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遊戯とは

念のため、質問者のスタート地点の提示として、フィンク『遊戯の存在論』の結びから一節とリルケの詩を引用します。 これに拘らなくてけっこうですので、遊戯とは何か、思われるところを広く自由な見地からお教えください。 「全体における存在者を遊戯として存在せしめるという、この異様な世界形式は、(・・・・)われわれ有限的人間がまさに魔術的生産の創造力と栄光のなかで、深刻な意味で「賭けられている」のだという予感をよびおこすであろう。世界の本質が遊戯として考えられるならば、人間にとって、自分だけが広大な宇宙のなかで支配する全体に言応ずる(entsprechen *)ことのできる唯一の存在者であるということが帰結される。(・・・・)  したがって、一切の存在者の遊戯的存在根拠への人間的生存の遊戯的開示性を、詩人は次のように歌っている。  きみが自ら投げるものをとらえる限りは  すべては たくみと任された獲物  きみの中心に 永遠の遊び仲間の投げよこすボールのとらえ手に突然きみがなるとき  正確に可能にされた飛翔のなかで  神の巨大な架橋のかの弧のなかで・・・  そのときはじめて とらえうるということが富となる----きみのではなく世界の----  そして君が 投げかえす力と勇気をもつならば  いや もっと不思議なことに  勇気と力を忘れ そしてもう投げているならば・・・  あたかも歳が鳥を投げるように 渡鳥の群を  若い暖かみに古い暖かみを海を越えて投げよこしてくるように----  そのときまさに この冒険のなかで きみは正しく共に遊ぶ者  投擲はきみに軽くもなく 重くもない  きみの両手から流星が輝きいでて  自らの空間を駆けめぐる・・・            (リルケ『後期詩集』より) 」 引用文献 オイゲン・フィンク『遊戯の存在論』 石原達二訳 せりか叢書 

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回答No.4

こんにちは。 健やかにお育ちのことと拝察致しております。 寝かしつけの際には子守唄か絵本の読み語りでしょうか…。 まことに勝手ながら、私にとって懐かしい、「遊戯」に関する物語にふれさせていただきますね。すみません。 『だるまちゃんとかみなりちゃん』 http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=180 天から落ちてきた”かみなりちゃん(鬼のこども)”を見つけた”だるまちゃん”。 だるまちゃんは、高い木にひっかかって取れないかみなりちゃんの浮輪を取ってあげるべく、自らの傘をめがけて投げる「遊戯」をするものの。 何と傘が当の浮輪にひっかかってしまい、二人で途方にくれてエンエン泣いてしまいます。 そこへかみなりちゃんのパパが探しにやってきて、お礼に?かみなりちゃんの天の国へと招待されることに。 大歓迎を受けただるまちゃんは、180度異なる「異界体験」を大いに満喫したのち、お土産を持って無事戻ります(傘を開いて空から飛び降りる!)。 古来、「鬼」とはトリックスターのごとく、春をもたらす祝福の、そして「陰(おん)」の存在でもありました。 かみなりちゃんが悪戯心で天から落ちてきたり、だるまちゃんの傘投げを通じた人助けも、屈託のない好奇心と探究心に満ち満ちていています。 本来、こどもたちの世界とは「境界」を行ったり来たり自由自在であり、こども自身が想像力の豊かな異人的存在なのでしょう。 そして現代のこどもたちは、魑魅魍魎としたこの世の「陰の鬼の存在」を、どのように幼心に察していくのでしょうか。 『ゆきむすめ』 http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=8777 かぐや姫と似たプロットの、ロシアらしい素朴な民話です。 ”ゆきむすめ”が火の上を順番に飛んで、最期はふわっと消えてしまうところが、とても儚く切なくて。 春の到来を告げる祝祭の一幕なのでしょうけれども、 こどもたちの発案する「遊戯」とは、何と危険で残酷なのでしょうか。 いえ、こどもたちの他愛も無い「遊戯」だからこそ、半ば容赦なく時に危険、或いは残酷がまかり通るものでなくてはならないのかもしれません。 広い空の下の野原は家庭規範の及ばない治外法権の独立国、仲間外れや喧嘩は承知の上。 「ここまでやったら(言ったら)マズイ!やめとこうよ!」と、相手を最後まで追い詰めさせない限界基準や、最悪追い詰めてしまった果ての失敗などなど、 観念の理屈ではなかなか得られにくい稀有な「感性」だと思います。 ロシアの冬は長く厳しく、さぞ鬱々とした荒涼たる世界のはず。 それなのに、まるでなごり雪を愛で惜しむかのようなお話が生み出されたあたりに、 ロシアの大地や交響曲にも似た懐深さ、鷹揚さを感じずにはいられません。 ちなみに──"j"を辞書で追ってみると… ──jeter(to throw/投げる) ──jeu(game, play/遊び、遊戯) ──jeune(young/若い、幼い) ──jeuness(youth/青春、若さ) ──joie(joy/歓喜、喜び) ──joli(pretty/綺麗な) ──joue(cheek/頬) ──jouer(to play/遊ぶ、戯れる) ──jouet(toy/おもちゃ) ──jouir(楽しむ、味わう) …と、何とも若々しく楽しげな言葉が列記されてありました。 Jeunesseの古語はjouvence。 まるで「青春、若さ」と「戯れ」とが、同源のようでもあり。 あの頃──自らが投げていたのはいったい何だったのか── そしていま、いつの間にか「大人」になってしまった自分にとっての「遊戯」とは、何なのだろう、と── ご教示下さった美しい詩を拝見して、ふと、そのように思った次第です。

