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江戸時代。「帯刀」を許された町人や百姓の刀。
刀の長さや装飾に関して何らかの制限はあったのですか。 表向きには制限があったとしても、豪商、豪農や有力町人は、財力にものを言わせて意匠を凝らした“名刀”を作らせていたのでは、と想像しています。 豪商や豪農は、どんな刀を所有していたのか教えてください。 よろしくお願いします。
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豪商は刃ではなく、「つば」とか「さや」に贅を凝らしたようです。そりゃ街中で刀を抜いて見せびらかすわけにもいかないですから、『見える部分』に注力するのは当然でしょう。 http://www.sannenzaka-museum.co.jp/kikaku_07_11_28.html
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- Pinhole-09
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はやばやとお礼頂きありがとうございます。 高田屋嘉兵衛の差料については知りませんでした。 新刀藤原長次は無名ですが、新刀といっても当時は東に名工虎徹、 西は大坂鍛冶では慶安5年二代目和泉守を襲名した名工国貞がいます。 賀州鍛冶は大坂の流れと思われ、また嘉兵衛ほどの人物が選んだ刀なら 業物と思いますが。 所で忘れていましたが刀は重いものです。二本差しの武士の腰の 負担は大変だったようです。 必要なければ差したくない。庶民が街中で丸腰なのは当然でした。 ただ道中は違って危険が多く護身用に脇差(道中差)を差す人も いました。 武士は外出に際して二本差しでなければいけません、 長い道中では重く二本は邪魔になります。そこで町を離れると 大小は袋に入れて供に持たせ、野差という長脇差一本刀で道中した とのこと。 さらに街中でも野差一本刀の旗本まで現れました。違反ですね。 もっとも二本差では3Kg以上ありそうで、、腰骨もゆがみます。 帯刀の問題で、力士の浮世絵を見ると、着物を着て外出する力士は すべて、大小か、脇差を差しています。 二本差しの力士は各藩のお抱えで士分扱いと思われます。 横綱、大関あたりは二本差しですが、下位にもいるのでそう思います。 ところで、力士の刀、脇差しは豪華な造りもあります。人気稼業で必要であり 贔屓からもらうのでしょう。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 見つかった高田屋嘉兵衛の刀は、慶安3年(1650)の作ですから、嘉兵衛は150年ほど前の刀を入手していたことになります。 嘉兵衛は二本差しですが、もう一本は嘉兵衛顕彰館にあるそうです。 こちらの方は、新刀かも知れません。 思うに、「帯刀」を許されて名誉だと喜んだのは、町人や村役の中でも下っ端の方でしょう。 裕福な町人や豪商・豪農にとっては、刀などどうでもよく、刀は趣味の類だったのではないかと思います。 借金のカタに“名刀”を取った例もいくらでもありますから、蒐集しようと思えば名刀を入手できます。 「刀の長さや装飾に関して何らかの制限はあったのですか」という疑問ですが、制限されていたとしても、江戸後期の豪商・豪農にとっては、制限なしに等しかったという結論に達しました。 力士の話も参考になりました。 お陰さまでかなり事情が分かってきました。
- Pinhole-09
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寛文8年士分以外は帯刀禁止になり、一般の町人は二尺以上の刀は差せなくなりました。 それ以下の脇差は差して良かったのです。この辺皆さん誤解されています。 ただ脇差の規定は時代により代わり、一尺八寸以下が定説です。 それ以上長い刀を持つと不法所持になりますが、博徒の長脇差は一尺九寸あっても 大目に見たようです。 このように脇差は名字帯刀を許された者でなくとも、町人は腰に差すことは禁止され てはいませんが、江戸市中では差す人はあまりいなかったようです。 浮世絵や絵(多くは江戸時代後期ですが)で見ると、商人以外の一般町人で脇差を 差している人は見かけません。(金を持っていないので護身用はいらない) 大商人などたまに脇差を指しています。吉原通いの大商人は必要だったのです。 吉原への土手は辻斬りが出たそうな。郭で見せびらかすため、豪華な造りです。 「江戸風俗図巻」には大商人のドラ息子が高価な上田縞の着物を着て白銀飾りの 脇差を差している絵があります。 町人が脇差を差さなかったのは、江戸時代初期と異なり、治安が著しく良くなり 脇差は邪魔で野暮と考えられたのでしょう。 他方名字帯刀を許され、二本差し出来る士分扱いの町人はどうか、幕末の 高田屋嘉兵衛や伊能忠敬の肖像画で見ると普通の武士の刀と同じ質素です。 もっともこの二人は豪商といえるかどうか。 豪商の絵もありますが、普段は丸腰です。公式の席だけ帯刀するのでしょう。 (身分を示すため) 町役人(士分扱い)も公式の席では羽織袴に二本差しです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 「帯刀」を許されると一尺八寸以上であってもよい、という理解でよいのですね。 質問のきっかけは、2年ほど前、高田屋嘉兵衛の刀がみつかった、という新聞記事を見て気になっていました。 「賀州住 藤原長次」の銘に加え「慶安3年8月吉日」と年月が刻まれており、長さは、72cmだそうですから二尺以上ですね。 肖像画を見ても二本差しの立派な姿です。 私は、豪商が金に糸目をつけず刀を作らせたはずと思って質問したのですが、これは間違いと気づきました。 「新刀」になる訳ですから、値打ちがないですね。 しかし、刀装品には「大名家以上に財力を持った豪商達も現れ、彼らが金に糸目をつけず作らせた素晴らしい作品も残されています」(清水三年坂美術館)ということらしいです。 >「江戸風俗図巻」には大商人のドラ息子が高価な上田縞の着物を着て白銀飾りの脇差を差している絵があります。 参考になります。図書館で見てみます。
