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キリスト教の洗礼を受けたい軽度の境界性人格障害者のための方法
- キリスト教の洗礼を受けたい軽度の境界性人格障害者の方法についてまとめました。
- 境界性人格障害を持つ方でも、洗礼を受けることは可能です。ただし、注意点もあります。
- キリスト教の洗礼を受ける際には、神父や教会の信頼関係が重要です。
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質問者が選んだベストアンサー
気になってもう一度来てしまいました(^-^; 神父さんに『周りの教徒と共に生きることなのに人を見下している。洗礼を与えることは出来ないと言われました。』 とのことですが、人を見下している、という問題は、洗礼を受けるに当たって、関係のある問題とは思えません。 他の回答者様も仰っていましたが、洗礼は、人との約束ではなく、神様との約束であると考えています。 質問者様は『私に非がある』と仰っていますが、私にはどうしても、質問者様に非を認めることが出来ません。 神様は、人の罪を裁かれる方ですが、同時に憐れんでくださいます。 憐れみ(質問者様にとっては、病気を神様に委ねる、ということ)を受けることに、何の非があるというのでしょうか。 私は、神様に誓って言います。 神様の憐れみを受けてはいけない人間など、この世にはいません。 そして、その憐れみを止める権利を持っている人間、聖職者はいません。というか、現実社会に居たとしても、神様はそれを許されないと思います。 使徒の働き8章26節ー39節の注釈では、宦官は、 『私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。』 とピリポに話すと、ピリポは 『もしあなたが心底信じるならば、良いのです』 と答えると、宦官は 『私は、イエス・キリストが神の御子であると信じます。』 と言って、バプテスマを受けました。 聖書は真実の書です。 聖書に書いてあることを否定することは、私たちキリスト者には、出来ません。 よって、質問者様が洗礼を受けてはならない理由は、どこにも見つからないのです。 今日は教会へ行かれましたか? 私は質問者様のことを、神様にお祈りしてきました。 質問者様がいつまでも、神様と共におられることを願い、祈ります。
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- ecco
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No.12です。お礼文ありがとうございました。 知識もないし理解力もないし、霊感などもほぼない私が好き勝手に言ってるだけですので、不快な気持ちになられたら申し訳ありません。ですので、以下はお読み頂く必要は全くございません(笑)。 こちらの質問文、お礼文を拝見して改めて思ったのが、質問者様は形にこだわる、形にとらわれたい方なのだなあと思いました。 だから、特定の宗教、質問者様の場合はカトリック(?)に「属したい」、洗礼を受けたいのかな、って・・・。 私は逆で、形にとらわれたくない。形にとらわれると、自由な考え方ができなくなる。 ブッダやキリストの言葉には興味を惹かれるし、その言葉の意味をよく知りたいとは思うけれど、一定の宗教に属す必要性を感じません。独自の戒律にも疑問を感じます。 ですので、ここで私が何か意見を言うのはお門違いだったと思います。すみませんでした・・・。 ただ・・・。形にとらわれると、本質を見失いませんか? 今回の神父様の対応には疑問を感じるところがありますが、もしかしたらそのことを仰りたかったのかなって。 例えば宗教戦争。単に戦争したい人達が宗教の名の下、宗教を利用しただけだとは思いますが、 それぞれの形にこだわって、他の宗派を攻撃する。 それこそイエスの教えにもっとも反する行為なんじゃないかと思います。 まあ、現代のキリスト教ではそれはないですよね。私の言いたいことはズレてますね(笑)すみません。 生きているだけで、神様に愛されている証拠だと、私は思います。
お礼
