それはほとんど、日本語の成り立ちを訪ねているに等しい、ということですか?
もっとシンプルに考えれば、
~なさる は最後に来て当然
だと思いますよ、日本語として。
どんな人のどんな行動でも、最後に ~給ふ(なさる) と付けておけば、敬意を払っていることになるのです。
私が、文の最後に ~です と言うのと同じ理屈です。できます を ましできる と言ったらおかしいでしょう?
尊敬語と謙譲語を、何か英語のcanとwillみたいな同列に考えていると、順番が
尊敬語→謙譲語 でも
謙譲語→尊敬語 でも
意味を付加するだけだから同じ、と思ってしまうのかも知れませんが、意味を付加する順番を考えれば、
参り給ふ
の語順以外ありえないとわかると思いますよ。
いらっしゃい 申し上げる
不自然でしょう。
まるで
行ってあげる ことを してさしあげる
というような、「敬意を受けている人が無理矢理へり下る」という困惑を覚えます。
行かせていただく ことを なさる
というように、「へり下っている人が敬意も受けている」という方が、自然です。
単純に 上げて下げる と 下げて上げる はプラマイゼロで同じ ではない のです。最初に上げてしまうと、次下げられなくなる、という説明でいかがでしょうか。
もし何か具体的に こう言えないのはなぜですか というのがあればお答えしますよ。
お礼
動作を受ける人(謙)>動作をする人(尊)だからということですかね たいへん参考になりました、ありがとうございます!