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忠臣蔵についての疑問
- 【要約1】忠臣蔵についての疑問点には、上杉綱憲の救援を止めた色部と千坂の行動や、浅野長矩に対する幕府の処置などがあります。
- 【要約2】上杉綱憲の救援を止めた色部と千坂の行動については、理由が分からない状況で救援を阻止したことが疑問とされています。
- 【要約3】浅野長矩に対する幕府の処置については、廊下での斬りつけを理由に即日の切腹とお家断絶を命じたことが疑問視されています。
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 面白い「疑問」を楽しく読ませていただきました。 1.について、 天下泰平の世の中となった元禄時代、「戦い」は「厳禁」でした。 たとえ親子であっても、上杉が「兵」を送ったとなれば、「徒党を組んだ」とみなされ、「お家断絶」はまぬがれないのが現実でした。従って、江戸藩邸詰めの家老色部安長は、 「たとえ、吉良家と親戚関係とはいえ、また、実父とはいえ、もしも吉良殿が討たれたら、上杉家にも徒党を組んだ、と、お咎めが及ぶは必死、ここは、耐えて、耐えてくだされ」 と、必死の形相で止めたと言われています。 では、赤穂浪士たちが徒党を組んだのは? これは、もう浪人になっていたため、夜盗などと同じように見られたからです。 当然、通常の犯罪と考えれば、町奉行所の管轄ですが、大名家の内での出来事でしたので、大名家の管轄は「大目付」で、町奉行所は大名家への立ち入りはできず、一切手をだすことができませんでした。 では、吉良邸から出たら「捕まえられるではないか」という筋書きも成り立ちますが、大石内蔵助らは、泉岳寺に詣でた後、直ちに、「評定所」へ自首をしてしまいました。 この「評定所」の役割としては、原告と被告の管轄が異なる裁判、藩邸内や藩と藩との争い、旗本や御家人への訴訟を扱うところでした。 大石は、「藩と藩との争いなのだ」と、訴えたのです。 一旦、評定所に自首したからには、たとえ、訴え場所が違ったとしても、現代の縦割り行政とおなじで、町奉行所への引渡しはできませんでした。 評定所には「牢」はありませんので、評定所内で待機させられ、評定所より「老中」へ報告が行き、老中より綱吉へ報告がなされました。 綱吉は、大石らの作成した「討ち入り口上書」を読み、彼らの行動を「忠義である」と褒め称えました。また、当時の老中安部正武や小笠原長重などが、綱吉の裁定に賛意を述べました。 しかし、側用人であった柳沢吉保は、 「忠義だけで政(まつりごと)をしたのでは、世情の統制がきかなくなる」 と、反対しました。 そこで、綱吉は急遽、幕府学問所である湯島聖堂の大学頭(だいがくのかみ)林信篤と柳沢お抱え学者の荻生徂徠の2人を呼び議論をさせました。 最終的には、綱吉は2人の折衷案として、大名や旗本などと同等に扱い、細川、水野、松平、毛利の4家にお預けとし、翌年2月3日、幕府より「切腹」の命。4日夕方より各家において全員が切腹をしました。 2.について、 「武家諸法度」により、殿中で刀を抜くことは禁止されており、動きも鈍くするために、長袴の着用が義務付けられていました。刀を抜くとすれば、自害する時のみ許されていました。 長袴のエピソードとしては、自分で袴を引きずれなくて転んでみたり、誰かの長袴を踏んでしまい、相手がズッコケタ・・・などと言う話があります。 そして、1.でも述べましたが「争いは厳禁」でしたので、当然、浅野も吉良も一旦は捕らえられましたが、吉良の落ち度がない・・・と言うことで、吉良は解放され、浅野には「即日切腹」の命が下りました。 当然、「喧嘩両成敗」が原則でしたが、この年は、綱吉の母桂昌院(お玉の方)への従一位が与えられると考えられていましたので、綱吉も柳沢も朝廷とのつなぎ役である吉良には、その役目を続けるようにとの考えで「お咎めなし」としたと考えます。 そもそもが、「武家諸法度」という「法律違反」を犯したため、浅野には厳しい制裁が下されたのです。 また、勅使は「天皇の名代」ですので、 「事件が起きましたので、また、今度にしてください」 などとは、追い返せない。 つまり、将軍職は天皇から与えられているもので、言ってみれば、将軍の「上司」。上司に逆らうことはできなかったと思います。 3.について、 そうですね。 後で言われることですが、ブスッと刺してしまえば良かった、とも言われますが、長袴で動きも鈍く、刀も短く、浅野と吉良がどの程度離れていたかは分かりませんが、切り付けるのがやっとの距離だったのではないでしょうか。 まあ、色々な「推測」や「憶測」がありますが、まずは、浅野が「時の英雄」になってしまったため、また、浅野は即日の切腹のため、どのような「遺恨」があったか、なども判ってはいませんし、江戸詰家老らは討ち入りに参加していませんので、反論するような史料があったとしても、「闇」から「闇」へと葬り去られたのが現実ではないでしょうか。 (余談) 松の廊下で、浅野が切りつけた時、 「浅野殿、殿中でござる。殿中でござる」 と叫んで、浅野の背後から浅野を羽交い絞めにして止めた梶川与惣兵衛は、この時の褒美として500石が加増されています。
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- Tacosan
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当事者の記録が残っていないので何とも言えないところはありますが, とりあえず 2 は何か根本的に勘違いしてる気がする. 何を「延期」するよう要請するんでしょうか? ちなみに即日の決定の裏には「最悪, 幕府そのものが取りつぶされるかもしれない」という危惧もあったようです. 何しろ, 自分のところで自分の家来同士が切った張ったしてるくらいですから, 「こんなやつらに支配を任せておけない」と思われる可能性は想定するよね. 法理論的には幕府は天皇の家来であり, 天皇の命によって支配しているだけだから, 逆にいえば天皇が「こいつらはダメだ」と思えば処分する可能性がある. とはいえ, 「切腹」 (+断絶) が他の事件に比べてアンバランスに重い処分であることも事実.
