- ベストアンサー
遊戯とは
念のため、質問者のスタート地点の提示として、フィンク『遊戯の存在論』の結びから一節とリルケの詩を引用します。 これに拘らなくてけっこうですので、遊戯とは何か、思われるところを広く自由な見地からお教えください。 「全体における存在者を遊戯として存在せしめるという、この異様な世界形式は、(・・・・)われわれ有限的人間がまさに魔術的生産の創造力と栄光のなかで、深刻な意味で「賭けられている」のだという予感をよびおこすであろう。世界の本質が遊戯として考えられるならば、人間にとって、自分だけが広大な宇宙のなかで支配する全体に言応ずる(entsprechen *)ことのできる唯一の存在者であるということが帰結される。(・・・・) したがって、一切の存在者の遊戯的存在根拠への人間的生存の遊戯的開示性を、詩人は次のように歌っている。 きみが自ら投げるものをとらえる限りは すべては たくみと任された獲物 きみの中心に 永遠の遊び仲間の投げよこすボールのとらえ手に突然きみがなるとき 正確に可能にされた飛翔のなかで 神の巨大な架橋のかの弧のなかで・・・ そのときはじめて とらえうるということが富となる----きみのではなく世界の---- そして君が 投げかえす力と勇気をもつならば いや もっと不思議なことに 勇気と力を忘れ そしてもう投げているならば・・・ あたかも歳が鳥を投げるように 渡鳥の群を 若い暖かみに古い暖かみを海を越えて投げよこしてくるように---- そのときまさに この冒険のなかで きみは正しく共に遊ぶ者 投擲はきみに軽くもなく 重くもない きみの両手から流星が輝きいでて 自らの空間を駆けめぐる・・・ (リルケ『後期詩集』より) 」 引用文献 オイゲン・フィンク『遊戯の存在論』 石原達二訳 せりか叢書
- みんなの回答 (59)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
こんにちは。 健やかにお育ちのことと拝察致しております。 寝かしつけの際には子守唄か絵本の読み語りでしょうか…。 まことに勝手ながら、私にとって懐かしい、「遊戯」に関する物語にふれさせていただきますね。すみません。 『だるまちゃんとかみなりちゃん』 http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=180 天から落ちてきた”かみなりちゃん(鬼のこども)”を見つけた”だるまちゃん”。 だるまちゃんは、高い木にひっかかって取れないかみなりちゃんの浮輪を取ってあげるべく、自らの傘をめがけて投げる「遊戯」をするものの。 何と傘が当の浮輪にひっかかってしまい、二人で途方にくれてエンエン泣いてしまいます。 そこへかみなりちゃんのパパが探しにやってきて、お礼に?かみなりちゃんの天の国へと招待されることに。 大歓迎を受けただるまちゃんは、180度異なる「異界体験」を大いに満喫したのち、お土産を持って無事戻ります(傘を開いて空から飛び降りる!)。 古来、「鬼」とはトリックスターのごとく、春をもたらす祝福の、そして「陰(おん)」の存在でもありました。 かみなりちゃんが悪戯心で天から落ちてきたり、だるまちゃんの傘投げを通じた人助けも、屈託のない好奇心と探究心に満ち満ちていています。 本来、こどもたちの世界とは「境界」を行ったり来たり自由自在であり、こども自身が想像力の豊かな異人的存在なのでしょう。 そして現代のこどもたちは、魑魅魍魎としたこの世の「陰の鬼の存在」を、どのように幼心に察していくのでしょうか。 『ゆきむすめ』 http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=8777 かぐや姫と似たプロットの、ロシアらしい素朴な民話です。 ”ゆきむすめ”が火の上を順番に飛んで、最期はふわっと消えてしまうところが、とても儚く切なくて。 春の到来を告げる祝祭の一幕なのでしょうけれども、 こどもたちの発案する「遊戯」とは、何と危険で残酷なのでしょうか。 いえ、こどもたちの他愛も無い「遊戯」だからこそ、半ば容赦なく時に危険、或いは残酷がまかり通るものでなくてはならないのかもしれません。 広い空の下の野原は家庭規範の及ばない治外法権の独立国、仲間外れや喧嘩は承知の上。 