたしは ソシュール自身に公表の意志のなかった《一般言語学講義》について いくつかの編集にかかる出版を日本語訳で読みましたが 『言語学原論』というものは知りません。そうして 基本的に批判している対象は 確かに丸山圭三郎の示した理論です。 ですが ★ Aは「模倣的有縁性」、Bは「個別言語の歴史的有縁性」、Cは「言語の構造的本質的有縁性」と呼ぶことができるかも知れない。ソシュールが、「言語記号はすべからく恣意的である」と言ったのは、このCの範疇においてであった。 ☆ というとき これまで書き記してきたわたしの文章は そのことに合っているとは考えます。何ら行き違いは生じていないと。 もっとも 《Bは「個別言語の歴史的有縁性」》については ご説明を読んでも何のことかよく分かりません。 《Aは「模倣的有縁性」》については すでにしっかりと確認しています。 つまり いままでの議論は もしこれら三つの区分に従うのなら 《Cは「言語の構造的本質的有縁性」》についてであるほかないとは考えます。 丸山がこれこそがソシュール理論だと言って解説するには こうです。: ◆ (丸山圭三郎:言語記号の恣意性について) ~~~~~~~~~ ソシュールが述べた恣意性は 実は次の二つの意味を持っているのだが そのいずれもが言語内の問題であることを忘れてはなるまい。 第一の恣意性は 記号(シーニュ)内部のシニフィアンとシニフィエの関係において見出されるものである。つまり シーニュの担っている概念 x と それを表現する聴覚映像 y との間には いささかも自然的かつ論理的絆がないという事実の指摘であって 具体的には chien なる概念が / しえん(発音記号が入力できません)/ という音のイメージで表現されねばならないという自然な内在的絆は存在しないということである。 (『ソシュールの思想』1981 I ソシュールの全体像 第三章 ソシュール理論とその基本概念 3 記号理論 その中の〈言語記号の恣意性〉なるパラグラフ p.144 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この命題に対して反証例を提出した。これに尽きると思うのですが。 その第二の恣意性(ややこしくひと言では要約しがたいものです)は より重要であるともまたただし第一の恣意性は第二の恣意性から帰結する結果であるとも言っていますが わたしは 第一の恣意性についての反証例で事足りると考えています。(結果において 崩れたなら 原因のほうも おかしいと考えられます)。 すなわち・すなわち: ★ したがって、これ(C)に該当する有縁性の例はまず検出されないだろうと思われる。(見込み薄といえども、候補の1つにあげ得るものとして / n / の否定相があげられる、かも知れない。) ☆ まさにその候補を 日本語内部においてですが 掲げています。 その意味においては: ★ 「多くの(できればすべての)言語に共通の」現象を対象にするのが、構造主義の提唱する言語構造論だ、と言っているのです。 ☆ とは確かにわたしは承知していませんでした。日本語ならそれとしての一つの言語の内部において検証する。それをさらにすべての言語におよぼして行ければなおよいでしょうが その前の段階としてじゅうぶん話はけりが着くものと考えますが どうでしょう。 ★ なぜ、該当例がなさそうだと言えるか。「有言の要素を用いて無限の表現を可能にする」という言語の本質に悖るからである。ほんの僅かな音声数(「国際音声字母協会」によれば、母音・子音の両方を加えても89個の音声しかない)と、数万~数十万個もの語彙との、いわば「直接対応」を求めるからである。そして、このいびつな対応関係を可能にする仕組み、それこそが他ならぬこの「言語記号の恣意性」という柔軟構造なのである。 ☆ おっしゃっている意味が読み取れません。 音素: / n / = 意義素:同定相かつ対極として否定相 これだけで 語の生成をじゅうぶんにこなしています。音素と意義素とのあいだに《調音としての自然性から来る論理的な位相としての意味の絆》がおそらく統計的に有意において見出されます。 どうしてこの事実を見ないのか よく分かりません。 《B》について頑張って分析してみました。: ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ B.個別言語の意味場 ( a ) 当該言語発生以来の歴史的経緯の中で、音素と意義素の関連・有縁性が形成される。 ( b ) その過程中では、類推・同化・他言語との接触・民間語源その他各種の人工的変更などが関わるだろう。 ( c ) その中から有縁性の例を抽出するのは通時言語学的な作業だが、分析・識別・同定などの作業では共時言語学の素養も要求されるだろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ もしわたしの提出した《音素=意義素》説にかんしてなら ( a )は 《言語発生以来》というよりは 《日本語の生成の時そのもの》の問題です。あとで《歴史的経緯》として形成されるかの問題は 確かにそのような二次的三次的な段階があるかと思いますが それはいま問題にしていません。(直接には)。問題に取り上げているのは 最初の語(および文)の生成をめぐって そこに見出されるシニフィアンとシニフィエの関係如何という中身のことです。 ( b )は いま上の《二次的三次的な段階》における問題であろうと見ます。 ( c )は 申し訳ないですが 通時と共時との区別について どうしてそれが必要であるのかが分かりません。言語の生成以来 現在までの期間を取れば ぜんぶが共時かつ通時となります。言いかえると 短い期間としての共時を取っても その中で《識別》しなければならない語例があり それは 過去の時代の語彙が受け継がれていることにおいて通時的でもある。と言ってよいのではないでしょうか。 《有縁性》というのは――わたしの仮説の拠って立つ視点からすれば―― 一たんすでに《音素=意義素》にもとづいた語が生成したあと やはりそれら言わば基礎語彙からさらに二次的三次的に派生してくる語群のことに関してであり その語群のあいだでの事象を言うのではないのですか?
