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余白
いつもお世話になっております。 余白というものにはどのような意味があるのでしょう。 (例えば「白」「空」「虚」「無」「怖」「畏敬」「間」等々) また、余白というものは、無駄でしょうか、 それとも有用でしょうか。 皆様のお考えをお聞かせ下さい。 よろしくお願い致します。
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追伸: [余白の醸し出す余情や余韻に私たち日本人が美を見出すというのであれば、西洋ではむしろ、空間を埋めずにはいられない恐れに駆られるようでもあり、だとしたら、それは何ゆえなのでしょう。] 参考までに 私の知り合いに書道家がいまして、あるとき一枚記念にとお願いしたのです。何ヶ月か後に一枚の書が送られてきました。 その書には「舞:まい」と書かれていたのですが読みは「無:む」という注釈が付いておりました。つまり「無」という字を「舞」と表現したとのことなのですが、これが疑問の回答に通じるかなと思います。 何もない、何もしない余白も無ですが、踊り続けることもまた同じ無の意味を含んでいるのですね。その違いは形か心の違いですね。 東洋人の美学と西洋人の美学には静と動の違いはあるように思いますが同じように余白の美的観点はあるのでしょうね。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
mashumaro2さん、おおぜいの皆様のご参集、様々の位相からの様々のお話は読解だけで大仕事です。私の悪いくせは、一人で考え、結論が出るとそれ以外の議論に目を向けないことです。 でも、一生懸命老脳みそをこき使うようにしています。 年金生活者でも多少浮世の瑣事はあります。日々そういうアクセント・メリハリがある中で、全時間が余白になっています。 余りではありますが、何か白くならないですね。 何か主観の観念がいつもあります。思い残しがあるのですね。 余りの人生が白くならない、そして未だ墓にもいかない未熟者。 私はこの数年かそこらの時間をもう少し白くして、余白に近くなりたいと願っている、市井の大ではない小さな偽隠者の生活です。 隠者は東洋、renunciationはどこにも。これも余白ですね。 普通の年金生活者は、どうも余りでも白くなりません。 renunciationが本当の余白で、本当の人生であろうと、思っています。 さかしらな観念を超えなくてはダメですね。さかしらに投稿しました。スルーしていたのですが。
お礼
krya1998様、ご回答をありがとうございます。 >私の悪いくせは、一人で考え、結論が出るとそれ以外の議論に目を向けないことです。 いえ、それは私自身に当てはまることなのです。 まるで、「余白」が自分の心を映し出す鏡のように思えてまいりました。 >renunciationが本当の余白で、本当の人生であろうと、思っています。 >さかしらな観念を超えなくてはダメですね。 はい、 このたびのご教示は、格別深いもののように拝察致しております。 ですから、 まるごとそのままに、素直に受けとめさせていただきたいと思います。 また次回も、ご回答をどうぞよろしくお願い申し上げます。 そして、 いつも親身にご教示下さりまして、本当にありがとうございました。
補足
この場をお借りして申し上げます。 ご回答を下さった皆様のおかげで、思いのほか多くのものを得られることができました。 皆様にポイントをつけたいのですが、それが出来なくて辛いです。 サイトを刷新するなら、このあたりも是非お願いしたいところです。 本当にどうもありがとうございました。
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
ありがとうございます。すいません気を使っていただいて。 つまり、また雑になっちゃうんだけど ・時には物事をまるのみこみして、次に進むことも必要だよねっていう発想と ・どう考えたって自分の「さかしら」でしかないんだから、 そのものを深く感じること(もののあはれ)からはじめようよ。 が似てると思ったのですが。現象学もちょっと同じ感じなんですよね。 現代の社会の問題を考察するには、かけはなれているのではとのご指摘ですが。 確かに、メディアのエンターテイメント芸術や様々な番組などをみても、 一時期はアバンギャルドな方向性もありましたし、無宗教な自分自身にも 日本人のアイデンティティーと呼べるものがあるのか懐疑的でした。 しかし、よくよくたどってみると、やっぱり何らかの影響があるみたいって 思えてきたんですね。 また、本当にここ最近は若者を中心に二極化が進んできているのは感じますね。 テレビを見ていても、迷いの時期だなって思います。 「いきすぎた市場原理社会」の反省という言葉はよくよく踏み込んだ発言だと思うのです。 現在、規制緩和により、中間層の層の厚みが急速に薄くなっていることは事実ですよね。 それにより、人間の潜在的な思想にも二極化が表れてきていると思います。 で、中間層を失って同時にうしなったと思われるものが ・ただやみくもに突き進むだけでなく、上と下をみて需要を把握して、ものを作り出すためのマーケティングリサーチ ・決断力に対して考察する論理的思考力 ・論理に走り過ぎている先生がたと庶民の現実感のすり合わせを行う折衷対策 この感覚が欠落しているために、ますます二極化が進み、何かしっくりこない感は市場にも表れて いて、購買意欲に結び付かない。 観想的な立場と実践的な立場を結び付ける立場が、中間層と言えばわかりやすいでしょうか。 純粋な芸術家とそれを市場に流通させる方法論を考える人など 臨床医師と病気そのものの研究をする学者など あげたらきりがないけど、論理的思考の折衷案対策って社会には必要だと思うんですね。 だからこその現代での本居宣長とはいかにってこと考えますね。 「なんちゃってさかしら」は、そうですね、よくよく考えるともともと輪郭線のないものに 輪郭線をつけるのは、やっぱり愚かな「さかしら」ですから、もうちょっと思いきった方法論 の方がいいかもしれないですね。 「さかしら」を排除しすぎるその「逆さかしら」もまた「さかしら」になりきや ぐらいでどうでしょうか。 余談ですが、私は川が北に流れるのを見ると不安で家に帰りたくなるほどの気の小さな人間なのです。