「ここまでやったら(言ったら)マズイ!やめとこうよ!」と、相手を最後まで追い詰めさせない限界基準や、最悪追い詰めてしまった果ての失敗などなど、 観念の理屈ではなかなか得られにくい稀有な「感性」だと思います。 ロシアの冬は長く厳しく、さぞ鬱々とした荒涼たる世界のはず。 それなのに、まるでなごり雪を愛で惜しむかのようなお話が生み出されたあたりに、 ロシアの大地や交響曲にも似た懐深さ、鷹揚さを感じずにはいられません。 ちなみに──"j"を辞書で追ってみると… ──jeter(to throw/投げる) ──jeu(game, play/遊び、遊戯) ──jeune(young/若い、幼い) ──jeuness(youth/青春、若さ) ──joie(joy/歓喜、喜び) ──joli(pretty/綺麗な) ──joue(cheek/頬) ──jouer(to play/遊ぶ、戯れる) ──jouet(toy/おもちゃ) ──jouir(楽しむ、味わう) …と、何とも若々しく楽しげな言葉が列記されてありました。 Jeunesseの古語はjouvence。 まるで「青春、若さ」と「戯れ」とが、同源のようでもあり。 あの頃──自らが投げていたのはいったい何だったのか── そしていま、いつの間にか「大人」になってしまった自分にとっての「遊戯」とは、何なのだろう、と── ご教示下さった美しい詩を拝見して、ふと、そのように思った次第です。
その他の回答 (58)
- ENERGEAR
- ベストアンサー率18% (7/37)
人殺しのカインねぇ... 解釈の仕方が既に「ヤハウェが正しいものとする」という前提によって展開されているようで。 どのように解釈し、何を見出すかでその人間の今の課題がわかるのではないかな。 最初の前提が間違っていたとすれば間違った解釈をして当然か。 本人に聞こえるように噂話をすることで貶めようとする陰険・陰湿な遊戯であればここまでとした方が良いか。
補足
解釈: どじゃを連発するから、煙たがられて、よこしまな蛇さんの役になっただけでは。 よこしまな蛇さんは、人類に知恵を与え、やがて母なる地球は汚染に至り、人類は自分の首を絞めているので。 知恵に長けていたために、かみさまから愛されなかったカインは、よこしまな蛇さん同様、罪に通じやすい。 比較もできるし、状況把握も的確なので、感受性もするどい、苦しみも激しい。 人類のいっぽうの姿は、そんなカインであり、殺されるがままになろうとしているもういっぽうの姿は、無能のアベル。 解釈を書くと、キグルミさんみたいだ。ははは。なんでかなぁ。 あなた、別に賢くないでしょ。ひとごろしでもないでしょ。 羊飼いの弟もいないでしょ。まあ罪は人並みに深いでしょうけれど。 個人的に気にしなくていいんじゃない。
- ENERGEAR
- ベストアンサー率18% (7/37)
訂正: 質問からかけ離れた瑣末なをし、さらに 指摘にしつこく食いつくバカ ⇒質問からかけ離れた瑣末な指摘をし、さらに 指摘にしつこく食いつくバカ 質問文は難しいね。 なにかしらの意味はあるんだろうけど... なんせ自分の中だけの世界の言葉みたいだからさっぱりだ 言葉の限界を感じるような 物理学などで言い換えるとどうなるんだろうね。 >* ゾンビは たぶん 空気のような身体になっているのではないかと推測します。何もかも ふわふわなのでしょう。 「ふわふわ」感がいちばんあるのはbragelonne君が一番だと誰もが思うのではないかな どこにも根付いていない根無し草 >意味があるとしたら それは 鏡に映った自分を描いているからです。 ふわふわが けっこう世間のことばとしては有力になるようです。スサノヲ語に根差すような雰囲気を持ちつつ アマテラス語もどきになっている。意味はない。意味を持たないという意味を持つ。 まさに自分のことw 自分で自分の恥を宣伝して自分の状態を暴露しているようでww @クルクルパーのブラジュロンヌ@によれば 「人の心は環境に左右されない」www
補足
質問文というより、質問文に引用した文は難しいですね。変な文だと思います。訳者の力不足か、フィンクが悪いのか、どちらかでしょう。
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