- Nakay702
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「お礼コメント」をありがとうございました。 > ★ 問題は、この種の対応関係の例が/ nVgV /類のみということで、言語体系中のごくごく一部の現象に過ぎない、ということです。 > ☆ あっ。ここは 見方が分かれますね。この点でも分かれたのでしたっけ。 つまり わたしの捉え方では 疵の無い例証でしたら 三つの語で足りる。のではないかと考えます。たとえば / nVgV / なる形態素として: ⇒「(一項目につき)例証三つの語で足りる」という考え方には同意できます。 因みに、印欧語の「3」(three, drei, drois, tres…)の語源は「多い」ということだそうで…。 >★ この種の対応関係を、少なくとも数十項目は挙げる必要があるでしょう。/ nVgV /系列の「異形態」もあるでしょう。さらには、それらの組み合わさる「相関の束」や「位階関係」などを含め、1つの小宇宙としての体系を成す組織的構造体 や統合性などまで敷衍してはじめて、「言語記号の恣意性説に異義あり」と言えるのではないかと考えます。 > ☆ まぁ 用意がぜんぜん無いわけではありませんが 三つの反証例を挙げれば事足れりとしていたことは 事実です。 > 多少はご要望にお応えできる語例――というよりは 音素の意義素兼任ぶりの事例――をご披露します。 ⇒引用はしませんが、幾つかの事例をありがとうございました。さらにできれば、「五十音の各行・各段」について、あるいは辞書項目の多くの語彙について検証が進めばかなり説得力がつくことでしょうね! >(さ) なぜ同定相が否定相に鞍替えするのか? コインキデンティア・オッポシトールムなのでしょうね。両極は相通ず。《留守》は もともと外出してい る人の代わりに家にいる人を指していたのが 意味は反対の側にまわってしまって 《外出している人が 家にいない》ことを示すようになった。 A を同定していたのに いつしか 非 A を同定するようになった。つまりは もとの A について否定するように相が変わった。と。 ⇒おおっ! 面白いですね! 《留守》については、半・無意識理に「何か変だな」と思っていましたが、coincidentia oppositorum たぁ、気づきませんでした。The scales have fallen from my eyes. というとこです。どうもどうも、ありがとうございました! >★ ⇒「派生語」関係以外にも、「恣意性説の反証」にとって具合の悪い「有縁性」の類がありますね。「類推」「同化」「民俗性と言語習慣(癖)」などです。 >☆ これらは 広い意味での《語の派生関係》として見ることにしましょうよ。どうですか。 >★ 例えば、同じ「/ nVgV /なるシニフィアンとシニフィエの共通性」が、複数言語にわたって見出されることを提示できてはじめて、「ソシュールの《言語記号の恣意性》説は成り立た ない」という標語を唱えることができよう、というものです。なぜなら、ソシュールが「言語記号の恣意性」を唱えたのは、「複数言語にわたって普遍的に該当 する」ことを条件としていたわけですから。 > ☆ これは じつは心配要りません。というのも もし日本語において確かな反証例が出されたなら 少なくとも日本語には 恣意性説が当てはまらないとな ります。つまり それでは 日本語は 人類の中の言語として 例外なのか? と問い返すことが出来るからです。そういうことになるはずです。 ⇒あの、えーとですね。ソシュールの「言語記号の恣意性」は、いわゆる人間のlangage「言語活動」において妥当することとして言っているわけで、langue「(個々の)言語」でという意味ではないんですね。 つまり、例えば、「音素 / n / は言語1でも言語2でも…言語nでも共通に《否定相》という意義素を帯び、音素 / g / は言語1でも言語2でも…言語nでも共通に《過程の相・移行の相》という意義素を帯びる」ということはない」、ということを称して「言語記号の恣意性」と言ったわけです。 もちろん、日本語でこのような対応があることを発見したことは、それなりの意味があるし、「日本語における言語記号の(完全)恣意性」の一部に楔を打ち込めたかもしれません。それはそれなりの価値があることでしょうが、そこ止まりのこと(失礼!)なんです。少なくとも、ソシュールに言わせればそういうことでしょう。 さらに、日本語でのこのような対応関係、「言語記号の恣意性」に対する反証(と我々の考えること)は、ソシュールの目にはおそらく、「日本語の言語環境・民俗性・風俗習慣などから拠って出てきたことで、言語の本質に由来することではない」と映ることでしょう。ですから、それはむしろ「言語風土論・言語心理学に近いものであって、私の関わる言語構造論とはいささか土俵が異なるかも知れませんよ…」、などとのたまうのではないかと思います。 以上、「同意」と「目からウロコの感謝」と「ソシュールの代弁(のようなこと)」を申しあげました。
お礼
まぁ 慎重でいらっしゃる。まづは ご回答をありがとうございます。 (あ) そうですね。たとえば nani 何。これは / n / =同定相・否定相で説明できるか? むつかしい。ですね。《同定しつつも なお分からないとして否定しなければならなくなったそのナゾ》といった意味に取れば 音素=意義素の説は当てはまる。でしょうか どうなのでしょうか? (い) つまりその他その他 いくらも 音素=意義素なる仮説に合わない語例も出て来ます。ひとつには この問題をどう捉えるかが 補わなければならないところでしょう。と思います。 (う) ところが そのような弱点については 同じ程度で 恣意性説にも言われなくてはならないものと見ています。要するに 音素≠意義素(あるいは 音韻等のシニフィアン≠意味なるシニフィエ)という恣意性の仮説については けっきょくつながりが無いという説であるので 証明のしようがないという弁明が効くかに――正当にもでしょうか――思われているからです。 (え) どういうことか? ですから もし日本語において 必要にして十分な《音素=意義素》の例証が出来たときには こちらから確かに では日本語は 例外言語ですか? と問い返すことが出来るはずなのです。つまり なぜ例外言語なのかを 恣意性論者が 立証する責めを負うことになるはずなのです。 (お) ランガージュと言ったって 個々のラングをつうじてしか捉えられないものではないのですか? あるいはつまり 仮想の概念としてランガージュを立ててもよいでしょうが その言語機能といったものは 実際には個々のラングをつうじてしか議論することは出来ないはずです。――つまり ★ ソシュールの「言語記号の恣意性」は、いわゆる人間のlangage「言語活動」において妥当することとして言っているわけで ☆ あるだけだとしますと 雲の上の命題(仮説理論)を相手にして検証しなければならなくなります。つまり 議論のしようがなくなります。いわゆる不毛の神学論争にしかならなくなります。 (か) ★ つまり、例えば、「音素 / n / は言語1でも言語2でも…言語nでも共通に《否定相》という意義素を帯び、音素 / g / は言語1でも言語2でも…言語nでも共通に《過程の相・移行の相》という意義素を帯びる」ということはない」、ということを称して「言語記号の恣意性」と言ったわけです。 ☆ という体裁を取っているということは いちおうあり得ます。《シニフィアン≠シニフィエ》という仮説は 証明のしようがないのだという弁明装置をつねに用意しているわけですから。 (き) けれども それでは 科学行為ではありません。言語一般としてのランガージュとは別に個別の諸言語のうち言語Jなる日本語では どうも反証が出て来ていると言えるようになった場合 恣意性論者は――恣意性論者こそが―― その一言語における反証例は かくかくしかじかの理由によりまったくの例外とし得るのだと証明する必要がある。そうでなくては 経験科学ではありません。まるで神の地上における代理としてソシュール法王にお伺いを立てることのみが 反論派に出来ることだとなります。 (く) ★ 「日本語における言語記号の(完全)恣意性」の一部に楔を打ち込めたかもしれません。 ☆ この反論について それでは (1) 日本語を例外言語と見なすのか? ――けれどもその時には 言語一般としてのランガージュに日本語というラングは入らないのか? とも問い返さなくてはなりません。 (2) もしやはり《一部分における反証例に過ぎない》という応答であるのなら 同じくやはりその《一部分》は あたかも突然変異のごとく例外としての現象が起きているというのか? それで答弁として有効なのか? なぜ例外なのかを こんどは 明らかにする必要があるはずなのです。 (け) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ソシュールの目にはおそらく、「日本語の言語環境・民俗性・風俗習慣などから拠って出てきたことで、言語の本質に由来することではない」と映ることでしょう。ですから、それはむしろ「言語風土論・言語心理学に近いものであって、私の関わる言語構造論とはいささか土俵が異なるかも知れませんよ…」、などとのたまうのではないかと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 納得が行きませんね。そんなことを言うのなら 《シニフィアン≠シニフィエ》なる仮説は それがほとんどの言語に広く見られることは 単なるそういった《言語習慣》によるに過ぎない。と返すことが出来ます。 なぜなら おそらく日本語のほかには 形態素を一子音+一母音(いわゆる CV)につくる言語はない(つまり 仮説に従うなら 初めにはあったが 変遷を経て なくなった)という弁明を持ち出すことも出来るからです。 英語で 子音の / n / や / t・d / が 日本語にもとづく《音素=意義素》の仮説に合ったかたちで残っていることのほうが 驚嘆すべきことではないか。という意味です。 《言語風土論・言語心理学》の問題になるのは 日本語以外の諸言語のほうではないか? ――この見解は 恣意性説の弁明が弱いのと同じほど 弱い。というに過ぎないでしょう。ひとつの言語における反証例は ほかの多くの諸言語における語例と同じ重みを持つと考えます。さもなければ おそらくレイシズムに拠って受けつけないのだと考えられます。ランガージュの本質は 量の問題ではない。言語の数の多さの問題ではないはずです。 (こ) 言語によっては――特に音韻じょうの――変化・変遷がいちじるしいと言いましたが いまの音素=意義素の仮説が すんなりといくつかの言語で証明しがたいことの理由については こうです。: 同じ意味を表わす語が けっきょく――風土論的心理学じょう――いくつか持つようになっており それが言語によってまるで違う語がつかわれている。といった事態も考えられます。 (さ) 前項を継ぎますが マドリッドで ミレ! という発音を耳にしてふと振り向くと それは その語の意味に合っているわけです。《見よ!》と言っているのですから。 mirar 見る という語ですね。ミラー=鏡 などとして英語でも使われます。つまり / m / =認定相 としての仮説に合っています。 舌先を歯茎の裏につける / n / =同定相と違って / m / は 要するに上下の唇を閉じるという調音の仕方を採ります。それは 取りあえずにでも 対象を受け留めましたよ みとめましょうと言っている。認定相を帯びる。 ma 真 ma; me 目(ま・め) mi 見 mö-ru 守る -mu 意志法(話者が自己について);推量法(第三者について) ☆ このあと 補足欄にて ★ さらにできれば、「五十音の各行・各段」について、あるいは辞書項目の多くの語彙について検証が進めばかなり説得力がつくことでしょうね! ☆ なるアドバイスを承けてわたしに出来るかぎりお応えして行きたいと考えます。
