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親鸞は実在したか
「親鸞は実在したか」‥‥。 このような質問をしましたが、「残念ながら『これは』と云う回答を得られませんでした」皆さん、その方が置かれている立場から回答されたと思いますが「納得できるものは」ありませんでした。もう少しじかんをかけたかったのですが、「期限」と云うことなので「回答を打ち切らせていたきます」 回答を寄せられた皆さんに心からお礼申し上げます。
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- koosaka
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聖アウグスティヌスは言っています、 「過去は過ぎ去ったから存在しない、現在はたちまち過ぎ去るから存在しない、未来はまだやって来ないから存在しない、よって過去・現在・未来の時間は存在しない」 また、ラッセルは言っています、世界は5分前に誕生した、と。 そして、このことを誰も論駁できない、と言っています。 私もいろいろな人の見解を知っていますが、実際、ラッセルの「世界5分前創造」という主張を否定できた人はいません。 たとえば、おれは今から10分前に家に帰ってきて、飯を食ったから、ラッセルのいうのは間違いだ、という人がいますが、それではラッセルのいうことを論駁したことにはなりません。 で、ここであなたの質問ですが、「親鸞が実在したか」と言いますが、過去は存在しないので、もちろん、親鸞は存在しません。 親鸞でなく、織田信長も、豊臣秀吉も、徳川家康も、存在しません。 ただ、存在したと私たちが信じているだけです。 たとえば、博物館に行って、古代の壺が展示してあり、そのヨコの壁に説明書が貼ってあり、「この壺は今から2000年前の弥生時代の壺です」と書いてあるから、私たちはその壺を「過去にあった」ものと見ていますが、説明書がなければ、その壺は現在にあります。 ただ、過去にあった、と過去形で語るから、私たちはその壺を見て、過去にあった壺と思っているだけです。 親鸞も同じです。 親鸞は過去に実在した、と言って過去形で語るから、親鸞が過去に実在したと思っているだけです。 言葉の「詐術」です! 私たちは言葉に「幻惑」されちゃうのです。 ラッセルのいうのも同じです。 過去は過ぎ去ったのですから、もし過去が存在するとしたら、それは私たちの「記憶」にしかありません。 ところがこの記憶は実に曖昧なもので、1年前の出来事と2年前の出来事を区別できません、・・・・・・というか区別するための基準がありません。 もし基準があるとすれば、それもまた「記憶」ですが、「記憶」で「記憶」を検証することはできません。 無限遡行になってしまいます。 先の例でいうと、おれは10分前に家に帰って、飯を食ったから、ラッセルのいうことは間違いだという人のことが間違いだということがすぐ言えます。 その人は「10分前に帰った」と言っていますが、その根拠は何でしょうか? 過去の「記憶」があるからでしょうか? でもそれでは反論にはなりません。 また、因果系列を信じているからでしょうか? 時間というものは直線だと? でも、時間が直線だという証拠はありません。 昔は時間は円を描いて元に戻ってくるという「円環的時間」が信じられていましたから。 このように「過去の記憶」でラッセルの「世界5分前創造説」を否定することはできません。 過去は過ぎ去って、どこにも存在しないのですから、親鸞も、法然も、織田信長も、徳川家康も、存在しません。 それが存在すると私たちが思っているのは、因果系列を実在すると信じていることにあります。 しかし、カントがいうように、自然界に因果律というものは存在しません。 それは人間がこの自然界を秩序あるものとして見るための「道具」であり、「カテゴリー」です。 その「カテゴリー」を通して、私たちは世界や、世界の物事を見ているんです。 親鸞が、徳川家康が、実在すると。 ちょっと信じがたいと、あなたは思いますか? たぶん、そんなことは信じられない、間違いだと思うでしょうネ? でも、それが哲学なんです(笑)! 常識を捨てましょう。
- 177019
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「実在しました。」これは間違いですか?念仏の開祖法然の弟子で浄土真宗の開祖、