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余白
いつもお世話になっております。 余白というものにはどのような意味があるのでしょう。 (例えば「白」「空」「虚」「無」「怖」「畏敬」「間」等々) また、余白というものは、無駄でしょうか、 それとも有用でしょうか。 皆様のお考えをお聞かせ下さい。 よろしくお願い致します。
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追伸: [余白の醸し出す余情や余韻に私たち日本人が美を見出すというのであれば、西洋ではむしろ、空間を埋めずにはいられない恐れに駆られるようでもあり、だとしたら、それは何ゆえなのでしょう。] 参考までに 私の知り合いに書道家がいまして、あるとき一枚記念にとお願いしたのです。何ヶ月か後に一枚の書が送られてきました。 その書には「舞:まい」と書かれていたのですが読みは「無:む」という注釈が付いておりました。つまり「無」という字を「舞」と表現したとのことなのですが、これが疑問の回答に通じるかなと思います。 何もない、何もしない余白も無ですが、踊り続けることもまた同じ無の意味を含んでいるのですね。その違いは形か心の違いですね。 東洋人の美学と西洋人の美学には静と動の違いはあるように思いますが同じように余白の美的観点はあるのでしょうね。
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- amaguappa
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わ、笑った。。。 余白だらけの人物って、やっぱりおっもしろいなぁ。 舞を舞え舞え、人生の余白か、人生が余白か、 エスカレーター女子校出身ぽいひとのクスクス笑い、 こんなものは 余白の余白に消えていくもの。 共学公立叩き上げのわたしが見るとちょっと眩しい余白。 舞踊か舞踏に半生を費やした方が 哲学カテゴリにいらっしゃいますよね。 人生の余白、人生が余白、、、こんなところについて 舞う肉体と精神の声を聞いてみたい気もしますね。
お礼
amaguappa様、ご回答をありがとうございます。 タイミング的には、先にこちらにお礼をつけたほうがよいと思いまして。 「間が悪くなる」となんだかなあって。 私のほうこそ、一度でいいから「共学公立叩き上げのわたし」と誇ってみたかったです。 下からエスカレーター組には、奇人変人のオンパレードですし(中にはまともな人もいると思われる)、 親の趣味だったとしか、もうもう、言いようがありませんから。 人生の余白なのか、人生そのものが余白のままなのか、この際気にせず最期まで貫きとう存じます。 >舞踊か舞踏に半生を費やした方が >哲学カテゴリにいらっしゃいますよね。 >人生の余白、人生が余白、、、こんなところについて >舞う肉体と精神の声を聞いてみたい気もしますね。 はい、私も是非お話をうかがってみたいです。 半生を費やしたというのは、生半可ではないと思われますので。 こちらをご覧になられたら、ぜひよろしくお願い致します(ぺこり)。 >わ、笑った。。。 >余白だらけの人物って、やっぱりおっもしろいなぁ。 amaguappa様が笑うと、何だか無性に、警戒レベルを上げたくなる気がするのは、 私だけでしょうか?! だって、たまにパタパタと、翼をつけて連れ立って、 「余白の余白に消えていってしまう」のをお見かけするので…。
補足
中国古典にも通ずるような道徳観や人としてのありよう、といったフィルターを通じて、万事を見通すというのであれば、 美や醜といった概念も、当然徳の範疇を超えようはずもなく。 そしてその「道徳観」による価値付与というのは、自らの内に求めるべきなのか、はたまた外に向けるべきなのか。 (飛翔したあの方のことです。疲れました、笑) 中国の山水画に「なく」日本の山水画には「ある」≪何か≫にも、何か通じる気がするのです。 同じ山水画の「余白」でも、日本の山水画の余白には≪道徳的価値観から解き放たれた「美」≫がこめられているのだろうって。
