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忠臣蔵とかで見る、江戸時代の城内での帯刀って?
年末によく忠臣蔵をやってますが、いつも思ってましたが松の廊下で斬りかかる刀が皆さん随分小振りで、故三船敏郎さんがドラマ・映画で腰に下げていた胴田貫みたいにもう大きければ浅野さんも想いを遂げられたのにと思ってます。 まあ、あそこで吉良さんがお亡くなりになったら年末名物が一つ消えて寂しかったのでまあそれは良いとして、城内ではあまり大きな刀は下げてはいかなかったのでしょうか?何かルールでもあったのでしょうか。もしお知りに方おられたらご教授 よろしくお願いいたします
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江戸城内では基本的に大刀(長い刀)は帯刀禁止でした(入城するときに預ける)。 城内で所持できるのは脇差し(短い刀)だけです。 当時は喧嘩両成敗が暗黙の了解としてありましたが、 朝廷からの使者をもてなす公式行事の最中での刃傷沙汰ですから 即座に朝野家に切腹・お家断絶の命が下ったわけですが 何の取り調べなく吉良家もおとがめ無しだったから浅野家の家臣が怒ったのです。 吉良上野介が討たれて死亡していても吉良家お家断絶との 喧嘩両成敗が適用されていれば年末の討ち入りはなかったかもしれません。 もしくは慎重な取り調べの結果、浅野家だけの切腹でもやはり討ち入りはなかったでしょう。 以上のような背景であの討ち入りが行われたのです。 参考になれば幸いです。
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- aananzu
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『胴田貫』は『同田貫』の逸話で、 田んぼで死体を横たえて胴を切ったとき、 胴を貫(ぬ)けて下の田んぼまで切り裂いていくと言う意味で、 時代劇や時代小説で創作されたフェクションです。 ですので、こと時代劇のナレーションにおいては、 『胴田貫』と出ていてもおかしくないです。 ちなみに江戸城玄関には、『刀番』という役職の人が居て、 入城の際は佩刀を『刀番』に預けていました。 ようは『クローク』の係員みたいなものでしょうか。
お礼
aananzuさん そんな逸話(フィクション)もあったとは初めてしりました。中々豪快な話で、今風のアニメで言えばガンダムの宇宙戦艦切りとかとか、イデオンの惑星斬りになるのかなw なるほど今の時代ならクロークさんに荷物預ける手順を思い浮かべればピッタリですね。でも時々預けたくない時クロークならある程度断れそうですが、刀ではそうはいかなかったので虎の子の愛刀なら預けたく無いと登城の折はどうでも言い刀を持って行く侍もいたりしてw ありがとうございました
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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誤植 代⇒城
お礼
krya1998さん ご指摘どうもでした
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答番号:No.3 ○吉原で侍が座敷に入るときは大刀と脇差しを預けてましたから、あんな風なお役目の人がいるんだと納得出来ました。 吉原と舞鶴の代とは全く違う。無論座敷抜くのは侍ではない。 暗黙の了解ではなく、明確なご法度。 侍は人に笑われたらみの始末を自らする。武士に恥を赦されない。
お礼
krya1998さん 再びのご教授どうもです まあ危ないモノは危なくなるかもしれないシュチュエーションには持ち込ませないって事で理解したって事でご了解をお願いします 片やもののふの心意気と、色恋沙汰ですから、随分志は異にしてるでしょうが …………… どうもでした
- PENPENMAKKY
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胴田貫って何ですか? 同田貫という刀(肥後の刀匠・正國が加藤清正から頂いた名前)なら存在しますが… もっとも同田貫は豪壮ではなく、スラッとしていながら切れ味の良さそうな刀ですが… 元禄年間は一尺八寸の脇差を江戸城内で携帯することは可能でした。
お礼
PENPENMAKKYさん回答ありがとうございました。 確か荒野の用心棒って時代劇で、三船さん意外が振り回す事が出来ないような大刀の事を胴田貫って呼んでいたんで(ナレーションで)、すっかりデッカイ刀身の刀はそうだと思ってしまっていました m(_"_)m ペコペコ 当時小学生であった私は 音感で覚えて 胴田貫→ 胴狸 と勘違いして、狸の胴みたいに長い刀を差すのかと勘違いしていたようです。そうじゃ無かったんですねw 正確な尺まで教えていただきまして、誠にありがとうございました
