• ベストアンサー

余白

いつもお世話になっております。 余白というものにはどのような意味があるのでしょう。 (例えば「白」「空」「虚」「無」「怖」「畏敬」「間」等々) また、余白というものは、無駄でしょうか、 それとも有用でしょうか。 皆様のお考えをお聞かせ下さい。 よろしくお願い致します。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.14

追伸: [余白の醸し出す余情や余韻に私たち日本人が美を見出すというのであれば、西洋ではむしろ、空間を埋めずにはいられない恐れに駆られるようでもあり、だとしたら、それは何ゆえなのでしょう。] 参考までに 私の知り合いに書道家がいまして、あるとき一枚記念にとお願いしたのです。何ヶ月か後に一枚の書が送られてきました。 その書には「舞:まい」と書かれていたのですが読みは「無:む」という注釈が付いておりました。つまり「無」という字を「舞」と表現したとのことなのですが、これが疑問の回答に通じるかなと思います。 何もない、何もしない余白も無ですが、踊り続けることもまた同じ無の意味を含んでいるのですね。その違いは形か心の違いですね。 東洋人の美学と西洋人の美学には静と動の違いはあるように思いますが同じように余白の美的観点はあるのでしょうね。

mashumaro2
質問者

お礼

mmky様、順不同につき、お礼が遅くなりましたことをお詫び致します。 実は、他の方のご質問「さかしら」につき、私自身の問題として、かなり考えさせられることがありまして。 決してその質問者の方のことではなく、私自身がつい、わかったつもりになって、さっさと先に進んでしまうところが大いにあったりして。 ああでも、何をもって「わかる」と言えるのか。 う~ん、また、脱線してしまいました、とほほ。 >何もない、何もしない余白も無ですが、踊り続けることもまた同じ無の意味を含んでいるのですね。その違いは形か心の違いですね。 >東洋人の美学と西洋人の美学には静と動の違いはあるように思いますが同じように余白の美的観点はあるのでしょうね。 はい、おっしゃる通りだと思い、とても考えさせられました。 舞は動、無は静。 舞は無を含む。形か心。 鋭いです。思わず納得です。 また変なことを思いついたのですけれども、 舞の「クルクル舞う」という回転するイメージと、昨晩観た演目の老婆(実は人喰い鬼婆)の仕草が、不思議と重なるのです。 何も知らぬ一夜の宿を求めた僧に対し、自ら糸繰車を持ち出して麻糸を手で繰りながら語るのですが… 「あさましや 人界に生を受けながら かかる浮世に明け暮らし 身を苦しむる悲しさよ…」 と、人の一生というものが、まるで糸繰車がクルクル回るかのように経て廻る、自らの力では六道輪廻を離れようがない、などと涙を流す場面がとても印象深かったです(ゆえあって旅の妊婦を実娘と知らずに殺害し錯乱して鬼と化した)。 また、童話の赤い靴(アンデルセン)も、主人公の女の子が「死ぬまで」クルクル踊り続ける呪いをかけられたのでした。 死と再生、輪廻転生、永劫回帰、性的なる意味合い(アメノウズメ、躍動感と肉体)、「間」と動作との連続性、等々…。 これらのイメージが「舞」とかかわりあうなら、また同様に「無」とも結び付きそうな気もしてまいります。 ああ、でもどうなのでしょう、 心を「空白」にする=「無心」になって踊るという意味合いはわかるのですけれども。 ご回答をありがとうございました。

mashumaro2
質問者

補足

追伸を頂戴致しました。どうもありがとうございます。 お礼が遅くなりまして、申し訳ありません。

その他の回答 (35)

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.5

余白とは何もないことですね。音楽は静寂から始まって静寂で終わります。ですが、始まりの静寂と終わりの静寂は全く違った意味を持ちます。同じように何もない余白も文脈の中で全く違った豊富な意味を持つのです。 もう一つ。落語などの「間」は日本人の美学の花です。もしかしたら、これは文化を超えた人類共通の美学かもしれません。

mashumaro2
質問者

お礼

cyototu様、ご無沙汰しております。 そして、ご回答をありがとうございます。 >何もない余白も文脈の中で全く違った豊富な意味を持つのです。 余白とは「何もない」ことなのですね。 そして「何もない」のに、始まりと終わりとで意味が異なるとおっしゃる。 それは始まりと終わりを際立たせるという意なのでしょうか。 それとも、「何もない」それ自体が、「ある」以上に豊富な意味を孕んでいるのでしょうか。 >落語などの「間」は日本人の美学の花です。 >もしかしたら、これは文化を超えた人類共通の美学かもしれません。 はい、落語の「間」ですね。 デートに寄席なんて、案外、粋かもしれません。 千差万別の個性のうちに、名人の落語というのは、独自のペースで「間」を巧みにつかみ操るのでしょう。 この場合の「間」というのは、"timing"という語に置き換えられる以上の何かを含むとお考えでしょうか。 日本の古典芸能においては、「間」こそに非常に重要な意味合いがあり、演者は全神経を注ぐとうかがっております。 また、ご指摘下さった音楽における「間」といえば、通常私たちは、少なからず合致の方向性を志向すると思うのです。 ところが、日本の能楽においては、どうやらこの限りではなさそうなのです。 囃子方(特に小鼓)と地謡との間では、時に「喧嘩」をしたり「主張し、相譲らない」ことも厭わないとのこと。 また、謡には西洋音楽にあるような「絶対音階」も特になく、曖昧で柔軟性に富んでいます。 各々の「間」を第一とするならば、当然「ズレ」も生じましょうが、それもまた、世界に二つとない「面白き味わい」なのだそうです。 何だか、とても変わっていると思います。 「余白」と「間」とは、全く同義と言えるものなのでしょうか。 何だか随分多くのものを、私たち日本人は「余白」やら「間」やらに「美」を込めてきたように思うのですけれども。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.4