>浮気の代償を描いた塩野七生の物語があります。 予感と組み合わせて誤解させてしまったでしょうか。 そうでしたら申し訳ありません。 さらっと系が好きなので、そういう方とはなかなか浮気にまで発展しませんし、粘着質系はたとえ美人でも趣味ではないのでまして不倫など思いもよりません。 漠然とした恐怖感とか不安感は失調症への兆候があるのかと思っただけです。 壊れる前に予感でもあるのかなと。。。 以上です。
お礼
asura_2012様、ご回答をありがとうございます。 そして「邯鄲の夢」に関するご丁寧な補足も拝見致しました。 全て、了解です。 私のほうこそ大いに誤解していたようで、恥ずかしいです。 >漠然とした恐怖感とか不安感は失調症への兆候があるのかと思っただけです。 >壊れる前に予感でもあるのかなと。。。 なるほど、真意はそこにあったのですね。 そうですね、もしそうであったなら、芸術家のはしくれにもなりえましょう。 草間彌生という女性アーティストをご存知でしょうか。 彼女はこのように記しています。 「わたしが絵をかいたのは、芸術家になるためでなくって、困った病気、不安神経症、強迫神経症や偏執狂が原因。同じ映像がいくつもいくつも押し寄せてくる恐怖、小学校の校舎の陰のコンクリートの暗がりにいつも常同反復しながら一面に、壁の平面を這って増殖する白いブツブツが見えると、この魂が、フワフワと身体から出ていってしまう。そのこと、スケッチブックに、いつもかいていた。描いて、しっかり見てみないと、わたしは失神してしまう。…」『マンハッタン自殺未遂常習犯』(角川文庫) ポルカ・ドッツ(水玉模様)のように、余白などのない全てを覆いつくす数々の作品。 彼女はそれを「芸術の集積(アキュミュレーション・アート)」と呼びます。 かなり奇異で異様、だけど、圧倒的な迫力を誰もが感じるはずです。 http://ecx.images-amazon.com/images/I/51K9S56Y5ML.jpg 芸術的療法の末に創り出されたもの、と言えばそれまでなのでしょう。けれども、決してそれにとどまらない多大な衝撃を世界に与えた理由のうちには、≪余白を志向しないという現代の一面≫が真っ先に挙げられると思います。 「雑多な寄せ集め」的なるものの系譜も、20世紀以降の芸術上に認められましょう。 このご回答に際して、「余白」に対する具体的な反対の語彙に「集積」を当てはめてみたいと思います。 そして私たちはそこに、≪時代性≫の何を見い出すことが出来ると思われますか。 「群衆」「効率性」「密集」「没個性」…。
補足
先の「クスクス笑い」は、私のとんちんかんさにつき、呆れ果てて笑ったのです。 でも、あなたを不快にさせてしまったのですよね、きっと。 私が至りませんでした。 そして、ごめんなさい。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
mmkyさんへのお礼 【余白の醸し出す余情や余韻に私たち日本人が美を見出すというのであれば、西洋ではむしろ、空間を埋めずにはいられない恐れに駆られるようでもあり、】何か無言でいることが不安になる場ってありますよね。しゃべる必要がないということは、私たちには普通ですが、欧米ではそうでもないみたいですね。敵意を感じるそうですが(人に聞いた話で)。 みなさんのご回答に敷衍して (1)余白に畏怖。ないというとはそうです。私たちは精進勤行で心身と世界からいっさいを取り払います。これは最初はできません。畏怖もあります。無は有でしかない私たち存在子には畏怖ですね。 (2)昭和天皇陛下が移転建築した私たちの大学の開学記念に行幸されました。 陛下が車を下りられて、手を振る廻りの時間が止まりました。たくさんの方をお迎えしましたが、先入観なし。誰もあの雰囲気はありませんでした。 都心にキャンパスがあった時期のこと。国会にいく途中の車の中で、ある政党の議員が我が大学であると知っていながら、こりゃ遊休地だといい、移転問題の一つの契機ともなったそうです。仏教系の新宗教教団体を背景にしている政党の方でした。私たちも嫌われていました。消せ!空白にせよ!というお気持ちだったのでしょうね。いやな奴は無の中に消せですかね。
お礼
