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遊戯とは
念のため、質問者のスタート地点の提示として、フィンク『遊戯の存在論』の結びから一節とリルケの詩を引用します。 これに拘らなくてけっこうですので、遊戯とは何か、思われるところを広く自由な見地からお教えください。 「全体における存在者を遊戯として存在せしめるという、この異様な世界形式は、(・・・・)われわれ有限的人間がまさに魔術的生産の創造力と栄光のなかで、深刻な意味で「賭けられている」のだという予感をよびおこすであろう。世界の本質が遊戯として考えられるならば、人間にとって、自分だけが広大な宇宙のなかで支配する全体に言応ずる(entsprechen *)ことのできる唯一の存在者であるということが帰結される。(・・・・) したがって、一切の存在者の遊戯的存在根拠への人間的生存の遊戯的開示性を、詩人は次のように歌っている。 きみが自ら投げるものをとらえる限りは すべては たくみと任された獲物 きみの中心に 永遠の遊び仲間の投げよこすボールのとらえ手に突然きみがなるとき 正確に可能にされた飛翔のなかで 神の巨大な架橋のかの弧のなかで・・・ そのときはじめて とらえうるということが富となる----きみのではなく世界の---- そして君が 投げかえす力と勇気をもつならば いや もっと不思議なことに 勇気と力を忘れ そしてもう投げているならば・・・ あたかも歳が鳥を投げるように 渡鳥の群を 若い暖かみに古い暖かみを海を越えて投げよこしてくるように---- そのときまさに この冒険のなかで きみは正しく共に遊ぶ者 投擲はきみに軽くもなく 重くもない きみの両手から流星が輝きいでて 自らの空間を駆けめぐる・・・ (リルケ『後期詩集』より) 」 引用文献 オイゲン・フィンク『遊戯の存在論』 石原達二訳 せりか叢書
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こんにちは。 健やかにお育ちのことと拝察致しております。 寝かしつけの際には子守唄か絵本の読み語りでしょうか…。 まことに勝手ながら、私にとって懐かしい、「遊戯」に関する物語にふれさせていただきますね。すみません。 『だるまちゃんとかみなりちゃん』 http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=180 天から落ちてきた”かみなりちゃん(鬼のこども)”を見つけた”だるまちゃん”。 だるまちゃんは、高い木にひっかかって取れないかみなりちゃんの浮輪を取ってあげるべく、自らの傘をめがけて投げる「遊戯」をするものの。 何と傘が当の浮輪にひっかかってしまい、二人で途方にくれてエンエン泣いてしまいます。 そこへかみなりちゃんのパパが探しにやってきて、お礼に?かみなりちゃんの天の国へと招待されることに。 大歓迎を受けただるまちゃんは、180度異なる「異界体験」を大いに満喫したのち、お土産を持って無事戻ります(傘を開いて空から飛び降りる!)。 古来、「鬼」とはトリックスターのごとく、春をもたらす祝福の、そして「陰(おん)」の存在でもありました。 かみなりちゃんが悪戯心で天から落ちてきたり、だるまちゃんの傘投げを通じた人助けも、屈託のない好奇心と探究心に満ち満ちていています。 本来、こどもたちの世界とは「境界」を行ったり来たり自由自在であり、こども自身が想像力の豊かな異人的存在なのでしょう。 そして現代のこどもたちは、魑魅魍魎としたこの世の「陰の鬼の存在」を、どのように幼心に察していくのでしょうか。 『ゆきむすめ』 http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=8777 かぐや姫と似たプロットの、ロシアらしい素朴な民話です。 ”ゆきむすめ”が火の上を順番に飛んで、最期はふわっと消えてしまうところが、とても儚く切なくて。 春の到来を告げる祝祭の一幕なのでしょうけれども、 こどもたちの発案する「遊戯」とは、何と危険で残酷なのでしょうか。 いえ、こどもたちの他愛も無い「遊戯」だからこそ、半ば容赦なく時に危険、或いは残酷がまかり通るものでなくてはならないのかもしれません。 広い空の下の野原は家庭規範の及ばない治外法権の独立国、仲間外れや喧嘩は承知の上。 「ここまでやったら(言ったら)マズイ!やめとこうよ!」と、相手を最後まで追い詰めさせない限界基準や、最悪追い詰めてしまった果ての失敗などなど、 観念の理屈ではなかなか得られにくい稀有な「感性」だと思います。 ロシアの冬は長く厳しく、さぞ鬱々とした荒涼たる世界のはず。 それなのに、まるでなごり雪を愛で惜しむかのようなお話が生み出されたあたりに、 ロシアの大地や交響曲にも似た懐深さ、鷹揚さを感じずにはいられません。 ちなみに──"j"を辞書で追ってみると… ──jeter(to throw/投げる) ──jeu(game, play/遊び、遊戯) ──jeune(young/若い、幼い) ──jeuness(youth/青春、若さ) ──joie(joy/歓喜、喜び) ──joli(pretty/綺麗な) ──joue(cheek/頬) ──jouer(to play/遊ぶ、戯れる) ──jouet(toy/おもちゃ) ──jouir(楽しむ、味わう) …と、何とも若々しく楽しげな言葉が列記されてありました。 Jeunesseの古語はjouvence。 まるで「青春、若さ」と「戯れ」とが、同源のようでもあり。 あの頃──自らが投げていたのはいったい何だったのか── そしていま、いつの間にか「大人」になってしまった自分にとっての「遊戯」とは、何なのだろう、と── ご教示下さった美しい詩を拝見して、ふと、そのように思った次第です。
