※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:キリスト教徒に求められる意識について)
キリスト教徒に求められる意識とは?洗礼を受けるべきか悩む高校生の疑問
このQ&Aのポイント
キリスト教の洗礼を受けるべきか悩んでいる高校生の疑問とは、洗礼を思い立った経緯や信仰の得られていない状況、自身に対する激しい拒否などが挙げられます。しかし、自身を「生かす存在」と認識し、善い信仰に対して誠実になりたいと願っているこの高校生は、キリスト教徒に求められる意識を考える上で重要な視点を持っています。
キリスト教徒に求められる意識は、イエスに対する敬虔さだけではなく、キリスト教そのものへの思いや教義に従うこと、自身の精神を神の求める形に変えていくことなどが含まれます。この高校生は自身の思考や覚悟、神への愛に対する真摯な疑問を抱えているため、洗礼を受けるべきかどうか迷っています。
このような状況で、洗礼を受けるべきかどうかの答えは明確ではありません。キリスト教徒に求められる意識や信仰の深さは、日々の献身と聖書の学びを通じて築かれるものであり、自己の心情との対話や神との関係を深めることが重要です。キリスト教徒としての意識を持つためには、自身の信仰に対する真摯な探求が必要です。
はじめまして。
キリスト教の洗礼を受けるべきかどうか悩んでいます。
私はカトリック校に在籍する高校生(哲学科への進学希望)、祖母、父はキリシタンです。
唯私は洗礼を受けていません。
また、今まで宗教には全く関わりのない生活をしておりました。
まず、洗礼を思い立った経緯について話させていただきたいと思います。
最近はすっかり落ち着いたのですが、一頃自傷に至るほど自己否定が激しく、
父の援助のおかげで緩和した後も、
独善とした人間性や自身に対する激しい拒否は解消されたわけではありませんでした。
その結果思ったのは、
私は自身のことを、「私を生かす存在」として認識しているのが悪いのではないかと言う事でした。
外的なものに「生かされる存在」でなく、「生かす存在」と思っているからこそ
自身を思い通りに傷つけてよい、生死の選択を許されていると思ってしまったのではないか、
その結果自身以外を眼中に入れない人間になってしまったのではないかと。
私はできれば独善とした態度を改め善き者になりたい、
他人に対して誠実にありたいと思います。
そして「生かされている」と言う事を実感し、大きな指針のもと倫理的にありたい。
また、どこかで主のようなものに縋っていることも自覚しております。
信仰と言うものを悪いものとは一切思っておりません。
唯私が洗礼を受けることを躊躇しているのは、
一つに私は今心底信仰を得ているわけではない、むしろ即物的な思考を持っていること。
二つに覚悟の問題。
そして最も大きな懸念は、私は自身のためにキリスト教を利用しているのではないか、
神を愛するためでなく自身を愛するための道具にしているのではないかと言う事です。
善い事と思っている信仰に対して、私は誠実になりきれておりません。
確かに聖書は素晴らしい、興味深いものとして読んでおります。
しかしそれだけでよい訳では決して無いでしょう。
信仰は日々聖書を読んでいくことで勝ち得ていくものなのか、
深い信仰を自覚したときに初めて洗礼を受けることが許されるのか、
今それらに結論を与えようとすることが間違っているのか、
これらに答えることができません。
キリスト教徒に求められる意識とはなんでしょうか。
イエスに対する敬虔さでしょうか。
それともキリスト教そのものに対する思いでしょうか。
教義に沿い、自身の精神を神の求める形に変えていく事でしょうか。
キリシタンの方に特にお伺いしたいと思います。
拙悪な文章で申し訳ありません。
お礼
遅くなってしまい申し訳ありません。 素晴らしいご回答ありがとう御座います。 確かに、キリスト教について「こうでなければいけない」と私に制限を与えるもののように捉えていたかもしれません。 Apsotleさんの仰られたことが私には非常に新鮮で、 行動し周囲に向き合うことが水先案内人の存在を感じさせてくれるという言葉を胸に刻んでいきたいと思います。 このご回答を今後の行動の参考にしていただきたいと思います。 ありがとう御座いました。