krya1998様、お礼が遅くなり、申し訳ありません。 また余談で恐縮ですが、昨晩は靖国神社の夜桜能を観に行きました。 あの辺りや境内の桜は、やはり素晴らしく、見ごたえがあります。 花見客や露天商の雑踏を通り抜け、野外能楽堂へ向かいました。 桜の下の能、お花見が主ということもあり、後方の比較的手頃な指定席券を手配してもらったせいか、周りは外人だらけで驚きました。 しかも、誰も寝ていなかったです。 上背も高く、ちょっと見えにくいなあ、あそこの桜の木の枝っぷりがいいから、登って見れたらいいなあ(木登りは実は大得意)となどと思ったりもして。 ですが、散りゆく桜と散華した英霊とを重ね合わせ、慰めようとの趣旨のもと、「またついでに」観客に楽しんでもらおうと始められたもので…と記されたパンフを眺めてからというもの、戦争美化やら英霊拝礼やらそういったことではなく、ただ単に私の知らない戦争と言う、普段は気にもしないこの国の過去の事実に、ちょっぴり触れたような、そんな不思議な心地になりました。 ちょっとおこがましい話だったでしょうか。 >何か無言でいることが不安になる場ってありますよね。しゃべる必要がないということは、私たちには普通ですが、欧米ではそうでもないみたいですね。 はい、おっしゃる通りだと思います。 しゃべらずに沈黙でいることも、私たち日本人は、あまあり厭わない傾向があろうかと存じます。 また、昨晩の車中を見て感じたことは、外人は堂々と座席の真ん中に座ったりするのに、私達はどちらかというと端から座っていくのではないかなということです。 むろん個人差もありましょうが、座席においても余白、間を置く傾向があるのかもしれない等と、乱暴な推論をしてみて面白かったです。 >余白に畏怖。ないというとはそうです。 >私たちは精進勤行で心身と世界からいっさいを取り払います。これは最初はできません。 その余白とは、空白、なにもないということなのですね。 その場合の「畏怖」というのは、別の言葉で置き換えると、何に相当するのでしょうか。 >消せ!空白にせよ! そのようなこともあったのですね。 移転問題一つにも様々なことが絡んでいたとのこと、その一つが宗教団体とうかがって、それが少々奇異なことのように感じました。
補足
ご回答をありがとうございます。 もう少々、お待ち下さいますよう、お願い申し上げます。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
mashumaro2さん ANo.3です マシュマロ2さん⇒【「日本固有の何か」が大きく横たわっているのであれば、それが何なのか掴みたいと思っております。】 くりや1998⇒(1)滅私奉公って批判されますが、その“公”をどう思うか次第では欧米人には理解も真似もできない最高の美徳かと存じます。それが普通にできることが。わざと、無理してはやめたほうがいい。(2)No.2っていいと思います、毛沢東に対する周恩来とか。常朝とか。常人の理解を超えたところのある周恩来の言動ですが、あの激動の真っ只中の舵取りであり、数百年のお家の育ちの精神性ですから、いろんな光反射があったでしょうね。(3)日本人は自ら自分の手柄にするえげつなさを嫌いますね。人を善意に解釈して、受け取り、相手をや周りを立てる。私はこういう日本人性は育てたいと、遅まきながら感じています。駄弁ですがご参考に。 【humbleは「虚」】 以前私はhumbleについての質問を起てました。やはり「虚」であることは大事ですよね。
お礼
krya1998様、順不同につきお礼が遅れましたことをお詫び致します。 まずはじめに、ご指摘の【humbleは「虚」】につき、krya1998様のご質問と共に、じっくりこれから考えていきたいと思います。 お話の(1)と(3)は、集約すれば「謙譲の精神」でしょうか。 かつては、長男が家督を継ぐに際し、次男以下全ての兄弟は暗黙裡に財産放棄を余儀なくされました。 それは誰にとっても、非常に世知辛く、負担も不公平感も感じたに違いありません。 それが良いなどとは到底申しませんが、万事につけ、世の中の不平等感を現実のものと受け止めざるを得ない状況だったでしょうから、自然と譲り合い支え合いといった謙譲の精神が存在したのでしょうし、 その延長線上に「滅私奉公」があったと認識しております。 それにしても、謙譲語やら謙譲の精神というのは、現代においては、どこか時代にそぐわない部分があるのでしょう。 