amaguappa
質問者

お礼

ありがとうございます。 核家族のほかにだれも、子育てに手を貸す者も口をはさむ者もないものですから、 何だか締まらない空気ですが、お陰様ですくすくと成長しています。 なにか透明な気持ちにさせる「遊戯」をめぐるご本2冊、ご紹介いただいてうれしく存じます。 絵本が大好きな子なので、どちらもぜひ手にとってみたいと思います。 だるまちゃんとかみなりちゃんは動きのあるお話ですね。 落とす、放り投げるって最初の身体運動なのでしょう、少し前までさかんにやっていました。 はじめての主権発揮?世界征服?かなと見守るしかないのでしたが。。。 ゆきむすめはわたしが好きそうなお話です。ペチカ燃えるお部屋で読みたいですね。 異界をかんたんに受け止めて、渾身の力で投げては受け止めてという、子供というのは不思議なものですね。 そもそもこの世界に来た最初から異界体験でしょうし、手に触れて、獲得していくことに残酷の境界はないのかもしれません。 世界といっても実体などは習慣みたいなものですから、 身体運動の手応えの中や、スラップスティックだったり残酷だったり儚かったりする形で遊戯の中に、じわじわと現れることになっているのでしょう。 jの項は、面白いご観察をなさったのですね。 jazzも付け加えたいところ。jojo(悪ガキ)と。 throw and catch で世界を味わえない大人になると寂しいですね。弱くなる気がします。

その他の回答 (58)

回答No.49

amaguappa様、こんにちは。 さりげなくも心あたたまるお言葉を頂戴しました。 とても嬉しかったです。本当にありがとうございます。 私自身、大変不甲斐ない母親であると日々痛感しておりまして、特に「はやく、はやく~」と万事につけせきたてることなど、元凶にほかならないと、かたく自らを叱咤し戒める身です。 その点、amaguappa様の「ゆっくり、じっくり」というスタンス、 これは美質ですし、大いに見習うべきものがありまして、とても素晴らしいご信条だなあと素直に思っているところです。 そしてまた、このご質問におかれましても、amaguappa様のペースを最後まで最優先なさってくださいますよう。 私にとりまして、大変含蓄深く、得るところが非常に多いものですから。 どうか、お願い致します。 あらためて質問文と引用の詩をじっくり拝見しまして、今度は新たに、「渦巻き」「螺旋」のような漠然としたイメージが浮かびました。 たとえば、幼稚園や小学校などで見慣れたマスゲーム。 あれは本来の「遊戯」とはかけ離れた「お遊戯」のようでもあり、 直截的に想起しやすい北朝鮮のそれなど、一糸乱れぬ統一感で、全体主義的な異様感も感じられることでしょう。 ところが、幼児や児童のひたむきに踊るそれは、アラもご愛嬌、何とも愛しく感じられます。 私の印象では、私立の場合、いかにも親用のプレゼン的印象度が濃く感じられ、公立のそれは、ゆるゆるな様子、ともするとてんでんばらばらな感じをおぼえなくもないです。 ですが、繰り返す踊りの型とリズム、前進後退する軽やかなステップ、おへその中心から手足の先まで力みなぎる躍動感、誇らしげで晴れ晴れとした様子の笑顔など、 こどもたちのひたむきさにおいては、何ら大差などなく、ひとりひとりが生み出す渦巻きの流れと描く輪が、 互いに波及し影響し合い、そしてそれが全体として、大きなうねりの渦の輪を形成することになり、 元気のパワー、ダイナミズムを観る者に大いに感じさせてくれるのです。 そしてそれは、わたしたちひとりひとりにおいても言えるのではないでしょうか。 つまり、「一切の存在者の遊戯的存在根拠」たるひとりの人間のミクロな生命自然現象や心的営為を含めた一切が、 マクロな社会、さらには宇宙へと、無限に螺旋状に孤を描き渦巻いて連なり、 やがては自己回帰へと向かうという意味合いなのかなあ、などと思うのです。 ああ、でもでも、スピリチュアルな方面は全く鈍くセンスが無いので、amaguappa様からのダメ出しを、大いに期待しております。 おみくじとか「大吉」が出るまで引いて「良し♪」と自己満足に浸るタイプですし、 何よりke-two様の印象が「尻」に固定されて、どうにも消し難いほどニブイものですから。 (ご教示に、またもクスクス笑ってしまいました♪)