補足
お礼欄を継ぎます。 (し) まづこれまでの文章についての補いです。 (1) No.2のお礼欄の(す)で 《涙落としツ》と書きましたが ♪平城山の歌詞では 涙落としヌ でした。つまり そのウタとしてはヌによる表現でしたので 念のため確認です。 (2) 同じくNo.2の(そ)の事項で 英語の 動詞 to do の活用形である did と done とを 《過去形と過去完了形》と言っていますが ただしくは後者が 《過去分詞形》でした。それは 過去だけに用いるのではなく未来にさえも用いるので 呼び名としては《完了分詞》のほうがよいという頭があったので まちがえました。おわびして訂正します。 (3) No.2お礼欄のいまの(あ)から始まる議論でただちにつけ加えておくとよい事例があります。 ・対象一般への同定 na 名 > na-ri なり(也)(断定法の助動詞) ・聴覚対象への同定 na; ne 音 > na-ri なり (伝聞法の助動詞) 《男もすナル日記といふものを・・・》 (す) さて 音素=意義素なる仮説を展開します。それぞれの音素を取り上げるかたちから入ります。 (せ) 息の音( h )とそれをさえぎる調音をして出す音( k / g ) h : 順出; 順定相・中心主題相;〔対極〕副次(周縁)主題相 k : 反出; 反定相・思考疑問相・変化相(過程・移行の相) h は文字通り息を吐く音です。息をするごとく《順出》そのものであり 対象を《順定》するかたちになります。 ha ハ(主題格活用)。ちなみにこれに茶々を入れるのは ga ガ(関係主題格の活用)。また ha ハは 中心の主題の対極にある副次主題について《取り立て格》にもなります。おれハ(中心主題格)それハ(副次主題格)いまハ(副次)独りでハ(副次)やらん。周縁部分相(ha 端; he 辺・ヘ)にもなる。 k は息の音の h に対して咽喉の奥で緊張をつくって調音します。息の音をさえぎって強く緊張音を出す。ゆえに 《反出》であり 対象を《反定》する。-ka カ(思考疑問法の助動詞);か(彼・処)。 ha-ka はか(ハで中心主題を捉えこれに対して カで思考するかたち)。ハカ(捗)がゆく。 haka-tori 捗取り haka-na-si 果敢無い haka-ri はかり(計り・図り・測り・量り) haka-ra-hi 計らい〔 -hi の h は中心主題相から常時性・反復性を帯びて反復相・習慣相〕 baka 馬鹿(ハカ(捗)の対極)(これは 愛嬌です)。 (そ) 自然と人為との区別: r / s・z r: 自然生成相;一般代理相 (舌を口の中で自由に動かして ラララとかルルルとか何気なく音を出すゆえ) s・z : 指示指定相;人為相・使役相 (或る意味で息の音なのだが 調音にあたって h とは違って口を閉じる。合わせた上下の歯の隙間から息を通すゆえ 対象をひとつの主題として捉えつつさらにこれだと指定している)。行くゾ。 haka-ru はかる(計る・測る)〔人為ではあるが そのことを自然な動きとして捉えている〕 baka-su ばかす(化かす)〔これの自動詞は * baka-ru ばかる ではなく bake / bake-ru 化け・化けるである。 bake < bakä < baka-i といった変化を経ていると見る。この母音という音素の問題は あとで機会があれば触れます〕。 haka-na-si 果敢無し のシは 指定相だと思われる。あるいは 《捗の無 それだよ》といった発想。 ta-re 誰レ / ka-re 彼レ / kare-ra 彼れラ 〔親愛称のごとくにその対象をもう一度触れて言うかたち。一般代理相〕。 na-ra 地(な)ラ⇒奈良; no-ra 野ラ(野良) (た) n で同定した対象を m で認定する。 ma 目・真; mi 見; mö 身 mö 身(も・む) mö-nuke 身-抜け⇒蛻(もぬけ) mö-kuro 身-殻(空)⇒骸(むくろ) mö > mö-i > mï > mi み(身・実) mö-ku 身-く⇒ muku 向く haka-na-mu 捗‐無-む⇒ 果敢無む・儚む (ち) 順出・順定相の h の異種が次のように持たれている。《 ' 》は ア行の子音です。一拍ないし半拍を置くようなかたちの音。 一般 h:順出・順定 中心・副次中心;周縁;反復・習慣 (異種) ': 〃 自同(自定・自称) (〃) w: 〃 特定・固定・強意 (〃) y: 〃 称定・実定 (〃) p: 〃 強勢 (つ) h は中心主題相(α)であり かつ対極の周縁相(β)ですが その語例を挙げます。反復・習慣相(γ)をも。 ha :(α)‐ハ(中心主題格活用)/ (β)端 hä : (γ)経(へ-る)/ (α=γ)へ(竃;戸) hi :(α)日;霊 he : (β)辺;端;方;重 hö :(α)穂・帆・秀 (hö-idu 秀-出づ⇒秀(ひい)でる)/火(hö-i > hï > hi ) hu :(γ)経(ふ。へる) (て) hö :(α)穂・帆・秀 からの派生語例を挙げます。 hö-ri 秀-り⇒ 欲り(欲り-す>欲す) / r / :自然生成相・自然想定相 hö-si 秀‐し(そのよきもの‐それだ)⇒ 欲しい / s / ;指示指定相 hö-ku 秀-く=祝く⇒ こと(事・言)ほぐ=言祝ぐ・寿ぐ > ことぶき(寿) / k / :反出・反定相だが 思考疑問相として言わば内省・反省の相をも帯びる。 hökö-ru 秀‐こ‐る=誇リ hö-mu 秀‐む⇒ 褒める・誉める / m / :認定相 hö-hö 秀=穂の繰り返し⇒ 頬(ふくれて出るイメージ) (β)周縁相に転じて: hö-ke 《秀について反定 = 非秀について内省》=呆け (濁音にして ボケとなると 強めや蔑みの相が交じる) hö-re 《非秀の自然生成:心の緊張状態がゆるむ》⇒ 惚れ [・・・] 取り合えずこんなところでしょうか。
- Nakay702