また、自己満足の遠慮、卑屈にも映りかねず、またある時には、慇懃無礼、失礼にも当たるため、難しく。 その意味においても、「わざと、無理してはやめたほうがいい」とおっしゃられるのは、至極当然のように私には思われました。 (2)の周恩来は、たしかに異彩を放つ人のように思います。 そして、中国をはじめとする大陸各国は、いずれも攻守攻防と権謀術数が、歴史に積まれ刻み込まれています。 翻って、今の日本の外交やら内政やらを見まわしても、どこか「一時しのぎ」かつ「さかしら」な気がしてならないのです。 皆、相応に尽力しているのでしょうけれども、海外情勢と比較しても、何か認識が甘い、鷹揚な気がするのです。 世界の認識だと、下手をすると自発的な謙譲どころか、「余白=隙」につけこまれかねません。 目先の経済成長、構造改革ももちろん大切なのですが、日本の行く末を長期展望する上では、いま一度、相応の時期にまで遡り顧みる必要もあるように思われます。 すみません、常朝ならぬ、冗長になりすぎてしまいました。 いつもの戯言ですので、どうかご笑覧下さりますよう。
補足
重ねてのご回答、どうもありがとうございます。 お返事が遅くなりまして、申し訳ありません。
余白とは、平面的な構成の配置の空きの部分なのでしょう。 この場合には構成の一要素として大切であり有用であると思われます。 同義語の空白ですが、何もない余白そのものだけを指すように思われます。 空間的とか時間的とか精神的にも、何もない空きの状態そのものを指すように思われます。 この場合には、その空きの状態が無駄であるとか、活用されていないというふうに解釈される事が多いのではないでしょうか。 古びた物や自然を見るとき、時の流れが止まったような感覚に陥る事があります。 これも空白なのでしょう。 精神的な錯覚かもしれませんが、そうした空白の時間が少しはあってもいいような感じがします。 有用か無駄かは、人それぞれ、その時の心によるのかもしれません。
お礼
tansell様、はじめまして。 ご回答をありがとうございます。 そして、順不同でお礼が遅れたことにつき、お詫び致します。 余白と空白に関するご教示は、明快に理解することが出来ました。 ありがとうございます。 紙面や絵画の余白は、たしかに構成上必要不可欠で、有用ですね。 >古びた物や自然を見るとき、時の流れが止まったような感覚に陥る事があります。 >これも空白なのでしょう。 >精神的な錯覚 地方に住む私の祖母の旧い家は、幼心に、とても魑魅魍魎な場所でした。 かつて座敷牢だった間、祖先の遺影や仏壇の間、普段は全く人気のない奥座敷の壁、襖や障子の「余白」に、背筋がしゃきっとする思いでした。 (「背筋が凍る」ではありません、笑 また、座敷牢もただの和室です) そしてどちらかというと、とてつもなく大きくて、陰気で埃をかぶった蔵のほうが、どこか人間臭く、悪戯出来そうな気易さがありました。 tansll様がおっしゃるように、たしかにあの当時は「時の流れが止まったような感覚」でした。 幼な心にありがちな錯覚だったのでしょうか。 とても鮮明なまま、今頃になって、あれは何だったのかなあと思い出すのです。 そしてそれが私にとっては、とても美しく静謐なものに思え、建築絵画を問わず、日本的なるものに通底する思想の源流があるのではないかと追っているのです。 美化や礼讃だけでなく、不便や欠点も、みていけたらよいなあと。 >有用か無駄かは、人それぞれ、その時の心によるのかもしれません。 はい、おっしゃる通りだと思います。 でも、「有用か無駄」かといったご指摘につき、別の意味で思うところがまたあるのです。 たとえ、自己満足の域を出ず、雑感と既存の考えの寄せ集めであろうとも、執拗で独善的な見方に陥ってしまっていたとするなら、 「間抜け」以外の何物でもない気が致しまして。 「隠れているもの、見えないもの」を見い出そうとするあまりに、本当は何もないのに「何かある」と考えていく試みというのは、私にはとても難しく感じられるのです。
補足
お返事が遅くなっております。申し訳ありません。
それとも余空間に見る予感なのでしょうかね。。。 ´
お礼
余空間にお燗をするオカンを見て悪寒する予感。
補足