お礼ありがとうございます。 キャッチボールが苦手というのは、少し多義的にとらえてます。コンプレックスですね。 私が自閉症だという認識は私の母親にはありません。認めたくないかもしれないし、知識があまりないこともありますが、お医者さんから説明してもらってもだめでした。理解できないみたいで。 私が、サガンに共感するのは、その辺にあるかもしれません。 幼いころに心配かけ過ぎて、母には責任感から子供に逆を進め過ぎてしまう癖がついてしまったかもしれません。 私にも、完了形を避ける癖があります。途中感、刹那を求め、達観や悟ることを嫌う。 私には子供を見守ることしかできそうにないように思えてくるのです。 キャッチボールの習得は私自身の今後の課題です。
お礼
> キャッチボールが苦手というのは、少し多義的にとらえてます。 そうですか。 対人関係や対物関係を幅広く指していらっしゃるなら、課題でしょうね。 でも、程度はどうあれ、みんな苦手みたいですよ。 > 私が自閉症だという認識は私の母親にはありません。 それは、たいへんな思いをしましたね。 お母様自身にも人とちがったところがあったのかな。。。わかりませんが。 > 完了形を避ける癖があります。途中感、刹那を求め、達観や悟ることを嫌う。 ミニアチュールや文様を描く脳と、俯瞰図を描く脳は違いますからね。向いたことに従事なさっていればよいのですけれど。 > 私には子供を見守ることしかできそうにないように思えてくるのです。 昔話に出てくるおじいさんやおばあさんに育てられた子供が、現代に来たらどうなっちゃうのでしょうね。 案外、流されないし主張のできる人間に成長するのかもしれません。 そして、よい友情や恋愛に出会って充実した社会生活を送るかもしれません。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
おぎないます。 《ネボケー親父》と見て エポケー神父かと思った。(わたしがそうだからというのではなく そういう読みに慣れていたからでしょう)。 ◆ 「われわれは幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない」(18:3) / だってさ。 ▼ (マタイ18:1-5) ~~~~~~~~~~~~~~~~ そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。 ――はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、 決して天の国に入ることはできない。 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉 いのだ。 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わた しを受け入れるのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ さて 《遊戯》は どのように位置づけられるでしょう? この《子ども》との関係において。 少し逸れます。わたしが言おうとしていたことは: (1) 《天の国》は あくまで譬えです。非思考のなぞとしての異界を持ち出すなら 《なぞ》とは 不明瞭な偶喩と聞きます。たとえであるだけではなく 不明瞭です。つねに不明瞭です。 天国や地獄と聞いて 分かったようになるのは 哲学としては 危険です。 (2) しかも 《文字は殺し 霊は生かす》の問題があります。文字通りに読み取っても ほとんどの場合 間違いか 間違いにみちびかれてしまいがちになるものです。 これは アマテラス語の問題でもあります。中身は正しくても その文字通りの意味が 《神》ではありません。《非思考》は《なぞ》においてあります。だからこそ 《生きる》において《あそび》が成立します。 ▲ 《心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。》 ☆ アマテラス規範語は この文字で あたかも枡にあふれる米を掻き棒で縁の高さに均すように 四角四面に作り上げます。こころのなぞの窓ではなく 人工の窓をつくってその模造の規格にあらゆるものを合わせさせます。縁からあふれ出る部分を 強制的に削り散らします。《文字は殺し なぞの霊は生かします》。 