こんばんは、
シラーのカント批判というものが果たしてどれくらい「有名」
なのかはわかりませんが、
シュヴェーグラーも『西洋哲学史』のカントの章で取り上げていて、
この哲学カテゴリーでも一度はこの本が登場していますし、
カントに詳しい方もいらっしゃるようですので、
少なくともここでは有名なのでしょう。
で、私は以前、この本とは違う『西洋哲学史』を紹介したことがあったので、
「義務」感から何かお役に立てればと思い、回答させていただきます。(長い言い訳ですね・・・)
さて、シュヴェーグラーも言うように(下巻、145ページ)、
カントの道徳律では、
「行動の動機からあらゆる感性的な衝動を取り去ろうとする努力」
が重要となるが、「厳粛主義」(Rigorismus)と呼ばれるのも、
これが行き過ぎているからです。
つまりカントは、「道徳的」(moralisch)という属性を、
好きでする「傾向性」から行われる行為ではなく、
いやいやながらする「義務」から行われる行為
においてのみ妥当であると考えています。
事実カントの「純粋道徳哲学」では心理学的な問題ではなく、
道徳的なもののアプリオリな規定だけが重要であったので、
この結果は当然なのですが、シラーはこの厳粛主義を
「陰鬱で僧侶的禁欲主義」(『優美と品位について』)
の表現と見なしているのです。
シラーは、『優美と品位』において「彼(カント)は、彼の時代のドラコとなった」、
すなわち厳格な執政官となった、と言います。
カントの考える義務からの道徳は、
シラーがそこで問題としていた「美しい魂」とは違うようです。
シラーにとっては、たとえ本能や感情に従っても、
友人を助けるような行為は「道徳的」と呼ぶことができるし、
むしろ、心から真に行為することの方が
美しい精神による行為と呼べるのではないだろうか、と思われたのですね。
それで、シラーは、「哲学者たち」(Die Philosophen)という詩(1796)において、
西洋哲学史上の主な哲学者の思想を幾つかのディスティヒョン(風刺的な二行詩)
の形で批評していますが、そこで問題の「良心のためらい」と「決心」
という二つの二行詩でカントを批判しています。
私は友達に尽くしたいのだが、残念ながら好きでするんだ。
そこで私は思い悩む、自分は有徳じゃないだんと。
という悩みが生じ、「ためらう」ことになるが、
しょうがない、おまえは友人を軽蔑するよう努めろ、
そして義務の命じることをしぶしぶ行えばいいのだ。
という「決断」をする、というものです。
このように考えれば、カントとシラーとの差異は明らかのように思われます。
カントと違いシラーはアプリオリな「道徳的」性質を必要としていませんでした。
たとえば、シラーはその二年後の「人質」という物語詩において、
妹の結婚式に出るために三日の猶予をもらって代わりに友人を預けてきた
メロス(Moeros)が友人のもとに戻る行為を、
いやいやながらの義務からの行為であるとは描いていないと思われます。
すなわち、それは友情を大切に思う感性的な性向からの道徳的な行為でしょう。
もしメロスの行為が「義務」であるならば、
文学作品として何ら感動を呼び起こすものではなくなってしまい、
極東のハラキリの国においても知られるほど生き残ってはいなかったと思われます。(笑