お礼
heartmind様、ご回答をどうもありがとうございます。 >時には物事をまるのみこみして、次に進むことも必要だよね >どう考えたって自分の「さかしら」でしかないんだから、 >そのものを深く感じること(もののあはれ)からはじめようよ。 >が似てると思ったのですが。 主義主張や観念が肝心なのではなく、ただ、事実をありのままに見つめ自覚し、それを受け容れていく姿勢に徹するという意味に捉えました。 それは大切なことのように思います。 違いますでしょうか。 >日本人のアイデンティティーと呼べるものがあるのか懐疑的でした。 >しかし、よくよくたどってみると、やっぱり何らかの影響があるみたいって思えてきたんですね。 はい、私も同じ思いです。 日本人の意識の源流、もしくは、意識に埋もれた何かがあるとすればそれは一体何なのでしょうね。 この度の質問では、皆様方から思いのほか多くのご教示をいただきまして、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。 >ますます二極化が進み、何かしっくりこない感は市場にも表れて いて、購買意欲に結び付かない。 はい、そうですね。 そして購買意欲一つにしても、懐具合を鑑み意欲が湧かないのか、 商品自体に魅力が乏しいのか、自ずと性格が異なりますよね。 >純粋な芸術家とそれを市場に流通させる方法論を考える人など >論理的思考の折衷案対策って社会には必要だと思うんですね。 これにつき、その方面の仕事に携わっている身としては、耳が痛い話です。 号数を抑えて価格を従来より低く設定しても、以前に比べ、購入志向が総じて乏しいように映ります。 魅力ある市場作りに尽きるのでしょう、きっと。 >私は川が北に流れるのを見ると不安で家に帰りたくなるほどの気の小さな人間なのです。 了解です。 多々至らなかった点につき、ご容赦下さいませ。 今日明日にも質問を閉める方向でおります。 また次回もどうぞよろしくお願い致します。 またご考察をお聞かせ下さいね。
補足
ご回答をどうもありがとうございます。 >現代の社会の問題を考察するには、かけはなれているのではとのご指摘ですが。 いえ、私はそのようには申し上げてはいないのです。 No.27の拙文「そのまま言語学以外の現代社会の考察に援用する事などに、少々訝しく感じたまでです。」は、あくまでも、 heartmind様のご質問「さかしら」No.14で頂いたお礼「やっぱり文化論になりますよね。そうなんですよね。」のお礼を受けた上で、 私には判断がつきかねお答えしづらいという趣旨のもと、 その後の拙文No.16とNo.18の流れの末に記したものなのです。 つまり、heartmind様に問われた私の立場では、私自身の過去の誤ちの経緯から、 迂闊なことは申し上げられないという個人的な理由に過ぎません。 そしてさらに、ご自身で宣長や関連著書に触れていかれるのも「急がば回れ」ではないかと申し上げたまでです。 ですので、決してheartmind様のアプローチを批判しているのではないということを、以上のような一連の流れをふまえ、ご納得頂ければと強く願っております。 そして、heartmind様には、前へ歩んでいっていただきたいとも思っているのです。 正直なところを申し上げますと、私自身が人の思想を扱うことに対して、例の失敗ゆえに、多少神経質になっていると思って下さって構いません。 付き合いが悪くてごめんなさいね。 ですので、本居宣長に絡めない形(ご質問No.9に対するお礼)のさかしらであるなら、 私にも許されると思うのですよ。 頂いたご回答に関しては、後ほどお礼を記させていただきますね。 どうかよろしくお願い致します。
- ENERGAIA
- ベストアンサー率9% (5/53)
余白はあくまで余白だが、それを使って何かを表現するなら、余白ではなくなる。 文字以外の余白部分が、文字を引き立てるなら、それは有と一体であり、有用であるとも言える。 またまた余談ですが、プリンタで出力される絵とオーディオで鳴らす音楽を比べたとき、 音の音色・強弱が、色の鮮やかさ・濃さであり、音の解像度がプリンタで出力される絵や文字などの輪郭の滑らかさ(解像度)、そして絵画の構図が音楽のメロディに相当するのかな と思ったりします。
お礼