余白というものにはどのような意味があるのでしょう。 論理的や数学的などの観方ではなく、芸術的観方という視点を人はそれぞれ持っているのですね。評価が難しくて一般的には取り扱われませんが芸術家は厳格に評価基準があるように思います。その芸術的観方で重要な位置を占めるのが「余白」ですね。 例えば、 「鈴木一郎」と書くか「鈴木 一郎」と書くか「鈴 木 一 郎」と書くかは各人の芸術的観方によるわけです。各余白の作り方は個人個人で違いますが、その違いこそが存在理由だと思いますよ。あなたの質問もなぜか余白が入ってますね。続けて書く方、一行おきに余白を入れる片、段落ごとに余白を入れる方などいろいろですね。皆、余白に特別な意味があるのでしょうね。

mashumaro2
質問者

お礼

mmky様、ご無沙汰しております。 そしてご回答をありがとうございます。 >芸術的観方で重要な位置を占めるのが「余白」ですね。 はい、 実は質問中の語群のほかに隠していたものに、cyototu様に言い当てられてしまった「美」があります。 余白の醸し出す余情や余韻に私たち日本人が美を見出すというのであれば、西洋ではむしろ、空間を埋めずにはいられない恐れに駆られるようでもあり、 だとしたら、それは何ゆえなのでしょう。 絵画の「額縁」といった概念も、とても不思議に思われます。 なぜ人は絵画に更に額装をしたがるのか、と。 日本にも古来よりの扁額の流れがあるのですが、主に建物外部に掛けられ、装飾というよりも板と一体化しているように映ります。 「霊光 足利義満自筆」東福寺(龍吟庵) http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/bb/85b1b7248605e16a30d488245d895b15.jpg 谷崎の「陰翳礼讃」の日本家屋における洞察は、とても興味深いものがあります。 深い静寂やひっそりとした暗闇の中に、そしてまた壁という白い「余白」にも、私たちはうつろう光の妙を見い出すものと思われます。 そしてその心のうちには、西洋の「恐れ」とは異質の、自然に対する「畏れ」「慎ましさ」のようなものを感じとるのではないでしょうか。 >皆、余白に特別な意味があるのでしょうね。 はい、そしてそれは、言葉の発し方や記し方など、私たちの身の回りのありとあらゆるもののうちに、日本独自の意味合いがあるような気がしてならないのです。

回答No.3

 余白とは母なる創造界です。創造の対象(客体)存在を存在させています。  つまり有なるものを有としてあらしめているのが無です。  有がaggressive(水の如き上善)であれば、無はhumbleにしてunassuming。  無が蘆花に入る白鳥であれば、有はごみためで日々の餌を探す鴉さんです。  本当は鴉は利口で、とてもいい鳥ですが、絵画的表現としての言い方で。  そして白鳥入蘆花とは下村湖人の直感的言い方ですが、禅では白馬入蘆花ということばがあるそうです。臨済宗かな。  無、空も創造になるもの(客体)ですが、有は無の中の客体です。  日本や東洋の美術も思想も思考も無によってどう有をあらしめるか、或いは有によってどう無をあらしめるか、ということに真髄、神髄があると存じます。  詩や文章もそうだと存じます。  こういうことは質問者はもう知っていて、だから皆さんがどういう言い方をされるかをお待ちなのでしょうか?  そんな邪推をしてしまいます。すみません。  だって、東洋の文化に関心を持つと誰でもそういうことを前提にしているのだと存じます。