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>ソシュールの《言語記号の恣意性》説は成り立たない >ソシュールの言語記号の恣意性という仮説について すでに何度も問い求めて来ていますが それは成り立たないことを例証します。それについて問うて さらなるよい問い求めが出来たらと思います。 ⇒お久しぶりです。 その節は、遠慮会釈なく意見交換させていただきました。楽しかったです。あの時、いいことをおっしゃっていた方々(No.1さんなど)あたりから何らかの反応が寄せられるのを心待ちしておりました。 …が、その気配がなさそうですので、不肖私Nakay702がまたしゃしゃり出てしまいました、のでございます。と言いましても、あの時以上の用意があるわけではありません。ただ、もう1度ご提起の案件を認識し、整理し、総括してみるのも悪くはないな~、と思います。 >(4) と見て さっそく仮説を推し出します。 音素 / n / :《否定相》という意義素を帯びる 音素 / g / :《過程の相・移行の相》という意義素がある > すなわち いま母音は措いておいて / nVgV /という形態素として考えて行きます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。 > すなわち / nV / なる形態素(ナならナ)は 《否定相》のもとに捉えられたモノを表わすと仮説され / gV /という形態素(グだとかギだとか)は その《ナというものが移行する》という意義を示そうとしていると仮説します。 ⇒ご提示の/ nVgV /という形態素については、以下で仰せのことを含め、確かに適切な指摘であると思います。問題は、この種の対応関係の例が/ nVgV /類のみということで、言語体系中のごくごく一部の現象に過ぎない、ということです。この種の対応関係を、少なくとも数十項目は挙げる必要があるでしょう。/ nVgV /系列の「異形態」もあるでしょう。さらには、それらの組み合わさる「相関の束」や「位階関係」などを含め、1つの小宇宙としての体系を成す組織的構造体や統合性などまで敷衍してはじめて、「言語記号の恣意性説に異義あり」と言えるのではないかと考えます。 > これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。有縁性の場合です。(ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。 といった考察は すでに成されています。 ⇒「派生語」関係以外にも、「恣意性説の反証」にとって具合の悪い「有縁性」の類がありますね。「類推」「同化」「民俗性と言語習慣(癖)」などです。それからさらに、「恣意性説の反証」にとって具合の悪いことの極めつけは、単一言語内での、それもごく一部の現象である、ということです。例えば、同じ「/ nVgV /なるシニフィアンとシニフィエの共通性」が、複数言語にわたって見出されることを提示できてはじめて、「ソシュールの《言語記号の恣意性》説は成り立たない」という標語を唱えることができよう、というものです。なぜなら、ソシュールが「言語記号の恣意性」を唱えたのは、「複数言語にわたって普遍的に該当する」ことを条件としていたわけですから。 以上述べたとおり、bragelonne様の主張それ自体はそれなりに評価できると思いますが、「内容に添った表題」にすることをお勧めしたいとは思います。例えば、「ソシュールの《言語記号の恣意性》説の破綻するところ」とか、もっと率直に実感を言わせていただくなら、「日本語通時形態素論―音素と意義素との相関関係を探る」といった表題が最も妥当なところではないかと考える次第です。 以上、相変わらずの毒舌まじりですが(ただし、この上ないよしみをもっての)、ご回答まで。
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ もう1度ご提起の案件を認識し、整理し、総括してみるのも悪くはないな~、と思います。 ☆ この種の問い求めは 何の進展がなくても あちこち ああぢゃこうぢゃと突っついてみるのも益無しとはしません。 今回の直接のきっかけは お分かりかと思います。なかい702さんは参加されていませんが 【Q:言語の生成】で うりがだい氏より 現代言語学はソシュールであるという趣旨の投稿があったことからです。 ★ ⇒ご提示の/ nVgV /という形態素については、以下で仰せのことを含め、確かに適切な指摘であると思います。 ☆ ありがとうございます。 ★ 問題は、この種の対応関係の例が/ nVgV /類のみということで、言語体系中のごくごく一部の現象に過ぎない、ということです。 ☆ あっ。ここは 見方が分かれますね。この点でも分かれたのでしたっけ。 つまり わたしの捉え方では 疵の無い例証でしたら 三つの語で足りる。のではないかと考えます。たとえば / nVgV / なる形態素として: 1. / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ 2. / nage-ru / 投げる / naga-su ; naga-reru / 流す;流れる / naga-i / 長い 3. / nuku ; nuke-ru / 抜く;抜ける / nugu ; nuge-ru / 脱ぐ;脱げる / nugu-u ・ nogo-u / 拭う ☆ すなわち 三つ揃えば もはや例外として扱うことはまづ出来ないと考えるからです。 ★ この種の対応関係を、少なくとも数十項目は挙げる必要があるでしょう。/ nVgV /系列の「異形態」もあるでしょう。さらには、それらの組み合わさる「相関の束」や「位階関係」などを含め、1つの小宇宙としての体系を成す組織的構造体や統合性などまで敷衍してはじめて、「言語記号の恣意性説に異義あり」と言えるのではないかと考えます。 ☆ まぁ 用意がぜんぜん無いわけではありませんが 三つの反証例を挙げれば事足れりとしていたことは 事実です。 