ですから もし仮りに《あそび》さえもが アマテラス人格語によって規格統一でもされたらと思うとぞっとするはずです。 ▲ しかし 《やすらかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから》と懺悔するだけでは 鎮魂にはなりえぬ。 ☆ となります。通り一遍の みたまの鎮めではなく 自然児スサノヲの人間語をとおしてその前に みたまの振り起こしが必要であり大事だと考えます。 そのためには わたしたちは心がきよめられなければならなかった。心の清いひとはさいわいである。神を見る。 てめえ 聞いたか? 耳の穴をかっぽじって何度も聞きやがれ。
お礼
補足欄に記入します。
補足
『「われわれは幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない」 だってさ。』 これは、 『ほら、こう言う言葉があるけど、そうともさ、考えてみたらいいんじゃないの、ねえきみ、出来てるかしら。』 という調子で発せられているものと思います。 地域性ですかね、ご出身地がお二人はたぶんすごく離れているから、ニュアンスがなかなか。 構造上、対話できないという由もありますが、鎮魂の話題を掘り下げるレベルに筆談で届くのは無理でしょうね。
てめぇ一人の鎮魂してるだけだろが 死にながら生きてるような 生きていながら死んでるような そんな風に在りながら。 てめぇだけに罪おっかぶせて他の奴らは鎮魂を忘却の彼方にやったら どうよ。 それこそ未来は危ういだろうが。 頭悪いんじゃないの? こうなったら鎮魂は薄く広く背負わせりゃいいんだよ。 ユダヤ教の原罪みたいで腸が煮えくり返るくらい気にくわねぇけど。 てめぇ一人におっかぶらせる問題じゃないだろ。 あんたがほんとに人を幸せにしたいんだったら 自分が幸せになれなくっちゃだろ 人々の幸せが僕の幸せとか言っちゃって その人々から見ればあんたは不幸せ そういうのは嫌なもんなんだよ。人ってのは 人に気持が分からなくて ホントに人を幸せにできると思う? それも独りよがりな話だよね。 「われわれは幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない」 だってさ 清い さやか 澄んだ 童心 無邪気 おたがいなかよく 昔はこうだったんじゃないの? こういうものを好んだ。 君も遊べなくっちゃね。 大人の童心ってやつ ホント言うと俺も下手くそなんだけどさ。。。 現実世界では。。。 君は現実世界ではどうか知らんけど 仮想空間ではド下手っぽいよ。 最初っから父兄みたいに人が遊んでるのを見ながら解説してんじゃない。 ここが閉められる頃までには童心に帰って遊べるようになって 卒業しなくっちゃな。 心の友へ みんなともだちになれるといいな 龍の尻尾ke-twoより
補足
こどもが夕方「ぜんまいざむらい」を見ていますけど 善をほどこして頭の上のぜんまいが巻かれるお話。でも。 染汚意 なんでしょうねえ。。。みんなともだちは難しいですね。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
ときどき朝早く起きたときにこの質疑応答を見ますが けさは投稿したあとただちに応答を得て これに答えてまいります。 ★ (No.43補足欄) あとの方々は、ごらんになるところのそのポジションや性質について、本人たちの承諾を得られるかどうか、はなはだ疑問ですね。 ☆ むろん自由です。わたしの見方は それが 甘やかしだと考えるというもので その見解陳述のみです。自分のポジションを明らかにすることと 承諾を得ることとは むろん 別です。 ★ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ みなが違う方向へ視線をのばしているという具合にあっては、 児戯にふけるagrippaさんは罪がないという、いいポジションを獲得しておられて。 変なのは本人も承知のことでしょうし。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これについては 直前の回答No.44を合わせて考えるということになるのでしょうが そのNo.44の内容はよく分かりません。 ◆ 弥勒下生 / パープリン / イルミナティ ☆ の用語じたいが分からないのと そして言っていることが こちら(= bragelonne )のことを受け取ったはずのその内容として何を言っているのかよくつかめません。 もしこれらの《児戯》もすべて《承知の上》だとすれば どう受け止めればよいか? ★ 罪がないという、いいポジションを獲得しておられて。 ☆ これは 侮辱ぢゃないのでしょうか? もし ★ みなが違う方向へ視線をのばしているという具合にあっては、 ☆ という条件としての情況を加味して考えるとすれば どうか? 侮辱を超えて 気のふれた人間扱いになるのではないですか? つまりもしそうだとしたら 甘やかしのサッカリンの砂糖漬けですよね。 それとも それゆえにこそ 聖なる甘え――母の愛は海よりも深しの謂われどおりに――を互いに享受しているというのでしょうか? ▲ ・・・人間的生存の遊戯的開示性 ☆ は 人それぞれの主観内面における心的現象に尽きるとおっしゃっていましたが それもこれも いまわたしが過激に(?)おこなっているそれぞれの相手との対話をもって初めて湧き起こるもののように思えます。というのが このようにずばりものごとを指し示すわたしのやり方です。 たぶん基本的な考え方としてわたしの持っている回答のほとんど全部を述べたのではないかと思いますので あとは わたしの意図は控えて 成り行きにのみ従うことにします。
お礼
> ☆ これについては 直前の回答No.44を合わせて考えるということになるのでしょうが そのNo.44の内容はよく分かりません。 いえ、全体的な傾向のことを言いました。44の内容はわかりません。見たところ43の呼びかけに応じて、 おたまさんとよくやりとりなさったbragelonneさんに充てられているのだと思いますが。 弥勒下生は有名な話です。イルミナティは倫理の完成を掲げる秘密結社です。どちらももうご確認済みであろうと思います。 パーブリンはさすがに説明すべきでしょうか。のーたりんのあほうといった意味。パープーともいいます。 > 侮辱を超えて 気のふれた人間扱いになるのではないですか? つまりもしそうだとしたら 甘やかしのサッカリンの砂糖漬けですよね。 これは、わたしとbragelonneさんの話題にはなりえません。 わたしがbragelonneさんを扱うやりかたや、 わたしのbragelonneさんへの対応についての話であったなら、お応えのしようもあったでしょう。 > それもこれも いまわたしが過激に(?)おこなっているそれぞれの相手との対話をもって初めて湧き起こるもののように思えます。 そうですか。自分がそこにあるという人間生存を賭けて、世界が開示されてくるという様相だと思います。 ここでは、対話は、わたしと回答者の方々のあいだにしか、成り立っていないようです。 一方通行がいくつか、交わらずにあるのはわかりますが、 呼応しているレベルの言語活動が見当たりません。 わたしは国語の偏差値が関東圏で83でしたので、読み方がそんなに劣っていることはないと思うのですが、どうなのでしょうか。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.40のご返事をいただき――ありがとうございます―― したためます。 三すくみのことはよく知りませんが けっきょく アグリッパくんが 立派ではないからでしょう。しっかりせいのひとことだと考えます。 ゾンビが人間として話し合えると思うのは トンビが人間になると錯覚する以上の幻想でしょう。 怒りの持ち方がまづいのではないでしょうか? ゾンビになってしまうというその思考形式 これを憎むのだと考えます。これは 徹底的に憎みます。これをおのれの内面において棄てます。存在は 自分のと同じように愛します。 存在を愛し 欠陥を憎む。 わたしは世間に対して 世間はわたしに対して はりつけになっています。 ここから すべてが生きることであり そのすべてが あそびです。 あぐりっぱよ しっかりせい。アマテラス語のもろさを知るべきです。 * ゾンビは たぶん 空気のような身体になっているのではないかと推測します。何もかも ふわふわなのでしょう。 ふわふわが けっこう世間のことばとしては有力になるようです。スサノヲ語に根差すような雰囲気を持ちつつ アマテラス語もどきになっている。