こ、これは、実践理性批判を説明せよ、ということでしょうか^^;; ご質問者さんのご理解以上のことを私が説明できるとも思えませんが、「昔なつかし」の気分なので、ちょっとやってみます。
カントは、純粋な理性を批判分析した結果、理性の思考には限界があるという結論に達しました。つまり、現象の世界の外側は認識できないということですね。そうなると、現象の実体(物)も、その意味も認識できない、ということになります。
しかし、これは明らかに人間の行動に反しています。人間は、理念・理想という実体を感性や悟性によって把握できないにもかかわらず、理念・理想に従って行動しているからです。
そこで、理念・理想という実体は認識はできないが、それに属することはできる、とカントは考えました。人間は自然の因果律(腹が減れば食う)に従うだけの存在ではなく、主体性(腹が減ったが貧しい人にこのパンをあげよう)をもった存在ともいえるからです。
これが、「もの自体」と質問者さんがおっしゃっている「実体」になるのだと思われます。
「実体の世界」は、知識や経験は及ばない、しかし、それ(理想・理念)を想定することは可能なので、それに従って意思を制御することができます。
よって世界は二つに分けられます。
一つは、知識・経験が及ぶ「現象の世界」、
もう一つは、知識・経験は及ばないが属する(コントロール)できる「実体の世界」、なのですね。
ご承知のとおり、カントは、この「実体」から、アプリオリに共通する道徳律という概念を導き出します。そして、この道徳律というものに従って生きなさい!ということになっていく訳です。
お礼
どうもありがとうございます。 私の存在とは無関係に他者が存在することを明確にしたかったのではないでしょうか。 でなければ実体も道徳律も存在する場所がなくなりますよ。 何しろ私が認識する限り対象は全ては現象なわけですから。
補足
それと、経験を削ぎ落とせば、 無限の可能性としての「想像」が残ると考えます。