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- ENERGEAR
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>カインとアベルの物語に登場する神は、種類としては一つしかない神>であるのは歴史的事実です。 >しかし、比喩となったら、神とは何の比喩であるかは星の数です。 よくわからんが、カインとアベルを生み出した神はアホ、もしくは悪意があるのではないだろうか。それが悲劇・苦痛の始まりであるとするなら。 >文明論はなかなか読ませますね。 なるほど、たった一行の中に意味を見出すことのできるamaguappaさんは確かに賢いかもしれないですね。 >愚かだからだとすれば、愚かでない道はどんな道だったと思いますか。 ナントナクだけど アトランティスのイメージで。人が傲慢になる前の。 >汚染の始まりは、やはり家畜と農耕でしょうか。 そうですね。そして根源はそれを生み出したヤハウェかな。 ど ぢ ゃ ! (返答があればつづく)
お礼
物語の中の神に、アホとか悪意とか言いましても。。。。 そのほかご回答とご見解ありがとうございました。
- ENERGEAR
- ベストアンサー率18% (7/37)
>ざっくりいえば、そういうことになるかと思います。 ざっくりと言うよりも そこから物語は始まっているので根本的なレベルにおいて そういうことになるかと思います。 >質問文というより、質問文に引用した文は難しいですね。 (・・・・) ←これが何を意味するのか解らん。オリジナル?の質問文も抽象的過ぎて意味の解る人はいないのではないかな。ナントナク共感するとか言う人はいるかもしれないが。 意味のないことを言って相手を混乱させ、自分に対して執着させるという方法もあるし。とりあえず、言い方・表現は難しいが そんなにたいした事を言っているようには思えん(失礼)。 (すぐつづく)
補足
ざっくりしていても根本的なもの根本的です。緻密ではないだけです。 質問文は、たった二行です。ふりがなを振れば、小学生でもわかります。 引用文は難しいですね。 引用文がさらに引用している詩は、難解とされるたぐいの詩だと思います。 (・・・・)は略記号です。(中略)(省略)と同じです。
- ENERGEAR
- ベストアンサー率18% (7/37)
>解釈: どじゃを連発するから、煙たがられて、よこしまな蛇さんの役になっただけでは。 さあ、アホの質問は読んでいないのでどんな役柄を当てはめられたのかは知らんので なんも言えん。 >よこしまな蛇さんは、人類に知恵を与え、やがて母なる地球は汚染に至り、人類は自分の首を絞めているので。 人間が滅びればよいのではないだろうか?個人としての人も死ねばよいのではないだろうか?頭の良いよこしまな蛇さんも。 >知恵に長けていたために、かみさまから愛されなかったカインは、よこしまな蛇さん同様、罪に通じやすい。 親にとっての子供は自分よりバカであり、そうでなければならない。 >比較もできるし、状況把握も的確なので、感受性もするどい、苦しみも激しい。 時として喜びも大きい。 >解釈を書くと、キグルミさんみたいだ。ははは。なんでかなぁ。 キグルミは知らんが 親と対峙する前に親となり、子を持ったからでしょうね。次の機会は子供が完全に一人立ちして、また一人になってからです。 >あなた、別に賢くないでしょ。 小ざかしくないという意味ではそうです。 >ひとごろしでもないでしょ。 肉体的・物質的なレベルにおいてはそうです。精神レベルでは知りませんが。 羊飼いの弟もいないでしょ。 >オレはカインでもあり、アベルでもあるかもしれない。 >まあ罪は人並みに深いでしょうけれど。 amaguappaちゃんほどでもないかも♪ >個人的に気にしなくていいんじゃない。 nonameさんが 騒いで言うから一応 言っておかないとね。 普段はまったくそんなこと気にしておりません。 (すぐつづく)
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