amaguappa
質問者

お礼

たびたびの多彩なご回答ありがとうございます。 また、お返事が滞りましてほんとうに失礼しました。

amaguappa
質問者

補足

日中はパソコンに向かう時間が数分のこま切れもあるかないかで(阻まれるから)。。。 ここ数日の夜は、通して眠りました。 わたし、ゆっくりじっくりではないですよ。その片鱗もないですよ。 ご自分を不甲斐ないなどと、マシュマロさんてば何をおっしゃいますやら。 でも。 わたしは、逸れさせるのが下手だなと思います。 ときと場合によりますが、目は見つめても、話や心は逸らしていくといいますか。。。 こどもであれ、他者のこころを自由にさせるのは難しいですよね。 わたしも、質問の詩をふたたび見てみました。 たしかになんだか渦巻いていますね。。。大波のうねりと一緒に。 小さい子のお遊戯、かわいいですね。無心ですものね。太陽電池みたいに動いて。 いやいや踊っている子もいるのかな? おとなでも、一緒に歌ったり一緒に踊ったりすると快楽がありますから不思議ですよね。 ミクロからマクロへの螺旋の渦巻きと自己回帰、、、言葉にならなそうなものを言葉にして、すごい描写をなさるのですね。 きっと、おっしゃるとおりなのだろうと思います。 > ひとりの人間のミクロな生命自然現象や心的営為を含めた一切が、 > マクロな社会、さらには宇宙へと、無限に螺旋状に孤を描き渦巻いて連なり、 > やがては自己回帰へと向かう 幼児教育のリトミックの下地となっているシュタイナーが、 葉っぱの育つ形態や花が開いていく姿や、ミクロコスモスとマクロコスモスの形成原理の話までをしていたと思います。 螺旋ぽいですよね。それも形態が、ということにとどまらず、 心的営為が自己成長的な差異化をもくろむようなところを、重視するんです。 発生学のネオテニーや、数学の射影幾何を駆使した理論になってくると複雑きわまりないのでお手上げです。 いま、ご回答を拝読していて、 もしかすると、おとなの中の、こどもの部分がぐーんと伸びるから 歌や踊りは楽しいのかな? なんてふと思いました。 > 「大吉」が出るまで引いて「良し♪」 大吉は、、、、あと下るだけですよう。 > クスクス笑ってしまいました♪ 宮内庁もろとも、消えてしまいました。 ke-twoさんにごめんなさいと言ったのもたぶん見ておられないまま跡形もなく。 それにしても、マシュマロさん。。。女子高の高校生みたいですね。    

回答No.48

こんばんは、amaguappaさん。 無用って… ったくー ●この日々ちとつかれた。。。 って、言葉おいてあったら… 心配するって!! ( ^^) _旦~~ ひとまず お茶を どぞ。 いっぷく いっぷく ほんなら ここらで 『ぼちぼちいこか』を進呈! http://kodomotoshokan.com/p1-book/hippo.html ええよ、これ↑ 手にとって みてみなはれ~♪

amaguappa
質問者

お礼

武器と聖書にまつわる共通点は、必要のなかったところに必要と思わせるところです。 お茶うけに拝見しました。「ぼちぼちいこか」 ありがとうございます。関西弁の絵本というのは楽しそうですね。 ぜひ親子で楽しみたいと思います。 ところで先に頂いたご回答、 投資やマネーゲームはさっぱりわからないけれど、 キタキタを踊り続ける世界なのかもしれない。。。 ---さあ、魔物も人間もごいっしょに!

回答No.47

 No.68を承けます。  ★ (No.68補足欄) No.25のお礼から一歩前へ進ませていただける回答は頂いていないという認識でいます。  ☆ この指摘にこたえておきましょう。回答は終わっています。  ★★ (No.31補足欄=No.25へのご返答のつづき) ~~~~~~~~  そうですね、まず、遊戯の主体は遊戯のときにのみ形成されていると思います。遊戯の時空が終われば、霧散するのではないでしょうか。    ☆ この見方は 《生きる》の中に《あそび》をそれとして取り上げ   て扱う場合です。それとは別の見方もあるという内容の回答をわたしは   している。それだけのことです。    すなわち 次のまとめにも その二つの見方がかかわります。あなた   のまとめ方は 遊びというそれとして取り出された時空間でいわばたま   しいがあらたまった(つまり われがわれに還った)あと生活に戻り仕   事なり何なりに向かうという見方です。  しかし、ここで上田氏の用語を敷衍して関係の話の芯央に入りますが、  遊戯の時空で触れの経験をもったたましいは、つぎにその吸収によって、自発にして固有の〈動き・身振り・すがた〉をそなえた、振るたましいとなることができる。  それは適切な間をおいて、タイミングに乗じて、みのるものである。  つまり、遊戯をもって仕事や生活に生かし、仕事や生活をもって遊戯に生かす、節と間の良いたましいの竹のごとき成長というものについて、  わたしたちは、人間の成長だけでなく、国家の成長や社会の成長に照らして、考えることができるはずなのです。  竹の節に、間がほどよく入るのに、滋養や陽光や風向きの力がかかわるように、  たがいのたましいは関係性のうえでおよぼすところがあって、あそび、生きるという話になりはしないでしょうか。    ☆ わたしの見方は このあなたのまとめたような見方を 《生きる    ないし 生活》の全般に しかも最初に――そして 非思考の信仰のこ   とをも持ち出しておくとすれば 人間の存在の条件にかんするかぎりで   あたかも絶対的にと想定するかのごとく――据えている。《生きる=す   なわち あそび》だという見方です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★(No.67お礼欄) 鼓と鐘と静寂は、あちらさんと生じたことでしょう。どこにまでも持ちこむことはないはずです。  ☆ すなわち これは わたしの〔上にあらためて確認した〕回答内容についての つぎのそちらの評言について説明するものです。  ○ (回答No.68でも確認したもの)~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆☆ (回答No.67) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   そうして この質問へのわたしの投稿は   ★★ (No.57お礼欄) 鼓を打ったら鐘が鳴った、そして静寂、というものでしょう。   ☆ というわたしの理論に関する評言をすでにもらっていますから これで――つまり見解の相違としての合意において―― ひととおり済んでいます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これには この評言の全体をここでも掲げて確認すれば分かりやすいでしょう。というよりも それを掲げれば ほとんどわたしからの応えとしての説明は要らないものです。  すなわち  ★★ (No.57お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  マタイ伝18-3を目の前に置かれたくらいで、(疑問符にそっくりの、かぎ型にくるまった手つきに注意。。。窪みに空洞)  おまえ、わかってないよと、片手に聖書口角に泡の勢いで信仰の精髄を語っても、  鼓を打ったら鐘が鳴った、そして静寂、というものでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわちこの自分の文章に今回あらたな説明を添えたものとして  ★(No.67お礼欄) 鼓と鐘と静寂は、あちらさんと生じたことでしょう。どこにまでも持ちこむことはないはずです。  ☆ があります。つまりは いづれにしても そういう評言を わたしの回答内容に与えたということです。これは 見解の相違であるから 見解の相違だとしてわたしは 合意するとすでに述べたところです。  (それだけで済むとわたしが言えるのは 先に触れた《ふたつの見方》があるとすでにわたしが述べているからです。むろん わたしの見るところでは やがて《生きる=すなわち あそび》という見方のほうに収れんするであろうというものですが それについては いまの段階では 見解の相違になるというものです)。  ほかにも言葉をついでわたしの言ってみれば叱責に答えさらに問い返してもいるようですが これだけで基本的にすべてに答えています。けれども このすべてはすでに言ったことの繰り返しにしか過ぎません。  推論のない結論を排泄するなかれというわたしのやはり叱責に反応したようですが そのことについての頭の切り替えにかんしても ひとこと表に出して言っておかないと これからも いつ何どき 同じようなあやまちを繰り返さないとも限らないことになります。またこうして くどくしつこくにでも言っておかないと そのあやまちの繰り返しの責任の一端は この問答の相手であるわたしの側にもあるということになります。  その前から もうわたしのこの問答についての答責性は無くなっていますが それを確認しておきましょう。つまり これからは答えるかどうかは わたしの自由裁量のもとにあるとなります。