ENERGAIA様、こんにちは。 >「これはウルサイ柄(模様・デザイン)のカーテンだな」とか思ったりします。 >音的にデザインを感じている、のでしょうかね... はい、「うるさい柄」と言いますよね。 うるさいとは「うら=心」が「狭い」、心が千々に乱されることのようです。 http://gogen-allguide.com/u/urusai.html >文字以外の余白部分が、文字を引き立てるなら、それは有と一体であり、有用であるとも言える。 はい、余白は有用なのですね。 ご指摘の文章をふまえ、視覚と聴覚のイメージの擦り合わせと「余白」からは、 ENERGAIA様だと「カメハメ波」が浮かんでくるのですよね。 http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/cd/a00d81a04914f541999e9433601ca1e8.jpg 時間と空間が交錯する漫画の世界では、「キキキキンッ」のカタカナの擬音語が画と一体化し、読むではなく瞬時に「見ている」と思うのです。 そして私達は、自ずと文字を読み、かつ、見て理解するからこそ、漫画文化が発達してきたとも思うのです。 また、映画の字幕技術に関しても、日本は総じて秀逸と評されます。 文字の絵的効果、それとも、日本語自体が縦横無尽に表現し得るという恩恵も少なからずあるはずです。 それにしても、この原作者の画は、いたってシンプルなタッチなのに、結構迫力があるように感じられます。 その動きと余白の妙が、アニメ、SF映画好きで受けた影響なのか、それとも、 行書と草書を織り交ぜ変化自在の感ある小野道風や、高山寺の絵巻物に遡るのか、 あまり定かではありませんけれども。 漫画や字幕にかぎらず、和歌や俳句、盆栽、トランジスタにも通ずる、世界観、宇宙観を凝縮する日本の文化には、 支持体としての余白が、有用どころか必要不可欠なのかもしれません。 そして、ご指摘下さった「プリンタで出力される絵とオーディオで鳴らす音楽を比べたとき」のくだりを拝見して、 納得させられ、また思ったことは、 デジタルで表せない音や線画の濃淡などの、脆弱的なアナログの妙や趣を理解するのに日本人は長けているであろうから、 より積極的に国をあげて取り組んでいってもよいのではないかなということです。 字数的に音について、あまり触れることができずにすみません。 次回の質疑に持ち越したく、またよろしくお願い申し上げます。 ご回答を本当にどうもありがとうございました。
補足
ドラゴンボールのリンク先の画について、 左上より右下に走る、一本の斜めの線。 一体、どのような効果を狙ったのでしょうね。
- ENERGAIA
- ベストアンサー率9% (5/53)
余白とは、たとえば白い紙に黒いボールペンで文字を書くと、それ以外の黒くない、空白が余白である という定義となるのでしょうか。 であれば、無駄とか有用とかいうことではなく、何かが存在するために生じる、有と一体のものであるということにもなります。 立方体の箱の中に、モノを入れれば、それが存在するために必要な、何もない(ように見える)空間が、余白と言うことになります。 文章については、全角であれ半角スペースであれ、その空間は間です。音楽なら、音と音の間の無音の感覚が間ですね。 鳴っている音域の音以外が余白ということになります。 余談ですが、たとえばカーテンを選ぶとき、モノによっては「これはウルサイ柄(模様・デザイン)のカーテンだな」とか思ったりします。 音的にデザインを感じている、のでしょうかね...
お礼
ENERGAIA様、遅くなりました。すみません。 音に関しては、次のご回答にまとめますね。 先の書道のリンクをご欄頂けましたでしょうか。 本来文字とは、伝達手段で、神、あるいは人間同士の大切なやりとりに欠かせないものです。 でも、あの「玉泉帖」の文字は、コミュニケーション以上の何かを湛えているように映るのです。 まるで文字の姿一つ一つが、絵のような趣。 漢字の由来を辿れば、呪術性を見い出すことができましょう。 「風林火山」などの戦国大名の「幟旗(のぼりはた)」は、戦に際し 意味の伝達手段という次元を超えて、風を受け大空を舞うことにより、強力な力を集めたいと願う期待が込められているように思います。 文字の神聖化、霊的意味付与とも言えましょう。 https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_242/yniichan/IMG_0756-d4b82.JPG では、こちらはいかがでしょう。 「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」 http://rakutyuurakugai.cocolog-nifty.com/blog/images/2007/09/09/img_lyohaku1_2.jpg 本阿弥光悦(書)と俵屋宗達(料紙)との共作で、間断なく三十六歌仙の歌が続きます(画像は紀貫之と伊勢の歌です)。 ひときわ仮名文字の流麗さが、「余白」の上で際立っているとお思いになりませんか。 たおやかで優雅、でもちょっぴり脆そうな感じの美しさ。 >立方体の箱の中に、モノを入れれば、それが存在するために必要な、何もない(ように見える)空間が、余白と言うことになります。 >何かが存在するために生じる、有と一体のものである はい、そのように考えられますね。 余白とはやはり有と一体の「無」でしょうか。 「モノを入れる」から、krya様の「老子やヒンドゥの聖典のないこと、から(器)の大切さ」が浮かびました。 中心から遠い周縁では、「遊びの部分」が生じやすいのかもしれません。 日本の「から(器)」が「本家本元」の厳格で清廉潔癖さと一線を画す印象は一体何故でしょう。 たとえば、仮名文字を記す料紙の真白でない微妙な色移ろい、陰影、境界性の無い曖昧さ等々。 日本の余白には、集約すれば、繊細で「美しき脆弱性」が込められているのではないでしょうか。 反転すれば、この上なく強靭、しなやかで、これからの時代を生き抜く鍵にもなりそうなもの。
補足