再度率直なご意見を頂き誠にありがとうございます。 回答者様のおっしゃることは尤もだと思います。 私は形に囚われすぎていると思います。また形に囚われすぎて、自由な考えを失い、さらには本質すらも見失ってしまうことは最も恐ろしいことですね。 私は普段は研究者ですが、根本は人格障害者です。 研究者として仕事をしているとき、確固たる前提条件を定めたの上に、理屈に理屈を重ね、理論を展開し、真実に近づく。それが研究者とて行っていることです。そして、研究者としての私は、化学という確固たる基盤・前提・理屈を持って、あくまで他者から見ても科学的におかしくないように展開します。科学的のおかしいか否かを判定するのは、思想の正しさ・誤りを証明するよりも、ずっと白黒が明白で分かりやすいです。その分、判断できるだけの膨大な知識は要求されますが。 研究者としての私の人格や思考回路はそれで守られています。特に問題を感じることはありません。あとは、テキトーに職場の人と世間話をするくらいで。研究者って結構変わってる・個性的な人が多いですから、多少おかしなことをいっても大丈夫なのも、私としては天職だなと思っています。 しかし、仕事外ではそうはいきません。私は人格障害者です、確固たる理論がないような場所、研究者としての肩書や学歴が通用しない場所、科学のような絶対的な正しさのない場所、私はとても苦手です。 元々は苦手だったわけではありません。3年前、境界性人格障害と診断されてからのことです。 私はある日突然、境界性人格障害、だと言われ、この病名を口にすると差別を様々な場所で受けることがわかりました。もちろん普段はそんなことは名乗りませんが。主に精神科以外の病院に受信する時が問題です。 人格障害者、というレッテルをはられると、病院によっては、人格障害者は言っていることが信じられないからと本人の意見は無視されたり、中には私の職業を聞いて、知能指数の高い人格障害者は人を操る能力も高いから怖い、とすら言われたことすらありました。 20数年、山谷あれど一応一般人として生きてきて、いきなり障害者でキチガイといった扱いを、しかも医療従事者(私自身も有資格者なので、ヒポクラテスの誓いを信条とするのが基本だと思っていました)から受け、私の信じていたものは、私という信念はすべて嘘なのではないかと思うようになりました。私が普通と感じるものは、本当に普通なのだろうか、正しいことなのだろうかと、自分の思うことは狂っていないだろうか、とても怖くなりました。今までと何も変わっていないはずなのに。 それから、私は物事の正しさについて学ぶために、特に人間性の現れる分野、心理学・哲学、文学、その延長で神学を学び、現在の心境に至りました。 そのうえでも、基本的には、自分の意見が別にあったとしても、あえて反対意見を聞いて、物事を多角的にみた上で、いろんな答えがある場合は、それは個性のゆるされる解であって、絶対はないと決めることにしました。 私がキリスト教信者という確固たる証である洗礼がほしいのも、その思想があると思います。 自分の行動や思考の規範・前提がほしいのです。前提のない理論展開は、砂上の楼閣です。私は、理論的思考、筋の通った意見を言うことが自分では好きです。 境界性人格障害と判定される以前から私は、芯のとおった人と、言われてきました。若いのにしっかりと物事を考えられる、芯のある子だねと言われて生きてきました。 それなのに、その自分の信念が、思考が、人格障害者の狂気だったら?と初めて考えた日の絶望は、本当に足元からすべてが崩れ落ちていくようでした、まさにアイデンティティ・クライシスが起きたのです。大げさに聞こえるかもしれませんが本当です、それ以降、私は自律神経失調(不安からくるめまい)に常に悩まされることになり、それは今も続いています。 私は確かなものがほしいのです。 もちろん、これから形とそしてその中身である本質を、キリスト教はもちろんですが、それ以外の自分自身に対しても、少しずつ確固たるものを形作り、一度は崩壊してしまったアイデンティティを完全に取り戻します。自分が信じられないから、他人の真実をあらゆる学問から沢山たくさん勉強し、人におかしいと思われない自分を作り直します。それまではつらいですが、例えハリボテでも紛い物でもそれを見抜かれない仮面を被って生きていきます。主治医にはがんばりすぎるからすぐ体を壊すんだよ、と怒られますが。(一昨日の39℃の熱は単純に過労でした。苦笑) ひどい独りよがりな長文大変失礼いたしました。申し訳ございません。 勝手ながら回答者様にお声掛け頂けて、改めて自分を見直す良い機会となりました。 回答者様のおっしゃるように、形に囚われて本質を見失わないように、本質のつまった形であれるように、これから努力していきたいと思います。 誠にありがとうございました。
- keyaki4
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リチャードドーキンスの 「神は妄想である」 を読めば、神なんかいないことが解る。
お礼