ごめんなさい、ちょっと私的な方向に話が逸れてしまいました。 そんなこと、どうでもいいことでした。 個人的には、「理性」、「おしきせ」、「あそび」この関係について、すこし考えてみたいと思っています。 例えば、風を感じることができるのは、なぜ風が吹くかを知っている人だけが風を感じる訳ではないこと 物が見えるには、なぜ人間が物を見ることができるかというメカニズムを知っている人だけが物を見れる訳ではないこと しかし、感じたり、見たり、そこを出発点として、「なぜ」という人間の「遊び」が始まっているのは確かでしょう。 蒸し暑くて気の毒なお仕事はさぞや大変だろうなあ、などとこちらがわが思われては、お仕事の「かい」がなくなってしまいます。その演技力に何かを感じてあげないと本当はいけないのですね。 自動制御のお人形もからくりも、創作者側からすると、まずは「どうだ~」ということで「まいった、すげー」からはじめてほしいのでしょう。そこから「ふむふむよくできているね」という順序が正しいのでしょう。 それを最初の部分の「どうだ~」「すげー」のプロセスがうまくいかないときに「おしきせ」の虚無感があらわれるのではないでしょうか。 芸術のモニュメントというものもそういう難しさはあるかもしれません。 しかし、風が吹いたときに、風が「どうだ~」とあざとくいっているようで、人間が萎えることはまずないでしょう。 芸術もある意味、根源的なものほど、あざとさを感じません。 なぜなのかな。 話は変わって、お仕事と遊びについて他の人が述べられていましたが、 個人的には「カイゼン」というものは、人間の理性の追求という遊びをうまく利用した、企業戦略だと思っていますが。 もうすこし、いろいろ考えてみたいと思います。
お礼
私的なことが、どうでもいいとばかりもいえないのが哲学なのではないでしょうか。 >「おしきせ」の虚無感 > 芸術のモニュメントというものもそういう難しさはあるかもしれません。 なるほどと思いました。 「いい仕事」が工芸みたいにわかりやすいときは問題ないですが、 芸術のモニュメントとなると、見る人に何を与えるかが一様ではないので難しいですね。 インパクトの要素はだいぶ大きいものだと思いますが。。。 「どうだ~」「まいった」でもなさそうなのがポストモダンなのでしょうかね。 でも、「なぜ」とか「どういうふうに」を深い意味で何らかのかたちで揺さぶるものって、考える甲斐のある問題です。 これがどこにもないと、たしかに「おしきせの虚無感」になりそうな気がします。 >「カイゼン」 改善? これはつながっていると思いますよ。たぶん揺さぶられているんですよ。 はい。もう少し考えてまた教えてください。お待ちしております。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.57を受けます。 読み取れないところについておぎなっていただきありがとうございました。 1. 《〔石上布留の神杉〕 神成》のうたの訓読については たしかに両方の読みがあるようです。ヱブ検索でも両方が堂々と出て来ます。 ・ 神さぶる ・ 神さびて わたしは 中西のように後者で読んでいましたので 《書き間違い》と言ってしまいました。 2. あとは 細かいことですが ▲ (〔* この2417番歌の〕以前一百四十九首〔は〕柿本朝臣人麻呂之歌集〔に〕出〔づ〕) ☆ と注釈されている《柿本朝臣人麻呂之歌集》ですが これは人麻呂が詠んだか それともほかの人の詠んだうたを集めたかのどちらかだと言われています。ので 人麻呂作歌と決めることは出来ないと思います。 3. ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ > No.49補足欄は おっしゃっていることが分かりませんでした。 わたしは、分からないと言われるほどのことを、書いたのでしょうか。 口調が通じていないのではありませんか、という意味にすぎません。 bragelonneさん、一足飛びに走りだしておられますから。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですねぇ。わたしは《口調》は通じていると思っていますよ。読みや心づもりは 人それぞれのところがあります。見解の相違は ふつうのことです。――言いかえると 全体の《あそび》としては通じていると思っています。あそびには 一足飛びもあるでしょう。 4. そうですねぇ。ここは 上の言い分だけでは足らないように思います。 ★★ (No.49補足欄) 地域性ですかね、ご出身地がお二人はたぶんすごく離れているから、ニュアンスがなかなか。 ☆ 《地域性》が コミュニケーションの障害になるとまではおっしゃっていないと受け止めて この部分はこだわりません。次の部分は どうしてその表現が現われるのか理解に苦しみます。 ★★ (同上) 構造上、対話できないという由もありますが、鎮魂の話題を掘り下げるレベルに筆談で届くのは無理でしょうね。 ☆ 《構造上 / 対話できない / 〔〈筆談で〉という条件がついていますが〕届くのは無理でしょうね》――この表現は 見解の相違を容認するときの対話の作法を超えていませんか? 5. ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ マタイ伝18-3を目の前に置かれたくらいで、(疑問符にそっくりの、かぎ型にくるまった手つきに注意。。。窪みに空洞) おまえ、わかってないよと、片手に聖書口角に泡の勢いで信仰の精髄を語っても、 鼓を打ったら鐘が鳴った、そして静寂、というものでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 5-1.