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なぜ他人に「こう思うべき」と思ったことが一度もない人がいるのか?

なぜ他人に「こう思うべき」と思ったことが一度もない人がいるのか? 一般的には、議論(や日常会話)で相手に「こう思うべき」と(自分が)思ってしまうが、そうでない人もいる。その違いとはなんであろうか?

みんなの回答

noname#122428
noname#122428
回答No.14

・相手の思考を強制して方向づけることが無理だと理解しているから。 ・自分の過去を振り返ると「こう思うべき」と思ってたことが実は誤っていた経験が思い起こせるから

noname#152421
noname#152421
回答No.13

『他人に「こう思うべき」と思ったことが一度もない人』 が一人もいないとするとこの質問自体が無意味になってしまいます。 したがって、質問者さんは 『他人に「こう思うべき」と思ったことが一度もない人』 が存在することを知っている。 それは、質問者さんが 『他人に「こう思うべき」と思ったことが一度もない人』 である場合以外にない。なぜなら他人の考えを正確に知ることはできないから。 すると今度は、 『一般的には、議論(や日常会話)で相手に「こう思うべき」と(自分が)思ってしまう』 という人の存在を示すのが不可能になってしまう。 たぶんこっちのほうが弱い表現なので質問者さんの想像なのだろうと想像しています。 過去の回答者さんで似たようなことを指摘していた方がいらっしゃいましたが、ちがいますか? しかし、安心してください。私は過去にそう思ったことがあります。 したがって、両者とも実例があることになります。 以上により、質問者さんが自問自答すれば解決することがわかりました。

  • miyachi
  • ベストアンサー率27% (219/804)
回答No.12

その違いはと聞かされれば、頭がいいか、悪いかどっちらかであり、単なる能力の差と思えますが

  • edie
  • ベストアンサー率31% (156/502)
回答No.11

他人を変えることはできません。 なぜならいろいろな人がいて、その人のことはその人にしかわからないからです。 自分には自分のことしか体験できないし、他人のことまではさすがに体験できません。 人は体験したことしか話せません。 テレビで見たことは、「テレビを見たという体験」によって語られます。 なので、そう思った事がない人がいるということも、うなずける話ではあると思いますね。

noname#108334
noname#108334
回答No.10

たとえば 世の中を変えようと思っているようだけれども それ以前に 問題点は君自身の一面的な把握の中にあって 社会の”治療”の前に 君自身の考え方の修正が必要だからだと考えられるからです。 社会において君自身が 困ってるんだろうなと思ったから。。。 一助にと思ったけど底をつかないところを見ると実際はそれほど困窮してるわけではなさそうなんだね。 言葉で論破しても通じなければ 百聞は一見に如かずで 現象として補間性宇宙の意味を目の当たりに見せても理解できなければ 。。。。 核ができてしまっていてこれはもう一面に凝り固まったカルト系宗教そのものです。 人があまり口に出して言わないのは実害が及ぶことがないからだと考えられますし 社会でも個としての人間でも べきといって変わることなどほとんどなく ほんとの変化は極まった時 底をつくまで待つしかないのかなということからだろうと考えられます。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.9

一般的には、議論(や日常会話)で相手に「こう思うべき」と(自分が)思ってしまうが、そうでない人もいる。その違いとはなんであろうか? また、禅問答のような質問ですね。 「いうべきか。いわざるべきか。」は各人の自由意志でもあるし、世の中を渡るすべでもあるからですね。犬や猫でも主張はしますので人間が出来ない、いやしないわけがないのですね。 口に出すかどうかは難しくいえば信念の深さに依存しますが、ほとんどの人の場合は、信念というより生き安さを基準に置いて寡黙になるわけですね。日本流に言えば「和の精神」でしょうか。波風を立てたくないという配慮でしょうかね。 これが行き過ぎると弱弱しい羊国家になってしまいますし、逆に主張が強すぎるとうるさい狼国家になりますね。 バランスは大切ですが、主張する人は少ないことは確かですね。主張することにより生きずらくなるからですね。どのような不利益を受けようともそれでも強烈に主張する人はいるわけですね。 良きも悪くも歴史に名を残した人はそういう人でしょう。主張と行動なく歴史には名は残りませんね。歴史に名前を残した人物は数えられるぐらいですから、世の中は推して知るべしでしょう。 本当の正しさや未来を知る人物が主張することは仕事ですから、当然主張しなければならないものですが、日々を生きている人々が主張しないことも当然といえば当然のことでもあるわけです。 答えになってるかな。

  • apple-man
  • ベストアンサー率31% (923/2913)
回答No.8

>「自己の客観視」が未熟ゆえの結果でしょう。  成熟した価値観なんでありません。 正しい価値観も、間違った価値観も存在しません。  どこか広く外国を旅されては如何ですか。 自分の価値観からすれば最低の社会が、 機能しているような状態を見ることができれば、 価値観に意味がないことが実感できるでしょう。 ことわざに言う、「甲の薬は乙の毒」です。 これはいけないと思っている「毒」を 食らって健康に生きている人を見れば、 いけないと思っていた価値観が間違っていた ことを実感できます。  そうすれば、安易にこれはいい「薬」だからと 人にすすめたり、こう思うべきなどという発想は なくなります。  

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.7

馬耳東風ではぐらかした訳じゃないけど、未来を生きるのは皆初体験なのです。 そういう意味では皆同じ土俵に立っていると言えますよね。 少なくとも私は応援してますから。

OtamaFJ
質問者

お礼

温かいお言葉、ありがとうございます。

回答No.6

他人が「どう思うか」に関係なく 自分が「そう思えば」納得できる 場面がほぼ全て~だから故では?

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.5

たぶんですけど、ぎゃくですよね。質問者さまが「こう思うべき」と他人にあまり思えないのに、他人どうしは「こう思うべき」というのが理解できないということではないのでは? 確かに、他人の欠点が気になってしょうがない人がいます。わたしも理解できません。 悪口が聞きたくないときは、草原を走るお馬さんになればいいのです。パッコパッコパッコパッコ、風しか感じません。お豆腐をバジルのソースであえて食べるのです。ニース風のお料理です。(行ったことないけど)なんていったっけなー、バジとうふーとか何とか、サラダっぽくておいしいですよ。みんな結構適当なんですよー。

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