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カントは「美」をどのようにとらえているのか
カントは「美」をどのようにとらえているのですか?レポートで書かないといけないんですけど、全然わかりません。 カント以外でも「美」について言っている人ならソクラテスとプラトンを除けば誰でもいいのですが、カントしかわからなかったからカントで聞いてみます。お願いします。
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- starflora
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カントの美学というものについて、何か語れるほどにも、何も知らないのですが、非常に簡単なアウトラインと基礎的な構図を考えれば、バウムガルテンが、感覚における美の考察から、美の学を構想したのを継承したとも言えるでしょう。 カントは形而上学を否定して、主観の認識論を立てたのですが、純粋理性と実践理性だけでは、生命としての人間の総合的な生のありようを説明するには不十分であると考えました。例えば、あるものが好きであるとか嫌いであるというのは、二つの理性の原理からは出て来ないのです。 それは言ってみれば、真理や格率の世界ではなく、「趣味」の世界の現象であると言えます。感覚的な快さや楽しさ、愉快さ、端正さなどに加え、精神的・芸術的な感動や、優雅、畏怖、驚異、崇高さ、そして美的な何かを確かに人間主観は、感受でき、これを「判断」しているとしか言えないのです。この判断の能力は、純粋理性の真理でもなければ、実践理性の規範・格率でもない訳で、趣味判断の直観能力が人間にはあるということになります。 「美」の直観とは、美的なものの認識、判断能力による判断であるということになります。主観は、真理と正しい認識をめぐる純粋理性と、規範をめぐる実践理性の規定を前提として、しかし生命存在としての人間存在の総合性から、感覚的美的なものから精神的な美的なものまで、美なるものを判断し、それによって人間の生は、総合的な生きている意味を見いだすことができるとも言えるのです。 こうしてカントの美の分析は、感覚的快から始まり、趣味の洗練や、美的なものの純粋性のありように展開し、このような趣味の「良さ」を判断することのできる主観の能力そして直観として、第三の「判断力」を構想したと言えます。 判断力はしかし、真理をめぐる主観の限界を超える訳ではなく、規範をめぐる主観の限界と「指導原理」を超えるものでもなく、美的直観による美の了解と、判断力による具体的なる美的なものの認識は、生命の経験であるということになります。カントは、形而上学を否定したものの、美的なもの、趣味の判断において、「美」の形而上学をまた築いているとも言えるのです。 カントの美は、感覚的なものから、趣味的な生活の美、精神的な純化されたもの、芸術的美まで、序列をなすように構想されますが、それは美的なものの分析で、生命の統一体の人間の経験に依拠しているとも言るのですし、それを直観する能力として判断力を立てたとも言えます。従って、美の経験論の形を取りながらも、判断力における美的直観という点で、形而上学的な面を持ち、観念論的体系になっているとも言えるのです(そこには、純化された美として、真理や格率や、宗教的崇高・荘厳なども、美の要素として分析されて来るのですし、このような美の直観が、判断力の広い意味だとなります)。 (以上、昔の記憶や、こういうものではなかったかという断片的な知識を元に述べているので、もっともらしいですが、自分で吟味してください。そんなおかしなことを書いた訳ではありませんが、違っている可能性があります。責任は持てません)。
お礼
ものすごく細かく書いていただいてほんとうにありがとうございます!これを元にレポートにとりかかろうと思いますほんとうにありがとうございました!!