多少はご要望にお応えできる語例――というよりは 音素の意義素兼任ぶりの事例――をご披露します。 (あ) じつは 子音としての音素 / n / は 基本としてその意義素は《同定相》だと捉えます。同定相が 対極の《否定相》をも帯びることと成ったのだと。 (い) なぜ同定相かと言いますと / n / は その音を発するとき調音の仕方としては 舌先を歯茎の裏側にかなりねちっこくくっつけます。その《執着ぶり》が 或るものを同定していますよとあたかも示している。 (う) というのも 調音の仕方が同じような子音 / t・d / と比べてみると分かりやすい。こちらは 舌先の歯茎へのくっつけ方があっさりしています。ですから 《他称相・懸隔相・放出相など》として仮説します。《隔てつつ定立はしている》と見るわけです。 ta 誰(た) ta ; ta-i > tä > te :手(た・て) tö : と(トある何々;引用格) tö-ru : 取る (え) つまり 調音の仕方で 音素の持つ意義素の中身が決まる。《自然的》でしょう。しかも やはり調音のさまが 論理的に意義素の中身に対応しています。ねちっこいさま⇒同定相。あっさりさ⇒隔定相。 (お) つまり 誰が発明したのか知りませんが 対象となるもの一般に同定するときには na な(名)が来ます。あるいは そうだよナ・そうだネ・そうぢゃノーの na; ne; no は念押し法の活用形です。同定相でしょ? (か) いま聴覚対象に同定するなら * na; ne な・ね(音);na-ru 鳴る; na-ku 泣く が得られています。 (き) 同定に近い比定相としては ma-na-bu 真似ぶ=学ぶ; ma-ne 真似; ni-ru 似る があります。 (く) 自然環界に同定すると na な(地); ne 根( mi-ne 霊‐根=峰); ni 丹(赤土); no 野。 (け) さらに派生語ではないかとうたがっている語例として: na な(名) > na-ru 成る; na-su 為す(/ r / :自然生成相。/ s / :指定指示相・使役相) (こ) これは愛嬌ですが 英語では name 名 に / n /=同定相が見られ そして確かに同じ子音が no; not 無い には じつに否定相が見て取れます。と同じように 日本語では na な(禁止法); na-si 無し; nu ぬ(否定法の補充用言(助動詞))といったふうに軌を一にしているようです。 (さ) なぜ同定相が否定相に鞍替えするのか? コインキデンティア・オッポシトールムなのでしょうね。両極は相通ず。《留守》は もともと外出している人の代わりに家にいる人を指していたのが 意味は反対の側にまわってしまって 《外出している人が 家にいない》ことを示すようになった。 A を同定していたのに いつしか 非 A を同定するようになった。つまりは もとの A について否定するように相が変わった。と。 (し) 補充用言(助動詞)に 完了相の nu ヌ があります。夏は来ヌ。このヌは・つまりその子音 n は 同定相でしょうか。それとも 否定相でしょうか? それまでの状態や情況について否定し あらたな状態や情況について同定している。しかも 《来てしまった》というように完了相で言っていても 来てしまったその夏は いまもいるといった継続の相が見られないでもない。だとしたら それは 同定相のゆえである。 (す) なぜなら 同じく完了相の tu ツ については 涙落としツ と言うとき隔定・放出相がはたらいてその《落とす》という動作が一回きりでありまた継続はしていない。といったニュアンスを帯びさせています。 (せ) これらは 子音としての音素 n や t がすでに意義素でもあってその帯びる相が 語に反映していることを表わします。 (そ) ちなみに 愛嬌ではありますが 英語の語例(文法例)をも見てみてください。 go went gone do did done see saw seen eat ate eaten take took taken 完了相としてやはり 同定相・否定相の / n / と隔定・放出相の / t・d / とが使われているではありませんか。いわゆる過去形と過去完了形との両者の使い分けがにくいぢゃないですか。 ★ ⇒「派生語」関係以外にも、「恣意性説の反証」にとって具合の悪い「有縁性」の類がありますね。「類推」「同化」「民俗性と言語習慣(癖)」などです。 ☆ これらは 広い意味での《語の派生関係》として見ることにしましょうよ。どうですか。 ★ 例えば、同じ「/ nVgV /なるシニフィアンとシニフィエの共通性」が、複数言語にわたって見出されることを提示できてはじめて、「ソシュールの《言語記号の恣意性》説は成り立たない」という標語を唱えることができよう、というものです。なぜなら、ソシュールが「言語記号の恣意性」を唱えたのは、「複数言語にわたって普遍的に該当する」ことを条件としていたわけですから。 ☆ これは じつは心配要りません。というのも もし日本語において確かな反証例が出されたなら 少なくとも日本語には 恣意性説が当てはまらないとなります。つまり それでは 日本語は 人類の中の言語として 例外なのか? と問い返すことが出来るからです。そういうことになるはずです。 以上のように ★ 「日本語通時形態素論――音素と意義素との相関関係を探る」 ☆ ことをとおして ★ 「ソシュールの《言語記号の恣意性》説の破綻するところ」 ☆ を明らかにしました。日本語は例外言語なのでしょうか? なお: ★ 以上、相変わらずの毒舌まじりですが(ただし、この上ないよしみをもっての)、ご回答まで。 ☆ 毒舌にかけては・また口のわるさにおいては わたしの右に出る人はいないと思いますので 手加減はまったく要りません。です。
- kurinal
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古典?