ご無沙汰しております。 そして、ご回答をどうもありがとうございます。 後ほどお礼を記させていただきますね。 >余白とは、たとえば白い紙に黒いボールペンで文字を書くと、それ以外の黒くない、空白が余白である という定義 >であれば、無駄とか有用とかいうことではなく、何かが存在するために生じる、有と一体のものであるということにもなります。 はい、たしかに、有と一体のものと言えると思います。 では、書道のそれだと、どうなのでしょうね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Gyokusen_jo_ONO_MICHIKAZE.JPG 「有と一体のもの」以上の「有用な何か」が生みだされるとお考えになられますか。 その他は、後ほど。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
- ベストアンサー率29% (231/773)
ましゅまろさん。ふたたび、こんばんわ。 字数制限に引っかかったようなので、 先ほどの続きをこちらに書きます。 無駄に長くて申し訳ありません。 思いついたままに書いています。 ___________________________________ そういえば、長編を読んだあとに短編を読むと、 たとえば「雪国」なんかを読んだあと「蜜柑」なんかを読むと、 「余白の無さ」に、戸惑いと、爽快感を感じます。 もちろん、この場合の「余白」というのは 「文字が書かれていない部分」のことではなく、 なんといいますか、「ある余白」のことで、 その「ある余白」に何か言葉を当てたいのですが、 適当な言葉をなかなか思いつきません。 車のブレーキの「あそび」のようなもの、という気もします。 ____________________________________________ 日本人は沈黙を嫌わない、という話がどこかにありましたね。 それについて、なんとなく思い出したことも書いてみます。 (元)農耕民族であるがゆえの、 移動距離の短さ、距離の近さ、による 「阿吽の呼吸」とか「以心伝心」とか、そんなものが、 日本人の余白の中にはたくさん詰まっていて、 それは【期待】を含んでいるもののような気がするのですが、 この「【期待】を含んでいる」という点に、 ときどき不便さを感じます。 アメリカに日本人の友人がいるのですが、 アメリカでは、子どもが1歳未満のうちから、 夫婦の寝室とは別の部屋で寝かせるのが当たり前、 という話を聞き、とても驚いた覚えがあります。 わたしは、親と子どもの添い寝によって、 ○○を投げあい受け取りあっている気分でいたのですが、 きっとアメリカでは、 たとえば「i love U」「me 2」のような言語を用いて ○○を伝え合っているのだろうなあと思いました。 そのような事情で、アメリカの言語における余白は、 日本人よりずっと少ないのだろうなあと思いました。 (すみません、○○に当てる正しい言葉が分かりません) ____________________________________________ 長々と失礼しました。 一応これで退席する予定ですが、 春休みが終わる頃に、気が向いたら現れるかもしれません。 そのときはどうぞよろしくお願いします。
お礼
つづきです。 >それなら60年、余白なしで起きっぱなしで >残りの30年を、すべて余白にしてみたいなあとか思いました。 なるほど、面白いことをおっしゃるのですね。 初めに60年余白なしで残り30年余白の人生を送った場合と、 そのまた逆とでは、 同じ人でも、何か違いがあるのでしょうか。 >長編を読んだあとに短編を読むと、 >たとえば「雪国」なんかを読んだあと「蜜柑」なんかを読むと、 >「余白の無さ」に、戸惑いと、爽快感を感じます。 >車のブレーキの「あそび」のようなもの すぐにブレーキが効かない、あの一瞬の「間」に近い感覚のことでしょうか。 小説の世界も彩り豊かですものね、 余白の無さに爽快感。いいなあ。 >(元)農耕民族であるがゆえの、 >「阿吽の呼吸」とか「以心伝心」とか、そんなものが、 >日本人の余白の中にはたくさん詰まっていて、 >それは【期待】を含んでいるもののような気がする なるほど、そのようにお考えなのですね。 たしかに日本人の余白の中には「期待」を含む感じが、しなくはないですよね。 それって(元)農耕民族もさることながら、 ムラ(共同体)の結び付きが強いほど、余白に期待が込められるのではないかと私なら考えます。 >アメリカでは、子どもが1歳未満のうちから、 >夫婦の寝室とは別の部屋で寝かせるのが当たり前、 >という話を聞き、とても驚いた覚えがあります。 はい、欧米ではそれが主流かもしれませんね。 そして夫婦の時間を大切にするため、夜七時半過ぎには、こどもに就寝を促すことも、ごく普通という認識のようです(英仏)。 この点は、日本の方が夜更かしさせたり、ちょっとだらしない面が散見されるかもしれませんね。 >わたしは、親と子どもの添い寝によって、 >○○を投げあい受け取りあっている気分でいたのですが、 >○○に当てる正しい言葉が分かりません ○○は、言葉にするには、あまりに余白に満ちあふれているような。 でも、きっとそれは、 こどもと添い寝出来る時代にしか味わえないような、とっても幸せなものなのでしょうね。 透明感ある語りのようなご回答に、いつも癒されました。 次回もまた、こちらこそよろしくお願い申し上げます。 お礼が遅くなって、ごめんなさいね。 そして本当にどうもありがとうございました。
補足
ご回答をどうもありがとうございます。 >たとえば「i love U」「me 2」のような言語を用いて >○○を伝え合っているのだろうなあと思いました。 なるほど、そのように伝えあっていそうですよね。 そういえば、「I Would Die 4 U」(Prince & The Revolution) につき、たくさんブートレグ持ってましたよねと、お話した方がいらっしゃいました。 「ドーパミンをじゃんじゃん浴びてきました。」って、羨ましい…!