mashumaro2
質問者

お礼

krya1998様、ご無沙汰しております。 そしてご回答をありがとうございます。 >こういうことは質問者はもう知っていて、だから皆さんがどういう言い方をされるかをお待ちなのでしょうか? はい、以前より皆様のご回答を通じて、是非とも持ち越したいと思い願っていた質問です。 東洋の思想に興味を抱いておりますが、私自身が知ることなど無きに等しく、また、その取っ掛かりとして「日本固有の何か」が大きく横たわっているのであれば、それが何なのか掴みたいと思っております。 >余白とは母なる創造界です。創造の対象(客体)存在を存在させています。 >つまり有なるものを有としてあらしめているのが無です。 有に対する無なのですね。 客体を存在させる余白に対し、もし日本独自の意味合いを付与するとすれば、それは一体何なのでしょう。 そしてそれは可能でしょうか。 >有がaggressive(水の如き上善)であれば、無はhumbleにしてunassuming。 >無が蘆花に入る白鳥であれば、有はごみためで日々の餌を探す鴉さんです。 >本当は鴉は利口で、とてもいい鳥ですが、絵画的表現としての言い方で。 私にとって非常にわかりやすい表現をして下さり、とても嬉しく思います。 humbleは「虚」を意としているのでしょうか。 実はこの質問を思い立ったのは、上野の「長谷川等伯展」を観た際に非常に強い思いを抱いたからでして、印象深い作品の中には「松に鴉・柳に白鷺図屏風」という六曲一双もありました。 日々の餌を探す鴉は、おっしゃる通り、まさに有です。 http://homepage2.nifty.com/fu_sai/oomise/pic/karasu.jpeg(松に鴉) 余白と呼ぶには語弊がありそうなおおらかさのうちに、薄霧がかったようなしっとりとした情感が醸し出され心和まされるとともに、 「日本や東洋の美術も思想も思考も無によってどう有をあらしめるか、或いは有によってどう無をあらしめるか、ということに真髄、神髄がある」 とおっしゃるうちの日本独自の精神性は、「余白」を通じてどこでどう広く繋がっているのだろうと強く思った次第です。

回答No.2

空間があることによって、物体があるのです。 余白があることによって、意味が生じるのです。 たとえばモールス信号の音が、ずっと連続して鳴ったのでは、 意味は伝えられません。 それは、物体の根源をなす量子性=確率波動においても同じで、 「存在」とは何かがギッシリ詰まっていることかというと、 実は確率分布が不均等になっている時、その山の中心を 「存在」というだけなのです。 もし、本当に「ギッシリと詰め込む(原子構造なども含めて)」 と、存在確率の山が重なり合って平らになり、それは無と等しく なるのです。 また、「相対性理論において超光速の物体のエネルギーが虚数に なり、エネルギーは相互作用において自乗=マイナス=時間軸 逆行と等価になる」という解釈において、実は「超光速」領域の 「過去」化において時空軸が転換し、また物体と空間も転換する のです(つまり、過去の「何もない余白領域」は、未来では 「物体領域」になる)。 ところが、そうした非光速性が、階層現象をなす物体を表面的に 捉えることで、原理的な(全てのものは超弦理論において 量子性に還元される&空間的広がり(予測)は感受表面での量子 相互作用パターンに還元される)光速性が、潜在化して派生する ものなのです。 即ち、過去の「自分の形(実体)」と、未来の「自分形にくり抜か れた型(余白)」は、本質における「感受表面=量子相互作用=光速」 においてピッタリ重なり、「形のないもの=無限不確定性=無」に 還元されるのです。

mashumaro2
質問者

お礼

psytex様、ご回答をありがとうございます。 遅くなりまして、すみません。 私にはとても難しいながらも、色々と想い浮かんでは消え、を繰り返すお説のように思われます。 ですので、最も思い抱いたことを記させていただきますね。 >空間があることによって、物体があるのです。 >余白があることによって、意味が生じるのです。 洋の東西を問わず、人は、空間をわざと囲んだり区切ることで、安全と安らぎ、快適さを創り出してきたように思われます。 そしてその理想の世界の一番身近な例として、「庭」が挙げられると考えております。 広大な大宇宙を縮小して、地上に再現した小宇宙の如く映るものも稀ではありません。 山岳地帯に生きるブータンの人々にとっての「庭」とは、いかなる意味合いを持つのでしょう。 塀や垣根をめぐらすこともあるのでしょうか。 また、日本人はブータンの風景にふれることで、ふるさとのような郷愁をおぼえることがあると耳にしたことがあります。 話のかぎりでは、何となくですが、想像できなくもない気がします。 現実にふるさとがあろうとなかろうと、心象風景としてそれを各々の「心の余白」「隙間」に埋めてしまうというのならば、それはいったい何故なのだろうとも思うのです。

  • jinseiwalk
  • ベストアンサー率23% (372/1603)
回答No.1

無駄にみえて有用 有用であり無駄 イエスかノーかではとらえられない。

mashumaro2
質問者

お礼

jinseiwalk様、ご回答をありがとうございます。 そうですね、光と影が背中合わせのように、 余白というものは 無駄にも有用にも見立てられるのかもしれませんね。 その際の見極めというのは、いったい何によるものなのでしょう。 そしてそれは、過去と現代において変遷した面がみられるのでしょうか。 そう言えば、「空白」という言葉もありますね。 より虚無の空間に近づくような、どことなく、空おそろしいような心持ちも致します。 昨今の「空気を読め」の「空気感」というのは、真に掴みどころがないように思われますが、 どちらかと言うと、この空白のほうに近しいのかもしれません。 そしてそれは、古びた日本家屋の座敷や床の間をみつめる際に時折感じる、 あの筆舌し難い不気味な静けさにも通ずるものがあるのでしょうか。

関連するQ&A