お礼
いえ。古典に成り損ねた仮説でしょうね。 反駁に用いた仮説のほうは どうでしょうか。 ご回答をありがとうございます。
お礼
なかい702さん ご回答をありがとうございます。こんばんは。 ★ ただ、私の言いたいのは、日本語の音素の最小単位は /あ・か・さ・た・な…/ である、ということです。これを /a・k・s・t・n…/ のようにチョン切るとすると、これはもう電子でなくクオークにまで分割してしまう、というのと同じではないかと…。 ☆ ええっとですね。おそらくそういう切り口での仮説もあり得るとは思います。 ただし わたしの見るところ 日本語では――しかもそれを 諸言語のひとつの初源の類型ではないかとさえ見ているのですが―― 音素を取り出し 子音と母音とに分けて分析したほうが分かりやすいというものです。 子音は 音素=意義素であり 母音は――意義素のような相を帯びますが 固有には――すでに話し手の判断を示そうとする法( mood =つまり話し手の気分)を担うものと捉えたわけです。 ☆☆(No.5お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~ / a / : 不定相;不定法::ma 目 / mö-ra 守ら〔‐ず〕(未然形) / i / : 概念相;概念法::mi 見 / mö-ri 守り(連用形・名詞相当) / ö / : 保留相;連体法::mö 守 / mö-rö- 守る‐(連体形) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここにさらに母音がになう法としての活用形態をつけ加えます。 / ö-ö / ⇒ / wö / ⇒ / wö-ö / ⇒ / u / :保留の強め=存続相;存続法 : mö-ru 守る(終止形) / a-u ; u-a / ⇒ / o / : これは 特に相も法もない。音韻の結合。 / i-a / ⇒ / e / (口の開きが狭いエ):《概念法+不定法》=そのコトを不定の相においてだが ともかく話し手の主観のもとに置いておきたい気分。⇒話し手の主観としての要望となり 《命令法》。 : mö-ri-a > mö-re 守れ。 / a-i / ⇒ / ä / (口の開きの広いエ):《不定法+概念法》=まだ有り様が定まっていないそのコトを 概念としてきちんと捉えたのだという気分。⇒話し手の気分に関する限りで そのコトが想定されたかたちにおいて既成と見なされる。よって――文意はさらに続けて語られるので―― 《既定条件法》つまりすでに然るところの《已然形》。 : mö-ra-i > mö-rä 守れ (現代語では 条件法は 《仮定形》として《既定・未定》を問わず ふつうのエの一本として活用形をつくっている)。 有縁性の場合として: ★ ⇒あと感嘆詞のような言葉も例外としていますね。 ☆ ええ。 通時・共時をめぐって あたらしい情報を得ました。いまわれわれが下した結論に変わりは生じませんが。 ○ フェルディナン・ド・ソシュール 「一般言語学」 著作集 I 自筆草稿『言語の科学』( Manuscripts autographiques: 《 Science du langage 》)2013 松澤和宏校注・訳 ☆ をきょう図書館で見つけ借りて来ました。 ○ (松澤) ガリマール社から刊行されたソシュール『一般言語学著作』( Ferdinand de Sassure, Ecrits de linguistique g&eacu;n&eacu;rale, &eacu;tablis et &eacu;dit&eacu;s par Simon Bouquet et Rudolf Engler avec collaboration d'Antoinette Weil, Gallimard, 2002 ) に採録されたソシュールの自筆草稿を独自に校訂・訳出し 概要 訳注 改題 コンコルダンスを付したもの ☆ だそうです。解題をちらっと見たら 次のようにソシュール自身も 通時と共時との区別にさほどはこだわっていなかったようです。: ○ (松澤:共時と通時)~~~~~~~~~~~~~ ソシュールが共時言語学の方法論的優位を繰り返し述べながらそれを確信するには至らなかったことは 晩年の一九〇九年一月十九日に学生のリードランジェに次のように語っていることからも十分に窺われよう。 通時言語学から始めなければならないでしょう。共時的なものはそれ 自体のために別個に扱われるべきです。しかし通時的なものとの絶えざ る対立がなければ なんの成果にも至りません。 晩年のソシュールにおいても共時言語学の優位は必ずしも自明ではなかったのである。 (校注・訳者解題 四 共時 / 通時の識別と差異 p.565 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ さて 有縁性がひとつの言語内で見出されるものは 少なくないという論点です。: ▼ (小林英夫訳:『言語学原論』)~~~~~~~~~~~~ (1)「記号の恣意性の根本原理は、各の言語において、徹底的に恣意的なもの、即ち無縁のものと、相対的にしかさうでないものとを、識別することを妨げない。記号にして絶対的に恣意的なものは、単にその一部のみである。その他にあっては、恣意性を頭から否定するわけではないが、そこに程度を認めるやうな現象が生ずるのである:記号は相対的に有縁化されうるのである。」 (2)「有縁的なものが一つもないといふ言語は、存在しない:すべてがさうであるやうなものはといへば、之は考へようにも、定義上不可能である。この二つの極限 ― 最少の組織作用と最少の恣意性と ― の間に、すべての可能なる変種が見出される。諸種の特有語は常に二つの秩序の要素 ― 徹底的に恣意的なものと相対的に有縁的なものと ― を含有してゐるが、その比は頗るまちまちである。これは言語の分類に当って考慮されるべき重要な一特質である。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★★(回答No.5) (3)ソシュールは、このような種類の有縁性があることはつとに確認し、認めています。そしてそれを比較的多く持つ言語を「相対的恣意性の言語」と呼んでいます。そしてさらに、多くの言語が多かれ少なかれ「相対的恣意性」の要素を持つが、中でもドイツ語やラテン語は特にその色彩が強い、とも言っていますがな。 ☆ あのお。そう書いているという証拠であると分かりましたが その中身が具体的にどうであるかが分からないのですけれど。《ドイツ語やラテン語》での例証もあれば助かると思います。 つまり シニフィアン≠シニフィエとしての恣意性説を証明せよと言っても 絆が無いと言うからには無いものは証明できないのですが いまの場合は 相対的な恣意性ですから・したがって相対的に有縁性を持つ語群があるという説ですから これこれこういう語例がありますよというふうに示してもらわないと 申し訳ないですが 納得いかないと思うのです。 わたしの仮説は でも この《相対的な有縁性》が言語の一部の語彙にはあるということだけの例証だと言っただけでは済まされないと思うのですが。つまり 音素=意義素が 子音について どうして出来ているのかを説明しています。母音についても 法判断としての意義素を帯びているともかんたんに説明しました。 つまり この仮説の持つ含みとしては けっきょく《絶対的な恣意性》による語の生成は無いと言っているのですから。 小林英夫氏の受け留めている説では 一部分としての有縁性の語例は 《絶対的な恣意性》の存在を否定するまでに到らないのでしょうか? そういう可能性を考えてみるべきではないでしょうか? ただしそれを成すには 具体的な例示がひとつもないものですから 分かりません。 これは 何度も言いますが 《有縁性のある語例がある》と言っているのですから その例証を示す責任が提唱者の側にあるのではないでしょうか?