- 阿加井 凛悟(@neutral)
- ベストアンサー率29% (231/773)
ましゅまろさん。こんばんわ。 宙ぶらりんです。18番と23番です。 ご返信ありがとうございます。 >たしか、筋トレにおぼえあり、ですよね。 :はい・・・そうですが・・・ わたしを知っているのですか。 わたしにはよく分かりませんが、 名前を覚えていてもらえてうれしいです。 今日もベンチプレスなんかして、 ドーパミンをじゃんじゃん浴びてきました。 筋トレの時間は、わたしにとって瞑想のようなもので、 まさに「無」「空っぽ」で、「本物の休憩」なのです。 他には、わりと真剣に晩ゴハンを作っているときなども、 (日によっては労働としか感じられない場合もありますが) 日によっては、瞑想の時間になります。 ___________________________________________ ここまで書いて、 意図的に「建設的」な行為をした結果の 意図しない副産物である「余白」をポケ~っと眺め、 少し苦笑し、たくさん喜んでしまいました。 ___________________________________________ 筋トレの後、桜見物に行ったのですが、 (こちらは完全に労働です) 枝が見えないほど咲いている、というわけでもなく、 まだ半分ぐらい余白でした。 こいつはもう少し埋まってるほうが 綺麗なのだろうなあと思いました。 ___________________________________________ >「勿体ない」とは、仏教用語だったのですね。 :あ、そうなのですか、知りませんでした。 「勿体無い婆」のくせに 「>慈しみや感謝の念を抱く」というのは忘れていました。 教えてもらえてうれしいです。 ___________________________________________ >「単体」でない単位とは、一体何だとお考えでしょうか。 :対象のある、「関係」だと思っています。 特に、利害関係を含む「まじわり」、だと思っています。 「社会」ともいうのかもしれません。 ___________________________________________ >ん。「余白」には、って。「この質問」のこと? :いえ、ちがいますって・・・・ すみません、正確には、 「【わたしが余白と感じるもの】には、」でした。 ___________________________________________ >…だめ…笑いが止まらない… :え~っと・・・空気が読めません・・・。 ましゅまろさんが何を笑ったのか、よくわかりませんが・・・ 母親は笑っていたほうがいいなあと、自分に、思いました。 __________________________________________ >心地良さをおぼえて癒されます :実は23番は、あることに、不覚にも動揺し、 混乱の中で書き、そのまま投稿してしまったものですが、 このように言ってもらえて、とてもうれしいです。 「癒」という文字で思い出したのですが、 最近は「癒し」という言葉がやたら流行り、 「ストレス解消」という言葉が消えつつあることとか、 「5月10月の連休リレー」なる原案が生まれたり 「月月火水木金金」なる言葉が死滅したこととか、 そんなことを考えると、 日本人も、前世紀よりは、ずいぶん「余白」に対して 積極的で能動的になったなあ・・・とは言わないまでも、 少なくとも「余白」に対して寛大になったなあと思いました。 前世紀より昔のことは、まるで知らないのですが、 みなさまのご回答を拝見していると、 「余白」から「快」「美」を感じていた時代が、 たしかにあったようですね。 ___________________________________________ >余白って、大きければ大きいほど良いものなのでしょうか。 :よく分かりません、 師匠からは「バランス」が大事だと常々言われていまが、 わたしは「余白」を引き寄せすぎたり追い払いすぎたり、 どうも上手くバランスが取れずにいます。苦笑です。 ___________________________________________ >レム睡眠とノンレム睡眠とが交互に繰り返します。 >それは、何故なのでしょうね、いったい。 :すみません、まるで分かりません。 睡眠と言われて、ふと思ったのですが・・・・ わたしは毎日8時間眠っています。 人生の3分の1を、眠っているということです。 人生たとえば90年だとして、 それなら60年、余白なしで起きっぱなしで 残りの30年を、すべて余白にしてみたいなあとか思いました。 ____________________________________________
お礼
neutral様、重ねてのご回答をどうもありがとうございます。 >筋トレの時間は、わたしにとって瞑想のようなもので、 >「無」「空っぽ」で、「本物の休憩」なのです。 筋トレが瞑想なのですね。 格好良いですね^^ 子育て中の一人の時間は、得難いでしょう? お料理にかぎらず、集中している時って、「無」なのでしょうね。 おっと、火加減には(お互いに)用心致しませう。 >枝が見えないほど咲いている、というわけでもなく、 >まだ半分ぐらい余白でした。 >こいつはもう少し埋まってるほうが >綺麗なのだろうなあと思いました。 まあ。ご回答時は、まだつぼみがほころぶ頃でしたか。 やはり桜は華やかなほうが美しいのでしょうね。 滞仏先では、可愛らしい花をつけた≪これから咲く≫ものよりも、 ≪いま≫一番花開いているものの方が、割と好まれやすかったと思います。 日本の場合はどうでしょうか。 つぼみのままの姿も、可憐に愛くるしく思える時もありましょう。 実際に花屋の店先で、満開のものよりも、これから咲きそうな状態を選んだりして。 