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ほにゃらか形而左右学 敬語(1)

「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」 『恋衣』(明治38年1月刊) 与謝野晶子 「美男におわす」と言う表現が、「尼」との対比なのか、斬新な価値基準の表れなのかはさておき、この敬語表現は、古い形式で、昨今なら、「美男でいらっしゃます」とでもいうのでしょうか。敬語表現も相当揺らぎが激しいようですね。尤も、言語表現は揺らぎが激しいものですから、驚くことはないのですが、もし、敬語が(此処では一般的に丁寧語や謙譲語等々をひっくるめて)「絶滅危惧種」に指定されているとしたら、どうでしょうか。 敬語の表現変化は、あくまでも国語の問題ですが、そもそも、無くなったり、他の媒体にその使命を移譲していくとしたら、そこに、哲学・社会学的考察の扉が開かれているのではないでしょうか。 手始めに、敬語はなくなるのかどうか、この辺りから、ご意見をお聞かせ下さい。

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  • kigurumi
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回答No.3

敬語はなくなるか? 確かに敬語が使えない人は多い。 目上の人をもちあげる敬語をたどたどしくも使う人はいるが、謙譲語を使って美しく表現する人は、周りには少ないですね。 日本語学習をする人が一番悩むのは敬語だそうだし、謙譲語に至っては理解に苦しむのだそうです。 日本人:「本当につまらないものですけど・・・・」 外国人:『つまらないものだと思うのなら送るなー』 みたいな? 日本人:「うちの愚妻が」 外国人:「馬鹿な女を妻にもらって気の毒」 みたいな? 英語でもmayとか使って表現しますが、日本語ほど種類は無い。 あるジョークを読んだことがある。 名前を聞かれた生徒は自分の名前を答えたら、先生は 「sir」と言った。 sirを最後につけて「でございますと言え」と生徒の乱暴な表現を指摘したわけです。 すると生徒は自分の名前に前にSirをつけて答えた。 Sir Jackっ(ジャック様)って。 生徒にコケにされた先生なわけですが、本当は敬語を使えない生徒の醜悪さを指摘したものでもあるので、ダブルなジョークで、ブラックジョークなわけです。 敬語も時代とともに変化していくと思います。 例えば相手の名前を呼ぶとき「様」「さん」「君」「殿」とか状況に応じて使いわけますが、最近だと「氏」とか「ネ申」があるようですね。 だから、別の表現になってはいくでしょうけど、消えないと思います。

fishbowl66
質問者

お礼

相変わらずの、切れの良いご回答を頂き、有難う御座います。 >だから、別の表現になってはいくでしょうけど、消えないと思います。 いきなり、結論なんですが、これを読んで、実は迂闊にも、私たちの間で、敬語は消えない、と言う状況が、どういう状況を指しているのかという、共通の理解が未だに形成されていない。にもかかわらず、>消えないと思います。と言い切る、ご回答者様の気風の良さに驚くとともに、質問者のお馬鹿加減に、思わず吹き出してしまいました。 確かに、外国の言葉と日本語を比較して敬語について考えるのは、一つの切り口として、興味深い部分ですね。 英語は、特にアメリカ英語は、比較的新しい言語ですから、古くからある言い習わしは少ないのかもしれませんが、仰るように、sirとかmayには、敬語的要素が僅かながら見られるようですね。 ところで、お隣の韓国のハングルでは、日本語ほどではないにせよ、尊敬や敬意をあらわす、接尾語のような助詞のようなものがありますし、中国語は、一説によると、敬語が廃れて、二人称と年齢を尋ねる祭の数詞の違いがあるとの事、歴史の長い言葉ゆえに、敬語が廃れたと、考えるべきか微妙なところです。 また、欧州の一部の言語では、話し相手との親密性によって言葉遣いが変わると、これは敬語かどうかわかりませんが、日本の敬語同様に、なかなか厄介な使い分けがあるとの事です。さらに、この地域の女性名詞・男性名詞、或いは中性名詞といった存在の精神性を考えると、言葉が表わす意味は、奥深いものがあるようです。 そこで、改めて、最初の質問者のお馬鹿さん鰤に戻ると、敬語が消えた状態を、欧州も含めた英語・ラテン語圏辺りで、敬語が消えたとすると、やはり同じように、消えない、と言う結論になるんでしょうかね。 ついでに、ネ申 これって何のおまじないですか、是非是非鰤鰤聞きたいです。 う~む、ネサル、と読むのかな。

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回答No.2

かつて、青島幸男氏が、雑誌のインタビュー記事のなかで述べておられましたが、 氏の場合は、嫌いだと思った人相手には、敢えて仰々しいまでの敬語を、ことさらに使ってみせるのだそうです。 これは、私の個人的な記憶ですが、出会ってから、まだ幾らもたたない人に、「お前」と呼びかけられたことがあり、それについて、私が何を言ったわけでもないのですが、思わず、顔の表情に出ていたのか、相手は慌てて、言い訳になっているのやら分からないような、別の場所、別の人とのエピソードを唐突に話し出し、それ以後は、決して、「お前」と呼びかけることはしなくなりました。 「お前」も「きさま」も、元は敬語ですよね? 何故、いまは、そうではなくなったのでしょうね。 最近、非常にと言うか、バカ丁寧なまでの敬語で話しかけてこられるかたがおられました。 何故なんでしょうか、納豆の糸が粘つくような、その内容の、無意味な辛辣さだけを際立たせて、厭な後味が残りました。 誰が決めたか、本当なのか、私は知りませんが、 ある人が言うのには、 ネットのなかでは、敬語は使わない、ため口がルール、なのだとか。 そういえば、現代日本では、皇室のかたがたに関する報道でも、昔のような敬語は用いなくなっているようですね。 名前に「さま」を付けておいて、「~した。」などと述べるのも、なんだか変な感じがしないでもないけれど。 皇室では、御家族どうしのあいだでも、いつもというわけではないでしょうが、基本的には敬語でお話しされるのでしょうか。 美智子さまが、ある大会に御出席のおり、鼓笛隊の一員として出演し、暑い日差しのなかを、じっと立っている子どもに向かって、 「ちょっと、日かげにお入りになって」 と、優しくおっしゃっているのを、美しく感じましたけれども。 「敬語はなくなるのかどうか」 う~ん? 強いてヒントとしては、態度、姿勢、距離感、などについて考えられるでしょうか。 きちんとした考えも纏まらないまま、とりあえず述べてみました。