補足
お礼欄をおぎないます。 まづ 欧文の文字が入力し損ないでした。 ○ ソシュール『一般言語学著作』( Ferdinand de Sassure, Ecrits de linguistique générale, établis et édités par Simon Bouquet et Rudolf Engler avec collaboration d'Antoinette Weil, Gallimard, 2002 次の説明はまだ舌足らずだったと気づきました。 ☆☆(No.5お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~ / a / : 不定相;不定法::ma 目 / mö-ra 守ら〔‐ず〕(未然形) / i / : 概念相;概念法::mi 見 / mö-ri 守り(連用形・名詞相当) / ö / : 保留相;連体法::mö 守 / mö-rö- 守る‐(連体形) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち こうです。: ・ ma 目 < m (認定相)- a (不定相で捉えていますと提示。提示するときの気分を法 mood と言う。不定相で提示することを 不定法に活用したと言う) すなわち 認定相は この場合 対象にかんして視覚によるものに特化しています。 そのように / m / で捉え表わそうとするものを 不定の相で――という意味は まづ差し当たりその対象を捉えたのであるが まだどう扱うかの判断は定まっていない段階での相で――示しますよという気持ちを表わしている。 ですから この ma 目(ま) なる語が / i / なる母音で定められた場合には ・ mi 見 または ma-i > mä 目(め) となります。概念の相として捉え 概念として示したい気分なんですと言っている。そういう判断でもあります。 つまり 《視覚》をめぐってそれに関する言葉を生成するというのですが ひとつに《不定相で漠然と捉えた ma ま なる語は 器官のほうに当てて 目(ま)とした》。もうひとつには 《概念相に定めて捉えた mi み なる語は その視覚器官のハタラキに当てて 見(み)とした》。 そしてさらに 《不定の相のままであった ma 目(ま)なる語についてこれをやはりもう少し定まったかたちにしたい。そこに概念相を加えるかたちで定めておこうかな。ゆえに ma-i > mä 目(め) なる語をもつくった》。 その証拠に マとメとの使い分けがなされています。: ma 目(ま):不定相ゆえ ふつう単独では使われない。 複合語においてのみ用いられる。 mä > me 目(め):概念相(かつ概念法)で定めたので 単独でも使われる。 ma-na-sasi 目の差し=眼差し ma-tu-ke 目の毛=睫毛 ma-na-siri 目の尻(うしろ)=眦 me-tuki 目つき me-yani 目脂 me-siri 目尻 丸い大きなメとは言うが 細い小さなマとは言いません。ma マ だけでは 不定相(かつ不定法)ゆえ語が文(自己表現)の中で不安定だからです。 (英文で 不定詞は 《 to 不定詞》とするのが一般です。単独では使い難い。それと同じように 不定相かつ不定法の ma マ は言わば裸の姿であることを表わしていると捉えられます)。 このようにして 日本語における言葉の生成にかんして アカサタナなどの形態素で分析するよりも さらに音素に分けて捉えたほうが より生産的であると考えました。 音素もさらに 相の認識〔のみ〕を受け持つ子音と そして相認識からさらに進んで話し手の主観(気分)をも示そうとする母音とに分けて分析するかたちを採ります。 おまけです。: モノはコトである( e = mc^2 )ということですから 言葉には 体言と用言とがあることになります。 ma ま(目)が モノとして体言です。 その体(からだ)が動く。そのチカラが用いられる。そのハタラキが 体言から出た用言です。 すなわち ・ ma-gu 目-ぐ(思考・疑問・変化(過程・移行)の相)=覓(ま)ぐ △(コトバンク:くにまぎ) ~~~~~~~~~~~~~~~~ https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E8%A6%93-251256 くにまぎ【国覓】(大辞林 第三版) 神が鎮座すべきよい土地を探し求めること。また,天皇が都とすべきよい土地を探し求めること。 ・ 「 ~~しつつちはやぶる神を言向け/万葉集 4465」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・ mi-ru 見る ( -ru は 自然生成相( r- )+存続法( -u )) ・ mö-ru 守る すなわち mi 見 や mö 守(も= 見る意)は ma 目(ま)から 直接に母音交替を起こして生まれたものと捉えられます。《強変化》のごとく。 それに対して ma-gu 目-ぐ=覓(ま)ぐ なる語は いわゆる《弱変化》としての活用ではないかと。 いづれも 体言が 持てるエネルギーを発揮してその動態相を表わそうとして しかるべき用言を産み落とすかたちではないかと。 (体言と用言 この術語は失くしたくないですね。名詞と動詞だけではまだ 言葉の成り立ちについて見落とす部分が出て来るでしょうから)。 われらが日本語を もっと大切に捉えて行きましょう。宝の山であるかも知れません。(言わずもがなのことをでした)。