あ、そっちは「勿体無い婆」ってことかも!笑 >>その「単体」でない単位とは、一体何だとお考えでしょうか。 >特に、利害関係を含む「まじわり」、だと思っています。 >「社会」ともいうのかもしれません。 お答え下さったのですね。ありがとうございます。 そうですよね。人との「まじわり」はとても大切ですよね。 では、社会の更なる最小単位は家族でしょうか、それとも… そしてさらに、一見利害関係が無さそうにみえて、実際には、とても多くの人々と、間接的に繋がり、 お互いに支え合っているのでしょうね、きっと。 >「癒し」 >日本人も、前世紀よりは、ずいぶん「余白」に対して >少なくとも「余白」に対して寛大になったなあと思いました。 はい、今では随分「余白」に対して寛大になったように思えます。 私が新卒で入行したての頃は、隔週土曜日出勤があり、大晦日も通常通りでした。 有給休暇も、取得を考えることすら憚られ、サービス残業(これがまた半端でないの、笑) も当然視だったバブル絶頂期。 そしてあれから、私達日本人は、 「余白」に対して、寛大になったのでしょうか、 それとも、 寛大になることを余儀なくされていったのでしょうか。 続きます♪
補足
ご回答をどうもありがとうございます。 そして、 >何を笑ったのか、よくわかりませんが・・・ すみません、変なこと、また書いてしまったようですね。 「私の拙文全て」について、とても脈絡がなく、話が飛ぶ荒唐無稽さにつき、少し苦笑したのです。 >「余白」をポケ~っと眺め、 >少し苦笑し、たくさん喜んでしまいました。 という「軽やかさ」に似た感じで、他意はないの。
- hoell
- ベストアンサー率17% (24/137)
私なら「閑」の字を。 そして、空白があるから埋めることも開けることも可能。 希望がある、これからがある。 なので有用です。
お礼
hoell様、お礼が大変遅くなりました。すみません。 「閑」は希望がある、だから有用。 たった4行の短い文章なのに、 こうも嬉しくなるのは、なぜでしょうね。 「間」という字は、元々は「閒」だったそうです。 もんがまえと日と月と。 不思議な空間と時間が横たわっているように思われます。 どうして「閒」の字が姿を消したのかなと、ずっと考えておりましたら、 「朔望月」がふうっと頭に浮かびました。 そうか、月を見上げなくなったからなのか、なんて。 hoell様を見習って、短めにまとめてみました。 よろしければ、また次回も、是非ご回答をいただけたらと思います。 どうぞよろしくお願い致します。 本当にありがとうございました。
補足
真っ直ぐで、明るくなるようなご回答ですね。 どうもありがとうございます。 「間」と「閑」って、「日」と「木」で何がどう違うのでしょう。 少し思い耽りたいと思います。 後ほどお礼を記させていただきますね。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
もう一つ思い出したことがあります。アルファベットでは余白は本質的に重要な役割を演じています。これが無かったらアルファベットで書かれた文章は読めません。したがって、コンピューターの内部では余白一つにそれに対応する2進法のある組み合わせを当てがっており、他の文字と完全に同格に扱っています。無は無に見えることと無であることが異なることもあるようです。 一方、日本語の散文の文章は、西洋かぶれをして日本語の持っている美を理解出来なくなってしまった連中を除くと、句読点等を挿入して、徹底的に余白を嫌います。多分それは、日本人の思考空間は西洋人のアルファベットと言う一次元的で単純な空間ではなく、漢字の軸とひらがな軸とカタカナ軸という多次元的な自由度をもった言語空間にいるために、その自由度を適切に配置することによって、西洋人には表現しきれない美の多次元性を表現できる可能性が与えられているからでしょう。 落語や講談には確かに間が重要な役割を演じますが、それは次に何が出てくるか分からない一瞬の戸惑いを引き出すための手段としての効果を狙った技法と考えられます。詩や歌でない限り、そのような不安感を引き出す可能性を持った余白を文章の中に頻りに入れなくては相手に意味が通じないのは、明らかに言語構造上の欠陥です。そのような構造を持った言語では、いざ余白を使っての心理的効果を狙おうとしても、余白ばかりの文章を普段から読まされているので、その衝撃が弱まってしまい、文章を読みながら落語のように間による衝撃を感じることことが難しくなっている可能性があります。 その点、日本語には上で述べた多次元的な自由度があるために、余白を極力避ける文章を書くことが可能になります。その結果、文章の中に本当の意味での余白を挿入したいときに、その心理的衝撃を最大限に引き出せると言う、素晴らしい構造を我々の言葉は持っているようです。
お礼
cyototu様、お礼が遅くなりました。すみません。 >無は無に見えることと無であることが異なることもあるようです。 はい、そしてそれは活版印刷の世界にも言えることのようです。 「行間や余白は写植・DTPに於いては文字通り「何もない空間」であるが、 活版ではインテルやクワタなどの込め物によって詰められた、まさに「充満した空間」なのであって、 それらがまた金属(あるいは木)であるゆえにその分の重量も半端なものではない。」(wikipediaより) コンピューター同様に、見えざる工夫というものがやはりあるのですね。 余白は必ずしも、無に見えて、無ではない。 白い画布に白色を上塗りする西洋絵画を、ふと思い浮かべてしまいました。 >西洋人のアルファベットと言う一次元的で単純な空間ではなく、 >漢字の軸とひらがな軸とカタカナ軸という多次元的な自由度をもった言語空間にいるために、 >その自由度を適切に配置することによって、 >西洋人には表現しきれない美の多次元性を表現できる可能性が与えられているからでしょう。 