苗字帯刀を許すと言っても、武士と同じ姿形でノコノコ登城していた訳ではありませんので注意して下さい。 士分への取り立てとは本質的に違います。 町人や百姓が帯刀を許されるというのは、形式としては武家が同席する正式な場で脇差を身に着けることを認められていたということです。 武士の装束は武家諸法度で大小二本の刀を差すものとされていました。 逆に言いますと、武士のみが大小二本の刀を差すことが許されていたということです。 大の方の刀は刃渡りが2尺以上のもので、定寸として2尺3寸が標準でした。 帯刀を許されても2尺以上のものは差せないということです。 帯刀が許されても身分が変わる訳ではありません。 ヤクザ者が使っていた長脇差は2尺ギリギリの長さのものです。 刃渡りの長さですので、鞘にいれれば武士の長刀とは見分けが付けにくかったでしょう。 >豪商、豪農や有力町人は、財力にものを言わせて意匠を凝らした“名刀”を作らせていたのでは、と想像しています。 有りえません。 金があれば何でもやれる、やっただろうという価値観は現在の価値観です。 現在も「分相応」という価値観がありますが、身分制度が敷かれていた江戸時代に、武士と同席する場で武士が身分の象徴としている刀に分不相応の拵えをすれば厳しく咎められ、下手をすれば帯刀の認可も取り消されてしまいます。 分をわきまえるということが社会道徳の基本だった時代です。 せいぜい鞘の仕上げの漆が丁寧に仕上げられていた程度のことでしょう。 自分用ではなく、むしろ役人などへの贈答用に名刀の類を買い集めてはいたでしょう。 とは言え、現に帯刀を許されていた豪商や名主層の末裔に豪華な拵えの名刀が伝えられていたという史実はありません。 刀そのものは珍しい物でもなんでもなく極めて日常的なものでした。 旅行の際などには身分にかかわらず護身用に持ち歩いていました。 道中差しと呼ばれていました。 派手な装飾の道中差しはむしろ盗賊の目標になったでしょう。 つまり刀はあくまでも実用品でした。 こんなものに大金を掛けるような人はいなかったでしょう。 苗字は、町人であれ百姓であれ旧家であれば一般的には持っていました。 宗門人別帳など正式な場では使えなかっただけです。 苗字を許すというのは、この正式な場で使うことを認めるということです。 大名領内で苗字帯刀を許されても、他の大名領では認められませんでした。 全国的に通用するのは幕府が認めたものだけでした。 身分制度といいましても線で引いたように明確なものではありませんでした。 百姓と武士の中間層として郷士と呼ばれる人々がいました。 姿形は武士と同じでも人別帳上での身分としては百姓で日常的には耕作に従事していました。 有名なのが新撰組です。 武蔵多摩郡地区の郷士が中心の組織でした。 近藤勇も板橋で切腹は認められず斬首されています。 武士であれば切腹ですが土佐の連中が認めませんでした。 薩摩島津家のように武家、百姓、郷士の区分が極めて曖昧な大名領もありました。 上野の西郷像が気楽な恰好をしているのはこのためです。 江戸っ子からすれば、なんで寝間着姿で犬を連れているのかと不思議に思ったでしょう。 江戸っ子からすればどう見ても貧乏百姓の隠居です。 参考 苗字帯刀 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/苗字帯刀 歴史は枝葉末節の文言にだけ拘らずにその時代ごとの文化、思想、価値観を理解されるようにお勧めします。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ご高説承りました。
- 15261526
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>刀の長さや装飾に関して何らかの制限はあったのですか。 幕府がその時々に制限しています。もっとも幕府が制限できるのは、幕府の直轄領と大名家のみですがw >表向きには制限があったとしても、豪商、豪農や有力町人は、財力にものを言わせて意匠を凝らした“名刀”を作らせていたのでは、と想像しています。 そりゃ、「真剣」でなければ、制限対象にならないのでやりたい放題ですよw
お礼
ご回答ありがとうございます。 「真剣」だと思っていました。 商人や町人は、実際に刀を佩く必要はないので、「真剣」でなくてもよいのですね。 床の間に飾っておいてもよい訳で、納得しました。
近藤勇が大名差しと言われる虎徹を愛刀にしていたというくらいですので制限はなかったんじゃないですかね まぁ虎徹は偽物っぽいですが公に自慢できるくらいなのですから制限はされてなかったはず。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど! 近藤勇の虎徹を例にすれば、制限なしと推定できますね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「町彫りの刀装金工達に贅を尽くした刀装金具を作らせた」のですね。 できれば、実際に誰かが持っていた刀か鍔の写真を見たいです。 「清水三年坂美術館」のサイトは参考になりました。