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どうも宗教は サクラメントにのがれるみたいだ。
信仰なら 個人としてのわれと神との関係としての めぐみ である。 宗教となると めぐみ でありつつも 秘蹟ないしその儀式になる。 ただし ブディズムでは これが 《秘義・奥義・門外不出の師弟直伝に成る秘密》として扱われる。 つまり一般にナゾのことなのであるが 集団となると・つまり宗教にあっては 《永遠のナゾ》として脈々と伝えられる。何でもないことが なのである。 《かたちから入る》わけである。 ――集団における宗教の 何とくだらないことか! と言い得まいか? ▼ (ヰキぺ:サクラメント) ~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88 サクラメント(英: sacrament、羅: sacramentum)は、キリスト教において神の見えない恩寵を具体的に見える形で表すことである。それはキリスト教における様々な儀式の形で表されている。 ただし現在のキリスト教においては教派によってその指し示す内容、さらには日本語訳として用いられる表現も異なっている。例えば、カトリック教会では秘跡、聖公会では聖奠、プロテスタント教会では礼典、正教会では機密と呼ばれる。 ラテン語に由来する"Sacrament"(サクラメント)は、西方教会では一般的な用語であるが、正教会ではギリシャ語の"μυστήριον"(ミスティリオン)や、これを語源とする英語の"Mystery"(ミステリー)などが用いられる。日本の正教会でももっぱらギリシャ語からの直訳的な機密との呼称を用い、これを「サクラメント」と呼ぶ事はない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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- sariputra
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犀の角の如くただ一人歩め。
釈尊在世中の仏教は ‘samaNA Sakya-puttiyA’(釈迦族の子弟が奉じる教え)という認識しか持たれていなかっ たのであって、仏教は釈迦族とそのままオーヴァーラップしていたのであるからなおさらで ある(6) http://www.sakya-muni.jp/pdf/bunsho06.pdf ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ なお余計なことであるが、当時の仏教は‘sakya-puttiya’と呼ばれていた。すなわち 「釈子」である。釈迦族の子弟は‘sakya-putta’であって、これも「釈子」と訳されるが、 前者はほとんど‘samaNA sakya-puttiyA’(沙門釈子)という形で現れ、これはいわば「仏 教の出家者」を意味する。しかしこの呼び名から想像されるように、当時の仏教はそれほど 普遍化されておらず、「釈迦族の宗教」程度にしか認知されていなかったということである。 そこで外道であった者も、釈迦族出身であれば4 ヶ月間の別住義務は特別に許された。「釈 尊の親族(JAti)に他と共通しない(AveNiya)尊敬(parihAra)」が与えられたからである。 http://www.sakya-muni.jp/pdf/bunsho04.pdf ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ なんとも言いようがないのでこれだけです。 仏教は民族宗教だったのかな?
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 仏教は民族宗教だったのかな? ☆ 《民族》は 広すぎませんか? 一族郎党の宗教。氏族――中国では 宗族というのがありますね――の宗教。 そのときには取り立てて《サクラメント》は必要ではなかった。かも知れません。
- NemurinekoNya
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おはようございます。 まず ☆信仰なら 個人としてのわれと神との関係としての めぐみ である。 ◇という文章の意味を質問します。 これは I 信仰は神からの贈り物である の意味ですか? あるいは II われと神との関係が、めぐみ、である ですか? III 信仰によって、めぐみ、として《何か》がもたらされる の意味ですか? 何が《めぐみ》なのですか? そして、《めぐみ》とは何を意味するのか? とにかく、この文章は曖昧過ぎます。 意地の悪い言い方をすると、 《めぐみ》という漠とした言葉は、読む人を何だか分かった気にさせてしまう、そのように錯覚させてしまう、 そういう魔力をもった言葉に思えます。 《めぐみ》の意味、定義を与え、 《信仰》と《めぐみ》の関係を明らかにする必要があるのでは?
お礼
お早うございます。今朝は雨ですが ときはまさにいい陽気になってまいりました。心地良い季節になりますね。 ご回答をありがとうございます。 ◇(少し編集しましたが) ~~~~~~~~~~~ I 信仰は神からの贈り物である のか? II われと神との関係が、めぐみ、である か? III 信仰によって、めぐみ、として《何か》がもたらされる か? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (I)の《贈り物》が 基本のメグミです。 (II)は 生まれたときにそなわる自然本性――特には感性や理性をも超えた心なる何ものか(非思考の庭)――を 広く神の贈り物としてメグミとみる見方です。 (III) 信仰なる動態として――非思考の庭におけるナゾのハタラキとして―― ヒラメキが得られたなら それも メグミであると考えられます。 (思索の延長線上に得られた解のようなヒラメキは 思考の緑野において人間の知解力によって得たものかどうかが あらそわれると見られます)。 ちょっと言葉を引いてみておきました。 ▼ (ヰキぺ:恩寵) ~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%A9%E5%AF%B5_(%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99) ギリシア語: χάρις ( charis ), ラテン語: Gratia, 英語: the divine grace, ロシア語: Благодать( blagodat':ブラガ(善・福)‐ダーチ(与え)), ヘブライ語: ヘーン ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ほかの問いにも一括してこたえるかたちで まとめてみておきます。 (あ) 信仰とは 神を――じっさいにはその一定の名を――わが心に受け容れることです。(《名前を受け容れる》のですから じつは本当は ほとんど価値自由な行為です)。 (い) その信仰を起動させるという心(意志)は もともと生まれつきの自然本性にそなわっていると想定されます。(神の想定と同時にということでしょう。一般概念としては アートマンです)。 (う) つまり 自然本性にあっては 潜在性として信仰なるむしろ動態がねむっています。 (え) 神の名を(もしくは 《無い神》を)心に受け容れたとき そのわが心に《非思考の庭》が成ります。この成ったチカラもしくはハタラキが 信仰です。つまり 顕在化しました。 (お) すなわち 信仰のチカラが自然本性にそなわっていることが 第一のメグミです。次に この潜在力が何らかのかたちで自覚されるようになるという信仰の発車 これが第二のメグミです。そこからさらに ヒラメキというメグミも得られます。(そのほか主観において感じられるいろんな派生的なメグミがあります)。 (か) かくのごとくに神からの贈り物であると捉えられます。 (き) ☆☆(趣旨説明欄) 宗教となると めぐみ でありつつも 秘蹟ないしその儀式になる。 (き‐1) すなわち まづこの《めぐみ》が オシエとされます。わたしは主観においてメグミを受けていると思っている。こうひとに伝えることもありうるという場合から このメグミは 人間観・存在論において理論化され得て オシエと成りうると考えるようになる。 (き‐2) かんたんにこの場合における信仰と宗教との違いは こうです。 信仰=メグミ派は そのみなもとの神をたたえます。メグミのオシエ化は 信仰をもしくはオシエをあたかも神とします。 (き‐3) つまりオシエ派は メグミの理論を人におしえることをおのれの使命とします。その理論の実行をすすめ・うながし そしてその実践の具合いで信仰の深浅なる度合いを測ると言います。 (き‐4) このオシエと化した信仰=メグミからさらにその深浅を測った結果としての評価体系があたかも人間の価値の体系であるかに見なされ そこから 宗教組織をつくっていくと見ることも出来ます。(じっさいの順序は 手さぐりで模索して作っていくだけでしょうが)。 (き‐5) すなわち《めぐみ》は ナゾであり そこまではよいとして これをオシエ(教義体系)において《秘蹟》なら秘蹟として位置づけます。つまり ナゾが 理論として思考ないし知性の対象とされて行く。 (き‐6) さすが 秘蹟としてオシエにふくんだだけでは 雲をつかむようで人びとをみちびくには 得体の知れないものだとしか受け取られず それはまづいというので かたちのある儀式が発明されます。イニシエーションのときの入会儀式がそうでしょうし 儀式は常態化して行くとも言えましょう。 (き‐7) あるいは宗教によっては 秘蹟としてのメグミを得るために 《修行》をおこなうという行き方も考え出されて来るでしょうね。 (き‐8) やがて 修行や儀式のほうが 主客交替(? 主従交替?)のごとく おもんじられて来るでしょう。なにせ 秘蹟は――メグミは―― ナゾなのですから。 (き‐9) この宗教化でいちばんの問題は 広い意味でのこのサクラメント(秘義・秘蹟また儀式・修行そして組織としてのヒエラルキア)こそが 神のことだと見なされることです。すくなくとも そのサクラメントなるかたちをとおしてこそ 神につらなるという見方を採るようになりましょう。 (き‐10) あるいはつまり 神が ナゾではなくなる。または 依然としてナゾであるとしても そのナゾを あたかもその秘儀の中におさめ得たと思い成してしまう。つまり 神なるナゾは 人間のあたまの中におさめられた。と思い込んでしまう。 ◇ 何だか分かった気にさせてしまう、そのように錯覚させてしまう、そういう魔力をもった言葉に思えます。 ☆ のは 宗教における秘義ないし秘儀すなわち広義のサクラメントのほうではないでしょうか。 《信仰》は これもナゾですが メグミとして あくまで・どこまでもワタシの主観内面にとどまります。この個人の主観のもんだいとしてのみ発車するのですし 主観内面のこととしてだけ人びとに共通の問題と捉えているかたちでバス(オムニバス)であり得ます。 外には出かけません。(《宣教という愚かな手段》を用いて 神の名を人びとに伝えたそういう時代があって そういうかたちで《外に出かけた》ことはあります)。 (経験思想としてすでに表現されたものは それとして――信仰から得られたヒラメキを思想に書き直しまとめたものとして――流通します。ただし オシエにはなりません。組織がないだけではなく 組織やオシエの無いところでこそ 互いの主観を共同自治のために共同化しようとするだけだからです。メグミも信仰も そのときには背景にしりぞきます)。
- kurinal
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B様、こんばんは。 「誰それさんは、こう言った」 「誰それさん、スゲー!」 そんな感じでは。
お礼
こんばんは Kさま。ご回答をありがとうございます。 ★ こう言った・・・スゲー! ☆ の《言った》内容が意味がはっきりしなくても よい。ということかも知れません。 天上天下唯我独尊 / この上なき知恵のさとりを得たんだ と言った。・・・スゲー! といったことですね。 その中身は?――《秘密》です。師匠から弟子へ その弟子があらたな師匠となり 脈々とその奥義は 秘儀・密儀といった儀式をともなうことはあったとしても 言葉には表わされずに 伝えられて行くのだ。秘伝なり。師弟のあいだにのみ 言葉によっても知られているかも知れない。と。 あぁ サクラメント。ようやる!
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 犀の角の如くただ一人歩め。 ☆ 出家の問題ではないでしょうから タトエなのでしょうか? それにしても ナゾですね。ということは このご回答も内容は サクラメントなのでしょうか? 何ともお応えしかねますね。 共同主観として・共同主観になりうる内容を 質問をめぐって寄せてくださるとありがたいです。