事実認識として括弧の部分が 何をどれを指しているのか分かりませんでした。 ★ (疑問符にそっくりの、かぎ型にくるまった手つきに注意。。。窪みに空洞) ☆ 子どもの手がそうなのかと思っても だからどういう意味なのかが分かりません。 5-2.《おまえ、わかってないよと、片手に聖書口角に泡の勢いで信仰の精髄を語っても》と言われても ひとつには 聖書を持ち出したのは amaguappa さんであり フィンクなわけでしょう。 つまり 《マタイ伝18-3を目の前に置かれたくらいで》とおっしゃいますが わたしは最初の反応としては聖書の読みの問題だとは採らないようにしています。そちらからこれは聖書の文句だという指摘があったので それに応えたまでです。 5-3. もうひとつには 《信仰の精髄》なのですけれど そしてまさにそう考えているのですけれど わたしの語ったのは 人間論としてです。存在論です。そこから《遊戯》論をみちびいた。それだけの文章であるに過ぎません。聖書を扱うにしても 哲学の見地からです。 5-4. 特定の信仰(その形態)が 人間論としての信仰についてもっともよく普遍的に解き明かしているという議論は 哲学のものです。《口角に泡の勢い》だとしてもそれは ただのひととしての姿勢を出ません。 わたしに関して《まづ聖書ありき》という回答の仕方をすることはありません。みづからの信仰のあり方を語る必要があるというときには そう事割って語ります。 5-5. ただしそれをどう受け取るかは 自由ですので ★ 鼓を打ったら鐘が鳴った、そして静寂、というものでしょう。 ☆ というご感想はそれとして 受け止めてまいります。 5-6. ですから この結論のご感想をみちびく道筋は 事実問題として誤解がお有りになったか それとも (5-1.)のようにわたしの理解が届かなかったかだと思います。 6.★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ bragelonneさん。 第三者は俯瞰します。それは自由な感想というものです。 けれども、その照らし合わせを、俯瞰のまま当の本人におこなえるはずがありません。 俯瞰とはべつにして文様を見るようにしなければなりません。 アラベスク文様みたいな文様です。 俯瞰の話題はおしまいにしてです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 6-1. 《俯瞰と文様》が 対話をもとにした話し合い・つまりその継続と どうかかわっていると捉えておられるのか これがよく分かりませんが わたしの言おうとしたことは 第三者からの横やりだったとしてもまづ第一次としては何でも受け止めるということであり それだけのことです。 6-2. でもこの《第一次の知覚や何らかの反応》 これが大事だと考えます。一たん保留することもありますが あまり長く放っておくことはありません。《自由な感想としての俯瞰》であれ何であれ まづ受け止めます。言いかえると その横から口を出すのだとしてもその口を出す存在じたいは 受け容れましょうというしるしを表わしておくことが 大事なのではないでしょうか? (生ける屍であったとしても その存在はまだあります。そしてただし まったく受けつけないという反応を採ることも この特殊な場合にはあります)。 6-3. そのあとでは 如何ようにもというほどに こちらも自由に対応することができるでしょう。 《対岸の火事》であっても 放っておかないということだと思います。つまりそれを対岸の火事だという認識をすることまでは やはりするものだからです。(当たり前ですが)。 6-4. 第一次の反応はつねにありますし これが無しで済ますことは よほどのことでなければないでしょう。 何もなかったと見なすときには――と言ってもその場合にも 第一次の知覚と反応もとうぜんあるわけですから―― その場でか事後においてか 説明を成す義務が生じていると考えます。(その情況に 当事者として 自分とさらにほかの人がいたという場合にむろん限りますが)。 7. あと 《たましいのまじわり》といった主題で理論を述べてもらっております。 これは もう詳しくお応えもしないほうがよいでしょう。それは いまは 一方で《生きる=すなわちあそび》という理論があって 他方で《あそび》をそれとして取り上げ扱うというかたちでの理論がある――こういう見方になると思うからです。いまは 見解の相違ということで 合意しうると考えます。 むろん さらにどんどんそれぞれの理論を展開していくわけですが いまは《遊戯とは》の主題にかんしてその出発点のことを捉えることで一区切りを打ってもよいと思います。むろんこれは わたしの回答と amaguappa さんとの対話についてのことです。 どうでしょうか? 交通整理の見込みはどうでしょうか? * どちらかというと出発点からの踏み出しのほうを これまでさんざ議論してきたわけですが。
補足