はい、本当におっしゃる通りだと思います。 さらに、空間的な多次元性と言えば、ルビ(縦書きは文字の右側/横書きの際は文字の上側に位置)、 漢文の訓読の返り点の存在もありました。 おこがましくもあらためて、先人たちの苦労と熱意に頭が下がる思いです。 日本にいて、当たり前のことが当たり前過ぎて自ら気付かないことって多いのかもしれません。 日本語の美しさや表現力の多様性もその一つです。 志賀直哉が敗戦後に発表した「日本語廃止・フランス語採用論」などを通じ、 現代の日本人は何かを見い出すことは可能なのでしょうか。 >文章の中に本当の意味での余白を挿入したいときに、その心理的衝撃を最大限に引き出せると言う、 >素晴らしい構造を我々の言葉は持っているようです。 はい、本当に。 日本絵画の余白のもたらす効果にも、どこか通ずるものを感じます。 その大胆な構図を下支えしているのは、手つかずで何の気なしになりがちな、 余白以外の何物でもないのでしょう。 また次回もこちらこそよろしくお願い申し上げます。 ご回答を本当にどうもありがとうございました。
補足
重ねてのご回答をどうもありがとうございます。 そうですね、たしかにアルファベットに余白は絶対に必要ですね。 日本語の場合、徹底的に余白を嫌うようでもあり、また、 句点の必要がないのに敢えて打つという意図としては、なにか微妙な「間」や「美的効果」を狙っているようにも感じられるのです。 そしてそれは、気のせいでしょうか。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
「あさましや 人界に生を受けながら かかる浮世に明け暮らし 身を苦しむる悲しさよ…」 と、人の一生というものが、まるで糸繰車がクルクル回るかのように経て廻る、自らの力では六道輪廻を離れようがない、などと涙を流す場面がとても印象深かったです(ゆえあって旅の妊婦を実娘と知らずに殺害し錯乱して鬼と化した)。 ・・・これを一瞥しますと、親鸞聖人の悪人正機説「極重悪人唯称仏」を思い出しますね。 親鸞聖人の念仏三昧の究極は「無我」に至り、道元禅師の「只管打坐」もまた「無我」に到る道である。他力・自力の究極が同じ心境に到る。 不思議ですね。間断なく書き入れる、間断なく話す、間断なく踊る、それと静止の空間で白紙の状態を維持することが同じ目的地への道であろうとは、解析幾何学の接続問題(無限級数和が単純な数字になる)のようで面白いですね。 深遠な真理があちこちにありそうですね。 参考程度の追伸まで。
お礼
mmky様、お礼が遅くまりました。すみません。 先ほどテレビのスイッチを入れたところ、「のど自慢」の放送が映し出されました。 久々にちょっと眺めていたら、あの「カ~ン♪」という鐘の音の「間」が、絶妙なんですね。 で、一つ「カ~ン♪」か、二つ「カン カ~ン♪」と、音程がついて、一つのときの「間」と全然趣が違うのです。 おそらく、歌の上手下手なんて、歌い出しで見切ることなど造作もないのでしょう。 そして、どの「辺り」で鐘を鳴らすのか、ただひたすらにそれを考えているのではないかと思うのです。 その「辺り」という感覚には、ただのタイミングではなく、 日本人の「笑い」を含む曖昧な空間概念で、 間断なく歌い、鐘がなる、その繰り返しというあの長寿番組の醍醐味は、 ほかならぬ鐘の「間」なのでしょうね。 >親鸞聖人の念仏三昧の究極は「無我」に至り、道元禅師の「只管打坐」もまた「無我」に到る道である。 >他力・自力の究極が同じ心境に到る。 そうなのですね。 ご教示をとても嬉しく思います。 今の私は考察とは程遠い寄せ集めのようなことをしているに過ぎず、万事につけ、思想や宗教観の無さを痛感します。 でも、呑気だから、ちっとも前に進みません。 「無我」といえば、バタイユの「神の不在」と仏教の「諸法無我」について、以前にご教示していただきました。 似た感じの質問を立てている辺りに、少々苦笑しております。 神と言えば、一昨日「何故絵画(彫刻)の神様というものがいないのか」の質疑に投稿しました。 役立たずの拙文ながら投稿して良かったと思うこと、それは、 「いかに先人たち(絵師、彫刻職人)は、不遇の身で筆やノミを手にしてきたのだろう、 どれほど当時の制作手法は困難を極めたのだろう」と思い馳せ、 現代の恵まれた境遇にあらためて気づかされたことです。 絵画の神様を探すというなら、尊敬の念と共に、画聖もしくは先達に落ち着くのでしょう。 そしてまた、親鸞聖人にしても、道元禅師にしても、 当時どのような情勢の中でどのような意図のもとに説いていったのか、といったアプローチから、mmky様のご教示も絡めて触れてまいりたいと思います。 それにしても、数理物理の世界との関連性は、本当に不思議ですね。 また次回もこちらこそよろしくお願い申し上げます。 ご回答を本当にどうもありがとうございました。
補足
重ねての追伸、本当にどうもありがとうございます。 拙文に対するあまりに深遠なご回答に、思わず目を回しております。 「深遠な真理があちこちにありそうですね。」とおっしゃる、そのお言葉さえも、大変深いものを感じ入ります。 何故そのように、あちこちにあり得そうなのでしょう。 不思議に思えてきます。 いえ、それとも、 幾何学、つまり角度や直線、曲面などといったものでさえも、人間の主観的な認識に基づく以上は、他の思索を通じた真理と似通ったとしても、そう不思議ではないのかもしれない、なんて。 悩ましい謎です。
- heartmind