ご助言ありがとうございます。 そして、実はお示しくださった本を読んだことがあります。他にも宗教、キリスト教会に対して否定的な本、疑問を投げかける本を数冊も読みました。 私的に一番面白かったのは、不思議なキリスト教、ですが。(新書のベストセラーとして本屋さんに高く積まれていました。) 以下蛇足ですので、読まなくても大丈夫です。失礼な表現もあるかもしれません。申し訳ありません。 神様はいないと回答者は仰るのですね、さらに勝手に妄想するとそんないないものに縋るのも哀れに見えていらっしゃる、洗礼を受けられなかったことに関するショックも、いないものに愛をもとめることも。 それも尤もだと思います。 私はドーキンス氏のような進化論ではないのですが、分子生物学が選考なので比較的近い領域かもしれません。進化論も一応習いました。 なのに神様と言うと変に見えるかもしれませんが、私にとって神様がいるいないの議論は、科学的にいうなら、何を前提条件にいる、いないとするのかの定義次第だと思うので、私はその結果は気にしません。 神様は絶対定量できるような概念ではないですよね。そうすると相対化になる。相対化すると今度は絶対値は出ない。当たり前ですけれど。ドーキンス氏も存在の絶対否定の証明はできていなかったと思います。 物語の終わりは、物語を読み終えた時でしょうか。そうという人もいるでしょうけど、人が思い描くかぎり続いていくという人もいますね。 私は神様もそういうものでいいのではないかと思います。 勝手な意見を申しあげてしまい失礼致しました。 こんな私に貴重なお時間を頂きありがとうございました。
- ecco
- ベストアンサー率23% (81/346)
私自身は無宗教です。仏教もキリスト教も、ちょこっとしか知りません。 どちらも、好きな言葉はありますが、全然詳しくありません。 こんな人の意見はいらないと思われるかもしれませんが、でしゃばります(笑)。ごめんなさい。 >神様を愛しています、完璧だからです。そんな神様を愛する資格が形として欲しいのです。 「神様」が本当にいるのだとしたら、『愛する資格を形として』必要となんかしないと思います。 洗礼を受けても受けなくても、誰だって神様を愛していいんじゃないでしょうか。 何よりも、個人の自由を認めているのが神様なんじゃないでしょうか。 まあ、カトリックの教えはそうじゃないのかもしれませんが・・・。 と、ここまで考えて、カトリック(あるいはプロテスタント等の他のキリスト教)の教えと私の考える「神様」が違うのでは、これ以上回答しても質問者様の求めるものにならないかと思い当たりました(笑)。 が、めげずにおせっかいを続けます(笑)。 >やはり、洗礼を受けることは無理でしょうか。1人、孤独に祈ることしか許されないのでしょうか。 質問者さんがここまで洗礼にこだわる理由がよく分かりませんでした。 洗礼を受けなくても教会に通うことはできますし、「神と共に生きる」ことはできるのではないでしょうか。 洗礼を受けないと、救われないのでしょうか? 神様がそんなことを言うとは、私には到底思えません。 「祈り」にしても、教会で他の方々と同時に祈ることはできるはず。 でも、別に教会で他の人と一緒に祈る必要があるとも思えません。 いつだってどこだって、祈りたいと思えば祈っていいのではないでしょうか。
お礼
ご助言ありがとうございます。 私は基本的に1つの事柄に対して、できるだけ多角的に考えたい、冷静に見つめたい、しかし自分は人格障害で感情的になりやすくその能力が乏しいと恥じているので、 今回、非常に恥ずかしくかつ恐れ多くも思い切って公の場で告白して、思いのほかたくさんの方からご助言頂いているにも拘わらずまだ質問を締め切らないのは、賛否いずれも第三者の意見が頂きたかったからです。 そのため、無宗教の回答者様にご意見いただけたこともまた非常に喜ばしく思います。 貴重なお時間を頂いて誠にありがとうございます。 洗礼・資格についてこだわる理由についていですが、すみません、他の方へのお礼の一部を引用する形で恐縮ですが、私は以下のように思っています。 キリスト教を信じること自体や、神様を愛すること自体には、洗礼はあってもなくても支障はありません。 それでも洗礼という形こだわる、その資格としての所持のみの理由ならば、 確固たるキリスト教徒であるという資格がほしいからです。 さらにその資格の用途の具体的な内容は主に3つあります。 ・神様に全てを捧げることで自戒する。 =境界性人格障害は精神疾患の中でダントツ1位の自殺率を誇る疾患です。キリスト教では自殺は禁忌です。私は責任感は強い性格なので、約束は守ります。結果的に、私は自殺できなくなります。(蛇足ですが、私は自殺未遂のときの身体的苦しみよりも、私の親が私が自殺未遂をしたときに泣いたのがとても苦しかったです。) ・私が愛する対象は神様だけと、一般の人に言う時の証にしたい。 洗礼自体がその効力をもっていないことは分かっていても、私は最近異性から向けられる好意自体が苦痛です。もうお互いの身を滅ぼすだけの恋愛の世界から脱したいです。歳も歳なので親は結婚を進めてきますが、苦痛でしかありません。境界性人格障害の愛は、身を滅ぼす愛です。