amaguappa
質問者

お礼

ご自分のご回答部分を、プリントアウトして繋げるか、パソコン編集なさるかして、どのようにわたしの応答があるかを確認なさることをすすめます。

amaguappa
質問者

補足

無用でしょう。

回答No.46

おはようございます、amaguappaさん。 ●遊戯とは 魔法陣で どじゃ?  【魔法陣の館】 http://www.itmn.biz/ 『真ん中の値 と 合計の関係』 http://www.itmn.biz/40/post_11.html 『魔法陣グルグル 名言集』は必見! 忘れがちなのが償却資産とくりゃ 【弥生会計 AE】 http://www.tac-school.co.jp/yayoi/converter.html 【投資環境】 http://www.asean.or.jp/ja/asean/know/country/indonesia/invest/guide/1-3.html 【減価償却費の投資に与える影響】 http://www.soc.titech.ac.jp/publication/Theses2005/graduate/0121287.pdf 【THE WORLD COMPASS 2006 Mar.】 http://mitsui.mgssi.com/issues/compass/0603compass.pdf 【コンピュータ・グラフィックス】 http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic028/pdf/153-165.pdf

amaguappa
質問者

お礼

魔法陣グルグル名言集  YouTubeで見ました。いい! 魔方陣は久しぶりでした。法の字と方の字がサイトに混在していますね。 その4から初めましたが5でやめました。暗算が面倒くさい。 年か、、とがっくりしましたが、思えば昔からそういう子でした。 というか、たかが9マスの魔方陣を、直勘で即座に埋められないのは、「脳力」の後退ではないか。。。 THE WORLD COMPASSはざっと流したところ南方熊楠の「脳力」に目が留まりました。 各号が見られたのでありがたくブックマークです。フリードリヒ・キットラーもいただきました。 ありがとうございます。

amaguappa
質問者

補足

littlekissさん。回答いただくのはじめてですよね。はじめてじゃないかしら。 すごく時間かかりますが、頭絞ってみます。この日々ちとつかれた。。。

回答No.45

 No.67を受けます。  まづ確認しておくべきことは すでに書いたようにすでにわたしの回答そのものは述べ終わっていることです。念のために引いておきます。  ☆☆ (回答No.67) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   そうして この質問へのわたしの投稿は   ★★ (No.57お礼欄) 鼓を打ったら鐘が鳴った、そして静寂、というものでしょう。   ☆ というわたしの理論に関する評言をすでにもらっていますから これで――つまり見解の相違としての合意において―― ひととおり済んでいます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  その上でNo.67補足欄にお応えしてまいります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (β) あなたの理解はどうしても違う方向へのびてゆきます。  はその下の文章群とつながります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ふざけてはいけません。(α)はどうしたのですか?  ☆☆ (回答No.67) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ もし(α)が成り立つのならば (β)やそのあとの文章は 意味のないものとなります。回答No.65は 《鎮魂と「あそび」について》のみ何度目かの説明を試みたものであるからです。だれが見ても そうしか理解できないでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ★★(α) 鎮魂と「あそび」についてはゆっくりと拝読させていただきます。  ☆ と事割っているのならば この(α)の《その下の文章群とつながります》というその文章群の中に 次の一文がどうしてあるのか。この世の七不思議です。  ★★(No.65補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  あなたはあなた自身に簡単なことをなさっているようにしか、わたしには見えないのです。  しかしきっと困難のうえで思索を深めてこられたことでしょう。悲しませる言葉でしたらごめんなさい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 分かりますか? (α)ではまだ読んでいないと言っているのです。きちんと読んでいないものを どうしてこのように批評することができるのでしょう? ふざけてはいけません。  武士の情けで 伝えているのみです。  あとは ひとつに 結論のみの羅列です。もうひとつに 断片的な引用しかわたしがしなかったことは その場で説明しております。  どこかの誰やらに似て来ましたね。推論を交えずに よくも言い放つことが出来るものですね。志の高いのを買って ほかの人よりは二倍も三倍もじっくりと分かるように説明して来ました。かえってあだになったようです。  今度もう一度 推論を飛ばして変な結論のみを書いたときには ほうっておきます。