阿修羅像(国宝 興福寺)の左目を良く見ると、一旦キャッチライトを入れた上から墨で塗りつぶした形跡があると、こちらのカテの質疑で教えていただきました。 http://3035ky.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2009/05/08/photo.jpg asura様なら、黒い瞳の中に浮かぶ「小さく丸い余白」を塗りつぶしてしまった新たな理由をご教示下さるかと思いまして。
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
エポケーと関係してくると思います。ですから勿論大切なものです。
お礼
heartmind様、はじめまして、でしょうか。 そして、ご回答をありがとうございます。 遅くなって、すみません。 エポケーという言葉につき、恥ずかしながら存じ上げませんでしたので、調べて少しでも理解したいと思います。 大切なものとおっしゃるその意も含めて、ゆるゆると考えていくつもりです。 「さかしら」というご質問をなさっていらっしゃいますね。 「余白」に絡んだ「空気感を読むこと」と、何やら繋がりがありそうな気が致します。 ご質問中のENERGAIA様の「賢そうに振舞う」をそのまま借用させていただきますと、「さかしら」というのは、場の空気を巧みに掴んで臨機応変に、その場をやりすごすことだと私は思いました。 時に、自己の正当化や保身、あるいはもくろみがめあてで、根源的な解決とは、ちょっと違うものかもしれません。 そして「日本人は~」とおっしゃるその趣旨は、日本の企業や組織、政治における隠蔽工作、あるいは、その場しのぎの利潤を第一とする風潮に対するアンチ・テーゼのように思われました。 私の考えが間違っていましたら、忌憚なくご指摘下さいますよう、どうぞお願い致します。 ところで、「余白」と言えば「スケジュール上の空き時間」という意味もあろうかと思いますが、昨今のこのご時世につき、個々人の「空き時間」というものが、はたして増えているのか減っているのか。 それとも、時間の方ではなく「気持ち」「余裕」が、目減りしてしまっていることなども、あり得ましょうか。 大人だけではなく、こどもたちにとっても。
補足
お返事が遅れてしまい、申し訳ありません。
ふ~ん 余白に何を感ずるかは人それぞれなんですねぇ。。。 今までの生によって培われたその人の心を反映でもするのでしょうか。 眼にする有に対して余空間は 鎮められない魂の叫びに対する怯えでもあるかのように言うのですね。 思いもよらない”余白”に対する見解で異質な印象を受けますが 余白に何かオドロオドロしい恐怖心を感じてしまうのは 何らかの貴方の行為に対する代償ででもあるのでしょうか。
お礼
>何らかの行為に対する代償 浮気の代償を描いた塩野七生の物語があります。 中世イタリアの時代、温厚な領主が多忙で留守がちなため、彼の若くて美しい妻が若い騎士と関係を結んでしまい、それを夫が勘付いてしまう。 現場を押さえられた部下の騎士はその場で絞殺、妻の必死の詫びも虚しく、全抜歯の拷問の末に飼い犬と水差しと共に、一室の壁をくりぬいて生きながら放り込まれてしまい、そして白い漆喰で上から塗り固められてしまう、という。 今でも中世城址の壁からは、白骨が時に発見されるとか、なんとか。 あなたのおっしゃる「余白にオドロオドロしい恐怖心」「鎮められない魂の叫び」というのは、これのことかと、ふと思い出した次第です。
補足
余白はときに「もったいない」と映るものでしょう。 お読み下さり、ありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
“間”のお話が出てきましたので、このご質問を私のフォルダの“契機、間、時刻、間合い、きっかけ”に入れました。 仰せの意味での“間”を使っていることばとしては“間違い”、“間抜け”というのもありますね。 でも私の読みすぎかな。 “間”もそこは空(から)ですね。 “間”という字は“はざま”とも“あいだ”とも読むものでとても意味深長です。 “はざま”ですと“境界にもなり”、“界”と“界”の“境”ですね。“あいだ”ですと、“媒介”や“媒体”の機能もでてきますね。“遍歴”、“訪問”ですね。 こういう“間”はやはり“から”に通じるでしょうか。“界”と“界”との間に存するものはどちらでもあって、どちらでもないものですので、結局“ない”ですし、そこに何かを置くと、もう間になりませんね。 補足:老子などは“ないこと、から”が大事だ、容器などはそういうものだ。 受け入れるためにはそういう“から”がなければならない、といい、山頂でなく、低くなれというお話しをしていますね。これはヒンドゥの聖典も同じ事をいっています。 “から”は受け入れるためには必要なんですね。
