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カントと博打
ドストエフスキーもそうですがカントも博打好きだったのではないでしょうか?
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質問者が選んだベストアンサー
質問者さんは、カントにそういう事実がなかったことは、ご存じの上でご質問を出されていますよね? 中島義道さんの『カントの人間学』を読めば、質素な(というか、ほとんど貧しいと同義の)家庭に育ち、四十歳を過ぎるまで私塾の講師で、にもかかわらず大学の教授職を得てからは、せっせと蓄財に励んで、相当な額の財産を残したことがわかります。 例のケーニヒスブルグの散歩のエピソードと同様、絵に描いた堅実で几帳面な彼の半生です。「賭け」も「離れ業」とも縁のない生涯。 だから当然、ここでの「博打打ち」というのはメタファーですよね? 彼の資質の一部に、ルーレットで文字通り身ぐるみ剥がれ続けた(十年間も!)ドストエフスキーに通底する部分があったのではないか、と考えておられる、というふうに理解しました。 どうなんでしょう。 『純粋理性批判』に出てくる 「われわれの見る遊星の少なくともどれか一つに人間が住んでいることが何らかの経験によって決定づけることができるとすれば、わたくしは実にこのことにわたくしの全財産を賭けたいと思う」(B854) なんていうのは、単なるレトリックなのか。 それともカント自身の「賭け」に対する志向性がうかがえるのか。 ドストエフスキーの『賭博者』を読んだときに、おもしろいなあと思って付箋をはっておいた場所に 「賭博で儲けたいという欲望のなかに不純なものがあるなどとは、ぼくはまったく思わない」 という部分があるんです。 つまり、賭博というのは、交換価値である貨幣を増やして、自分の力を増したいという欲望とは無縁のものであることが描かれている。 色川武大の小説を読んでもそれは感じるものがあります。 貨幣が賭けられるのは、自分をよりぎりぎりのところ、あえていうなら「純粋」な状態に追い込むための手段にすぎない、とも理解できます。 さらに、この「純粋」というのは、臨死的な場と言えるのではないか。 考えてみれば、ジェットコースターにしても、ホラー映画にしても、恐怖小説にしても、わたしたちは怖いもの、スリルのあるもの、心臓が止まりそうな経験を求めています。多くの人は安定した場所に戻ってくることがわかるから、いっそうその「ドキドキ感」を楽しむことができるわけです。 ただ、安定した場所に戻ってくるような「ドキドキ」では、ドキドキしない人もいる。そんなものはインチキじゃないか、と思うような。 たとえば全財産をかけての賭博というのはそういうものなのでしょう。 ドストエフスキーのその言葉は、賭博者が求めているのが「生きていながらぎりぎりで死に触れている臨界線まで行ってみる」ということだったのかもしれない。 そうして、カントは身体的な面ではぜんぜんそんなことをしなかった人だけれど、もしかしたら思考という面では、ある種、そういう経験をしていたのかもしれませんね。
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- bakansky
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そうだったら面白いなと思います。 前者は確かに証拠(妻の日記など)がありますが、後者はどういう根拠からそう思われるのでしょうか。
お礼
ghostbusterさん、たいへんおもしろいご回答をありがとうございます。 後ほど補足させていただきますのでよろしくお願いいたします。
補足
さすがはghostbusterさん。 (このサイトで最高の回答者だと思っています。) カントは博打好きだったかどうか? 実は以前、小牧治さんのカントの入門書を読んだ時に次のような記述を見つけたんです。 「・・・もちろん、学費は不十分である。靴屋をしていて、わりあい裕福な伯父のリヒターが、いくぶんの補助をしてくれた。しかし、カントじしんも、学費の工面をしなければならなかった。といっても、こんにちのように、良いアルバイトがあるわけではない。カントはひとつには、頭の良くない連中のために講義などの復讐をしてやって、小遣いを稼いだ。また、玉突きやトランプで勝って、収入を得たともいうことである。いまの日本では、こういう賭けごとは禁じられているが、西欧では、そんなにやかましくない。二世紀も昔では、収入源でさえあったのである。まずは、カントのよい頭が、学費をつくったというわけである。・・・」 つまりカントの博打というのはトータルでは絶対的に勝てるゲームのようなものであったんでしょうね。 確率論の創始者であるカルダノの期待値論もトランプが元になっていますが正にそのようなものだったと思います。 絶対的に勝てる博打というのはけっこう味を占めるもんだと思うんですけどね。 ただその後、おっしゃるように「賭け」も「離れ業」の話も出てこないようですので何とも言えませんが。