amaguappa
質問者

補足

投稿に投稿を重ね急いだbragelonneさんでしたが、辿りついたのはこの終着点です。 矛盾なきものとの対峙に、自らの想念の限界が、矛盾を見出す地点です。 障りのない無碍の境地で自在にふるまう遊戯(ゆげ)には 不思議と導かれていく終着点があります。 回答と回答以外の話題を掲げて走ってきたbragelonneさんの投稿のうち、 質問へいただいた回答は、No.4 No.8 No.25 No.49 No.55 No.65 でした。わたしが応答したのは現段階でNo.55までです。.......(P) No.25のお礼を待たず投稿をいただいている為もあって、No.25のお礼から一歩前へ進ませていただける回答は頂いていないという認識でいます。 回答以外の話題は、No.31 No.33 No.40 No.43 No.46 が、他回答者を視野にいれての駄弁、 No.46へのお礼欄を受けてNo.57 No.58 No.65後半 が、わたしとbragelonneさんのあいだの、質疑以外のやりとりです。........(Q) No.65前半といえば、やっとNo25のお礼に照応する考察をいただいています。 わたしは、鎮魂と「あそび」についての批評をしているのではありません。 それは論議を熟成させる間もなく、無駄口のなかに埋もれています。 (P)を積みあげていただいたからこそ「鎮魂と「あそび」についてはゆっくりと拝読させていただきます」 と言います。未読だからではありません。熟考とともに読みたいからです。 そうしてまた案の定No.65には(Q)が介入しているのです。  > この考え方に対して と応答の鎖を捩じ替えておしまいになりながら、  > ★ ・・・と、もう一方の思弁哲学による人間論をおもんじるフレーミングがあるわけです。  > ☆ という俯瞰をなぜ為さるのか。  > ★ 俯瞰を廃棄しなければあなたの心は?と心性を問えないという問題です。  >  > 以上つつしんで申し述べました。どうでしょう。  >  > * もしこういう話しの仕方は ザビーヌ事件のわたしの総括の仕方と同じようにひとをコーナーに追い詰めるやり方だと言うと  このように、俯瞰の態度についての問いかけ、または俯瞰の内容についての問いかけがおこなわれています。 これについて、わたしは 「あなたの理解はどうしても違う方向へのびてゆきます」と言うのです。 わたしが「これはわたしとbragelonneさんの対話にはならない」と申し上げたとき、 bragelonneさんはどうして斬り返さずにいられなかったのでしょうか。 愚かな妖刀の業というほかありません。 わたしは尋ねる声にかさねがさね答えました。 また、第三者よ俯瞰するなかれ と言っているのではないことは説明しました。 しかし大切なことが、からっぽのままにしか、伝わらないのです。 わたしの力不足でしょう。これほど分散的に投稿を重ねられて綾織のように話が入り組んでしまったら、 パソコン画面をとおしてわたしにできることなど皆無です。 それでも、綾糸の終着点を見て、たいへんほっとしています。 人物の素顔を浮かび上がらせたからです。

回答No.44

 ふうむ。ことばが続いているということがアリバイになっているようですね。  ★ (No.65補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (α) 鎮魂と「あそび」についてはゆっくりと拝読させていただきます。  (β) あなたの理解はどうしても違う方向へのびてゆきます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もし(α)が成り立つのならば (β)やそのあとの文章は 意味のないものとなります。回答No.65は 《鎮魂と「あそび」について》のみ何度目かの説明を試みたものであるからです。だれが見ても そうしか理解できないでしょう。  そうして この質問へのわたしの投稿は  ★★ (No.57お礼欄) 鼓を打ったら鐘が鳴った、そして静寂、というものでしょう。  ☆ というわたしの理論に関する評言をすでにもらっていますから これで――つまり見解の相違としての合意において―― ひととおり済んでいます。  もしNo.65補足欄に書きこまれたほかの文章にもお応えをしておくべきだということでしたら つぎのような矛盾をどう説明なさるのか。これについて疑問を添えるのみです。  ★★ (No.57お礼欄) 第三者は俯瞰します。それは自由な感想というものです。  ★★ (No.58補足欄) 俯瞰を廃棄しなければあなたの心は?と心性を問えないという問題です。  ★★ (No.65補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~  わたしが俯瞰をするのはなぜか。もちろん俯瞰の立場だからです。  俯瞰をしてから廃棄するのでなければ心を問うなかれといっているのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 断片的な引用ですが これについては すでにわたしの判断を述べております。重要点は ふたつです。ひとつは 《自由な感想としての俯瞰》であれ何であれ その発言の主体としてのひとの存在には 第一次的な反応を返すのがよいと思われること。言いかえると 俯瞰であろうとなかろうと 相手の発言を受け止めてそれ自体の内容に応答することだと考えます。  もうひとつは わたしは初めから一貫して こころを問うています。もしくは 《ひとに対して心を問うような内容を持つ理論を提出するかたちで》心を問うています。