お礼
krya1998様、ご回答をありがとうございます。 じっくりと色々考えさせられることが多く、嬉しいかぎりなのですが、順不同になることでお礼が遅くなってしまいました。 本当にすみません。 >“契機、間、時刻、間合い、きっかけ” そのようなフォルダをお持ちでいらっしゃるのですね。 私も見習って是非つくってみようと思います。 余白の「間」と「契機」「きっかけ」とはほぼ同じ意味のように思われます。 でも、「中」というのは、ちょっと微妙に違う気もするのです。 少なからず中心、内を志向する、という意味において。 日本的なるものとは、どことなく内外の余白である「間」の境界がおぼろげで曖昧、という思いこみのようなものが私にはあります。 そしてそれが、例えば日本家屋だったり、庭園だったり、絵画の輪郭や余白を残すなど、至るところにみられます。 ちなみに西洋油絵の場合、余白というのはあまり好まれませんし、相応に「白」を上から塗るのが一般的です。 中途半端を嫌う、曖昧さを良しとしない感じでしょうか。 単に、各々の余白に対する各々の美意識、意味付与といってしまえばそれまでとも言えましょう。 ですが、どうもその根本というものが、思想的に集約されそうな気がしなくもないのです。 >“間違い”、“間抜け” ご指摘頂くうちに、いかに日本人が余白の「間」と密接にかかわってきたかがわかります。 「間抜け」は無粋にも、また、「空気を読めない」にも通じるものがありそうな感じですね。 >“はざま”ですと“境界にもなり”、“界”と“界”の“境”ですね。 >“あいだ”ですと、“媒介”や“媒体”の機能もでてきますね。“遍歴”、“訪問”ですね。 なるほど、たしかに「はざま」は界と界とに静的に存在、「あいだ」はより動的なイメージがしてまいります。 透過、通過するだけで何もない、といったところでしょうか。 >老子などは“ないこと、から”が大事だ、容器などはそういうものだ。 >山頂でなく、低くなれというお話しをしていますね。 >ヒンドゥの聖典も同じ事をいっています。 >“から”は受け入れるためには必要なんですね。 とても興味深くうかがうことができました。ありがとうございます。 このようなお話は、西洋思想にも少なからず存在するものでしょうか。 そして「ない」は、洋の東西の差も、そして時間の概念も、何もないのですね。
- amaguappa
- ベストアンサー率36% (140/385)
うまく言えないのですが、 視覚的な余白は、時間と関わりがあるような気がします。 時間と言いましたのは、タイミングを決定する全体把握的な能力に関わるもの。 そして、経過、また、沈殿したものと浮上したものの現前。 わたしたちが、そのタイミングや経過、沈殿や浮上の内実、その現前に届くための、誘致のようなもの。 そこに、いるという共時性が、見るという行為をとおして生まれるような。 目の前のボーネルンドの箱の蓋のデザインを見てこれを書き始め、 サイ・トゥオンブリの絵のミミズのような引っ掻きなどを思い浮かべました。 東洋的には、円相の中が余白なのか外が余白なのかと考えたりしますけれども。
お礼
amaguappa様、ご回答をありがとうございます。 そして、お礼が遅れてしまいました。すみません。 >視覚的な余白は、時間と関わりがあるような気がします。 >わたしたちが、そのタイミングや経過、沈殿や浮上の内実、その現前に届くための、誘致のようなもの。 >そこに、いるという共時性が、見るという行為をとおして生まれるような。 視覚的な余白と時間。 ここはまっ先に、先の舞踏、舞踊の余白に通ずるお話と理解しました。 ご教示下さった文章に本質を見い出しましたので、このままの状態で、舞踏舞踊の世界に身をおかれていた回答者の方を、お待ちしたいと思います。 私は遊び程度の日舞くらいで、何故バレエでなかったかというと、どうも股関節の負担を加味して「跳躍度のないもの」を、両親が選んでくれたようなのです。 