人麻呂の件ご教示ありがとうございます。 4からです。No.8のお礼でわたしが申し上げたことですが、鎮魂という主題についてはbragelonneさんもagrippaさんも考察を持っているだろうと思いました。 戦後史の生き証人として団塊およびポスト団塊の中高年層の話題として、ひとつの重要なタームであると存じます。 いずれも自覚的に問題の枠組みを捉えてきておられるように見える、というわたしの所感はあるものの、 ここはゆるやかな話し合いを許容することがあるにしても、話し合いの場所ではありませんので、質問者に向かって、どれだけコンパクトに、フレーミングを見せていただけるかということに終始しますでしょう。 で、寝っころがって鼻ほじりながら、ネボケ親父が話にならねえ、そこでちょっと居ずまいを正して、薄く広く背負っての鎮魂がいいだろう、さらに明後日向いて、幼な子ってなーに、天国ってなーに、のつぶやきもさほど相手に届かずとも斟酌しないのか一喝、最初っから父兄みたいに人が遊んでるのを見ながら解説してんじゃない。。。。 と、一方の実践による人間道をおもんじるフレーミングがあり、また、 エポケー神父と思いきや、叩くキーは迸り、聖書から引用はマタイ伝18-1~5、非思考の哲学として、文字は殺し霊は生かすのアマテラス語を分析、アマテラス語のお唱えとしての鎮魂を糾弾するものとして上田氏の文献を読み込まれ、スサノヲの人間語をとおしてみたまの振り起こしが必要だと論じて、鼻でなく耳の穴をかっぽじりやがれ。。。 と、もう一方の思弁哲学による人間論をおもんじるフレーミングがあるわけです。 これで、わたしから見た枠組みは明快です。サイトシステムが、ずれを修正しながら議論を進める場所ではないということ以上に、ここに見られる断層は、筆談では埋まらないということをわたしは指摘したにすぎません。 6については、おわかりにならないのなら、しかたありません。ザビーヌ事件の場合と同じです。横やりがどうこうの問題としてとらえるものではありません。俯瞰を廃棄しなければあなたの心は?と心性を問えないという問題です。 7については、わたしは、たましいのまじわりという見解はとくに有していません。上田氏の文章の「節」と「間」が、竹を借りた成長の譬えであるように思われるということのみです。とくに気になさらないでいただければと思います。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.55で 書き間違いがありました。つつしんでお詫び申し上げます。 《人麻呂之歌集》の歌のほうで 第三句を間違えていました。 ・まちがい:・・・神さぶる・・・ ・ただしい:・・・神さびて・・・ ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 石上 振神杉 神成 戀我 更為鴨 石上 布留の神杉 神さびて 恋をも我れは さらにするかも (柿本朝臣人麻呂之歌集 十一・2417) 【中西進訳】 石上の布留の神杉のように神さびていても また私は恋をするのかなあ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ No.49補足欄は おっしゃっていることが分かりませんでした。 《天の国》は 喩えですけれど 《非思考の信仰》のあり方の根幹にかかわることですから――つまり その信仰の根拠は《無根拠》だと明かして 無根拠として想定されているということ そしてこの想定は人間に自由意志などの心がある限り 現実であるということですから―― つぎのように捉えるとおっしゃるのは どうしてなのか分かりません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 『ほら、こう言う言葉があるけど、そうともさ、考えてみたらいいんじゃないの、ねえきみ、出来てるかしら。』 という調子で発せられているものと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それを超えて つぎのお考えについても どうついて行けばよいかがまづ分かりません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 地域性ですかね、ご出身地がお二人はたぶんすごく離れているから、ニュアンスがなかなか。 構造上、対話できないという由もありますが、鎮魂の話題を掘り下げるレベルに筆談で届くのは無理でしょうね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり 次のご指摘と照らし合わせて どう捉えればよいかという問題にもなるかと思います。 ★ (No.46お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ > 侮辱を超えて 気のふれた人間扱いになるのではないですか? つまりもしそうだとしたら 甘やかしのサッカリンの砂糖漬けですよね。 これは、わたしとbragelonneさんの話題にはなりえません。 わたしがbragelonneさんを扱うやりかたや、 わたしのbragelonneさんへの対応についての話であったなら、お応えのしようもあったでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしの考えとしましては 第三者も ともに一定の二人の対話に入ってもよいというものです。どうでしょう?