amaguappa
質問者

お礼

  No.65へのお礼をこちらに記入します。 No.25へのわたしの疑問に答える形ともなり、「生きる」-「あそび」の仰るところが明快になります。 No.49ですでにマタイ伝引用とともに触れていただいていることであり、そこでは、非思考の垂直運動めいた内省のこころみのなかではなく、水平的関係の世界を「いきる」ところに「あそび」が成立するのだろうと読みました。 というのも、文字は殺し霊は生かす、の絶対性や厳格さ、なにかオートマチックな神と人間をめぐるゆるみのない方法(つまりアマテラス語の言霊)を回避するように、「あそび」は成り立つのかなと思ったのです。 そして、No.65で、より本質的になるのは、自己到来を最初におくという考えでしょう。つまり世界と和解した状態が前提となるのですね。命題がみちびけるとおっしゃるところはわたしとしては掴みようがないのですが、イメージは、和解の上のやじろべえのように得ています。ご教示と違うものかもしれませんが、世界との和解の上で遠ざかり近付きする意思(みたま)のやじろべえです。その動きにも「間」が生じます。もしおっしゃるような自由意思がはたらくとすれば、このやじろべえにおいても、瞬間でしょう。非思考なる窓と通じるのもこの動きの瞬間であろうと思うのですが、それが自由意思の瞬間と同じなのかどうか、わたしにはわからないのです。 No.67で触れておられる一点について。 鼓と鐘と静寂は、あちらさんと生じたことでしょう。どこにまでも持ちこむことはないはずです。

amaguappa
質問者

補足

(β) あなたの理解はどうしても違う方向へのびてゆきます。 はその下の文章群とつながります。 引用の前後を空けたかったので、見づらい改行をしてしまいましたね。 (α)とは無関係です。そんなことはいわずもがな、かと思いました。配慮が足りませんでした。 ★★(No.57お礼欄)以下の内容を端折らないでください    第三者は俯瞰します。それは自由な感想というものです。  けれども、その照らし合わせを、俯瞰のまま当の本人におこなえるはずがありません。  俯瞰とはべつにして文様を見るようにしなければなりません。  アラベスク文様みたいな文様です。  俯瞰の話題はおしまいにしてです。 以下のことを書いたご自分の醜さが、どこにあるか、わからないのでしょうか。 わたしに対して何をしているか、あなたはわからないのですね。。。 回答番号:No.43 > アグリッパくんを あまがっぱさんは 甘やかしていますよ。そして もう一人のひとに対しても その同じ姿勢を取られたのです 回答番号:No.46 > ★ 罪がないという、いいポジションを獲得しておられて。 > ☆ これは 侮辱ぢゃないのでしょうか? もし > ★ みなが違う方向へ視線をのばしているという具合にあっては、 > ☆ という条件としての情況を加味して考えるとすれば どうか? 侮辱を超えて 気のふれた人間扱いになるのではないですか? つまりもしそうだとしたら 甘やかしのサッカリンの砂糖漬けですよね。

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.43

お礼ありがとうございます。 わたしは庶民派なので、おしゃれなお店はあまり行かないのだけれど、たまにいくと、うれしはずかしのへんな気分で、不自然にふるまってしまうことはあります。フレンチにいくとワイン好きな癖に、わざとビールを注文したくなったり、やっぱり、白いご飯だよね、はしがいいよね的な振る舞いをしたり、おしゃれなバーの場合は、なんだかくらぼったいわね。つまようじにささったつけもののはいったお酒ください、ぐらいいったりして。 そういう反抗心からくる不自然なふるまいって、虚無とは無関係のおしきせの反抗ですよね。まっ、でも、どうだーといわんばかりの芸術作品と共通点はあるかもしれません。 常套句、美辞麗句に「きもーおえ」っていう感覚も、関係あるのかな。 知的な計算、または合理性の追求は、今の日本が忘れているといういうか、今まで伝統を守るという大義名分のもとに徹底的に排除しすぎてきたものだと思っています。ものごとは計算どうりにいかないという、とっても日本人的な常識が、そうさせている。そういう思想を極右が権力の保身の為に、欺瞞で利用した。それで、現状の閉塞感、もう少しおおらかに、文明の発展の為に折り合えないものかと。。。。 さらにいうと、わたしが「極右思想」を嫌うのは、やはり「あそび」を排除しすぎるきらいがあるからだと思います。 御星様、お月さま、風邪に流れる雲、などなど、これらは現実ではなく、現実逃避である、というまさに、それこそ超現実主義の現実逃避。 感じるということも、外部の刺激を内部で深く感じる一連のプロセスがあってしかるべきなのに、なぜか、外部を重要視しすぎて、空っぽ人間の奴隷を作ることが、文明の発展につながると思いこんでいる。 「カイゼン」という概念は、そういう意味で遊びの欲求を満たす人間の心理を利用しているなと考えています。

amaguappa
質問者

お礼

遅くなりました。ありがとうございます。 たぶん日本は、「庶民派でない庶民の店」がものすごく多い不思議な国です。 いつからそうなったのかな、バブル経済からでしょうか、 庶民のおしゃれは、おそろしく膨大な変なカテゴリとなって、いろいろな虚構や真似ごとが混じりこんでいます。 日本がもっと質素だった頃、ふつうに相席で遠慮がちに食べていた教養市民層が、 いま、ありとあらゆる店の客層に広がったと言えます。 だから、おしゃれな店でも、客層とサービスを見れば、まちがいなく庶民店なんです。 客1人に給仕人が5人もついて、こちらにはナイフとフォークの上げ下ろしとグラスのあげおろししかさせない、 ということはないし、むしろ外国のそういう店の保守的な野暮ったさを排除して、 味や雰囲気だけを同等以上にしたいと願ったのがいまの日本だと思うんです。 その結果、テーマパーク的なので、そこに乗れるか乗れないか、ノリが求められてくるのだと思います。 ホッピーと豚モツの赤提灯だって、ある意味すでにテーマパーク化したと言えるでしょう。 ハートマインドさんは、このノリを求める虚構に、敏感なのではないかと思います。 ゲージュツ作品を鑑賞していても、ノリを求める虚構を嗅ぎ取るのではないかと思います。 さて、うーん、極右はねえ、政治でしか使わない言葉なんですけれど、 いわんとするところは、ちょうど旧公社系の体質を思わせますね。 日本は旧財閥系の企業が頭角を伸ばし過ぎるのを抑える形になっているので、 あまり革新的な企業体質が育たないということはあると思います。三井なんかはずいぶん新しいことをするほうかなと思いますけれど。 旧公社系はいつまでも有利な立場で業界を動かしていますよね。 それでも、なんとか競合させるようにしているのでしょうから、もっと磨き合う道があるといいのかなと。 感覚文化を牽引した西武王国など、バブルの手を借りなければ牽引力もなかったわけで、簡単に潰れちゃうのです。 でもその遺産である感覚は旧公社系に浸透して、文化事業に還元されているのですから、 保守体質も大きな力で少しずつ変化しているのではないでしょうか。