地をしっかり踏みしめている感じで、ニケの翼のような軽やかな躍動感とは異なるものです。 >サイ・トゥオンブリの絵のミミズのような引っ掻き あの即興性の趣、余白との絶妙なコントラストを愉しみ、自ら反復反芻してやまない心というのは、ネオテニーでしょうか。 人間が成熟の遅延を選択したのかどうか、そしてそれが戦略的だったのか何なのか定かではありませんけれども、わが子らの育てを通じて、やはり可能性やら創造性やらを大いに秘めた起爆領域のように思えるのです。 こどもって、変なところに鋭いというか、独特の触感や音の出るものを好んで、繰り返すのですよね。 ちっぽけなあたまのなかの余白に、大人が忘れさってしまった感覚をいっぱい詰め込んでいっているような、そんな感じ。 それは、「無駄」なのか、何なのか。 >東洋的には、円相の中が余白なのか外が余白なのかと考えたりしますけれども。 はい、以前に遠近法につき何度かふれたことを思い出し、どこか東洋的な見た手と違う印象を受けます。 囲んだ内部に注視するのが本来の庭であるのに対し、時に内ではなく外景へ眼差しを向け、それに従う形で作庭をする、 つまりどちらが内外なのかと考えたりする日本庭園の借景にも通ずるような気もするのです。 ご指摘いただいた時間とのかねあいでいえば、劇場空間の視軸というのも、関連性がありそうなのです。
補足
日本の家屋というのは、どこか神棚や神社に通ずる意識の流れを受け継いでいるような気が致します。 で、屋内の白い壁にも、何か静寂のうちに、自然神に対する畏怖の心を湛えているように思えるのです。 そしてその対比を色濃くしようと、西洋にありがちな「壁面に対する余白に対する恐怖や強迫概念のようなもの」の比喩として、塩野七生の話を記してみました。 でも、No.15の回答などを見ましても、何を勝手に告っているのやら、全く意図が伝わっていないようなのです。 そして、amaguappa様は、いったい何が可笑しかったの? 流れにのって書いてみたものの、いまだに、わからないのですよ…。
お礼
mmky様、順不同につき、お礼が遅くなりましたことをお詫び致します。 実は、他の方のご質問「さかしら」につき、私自身の問題として、かなり考えさせられることがありまして。 決してその質問者の方のことではなく、私自身がつい、わかったつもりになって、さっさと先に進んでしまうところが大いにあったりして。 ああでも、何をもって「わかる」と言えるのか。 う~ん、また、脱線してしまいました、とほほ。 >何もない、何もしない余白も無ですが、踊り続けることもまた同じ無の意味を含んでいるのですね。その違いは形か心の違いですね。 >東洋人の美学と西洋人の美学には静と動の違いはあるように思いますが同じように余白の美的観点はあるのでしょうね。 はい、おっしゃる通りだと思い、とても考えさせられました。 舞は動、無は静。 舞は無を含む。形か心。 鋭いです。思わず納得です。 また変なことを思いついたのですけれども、 舞の「クルクル舞う」という回転するイメージと、昨晩観た演目の老婆(実は人喰い鬼婆)の仕草が、不思議と重なるのです。 何も知らぬ一夜の宿を求めた僧に対し、自ら糸繰車を持ち出して麻糸を手で繰りながら語るのですが… 「あさましや 人界に生を受けながら かかる浮世に明け暮らし 身を苦しむる悲しさよ…」 と、人の一生というものが、まるで糸繰車がクルクル回るかのように経て廻る、自らの力では六道輪廻を離れようがない、などと涙を流す場面がとても印象深かったです(ゆえあって旅の妊婦を実娘と知らずに殺害し錯乱して鬼と化した)。 また、童話の赤い靴(アンデルセン)も、主人公の女の子が「死ぬまで」クルクル踊り続ける呪いをかけられたのでした。 死と再生、輪廻転生、永劫回帰、性的なる意味合い(アメノウズメ、躍動感と肉体)、「間」と動作との連続性、等々…。 これらのイメージが「舞」とかかわりあうなら、また同様に「無」とも結び付きそうな気もしてまいります。 ああ、でもどうなのでしょう、 心を「空白」にする=「無心」になって踊るという意味合いはわかるのですけれども。 ご回答をありがとうございました。
補足
追伸を頂戴致しました。どうもありがとうございます。 お礼が遅くなりまして、申し訳ありません。