お礼
書き間違いとのこと、あらためてありがとうございます。 中西訳ですといったんプレスが入るようですが。 人麻呂はイメージの世界をあそびますから難しいですね。 神さぶる でもよかったのではないかと思います。 石上の直刀の霊剣のすがたに導入され、古杉の神々しいすがたを借りて、詠み手の魂の振れに、深く入っていけば、 結局はどちらの訳でも同じ心でしょう。 > No.49補足欄は おっしゃっていることが分かりませんでした。 わたしは、分からないと言われるほどのことを、書いたのでしょうか。 口調が通じていないのではありませんか、という意味にすぎません。 bragelonneさん、一足飛びに走りだしておられますから。 マタイ伝18-3を目の前に置かれたくらいで、(疑問符にそっくりの、かぎ型にくるまった手つきに注意。。。窪みに空洞) おまえ、わかってないよと、片手に聖書口角に泡の勢いで信仰の精髄を語っても、 鼓を打ったら鐘が鳴った、そして静寂、というものでしょう。 bragelonneさん。 第三者は俯瞰します。それは自由な感想というものです。 けれども、その照らし合わせを、俯瞰のまま当の本人におこなえるはずがありません。 俯瞰とはべつにして文様を見るようにしなければなりません。 アラベスク文様みたいな文様です。 俯瞰の話題はおしまいにしてです。
- ENERGEAR
- ベストアンサー率18% (7/37)
>知恵に長けていたために、かみさまから愛されなかったカインは はあ、なるほど、やっぱりそういう神を想定してるんですね... 愚かだから汚染しなければ維持・発展させることができない文明を作ってきたって事で。 あと、「どぢゃ神」のマネは、単にギャグです。 とりあえず主要なことだけ書きましたが、あとはまた明日ってことで。 今日はもう寝させて♪ (つづく)
補足
> やっぱりそういう神を想定してるんですね... それは短絡思考というものです。 カインとアベルの物語に登場する神は、種類としては一つしかない神であるのは歴史的事実です。 しかし、比喩となったら、神とは何の比喩であるかは星の数です。 文明論はなかなか読ませますね。 愚かだからだとすれば、愚かでない道はどんな道だったと思いますか。 汚染の始まりは、やはり家畜と農耕でしょうか。 いえいえ、ずっとあとの産業革命でしょうか。 20世紀の化学物質を過多に利用した生活でしょうか。 これに回答をくださる限りでは、遊戯に触れなくてもけっこうです。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
やまとの三輪山麓 山の辺の道の北の端あたりに 石上(いそのかみ)神宮があります。 ここに 布都御魂(ふつのみたま)ないし布留御魂(ふるのみたま)が祀られています。《ふつ》と言うのは つるぎを振ったときに出る音を表わしているようです。 要するに みたまを鎮めるために・その前に みたまのフル(振る)があるという考え方です。むろん 実際の行為をも言います。 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 石上 布留(降る)とも雨に障(さは)らめや 妹に逢はむと言ひてしものを 〔大伴宿祢(すくね)像見(かたみ) 万葉集・第四巻664番〕 〔私訳:あの子とデートするのだと言ったのだから 雨が降ろうと邪魔にはなるもんか。〕 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この枕詞も 歌の意味からすると 実際に《みたまを振る》という連想を伴なっていると考えられます。 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 石上 振神杉 神成 戀我 更為鴨 石上 布留の神杉 神さぶる 恋をも我れは さらにするかも (柿本朝臣人麻呂之歌集 十一・2417) 〔私訳:いそのかみのやしろにて われは みたま振りを受け 幾度も積み重ねて来た。いまやわがこころは神々の世界にかようほどにやわらぎ鎮められている。その我れとしたことが 恋ごころの芽生えるのを咬みしめねばならなくなるとは!〕 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 世界とは 生きることなり。 生きるとは かかわり(関係)なり。 まじわり(交通)を持つ。 まじわりには ひと節(ふし)ごとに互いの みたまの振りと鎮めをおこなう間(ま)がある。 間が抜けたり延びたりしないように気をつける。 この心配りは あそびである。 かくて あそびが 生きることなり。 生きるとは あそびなり。
お礼
ありがとうございます。奈良の石上神宮ですか。霊剣がご神体とか。 降る、振るの枕詞から、挙げていただいた二首、とても素敵な歌ですね。 やっぱり、くらっときますね。 大伴宿祢像見の歌は率直ですが、言いてし とあるところをみると、言霊的に実現するに決まっているというのが読み取れますね。 人麻呂の難しさ。。。そういう意味なのですか。 神さぶる恋 となるのかな。神杉を見上げながら、千代に八千代に続く恋を想いますね。 ん、経験者、自信ありかぁ。。。