amaguappa
質問者

補足

毎回新鮮な感覚に打たれています。お待たせして申し訳ございません。。。

回答No.42

 No.58を受けます。  ていねいなご返事をいただきいたみいります。  こうしてなお投稿を続けますのは 見解の相違としての合意とは別の要素にも触れておられると思ったからです。この思いが勘違いや考え違いであったら あらかじめごめんなさいと申し上げつつ もう捨ててしまっておいてくださいませ。  わたしが《鎮魂》をわざわざ持ち出したのは あくまでも《遊戯》にかかわってです。  みたまは 人格あるいはその人の意志というふうに採ってください。振るのも鎮めるのも 人が我れに還ることにかかわらせて取り上げています。自己到来は 世界との和解という主題です。  このように世間は 詐欺師と殺し屋が少なからず暗躍しているように見えるが それだけではないということ――そういう世界との和解を得るのは 案外《あそび》〔の時間〕を通じてであるようです。  こうして あそびを通じて自己還帰に到るという方程式が 片方にあります。ならばいっそのこと わたしは この自己到来を最初に持ってくればどうか? と考えたということです。  もしそれが 腑に落ちることであるのならば すでに最初から《生きる》ことが 《あそび》であるという命題を得ます。  ここに みたまの振りと鎮めが過程されるだろう。それには 間が大事であろう。この《間》が ひとの自由意志のはたらく瞬間ではないだろうか。自由意志は 非思考なる心の窓と通じていると想定されるであろうと。   ぎゃくに言えば たましいやら心の窓のことが 人にあそびを得させているのだと。ならば あそびは 生きること全体におよぶ。  この考え方に対して  ★ ・・・と、もう一方の思弁哲学による人間論をおもんじるフレーミングがあるわけです。  ☆ という俯瞰をなぜ為さるのか。  ★ 俯瞰を廃棄しなければあなたの心は?と心性を問えないという問題です。  以上つつしんで申し述べました。どうでしょう。  * もしこういう話しの仕方は ザビーヌ事件のわたしの総括の仕方と同じようにひとをコーナーに追い詰めるやり方だと言うとしまうと 時として ひとにはそういう決断をしなければならないときが来るのであって それに向き合うのでなければ 生きることも遊ぶことも覚束ないということになると考えるからです。  たぶんこの哲学は 哲学史にはあまりないかも知れません。もしそうだとしたら これは たしかに非思考という信仰の要因も噛んでいるかと思います。ただし信仰については 形態として扱うという前提のもとに内容(つまり人間論)にも迫るという格好であり つまりあたらしい哲学です。  このギャップが飛び越え難い溝のように立ちはだかっているのでしょうか? でもギャップじたいは すでにお分かりであるように思います。これまでの研究史のなかに論考を投じるというかたちではないところに 扱いにくさを感じておられるのではないでしょうか? 一足飛びですから。

amaguappa
質問者

お礼

  また、 > この考え方に対して はおかしいというものでしょう。そうではなく回答番号:No.49に対して、俯瞰をしたのですから。 いまいただいた文章を眺めたわけではありませんよ。 しかし、No.58-5.2から5.4で、ご自分でいかに人間論の哲学であるかを説明なさっていますから、 No.58のお返事として誠意のある俯瞰だといえます。 そして、「俯瞰を廃棄しなければあなたの心は?と心性を問えない」とは、 No.43を受けたNo.46があり、そのわたしの返答にNo.57での問い返しがあり、そのわたしの返答を受けてのNo.58の6番に、またお返事したものですが、 あなたが「第三者の横やり」だと思っておられるこの件は、第三者の横やりの問題ではないのです。 下記のように英語になると見えやすいでしょうか。発話主体である I は、you を従属節の主語としています。  I know you have treated him as insanity, and I think you pamper him. youが自由意思を持つ発話主体となるとき、YesかNoで答えなければならない作用性がここにはありません。 おわかりでしょうか。 発話主体が丸で囲んだ世界について、囲まれた人物にお話してもらおうというのが、それこそ甘えというものでしょう。

amaguappa
質問者

補足

鎮魂と「あそび」についてはゆっくりと拝読させていただきます。 あなたの理解はどうしても違う方向へのびてゆきます。 > ☆ という俯瞰をなぜ為さるのか。 わたしが俯瞰をするのはなぜか。もちろん俯瞰の立場だからです。 俯瞰をしてから廃棄するのでなければ心を問うなかれといっているのです。 あなたは、わたしが一人の人間ををどう扱っているか、どんな思いで扱っているか、言葉をならべましたが、 わたしは、あなたが彼をどう扱っているか、どんな思いで扱っているか、ひとことも言わないのです。 なにか、錯覚がありませんか? わたしとあなたが同じことをしていると錯覚してはいませんか? あなたがザビーヌと性犯罪者をコーナーに追いつめるようにも、議論相手をコーナーに追いつめるようにも、見えません。 あなたはあなた自身に簡単なことをなさっているようにしか、わたしには見えないのです。 しかしきっと困難のうえで思索を深めてこられたことでしょう。悲しませる言葉でしたらごめんなさい。