意味はない。意味を持たないという意味を持つ。 《人としては既に逝っています。》《「ぬぉーっ」とゾンビが地下から這い上がって登場》――もしこれらに意味があるとしたら それは 鏡に映った自分を描いているからです。《存在》に関することは 意味を持つところがあるはずですから。 * ついでですから 《質問からかけ離れた瑣末なをし、さらに 指摘にしつこく食いつくバカ》をめぐって ななくんも 考え違いをしていると添えておきます。 * 《どうされましたか。》(No.31お礼欄)は 宛先がぎゃくです。――これを言うと みづからを貶めることになりますが ここ数件のやり取りを経てしまっているので もしあとになって言うとなると それも いま以上に変な問題を引き起こすでしょう。 アグリッパくんを あまがっぱさんは 甘やかしていますよ。そして もう一人のひとに対しても その同じ姿勢を取られたのですが そしてここまででは うまく行っているのにその途中でこうやってわたしが 波風を立たす言葉をさしはさむことになったのですが やはり甘やかしにわたしが加担するわけには行きません。 《火》は上がっています。めらめらと燃えています。受け止める手法で まいりましょう。
補足
みなが違う方向へ視線をのばしているという具合にあっては、 児戯にふけるagrippaさんは罪がないという、いいポジションを獲得しておられて。 変なのは本人も承知のことでしょうし。 あとの方々は、ごらんになるところのそのポジションや性質について、本人たちの承諾を得られるかどうか、はなはだ疑問ですね。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
★ (No.36補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ えねるぎあに関しては bragelonneさんと意見が合うかもね。 だいぶ困らせていたようですから。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 誤解です。 ええーっと 死んでも死に切れなくて生きている人びとの世に出て来るのが 幽霊。生きていながら死んだ状態にあるのが ゾンビ。でしたか。 ですから ゾンビと捉えたというのみです。 この認識のほかに 感情も思いも何もありません。 《困らせていた》というのが わたしが投稿者となってやり取りしたことを言うのでしたら それは これも誤解です。 自分が論争に勝ったと思っているようですが これが誤解です。頭が回らないだけです。文章の理解が行きとどかないだけです。自分でその質問を締めてしまったので あたかも勝負あったという格好になっていると思っているだけです。 これだけはわざわざにでも言っておかないと 文字になって出たことが そのまま間違いではないと認められてしまいます。わたしが承認したということになってしまいます。ので ひとこと したためました。 いろいろお騒がせして澄みません。また お世話さまです。
補足
これは、お気持ちを煩わせてしまいました。 むしろ、bragelonneさんが質問を立てるたびに、もつれた話で絡んでいたのを、困らせていたと表現しましたが、 とくにお困りだったわけではないのは、わかっています。相手をしておいででした。 買ったも負けたも一昨日来やがれの空気にしか見えませんでしたけれど。 しかしそのagrippaさんへの言葉「えねるぎあに関しては bragelonneさんと意見が合うかもね」は、 agrippaさんは可愛らしく「あまがえる」に、 えねるぎあは「どぢゃの蛇」で (エデンの園の蛇と同様に象意があるような蛇) わたしは「なめくじ」にされちゃうという三竦みよろしくお戯れになった経緯のあとの えねるぎあのひとごろし という叫びに対する返答なのでして、 いつもの人殺しなら削除を意味するところに加え、 そこに 蛇の人類殺し という潜意とがあるかな、と思ったのです。 わたしはわざとあのように言ったのでした。
>視線の先が。。。はるか彼方だなあ。 >空間も時間も離れた彼方だ。 根本的に勘違いしてない? それ餌のつもり? 指導と導き方が完全に間違ってるとは思うけど 私には判らない。 思考が現実を反映しない魑魅魍魎のカオス状態のようだけど?