先の回答者様のご助言にあったように、本来の愛とは逆の愛です。愛は与えるべきものなのに、奪うばかりで、神様さえ私を満たすことはできないかもしれませんが、それでも周り人を滅ぼすよりはましだと思います。 私が日本では少数派である、しかもしっかりと洗礼を受けた熱心な教徒であると表明できれば、そこで多少のレッテルを張れるのではないかと、浅はかで失礼ですが考えました。 ・洗礼を受けると確固たるキリスト教徒として認められるので、仏教のお墓に入れられないと考えた =仏教について、大変失礼な表現をお許しください。仏教は俗世の感情を否定する宗教です、私が私として生きることを認めてくれません。仏教を聞いていると、私は病気の苦しみの中に生きているのに、その上で私として生きる必要がないと言われると、極端な言い方をすると、死んでもいい、もしくは精神的脳死になれと言われているように聞こえるのです、仏教がとにかく苦手です、間違っても仏教のお墓にだけは入りたくありません。 以上の理由があった上に、 最近3週間前に薬の副作用で救急車、一昨日39度の高熱を出したので、心身ともに限界を感じて※1、自殺願望も高まり追い詰められてしまい、その矢先に神父様に洗礼を断られたので※2、今回の質問に至りました。 ※1:人としての尊厳を失うくらいならば私は死んでしまいたいのです。精神科の病棟につめこまれて親のお金を蝕んでなんの生産性もない生を、あくまで私は、生きたくありません。もちろん、精神科の病棟に入っている方々にそう思ってなどいません、病棟に入って快方に向かわれる病気もたくさんありますしそれは素晴らしいことです。しかし、境界性人格障害は入院しても治すための治療はできないといわれています。そのため、あくまで私自身の一個人のプライドとしての話です。 ※2:神父様に対しては、私に多大な非があったことも分かるので、神父様が苦手なのは事実ですが、神父様が全て悪いとも思っていません。ただし、私は人格障害者なせいか、必要以上にショック大きく出てしまいました。神父様も精神科の人間の扱いなどさぞ不快だったことでしょう、今はいろいろと申し訳なく思っています。 回答者様の、客観的なご意見で、どこにいても祈っていてもいい、神様を愛していい、と言って頂けてうれしかったです。それでも私はどこかで洗礼に拘ってしまうのでしょうが、なんとなくで申し訳ないのですが回答者様にほんわかとした癒される回答をいただいて、今の私のその拘り自体がいつか未熟だったと思える日が来る(私がキリスト教をしっかりと勉強し自然と神様の愛を感じられるようになったとしても、逆に傷ついてまたは集団生活に無理だったとしても)といいなと思えました。 誠にありがとうございました。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
#8 要するに洗礼を受ければ自分も神から愛されているというお墨付きをもらったことになると思っているんですね。 あなたが傷ついたのは神父の指摘が正しかったからではないのでしょうか。 あなたは愛し愛される関係がほしいだけで神を信じているわけではないのではないですか? 神父はそれを指摘しているんじゃないかと思います。 神様仏様に祈る前にやることがあると思うのだけれど。
お礼
再度ご指摘いただいてありがとうございます。 お恥ずかしくも全て回答者様の仰る通りです。私は神父様がおっしゃることは正しいからこそ、反論できず傷つきました。 私の欲しかった神様の愛は子供が親にねだるような幼稚で自分勝手な愛なのだと恥じています。人格障害の問題の矛先を人から神様へ対象を変えて解決しようとした、本来のキリスト教に失礼極まりのないものです。申し訳ございません。 祈る前にやることというのも尤もなご意見です。 ただ、質問文に書いていない背景として(前半の卑しい不幸自慢自が思いのほか長くなって、後半尻切れトンボになってしまいました、そのあたりの自分の愚かしさに今は自己嫌悪しています)、境界性人格障害の治療は3年前からしており、ただしカウンセリングは何度も失敗、医者とも長く続かず、体の表面にわかるようなものではないですが自殺未遂の経験があり、最近3週間前に薬の副作用で救急車、一昨日39度の高熱を出したので、心身ともに限界を感じて、自殺願望も高まり追い詰められてしまい、その矢先に神父様に洗礼を断られたので、今回の質問に至ってしまいました。 今のところ仕事には支障がない、というか頭を使う仕事なので、思考力を下げずに自律神経失調(不安からくるめまい)の症状だけ抑えるために、投薬も試行錯誤して、通常の処方では1日三回の薬を、その半分の容量で6回にすることで、弱い血中濃度を安定的に保つことで、最低限のめまいを抑える、という治療に至っています。苦しくても、思考回路はあくまで断ちません。 今回質問させて頂き、思いのほか沢山の方に貴重なお時間をいただき(ありがとうございます)、厳しいご意見も温かいご意見もいただけ、まずそれ自体が私の励みになり、そして次はいただいたご意見を自分なりにどう活かしていくかを冷静に考えたいと思っています。勿論今回のこともすべて主治医に告白します。 冷静なご指摘を誠にありがとうございました。