回答No.41

amaguappa様、こんにちは。 先の『人形』に対する細やかなお礼を何度も拝読しております。 ありがとうございます。 先に申し上げた『夫人の人形を通じた遊戯はもはや「遊戯」ではない』は、 夫人の遊戯が「夫人の生きる存在事由」に変質してしまった状態であると、独断的に捉えたまでです。 そしてまたその一方で、あの小林の偏った独白スタイルから、何か現代劇の舞台のようなものを想起し、一人遊戯のごとく耽りもするのです。 ──暗闇の中、小林一人がスポットライトを浴びて、ぽつねんと着席し食事をしている。 そこへ、とある上品な老夫妻がやってきて、同席する。 突如、夫人の抱える人形に光が当たり、夫人がその人形に食事を供し始める。 夫は傍らで妻の「遊戯」を静かに支え、夫人の世界と小林の世界を繋ぐ橋渡し的存在でもある。 夫妻の登場を機に、 「まるで子供連れで失礼とでも言いたげ」と、彼女の遊戯をつぶさに観察を続ける小林自身もまた、 夫人の「遊戯」を粛々と完遂するための、脇固めの役を静かに担い始める。 そして例の若い女性の登場、この演出如何で、 終始一貫シリアス調なままにも、或いは、唐突な言動が場の流れを破り、素っ頓狂な喜劇のパターンにも変質することに。 『人形にも食事を供してはおかしいの?』なんてセリフが飛び出したりなんかして、 或いは小林の思いこみの当てが外れていたりもして、やがて場がクライマックスを迎える。 そして最後、彼等の退席とともに、また独り、小林だけがぽつねんと残され、ライトが静かに消されていく── ジャンルを問わず同演目ながらも、上演毎の台詞まわしや間、躍動感といった諸条件が積み重る妙、面白さ。 そして、観客と言えど、積極的に作品と対峙することで、「創造的立ち位置」に自らも立つという歓びというのは、まさに舞台の醍醐味でありましょう。 またそれを通じ、私たちの社会的な営みにおいても、遊戯的に少なからず役を演じきっているところがあるのかもしれないなどと、 我が身の日常やら社会問題を、人知れずふりかえったりなんかもして。 そうして何故だか、「全体における存在者を遊戯として存在せしめるという、この異様な世界形式は、(・・・・)われわれ有限的人間がまさに魔術的生産の創造力と栄光のなかで~」の一節が、ふと浮かんでは消えていくのです。 殊に「魔術的生産の想像力と影響」からは、先のような、極めてありふれた日常ないし芸術の内に、異様な驚異というか、幻想やら不条理、不可能、奇抜さ、意外性などを見い出し価値転倒を謀り愉しむという「遊戯性」を少なからず見い出せるように思います。 週末なので、ちょっと遊んでみました♪

amaguappa
質問者

お礼

ずいぶん長いこと芝居を見ていません。 しゃれた小品をひとつ、ありがとうございます。 これは、小林秀雄でないと雰囲気が違ってしまうことでしょう。なにか耽美というかスタイリッシュな存在感が滲んでいないと。 個人的な趣味で言えばあんまり重い俳優さんにやってほしくないですね。 舞台は不思議です。むしろ劇場がそうなのでしょうが、なんでも包み込んでしまえる気がします。 「異様な世界形式」が本領を発揮する時空なのでしょうか。縮図というのとも少し違うし。 詩と演劇とが、表現者にとって二つの頂点というのは、世界的に東西にも南北にも広く認められることですが、 人間の遊戯のすべてがそこにあるからなんでしょうね。 あとは祭りや神楽などの日常/非日常についても考えられたらいいのですけれど。 くだんの「人形」の人物たちをとおして不自由なんだか自由なんだかわからなくなるという、混沌とした空気感に、 整合性をつけてくれる力ってなんだろうと思います。この場合は小林秀雄の存在力でしょうか。 ギリシャ悲劇なんて、神託のせいで悲劇になるけど神様は知ってましたというような、ねじ伏せたような有無を言わさぬ整合性がありますね。 それとも、ここは劇場である という事実があれば混沌うずまいてもどうってことないのかも。。。 あ、なんだかここみたい。 そういえば「ご神託」もどっかに落ちてたような気がします。

amaguappa
質問者

補足

なんか面白そう、と文字列が目に入ってるのですが、まだ読めず。お待たせして申し訳ございません。。。

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回答No.40

No.60の訂正 誤:羊飼いの弟もいないでしょ。   >オレはカインでもあり、アベルでもあるかもしれない。 正:>羊飼いの弟もいないでしょ。   オレはカインでもあり、アベルでもあるかもしれない。 ◇おまけとしての追記  >まあ罪は人並みに深いでしょうけれど。   この人間社会が悪「だとすれば」 罪どころか 功労となる。  >愚かだからだとすれば、愚かでない道はどんな道だったと思いますか。  泥臭くない、土木・工業的でない文明・文化。  しかし、泥にまみれた今の文明もある意味 苦と楽のお遊びにゃ!  ところで 質問者さんは男ですか?女ですか?そして職業は何ですか?  「この職業を選ばなかった」と言ってるので一応聞いておきます。

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