- mashumaro2
- ベストアンサー率58% (99/170)
amaguappa様、ご多忙な中、たくさんのお礼を本当にありがとうございます。 私のほうは、急ぎません、どうぞごゆっくりとご笑覧下さいませ。 リルケのこの詩、今の私の気分には、とても合っているように感じます。 と申しますのも、上の子が今春高校にあがる年頃でして(下は小4)、「はて?自分の時はどうだったかしら?」と、我が身を振り返る機会が今まで以上に多いからかもしれません。 amaguappa様の、育児真っ盛りの花のような時期を、私は一足先に通り越したようです。 自身の自由な身の嬉しさと、一抹の寂しさとが混在した状態で、 まるで、お仕着せに誂えた鎧を一枚ずつ剥ぎ取るかの如く、試行錯誤や取捨選択の素っ頓狂な本人の様子が可笑しくて、今は穏やかに見守っております。 (まあ、いつも、このように穏やかでいられるわけではないことも、容易に察していただけるのではないかと。) >欲望のしつけは、ひとつの課題なんでしょうね。 >欲望がまだ少ないうちの可愛さを、いとおしんでいますが、 >現代生活はこどもに容赦なく欲望を植え付けていきますよね。悲しいです。 はい、全くおっしゃる通りだと思います。 大人のみならず、幼く無垢なこどもにまで、容赦ない欲望とそれへの禁欲が突出しているようにも映り、それがとても切ないです。 >理性と遊戯は、理性が勝るようにして遊戯空間をつくりだすことが肝心なのではないでしょうか。 そうですね、もちろん遊戯には理性が必要不可欠でしょう。 そしてご指摘下さった >遊戯空間を、共有できるものとしうるか否かは、理性に帰る道があるか、 >また、感情の共有に至る道があるかどうかにかかっているのではないかなと思います。 の「感情の共有に至る道」にも通ずる豊かな「想像力」も、またやはり必要で、(殊に戸外で、ゆったりとした時の流れの中での)遊戯とともに育まれるのではないかなと思うのです。 理性と想像力の定義付けが曖昧なまま乱暴に続けさせていただきます。 遊戯を含めたコミュニケーションにおいては「こうしてはいけない、なぜならば~」という「理性」が当然大切でしょうし、それは親や周りが諭すことにより理解に至ると思われます。 でも、「こうしたら(こんなことを言ったら)、この先どうなってしまうのか」という瞬時の推測、自身の内なる「想像力」を育むというのは、それが是か否という判断の必要性にかかわらず、さほど自然発生的ではないかもしれません。 以前、あり得ないようなご近所の実例ですが、こどもだけで線路内に入り小石を置き、未然に発覚防止したことが話題になりました。 「頭の中ではやってはいけないと親に諭されわかって」いても、こどもですから、時と場の流れや諸因の重なりに押されてしまうことも、残念ながらあるわけです。 それがもし「やったらどんな大惨事になるか」と想いをめぐらせば、ストッパー/セルフ・コントロールとなり得るわけで、 その見極めというのは、諸般の遊戯の危険性の察知、忌避から、相手を最期まで追い詰めない、むやみに暴言を吐かないという「いじめの問題」にも充分応用がきくはずなのです。 けれども昨今、戸外から戸内、そして遊び心や物事の考えに耽るに相当する自由で無駄な時間が乏しくさらには遊戯の質までもが変質してしまった状態においては、本人の内から湧き出る「想像力」など、創出/表出される機会がめっきり少ないのではないかなあと、少なからず懸念するのです。 また、「習い事(お受験、バレエ、サッカーなど)」が「遊戯」の代替としてまかり通ること、それが従来のごく一部の人々に見られるのではなく、社会の風潮として皆が皆というようであれば、ちょっとどうなのでしょうね。 それも、低年齢化の傾向とともに、です。 >現実にわたしなどが居合わせると、ただただ、人形で代替するに至るまでのいくつかの段階を思います。 はい、amaguappa様のお礼から、何かdeja-vuのような、一貫性のようなものを拝察致しております。 そうですか、現実にそのような場面に遭遇なさったことがあったのですね。 夫人のあの人形を通じての遊戯は、もはや「遊戯」などではないのでしょう。 ご指摘の通り、ようやく得られた仮構の安寧秩序とそれに付帯する緊張感などを破ることなど、小林には思いも及ばぬことだったに違いありません。 その緊張感の内に、あたかも皆で音楽を奏でているような、そんな不思議な調和と心地良さのようなものをも見い出されるのです。 >リョーヴィンの「労働」を読んで、ふと思うのは、芸術が生業になったときの、労働のつらさというものでした。 >遊戯のこころは、からだをすばらしく開放的に使っているのかもしれません。呼吸や筋肉の運動にロスがなくなって。 はい、ご明察だと、ここは本当に感じ入りました。 遊戯のもたらすノリやリズムが心地良い陶酔感となり、のびやかに躍動するのでしょうね。 他の方へのお礼「遊戯であれと智に傾くとあざといので~」は、芸事において至極ごもっともな話であると納得致した次第です。 おまけ:ke-two=尻=ケツと知り、クスクス笑いが止まりません。 むしろ私には、重森三玲の傑作「龍門の庭」の「突き出た顔」のように思えるのです。 http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/013/529/32/N000/000/001/120106262953416126946.jpg