お礼
勘違いどころか あなたの視線の先をたどっても、わたしには 何も 見えません という呟きなのです。 IDの凍結や投稿の削除を指して ひとごろしと言ったのかと思いましたが 勘違いならそれまでで、 現実を離れた思考にはならない。 えねるぎあのひとごろし、と言われたところで、 あなたのカオス、そのうねりをもたらしているエルゴンの仕事、あなたの中の蛇の ほかには、わたしの視界には映らないのです。 運営という名の暴君も、ましてや、どうにも関わりのない、えねるぎあって名前の人も。 だから、わざと言うんだ。 bragelonneさんと話があうんじゃないの、と。餅なら餅屋に売ってるよ、って。 わたしは 指導も導きも しないけど 誰を指導するのですか? 言われて無理のない対象として思い当たるのは、子供くらいかな。遊戯の質問だし。 だとすれば、、、 二歳にまだ届かない歳で、自然の芽、自然の発露を、損なわないようにと思うだけですが、 おかげさまでいまのところ、和食の大好きな、集中力と落ち着きと聞き分けのある、病気知らずの子に育っています。 ほかの方とのやりとりに出てきましたが、 きぐるみの趣味がわたしにないので、耳付き尾つきのきぐるみなどを着せることはありませんが また、アクションが自動的すぎるところに面白みがあるという類の観賞玩具も、 自分で好むまでは、ほとんど持たせないことになるだろうと思うのですが、 こんなことは親がどう楽しむかの域を出ないので、、、 年増のおかあさんとしては、ただ天然のままでうんと可愛がるだけでじゅうぶんと。 足し与えるよりは引き出すものを ということだけで済む年齢なのですから。 もっとずっと後に、難しい年齢になるでしょう。 そうしたら、そのとき、ご縁があったなら、 あなたのご経験から、教えていただけることがたくさんあると思います。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.4&8&25&31です。 ★ (No.31補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ どうされましたか。 回答No.8 補足欄 拙文 「たぶん和訳が原語のクリアーさを伝えていないので、ここで詩を取り立ててもあまり実りがないと思うのですが」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《詩を取り上げる》ことと《詩を取り上げたことを取り上げる》こととは 別ですよ。 ふりかかる火の粉は払わずばなりません。
補足
火はありません。 女性という性は、自分の幼年期を抱えながら、振り返りながら、生きています。 リルケのこの詩は、女性的な、そしてこども特有の、静かな自己洞察によく呼応しています。 与えられた生とつながっている自己の、あろうとする生が、 勢いよく輝くことと、廃園の景色になることのあいだを、さまよっています。 わたしはお二人のリルケの読み方に、性差がよく表れていると思うだけです。
お礼
ありがとうございます。 核家族のほかにだれも、子育てに手を貸す者も口をはさむ者もないものですから、 何だか締まらない空気ですが、お陰様ですくすくと成長しています。 なにか透明な気持ちにさせる「遊戯」をめぐるご本2冊、ご紹介いただいてうれしく存じます。 絵本が大好きな子なので、どちらもぜひ手にとってみたいと思います。 だるまちゃんとかみなりちゃんは動きのあるお話ですね。 落とす、放り投げるって最初の身体運動なのでしょう、少し前までさかんにやっていました。 はじめての主権発揮?世界征服?かなと見守るしかないのでしたが。。。 ゆきむすめはわたしが好きそうなお話です。ペチカ燃えるお部屋で読みたいですね。 異界をかんたんに受け止めて、渾身の力で投げては受け止めてという、子供というのは不思議なものですね。 そもそもこの世界に来た最初から異界体験でしょうし、手に触れて、獲得していくことに残酷の境界はないのかもしれません。 世界といっても実体などは習慣みたいなものですから、 身体運動の手応えの中や、スラップスティックだったり残酷だったり儚かったりする形で遊戯の中に、じわじわと現れることになっているのでしょう。 jの項は、面白いご観察をなさったのですね。 jazzも付け加えたいところ。jojo(悪ガキ)と。 throw and catch で世界を味わえない大人になると寂しいですね。弱くなる気がします。