- michael-m
- ベストアンサー率50% (2724/5433)
貴方が洗礼を受けられない理由など全くありませんよ。貴方が洗礼を受けることが貴方の良いきっかけになると思うなら受ければよろしい。 でもね、主(カトリックでは神ではなく主と呼びます)とその教えが完璧であっても神父が完璧であるということではありません。それは覚えて置いてください。全ての神父が主の教えを理解しているわけじゃないんです。 洗礼を受けるということは神父が儀式をしますけど、あくまでも自分と神との契約であり、ましてや協調性という信仰とは直接関係しない事を理由に、洗礼を言う重大な転換を、ましてや主の救いを拒否する権限など神父にはありません。 それはまるで、救命ボートで「お前を乗せると船が沈むから」とすがる手を振り解く様なものではありませんか。法的には無罪だとしても霊的には重罪でしょ。 そういう独善的で高慢ちきな神父が最近は非常に多い。自分に選択権があると誤解している。 私はそういう神父と何人か接したために、渡しの意志で教会に依存することをやめました。 だから貴方に申し上げます。教会は一つではない。受け入れてくれる教会を探せばいいんです。 貴方を受け入れる教会がなければ、信仰は自分と主との契約で行なえばいいんです。 洗礼の大きな役割は原罪の禊ぎです。洗礼者ヨハネの時代からそれだけなんですよ。 怠惰な信者より、敬虔な非信者の方が天国に近いのです。奇跡を見ずに主を信じられるものは奇跡によって信じる者より幸せなのです。なぜなら、奇跡を見ずに主を信じる者はあらかじめ天国の鍵を手にしているからです。
お礼
ご助言をありがとうございます。 とても斬新な意見で目が醒める思いがいたしました。そして小さなわが身がお恥ずかしいです。 こんな小さな私が言うのも恐れ多いという前提はこの際横に置かせて頂いて、 仰るように神父様も人で、完璧ではないのでしょうね。 自分と神との契約、救命ボートの表現、法的無罪と霊的な重罪、最近の神父像、どれもとても秀逸な表現かつ目から鱗でした。誠にありがとうございます。 失礼ながら私も、今回の神父様の言葉には、自分たち信徒だけが共同体で社会とは別に特別なものでその仲間に入れられない、一種のユダヤ教の選民意識的思想を感じてしまいました。それをなくし、わけへだてない愛を与えてくださったのが、イエス様であるはずなのに。 教会にしがみつくこと自体もやめる、という姿勢も素敵ですね。カトリックは教会に来て祈ることを強く推すので、体の弱い私には週末の礼拝がつらいことが多々ありました。 ヨハネ様の時代から、洗礼は現在の禊ぎ。最後の一段もとても感動的でした。 私は種々の理由から洗礼という形を手に入れることはどうしても求めてしまうのですが、信徒として生きるのはむしろ洗礼を受けた後こそがより重要であると考えています。 その際に、回答者様に頂いた力強い魂のお言葉を、思い出し、そこが教会であろうとそうでなかろうと、祈ることを続けたいと思いました。 この度は非常に励みになるお言葉の数々を誠にありがとうございました。
- as3724
- ベストアンサー率20% (34/168)
心配はいりません。 イエスは、というよりイエスを地上に送りし力は、あなたの心も手で撫でるように見えています。 でなければ、イエスが救い主として大勢の人間の前に成立することなど出来ないことだったでしょう。 キリスト単独で、あのような現象は不可能なのです。キリストが、それだけの人間であることを事前に知っている存在がいなければ。 従って、洗礼の必要もありません。その力は、今もあなたを正確に見ているのですから。
お礼
ご助言ありがとうございます。 仰る通りですね。イエス様は今のこの瞬間も全て撫でるように見てくださっているのでしょう。 私は形にこだわりすぎたと、恥じています。 しかし、それでも、世俗をこれからも生きて、自分の天職と思える仕事を全うしたいと思うので、何とか弱い自分の精神を支えるために、申し訳ないのですが私は形を求めてしまうかもしれないとも思いました。 一方で、まだ本当に、勉強不足だと感じましたので、私がもっとまともに勉強ができれば、逆に形にこだわらなくなるかもしれないと思えました。 癒されるお言葉をいただき、誠にありがとうございました。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
洗礼を受けないと神を愛する資格はない・・・? なんでこんな思考ルーチンになるの?