fishbowl66
質問者

お礼

今回もまた、貴重なご体験を教えていただき、有難う御座います。 >「お前」も「きさま」も、元は敬語ですよね? このお話は、よく聞く事ですが、正直なところちょっと怪しいのでは、と考えているのですが、いろいろ調べてみても、それらしき説は見当たらず、この二語が元敬語だった、という話が多いですね。 私が怪しいと考えるのは、「お前」「貴様」という二つの文字が、現在私達が頭の中で読むような「おまえ」「きさま」と全く同じ発音だったのか、実は確かめようが無い、と言う事です。 もう一点は、このサイトの私の敬愛する友人にお伝えしたいことでもありますが、言葉は他の言葉の関連から意味が変わってくるわけで、「お前」「御前」といった言葉の意味に、敬語的要素がなくなるとしたら、それ以外の敬語的表現が現れてきたことによって、元々あった言葉の意味まで変わってしまっていく、ということでしょうか。 敢えて、その友人に申し上げるとすれば、文字は残っても音は残っていない、という単純なことを、なかなか上手く説明できずに、二の足を踏んでいると。 ここでも脱線しましたね。 >ネットのなかでは、敬語は使わない、ため口がルール、なのだとか。 へ~ぇ、知りませんでした、そうなんだ。 >強いてヒントとしては、態度、姿勢、距離感、などについて考えられるでしょうか。 成る程、よいヒントを頂きました。 一説によると、人間の上下関係が生まれだしたのは、古墳時代というお話がありますが、かといって、その前が平和な原始共産制というわけではありませんが、それ以前は、上下よりは、ウチとソトと言った、和語の区別が主流で、人間の脳の仲間意識が及ぶ範囲の集団で暮らしていた、ということらしいです。 そうだとすると、敬語がもし上下関係を表わすのみならば、これは根源的区別ではなく歴史的産物となって、いつかは消える運命にあると、おっと、まだまだ早急な結論を出す時期ではないようです。 ありがとうございました。

noname#112269
noname#112269
回答No.1

こんにちは。   その後チャリ行はどのようですか。 鎌倉へは行かれましたか。 敬語はとても爽やかで、心に負担無く話せ、是非みなに使用して欲しい話し言葉であるとおもいますが、家族のうち、あるいは旧知の友人などと話すときにも敬語を用いたいとおもっていても、何か別人になったかのように思われるのは辛いことです。実質的には敬語の方が、生活はやすくなるでしょう。 敬語は精錬された言葉であって、話していて心地が良く、おそらくは、耳にされている肩の方でも、爽やかな余韻をさとされるのではないかと思います。 爽やかな語り口が望ましいのであるなら、敬語で話すことは推奨されてよいのでしょう。 fishbowl66さんは、敬語の方がさとしいと思われますか。 私は、究極的にはどちらでもかまわないのじゃないかなと思ってしまうのです。 甘いでしょうか。。 和語として相応しいのは、どのような言葉、あるいは語らいなのでしょう。 きっと、答えは見えているのだと思うのですが、なぜか難しいね。  

fishbowl66
質問者

お礼

ご回答有難う御座います。 チャリの件、ご配慮を頂き感謝いたします。 先週、行って参りました。予想外の春の嵐で、高徳院へ向う道すがらから不安を覚えましたが、記憶の奇跡的な再現は、結局、失敗で御座いました。御仏の顔を穴の空くほど眺めたり、背後の中への入り口辺りに視線を泳がせても、昔の記憶が蘇る事は、年を取ったせいか、全くありませんでした。 それでも、しつこく、プルーストの「紅茶とマドレーヌ」よろしく、香炉の廻りも一回り、残念ながら、私の脳細胞は、1ミリ秒の共鳴も起きなかったようです。 鶴岡八幡宮の大銀杏は倒れて、代わりにクレーンが鎮座し、江ノ島は猛烈な砂嵐、早々、蕎麦屋に雲隠れ、まぁ、上手く行かないのも、旅の楽しみですね。 ご回答者様の「お上手」に悪乗りして、つい余談が過ぎました。 さて、敬語ですが。 >究極的にはどちらでもかまわないのじゃないかなと思ってしまうのです。 私も同感ですね。ただ、これは規範の問題、良い悪いですが、ちょっと一歩、足を横に出しみて、事実の問題としては、どうだろうか、と考えてしまうのが、私の悪い癖のようです。 例えば「不易流行」という二分法が妥当かどうかはさておき、敬語は流行だから、いつかは無くなる、とか、あるいはその逆、どっちなんだろう。この様に、>どちらでもかまわない のに、あれこれ考え「フォーム・スタイル・モード」の三分法をを使うとどうなんだろう、とか、別の切り口もあるんじゃないのかなとか・・・。 私の記憶力の老化防止と頭の体操です。また気楽に書き込んでいただければ幸いです。

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