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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おん腰のもの改め奉行という役職者(実はその家系の系統)がいて、大刀(太刀ではない。太刀は佩くもの、騎馬武者)は預ります。 不時に自分の始末のために、脇差だけは常に帯する。 殿中であれば、その脇差。 抜いて闘うためのものでは決してない。 殿中では如何なる理由であれ、狼藉は赦されず、大刀を帯びることは赦さないし、無用。
お礼
krya1998さん 回答ありがとうございました 一応持ってきてはいいんですか。持ってきたらそれらしい人に預けるとは、この間終わった時代劇 仁 でも、吉原で侍が座敷に入るときは大刀と脇差しを預けてましたから、あんな風なお役目の人がいるんだと納得出来ました。 狼藉は絶対許されない所でぬいっちゃったんですね 浅野さんは だから有無を言わさず切腹って考えると、悲劇のお殿様って言われてるけど、暗黙の了解を破ったのですから厳罰もまあ納得 って言うと忠臣蔵ファンから怒られるかなw どうもありがとうございました
- at9_am
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長袴などは当時の正装であり、その際にさすべき刀は殿中差という小さ刀と定められていました。大きな刀は、将軍などが太刀持ちに持たせて歩く以外はありません。高位の、御三家などでもこれは同様で、やはり殿中差を差していました。 これは、城内での斬りあいを防ぐためといわれています。 > 故三船敏郎さんがドラマ・映画で腰に下げていた胴田貫みたいにもう大きければ浅野さんも想いを遂げられたのにと思ってます。 松の廊下の顛末を聞いたある剣術使いは、斬りつけたこと自体が剣の心得がないことであり、突くべきであった、とコメントしています。実際、ナイフの使い方としては斬るよりも突くほうが効果的だそうです。 なので、思いを遂げるのであれば、単に突けば良かったのでしょう。
お礼
at9_amさん 回答ありがとうございました 時代劇などでは直ぐ刀を抜く場面が多いようですが、抜いたらそれだけで切腹にお家断絶 むしろ抜かないことが名誉であったって先週NHKのビギンジャパノロジー 日本刀編でやってました。 あんまり偉そうに出来なかったって、ちょっと侍も窮屈だったんですね。金出せば誰でも侍の位を買えたと言うし、時代劇を信じるとどえらく間違った事になるものですね。 やっぱり刀も相手を屠る基本や突きですか。確かにあの切れ味なら失血死も狙えるでしょうけど、心の蔵をつけば即死ですモノね。そう考えると乱心であっった説も有力ですね。 どうもありがとうございました
小生の見解: 脇差し問題が発生した時の身の処理(自刃)するためのものと思います。 たとえ自分に利があっても、私闘して相手を殺害したら、自ら切腹する風潮がありました。 胴田貫は戦闘用です。(戦場で使用する厚くて重い) 殿中では長袴など着用して、私闘など制限していたと思います。 吉良殿は地元では良い殿様だったそうです。 また行儀様式を教授する役目で、今でいえば学校の先生? 後日婦人から切腹する様に奨められたが逃げ回ったと何かの小説書いてありました。 本当の武士ではなかった。 当時は喧嘩両成敗決められていましたが、淺野殿のみ切腹。 切腹(腹皮左から右に切り返して左に切り上げる行為)腹を切っても簡単死ねません。 介錯人が首の皮残して切ります。 通常は身近な人 公儀介錯人(拝 一刀など)罪人は首切り淺右衛門など 内容がいろいろなりましたがあくまでも小生の見解で~す。
お礼
unchihajimeさん回答ありがとうございます。 なるほど、自害が目的の刀で他人に対しての殺生でないならそんな刀は必要無いと小刀で良いわけですよね。非常に参考になりました。 当時の本当の事情も今となってはどこまで本当か分かりませんし、判官贔屓の日本人なので吉良さんを悪者にしておけば物語が面白くなるので、後生の創作者が色々継ぎ足していくウチに意地悪爺さんのお鉢が回ってきてのかも。もしかして単なる被害者であったかもしれませんから、もし夫人から切腹と詰め寄られても『なんで俺が?』って思っていたのかもしれませんね。 まあ大勢によってたかって(史実では本当は一対一だったとか)殺されてしまっがお祖父さんの冥福を祈らずにはおられません 無論その他大勢の方も ありがとうございました
お礼
kiyannnさん 思わず納得出来るご教授感服いたしました まつりごとは上がしくじると下は苦労するって典型的な事件だったのかもしれませんね。討ち入って死んだ浪士はまだいいけど、残された家族は大黒柱を失って苦労したんでは無かろうかと思ってしまい、あまり忠臣蔵には爽快感が持てない悲観論者なものでw この事件を他山の石とせずにどっかの政党には頑張って欲しけど、無理っぱいな( ̄ρ ̄)ハゥゥゥ 回答ありがとうございました