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こんにちは、マシュマロさん。 エポケーは「客観は思い込みかもしれないから、うーん 沈黙 間 間 間」 ぐらいの感覚でしょうか。 似てますよね、本居宣長さんと。 どうしてドイツと日本がいろいろと似るのでしょうか。 それが不思議なんですね。わからないんです、本当に。 そんなに理屈が好きでもないし、厳格でもない。 その裏返しのロマン主義? だけど、トーマス・マンの 「知性の高慢さが心情の古代的偏狭さと合体するとき,そこに悪魔が生まれる」 っていう反省は参考にしたいですよね。 余白は、大好きだけど、戒めるっていう日本の思想の根底にあるものは、 良くも悪くも受け入れていくのでしょうね。
お礼
heartmind様、遅くなりました。申し訳ありません。 >エポケーは「客観は思い込みかもしれないから、うーん 沈黙 間 間 間」 >似てますよね、本居宣長さんと。 う~ん、どのように似ているのか、私自身まだ理解出来ておりませんので、宿題とさせていただきますね。 >どうしてドイツと日本がいろいろと似るのでしょうか。 >それが不思議なんですね。わからないんです、本当に。 似ている/似ていないにつき、 例えば、日本が「真似た」面もありましょう。 明治維新以降、日本が学問上ドイツに倣い影響を受けたことが、ロマン主義にも言えると思います。 でも、全く別の面、 例えばサッカーチームにおける組織力、忍耐力重視は、不思議と日本のそれに近いようにも映ります。 ただ、私の友人を思い出しても、一概には言及しにくい個人差は否めません。 >「痛いの痛いの飛んでけー」って飛んでくわけないのに言いますよね。 私は「飛んでけ~!!(笑)」って、面白可笑しく言うせりふとばかり思っていました。 こどもの泣き顔が途端に笑い顔になる、それがなんとも愛しくてね。 >確かに私は… また誤解をもたらしてしまいましたね、ごめんなさい。 「さかしら」な私の過去の質問、No.1の質疑応答をご参照下さい。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4858613.html 便利な道具というものは、手軽さゆえに万事に使用したくなるものです。 でも、その使用法を誤ると、時に無意味で無駄、徒労にもなります。 文字通り私は「間抜け」でした。 当時の私は、No.1のご回答を真に理解出来ず、また類似質問も関係していたために、ズルズルと重ねていきました。 多くのご助言を得ることができ、実りあるものとなりましたが、今ならNo.1で質疑が終了すると思います。 そして「さかしら」のご質問も、宣長が当時言語学上で用いた「さかしら」を、「さかしら(からごごころ≒論理的思考)」と推察し、そのまま言語学以外の現代社会の考察に援用する事などに、少々訝しく感じたまでです。 でも、私の事例とは別かもしれないとも思い憚られ、敢えてこちらに記した次第です。 ところで「なんちゃってさかしら」とは、いったい? むしろ日本人の屁理屈や討論、係争を嫌う等の現代の考察を先にもってきて、その参考程度に、宣長の古典を列挙していく手法はいかがでしょうか。 ご回答をどうもありがとうございました。
補足
ご回答をどうもありがとうございます。 「さかしら」のご質問は、私にとって大いに考えさせられるもので、それゆえ、回答しづらい面を抱えております。 でも、heartmind様には、歩んでいっていただきたいという気持ちなのです。 ここのあたり、うまくお伝えすることが出来なくて、すみません。 ですので、少々お時間を頂戴したいと思います。 よろしくお願い致します。
お礼
mmky様、順不同につき、お礼が遅くなりましたことをお詫び致します。 実は、他の方のご質問「さかしら」につき、私自身の問題として、かなり考えさせられることがありまして。 決してその質問者の方のことではなく、私自身がつい、わかったつもりになって、さっさと先に進んでしまうところが大いにあったりして。 ああでも、何をもって「わかる」と言えるのか。 う~ん、また、脱線してしまいました、とほほ。 >何もない、何もしない余白も無ですが、踊り続けることもまた同じ無の意味を含んでいるのですね。その違いは形か心の違いですね。 >東洋人の美学と西洋人の美学には静と動の違いはあるように思いますが同じように余白の美的観点はあるのでしょうね。 はい、おっしゃる通りだと思い、とても考えさせられました。 舞は動、無は静。 舞は無を含む。形か心。 鋭いです。思わず納得です。 また変なことを思いついたのですけれども、 舞の「クルクル舞う」という回転するイメージと、昨晩観た演目の老婆(実は人喰い鬼婆)の仕草が、不思議と重なるのです。 何も知らぬ一夜の宿を求めた僧に対し、自ら糸繰車を持ち出して麻糸を手で繰りながら語るのですが… 「あさましや 人界に生を受けながら かかる浮世に明け暮らし 身を苦しむる悲しさよ…」 と、人の一生というものが、まるで糸繰車がクルクル回るかのように経て廻る、自らの力では六道輪廻を離れようがない、などと涙を流す場面がとても印象深かったです(ゆえあって旅の妊婦を実娘と知らずに殺害し錯乱して鬼と化した)。 また、童話の赤い靴(アンデルセン)も、主人公の女の子が「死ぬまで」クルクル踊り続ける呪いをかけられたのでした。 死と再生、輪廻転生、永劫回帰、性的なる意味合い(アメノウズメ、躍動感と肉体)、「間」と動作との連続性、等々…。 これらのイメージが「舞」とかかわりあうなら、また同様に「無」とも結び付きそうな気もしてまいります。 ああ、でもどうなのでしょう、 心を「空白」にする=「無心」になって踊るという意味合いはわかるのですけれども。 ご回答をありがとうございました。
補足
追伸を頂戴致しました。どうもありがとうございます。 お礼が遅くなりまして、申し訳ありません。