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人間の死生観について
こんにちは。 いつもお世話になります。 生きていれば悩みます。 以前に人が亡くなったらどうなるか、日本で頭の良い方で最も優れた方々の一人に伺ったら無です。と答えられました。 無の世界を夢で見てしまいました。 何もなくて空虚でした。 人間は宗教を信じてそこに救いを求めようとします。 死生観は人によって違ってよいと思います。 みなさまの死生観はどのようでしょうか。 https://youtu.be/p7ckF5nIIUE
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以下のとおりお答えします。 >死生観は人によって違ってよいと思います。 ⇒仰せのとおりだと考えます。十人十色百人百色千人…であってよいと思います。 その昔、スペインのウナムーノという哲人は一生かけて死なない方法を探求したと聞きます。いや、ウナムーノに限らず、世界中に人々が不老長寿を求めて苦闘してきました。しかし、「人間は死に向って進む存在」(ハイデッガー)で、この摂理は如何ともし難く、万人が甘受せざるを得ません。たとえ王でも「王道」はありません。 そこで、不滅を求める人の群は二手に分かれます。多くの人は無神論者となって視点をしばしば環境や医学の方へ移し、他方それ以外の人の一部は有神論の立場に立って不滅の第二義、すなわち、人間の魂、人格、名声等の永久存続を求めます。ウナムーノはもちろんこの仲間です。彼は、魂の不滅を望みました。切に望みました。「わが身は死すともわが名の残らんことを」と…。 ところで、コンラッドという作家はこう言いました。曰く、「人間が最も怖れるもの、それは自分の想像である」。なるほど、うべなるかな。けだし、想像は、当人にとっては「実在」そのものなのですね。とすれば、つまり、怖れるものが自己の想像(という精神作用)に由来するとすれば、それと類縁関係にあるもの、すなわち、喜怒哀楽などの悲喜こもごものことが自分の想像に由来するはずです。とりわけ、「喜」や「楽」が自己の想像・意識に由来するはずですね。 そういうことであるなら、楽しい黄泉の国あの世を想像しない手はありません。楽しい死後の世界、天国、極楽を想像しない手はありません。それが、その想像する主体たる自己にとっては真実そのものなのである、と言われるならば。そう、バラ色の未来を想像すれば、未来はバラ色なのです。バラ色の死後を想像すれば、死後はバラ色なのです。「想像の徳」であす。誰も否定できません、誰も見たことはないのですから。 ということで、冒頭で言われたように、「死生観は人によって違ってよい」と私も思いますので、これからは上述のように考えるつもりです。(tangerine21さんにもお勧めできます。)
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- oska2
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>以前に人が亡くなったらどうなるか、日本で頭の良い方で最も優れた方々の一人に伺ったら無です。と答えられました。 その通りで、詐欺まがいの偽宗教者でない限り同じ回答をするでしようね。 仏教の釈迦も、死後の事は何も語っていませんからね。 最澄・空海・法然・親鸞など宗派を起こした聖人も、誰も死後の事は語っていません。 つまり、「死ぬと何も残らないし生まない」 蓮如なんか「死んだ後の事は悩むな。誰も見た事がないんだから」と説法しています。^^; 戦国の世が終わって平和な時代になると、何故か「天国と地獄」が各宗派で布教に用いられます。 布教をしている坊さんも、実は天国も地獄も見た事はないのですがね。 臨死体験をした方が話す内容も、全て書籍に書いている事柄に過ぎません。 「天国・地獄を気にする者」は、何らかの罪を犯しているのでしようね。 罪と言っても、殺人・窃盗・傷害などの刑事事件だけではありません。 嘘つき・約束を守らない事も、宗教では罪になります。 この心の病を狙って、偽宗教者・宗教団体・占い師が「カネ儲け目的」で近づいてきます。 いわゆる「洗脳」 質問者さまがご存知か否か分かりませんが、現在では「葬儀・七日・四十九日などの法事をしない」人も増えています。 お墓・仏壇自体も、準備しません。 「死んだら、何も残らない」と、考える方が増えているのでしよう。
お礼
わたしが亡くなっても葬儀に関することは行われないと思います。 家族にはベートーヴェンの弦楽四重奏14番を流してもらいたいとだけ伝えてあります。 見た夢は本当のことだったようです。 教えてくれた頭の良い方は正直に答えてくださったのですね。 ご回答ありがとうございます。
お礼
この度はまことにお世話になりました。 お詳しくお答えくださいました。 思うことは同じでよかったです。 哲学の分野で質問してよかったです。 ご回答ありがとうございました。