お礼
ご指摘ありがとうございます。 洗礼を受けない=神様を愛する資格がない、 とは思っていません。 ただ私は神様を愛している、という確固たる資格が欲しかったのです。 その理由の一つに、間違っても、仏教のお墓にだけは入りたくないというのもあります。仏教は俗世の感情を否定する宗教です、私が私として生きることを認めてくれません、大半失礼な表現で申し訳ありませんが、私からしたら精神的脳死になれと言われているように聞こえるのです、仏教がとにかく苦手です。 これまで何度も仏教のお墓に入れないでと親に頼んだのですが、曖昧に流されてしまいました。 愛の病の境界性人格障害にとっては愛こそが身を時に癒し時に破壊する根本ですから、神様に愛を捧げることこそが身を捧げることだと思っています。 もし、洗礼を頂けて、神様に身を捧げる者として形を残せたら、仏教のお墓に入らずに済むのではないかと思っています。 それも私が洗礼にこだわる理由の一つです。
- KONIMIX
- ベストアンサー率28% (136/476)
私自身はクリスチャンではありませんが、家内がクリスチャンです。 家内とはお見合いですが、クリスチャンではあることを告白されてから、教会の礼拝に参加するようになりました。 そのかなで思ったのは「洗礼を受けたからと言って、救われるわけでは無い」と言うことです。 教会員のみなさんは、洗礼を受けられていますから、本当なら救われているはずです。 しかし、私が見て聞いて感じたのは「洗礼を受けていない自分と何が違うんだろう?」という疑問でした。 皆さん、悩み、悲しみ、苦悩の中で生きておられました。 神様が生活の中心におられるのは、よくわかりましたが、欲望も妬みもノンクリスチャンの私と何も変わりませんでした。 私は部外者でしたので、皆さん安心したのか「あの人はこんな人だ」「あの人の考えは間違っている」「教会の中で自分が一番神様の事を分かっている」等々語られました。 私は「そうですか」等々適当に答えていましたが、「教会の人間関係も難しいんだな。会社や社会と変わらないな」と思ってしまいました。 今、家内は教会と距離を取っています。 教会の在り方に疑問を持っているからです。 しかし、神様への信仰は揺るぎないと感じています。 何が言いたいのかと言うと「洗礼を受けたから救われる。神様のために働ける」と純粋に思っていても、「実際は異なるかもしれない」と言うことです。 あなたの求める答えでは無いかもしれませんが、ご容赦ください。 ここからは私の考えですので、お気に召さなければ、最後まで読まないで下さい。 私は神様は完璧では無いと考えています。 なぜなら神様が完璧なら、私たちのような不完全な人間をお造りに成るでしょうか? この件については色々説明されますが、納得できる答えを貰った事はありません。 神様が完璧なら、私が納得できる答えが用意されているはずです。 だからと言って、神様を否定しているわけではありません。 いるかもしれないし、いないかもしれません。 「いる」と証明されていませんし、「いない」とも証明されていませんから。 最後は、余計なことを書いたかもしれませんが、ご容赦ください。
お礼
ご助言ありがとうございます。 また違う側面から冷静なアドバイスや興味深いご意見を頂け大変ありがたく思います。 私も正直、日本におけるキリスト教史を勉強した時に日本におけるキリスト教会のあり方が、本来の(外国の?)教会の在り方とはまた異なる異質性を持っていることは感じています。 加えて私は人格障害者で元々人と喋るときには仮面をつけて話しているような状態です。仕事中は何とかもったとしても、たまに疲れている週末や点滴をうつような日に、教会の方々ときちんとした会話ができる自信がありません。 洗礼=救いでないことも私も体調の良い時にミサに細々と足を運んでいたのですが、その時の方々の様子を見て気づいています。 