お礼
> 昨今、戸外から戸内、そして遊び心や物事の考えに耽るに相当する自由で無駄な時間が乏しく > さらには遊戯の質までもが変質してしまった状態においては、 本人の内から湧き出る「想像力」など、 > 創出/表出される機会がめっきり少ないのではないかなあと、少なからず懸念するのです。 いじめも少年犯罪も、まったくそのとおりに懸念されますね。 地域内での置き石というのは、わたしは経験がないのですけれど、戦慄しますね。 刃物、放火、突き落としなどもですが、殺人に至る手段に容易に手を伸ばすというか。。。 虫やカエルで疑似体験していないからだという声もありますけれども、 また道徳的宗教教育が必要だと言った首相もいましたけれども、 さっきの話につなげますと、やっぱり、関心を持ち持たれてそこにもある意味で自分がいるような、 自己反映的な感覚と自分がここにあるという充足感とが、うまく育っていないんじゃないかとも思われてきます。 小林秀雄の「人形」について、もうひとつご投稿を頂いていますね。また日をあらためまして拝読させていただきます。 おまけの「龍門の庭」の画像、ありがとうございます。うーん、月明かりで見たい。 ke-twoさんはケートゥさんなのだそうですけれど、この想像の生き物の名前は、占星術で見かける機会があります。 わたしは尻よばわりしてしまいましたが、マシュマロさんのおかげで名庭に昇格されましたね。宮内庁の池より断然素晴らしいです。 これからも益々邁進のほど。
補足
(字数制限のため補足欄から使わせていたただきます) ありがとうございます。 > 自身の自由な身の嬉しさと、一抹の寂しさとが混在した状態 早いものでしょうね。あれこれ思い出されて。 もののなかに自分があって、それなのにものの外側が見えているのだ、という考え方があるのですけれど。。。 こまこまとしたものの全てと自分とが、そのような方法論で拡散的に繋がっているとするとき、 見つめ返す人にはこちらが容れ物にされているわけでもあり、また、こちらの外側を見ている強みも握られていて。 そんなこんなで対人関係というのは、対等であることがなにより望ましいのですが、 こどもにはこどもの自分があるとはいえ、おとなに対するとき、やはりちょっぴり不利で不自由になりがちです。 親子だと、これをいつまでもひきずってしまうことも世間には多いことで。 マシュマロさんはきっと、いい容れ物になってあげられて、お子さんの心は大きく成長されて、 おたがいに健やかに自由になろうとしていらっしゃるのかもしれませんね。 そんなことをちょっと思いながら、春の入学おめでとうございます。
- ENERGEAR
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遊戯とは ≒オハナシ
お礼
ざっくりいえば、そういうことになるかと思います。
お礼
ありがとうございます。 核家族のほかにだれも、子育てに手を貸す者も口をはさむ者もないものですから、 何だか締まらない空気ですが、お陰様ですくすくと成長しています。 なにか透明な気持ちにさせる「遊戯」をめぐるご本2冊、ご紹介いただいてうれしく存じます。 絵本が大好きな子なので、どちらもぜひ手にとってみたいと思います。 だるまちゃんとかみなりちゃんは動きのあるお話ですね。 落とす、放り投げるって最初の身体運動なのでしょう、少し前までさかんにやっていました。 はじめての主権発揮?世界征服?かなと見守るしかないのでしたが。。。 ゆきむすめはわたしが好きそうなお話です。ペチカ燃えるお部屋で読みたいですね。 異界をかんたんに受け止めて、渾身の力で投げては受け止めてという、子供というのは不思議なものですね。 そもそもこの世界に来た最初から異界体験でしょうし、手に触れて、獲得していくことに残酷の境界はないのかもしれません。 世界といっても実体などは習慣みたいなものですから、 身体運動の手応えの中や、スラップスティックだったり残酷だったり儚かったりする形で遊戯の中に、じわじわと現れることになっているのでしょう。 jの項は、面白いご観察をなさったのですね。 jazzも付け加えたいところ。jojo(悪ガキ)と。 throw and catch で世界を味わえない大人になると寂しいですね。弱くなる気がします。