お礼
そうですか、どうもご苦労様でした。
- asebi-0806
- ベストアンサー率39% (1265/3233)
忠臣蔵は史実に基づいてはいるものの、脚色されて伝わってる部分も多く、創作も少なからず入ってます。 1.世間の注目もあり、よもや「仇討ち」は半ば公認状態で、むしろ世間から期待されていた。 今や息子が救済に入ってさらに被害を広げる結果になるよりも、すでに止められないこととして覚悟を決めさせたと解釈するのが妥当じゃないでしょうか。 2.「殿中でござる」という有名なセリフが示す通り、殿中で人情沙汰つまり傷害事件を起こしてしまった事が問題なんです。 たかが廊下という現代的な解釈をしてしまってはこの物語自体を理解できないし楽しめません。 武士社会の理不尽さを描いているのもこの物語の一つの魅力なんですから。 3.浅野内匠頭は一説によると精神障害を患っていたとのこと。つまりキレやすい人だったんです。 計画的に殺人を試みたのではなく、カッとなって斬りつけてしまっただけのことでしょう。 史実に基づいているとは言え、お話なんですからいろいろと矛盾もあります。 重箱をつつくような事では楽しめませんよ。 歌舞伎や文楽を観ればわかりますが、現代ではまかり通らない義理人情の世界を描くのが、まあ本文なんです。 所詮現代人には通用しない美学です。いかにその世界に浸れるかが、物語を味わう秘訣なんじゃないでしょうか。
お礼
そうですか、キレやすかったんですか。分かりました、どうも。
- goold-man
- ベストアンサー率37% (8364/22179)
1 >行かせなくても世間の非難を一斉に浴びてお家が取り潰される事になるかもしれないのに 結果論で、救援に行くと家が取り潰される事になるかもしれないと両家老は思ったに違いない。 2 >2人の問題でしょう 江戸城内など公式の場では刀を抜くことは禁止されています。2人の問題でなく幕府にとって威厳の問題(律を破られた) 3 質問?
お礼
ご苦労様。
- asitahaner
- ベストアンサー率24% (18/75)
(1)歌舞伎・人形浄瑠璃(文楽)の演目『仮名手本忠臣蔵』(假名手本忠臣藏)の通称。かなりの演出・創作が含まれており、必ずしも史実の通りではないことに注意しなければならない wiki参照~ 後付の演出である or 武士としての誇りを守ったでは? (2)大名が即日切腹というのは異例のことで、目付多門伝八郎も遺恨の内容などについてもっと慎重な取調べが必要だと訴えたが、側用人柳沢出羽守保明に退けられた。綱吉が切腹を急いだのは、勅使や院使たちに対して自らの天皇への忠誠心をアピールして、母である桂昌院最大の念願である従一位叙任を取り消されないようにするためだったといわれている。 wiki参照~ (3)刺すでは二太刀目が遅くなる。遺恨があり、叩ききりたかった。様々考えられるけど、最後は本人の胸次第。 現代になって、それを理解しようとするなんて、学者にでもなるか、タイムマシンを作るかしないと無理です。 時代劇を見ようとしたら、少なからず矛盾も発生する。なぜなら?価値観が違いすぎる。それを、現代の人たちが共感するようと作成したら、えっなんで?とい場面も出てくる。
お礼
そんなモンですか、ややこしいですな。所詮、時代が違うか。有り難うございました。
お礼
そうですか。まだよく分かりませんが、有り難うございました。