回答者様の視点にとても共感を覚えるとともに、そこに疑問を抱くのは自分だけではなかったのだと、ほっとした面もありました、ありがとうございます。 キリスト教を信じること自体や、神様を愛すること自体には、洗礼はあってもなくても支障はありません。 それでも洗礼という形こだわる、その資格としての所持のみの理由ならば、 確固たるキリスト教徒であるという資格がほしいからです。 さらにその資格の用途の具体的な内容は主に3つあります。 ・神様に全てを捧げることで自戒する。 =境界性人格障害は精神疾患の中でダントツ1位の自殺率を誇る疾患です。キリスト教では自殺は禁忌です。私は責任感は強い性格なので、約束は守ります。結果的に、私は自殺できなくなります。(蛇足ですが、私は自殺未遂のときの身体的苦しみよりも、私の親が私が自殺未遂をしたときに泣いたのがとても苦しかったです。) ・私が愛する対象は神様だけと、一般の人に言う時の証にしたい。 洗礼自体がその効力をもっていないことは分かっていても、私は最近異性から向けられる好意自体が苦痛です。もうお互いの身を滅ぼすだけの恋愛の世界から脱したいです。歳も歳なので親は結婚を進めてきますが、苦痛でしかありません。境界性人格障害の愛は、身を滅ぼす愛です。先の回答者様のご助言にあったように、本来の愛とは逆の愛です。愛は与えるべきものなのに、奪うばかりで、神様さえ私を満たすことはできないかもしれませんが、それでも周り人を滅ぼすよりはましだと思います。 ・洗礼を受けると確固たるキリスト教徒として認められるので、仏教のお墓に入れられないと考えた =仏教について、大変失礼な表現をお許しください。仏教は俗世の感情を否定する宗教です、私が私として生きることを認めてくれません。仏教を聞いていると、私は病気の苦しみの中に生きているのに、その上で私として生きる必要がないと言われると、極端な言い方をすると、死んでもいい、もしくは精神的脳死になれと言われているように聞こえるのです、仏教がとにかく苦手です、間違っても仏教のお墓にだけは入りたくありません。 また、神様が完璧でないというお話もとても興味深く拝見しました。 私は元々が哲学的観点からキリスト教を勉強し始めており、少なくとも聖書に現れている神様を統合して完璧とは実は思ってはいません。ただし、聖書はあくまで神様の一面を誰かしらの人間の言葉を通して記したものであり、そこに現れているからといって神様が完璧でないと思わなくても良いという結論に至っています。 蛇足で、またキリスト教も勉強不足な私の、勝手なしかも失礼な意見を申し上げますが(聞き流してください、もしくは読まなくても大丈夫です)、 私は、そもそも人間は不完全なものとして神様は作られていらっしゃって、それは他の動物も同じで、そしてそれは神様が完璧でないという理屈にはならないと思っています。 私のイメージでは、元々、神様は人間を動物として作ったのに、食べてはいけない知恵の実をイヴは食べてしまった。そこで初めて、人は知恵や感情を手に入れます。そして、それこそが不完全の始まりです。人間が知恵を持たなかったら(他の動物と同様だったら)、完全も不完全もないでしょう、そんなこと考えもしないですから、ある意味知恵を手に入れなかったほうが寧ろ完全だったかもしれないですね、動物としては。しかし、知恵の実を食べてしまったばかりに、あえて不完全で罪深い存在になったのではないかと思います、人間は。寧ろ、人間が完璧であって欲しいというのは人間の驕りのような気がします、人間が完璧であったら神様と変わらない、もはや人間ではないのではないでしょうか、と勝手に思いました。 神様のいる・いないに関しては、私はその、いる・いない、の定義の軸を何にするかによっていくらでも解釈が自由だと思います。 目に見えることが条件だとしたらいなくなりますね。 けれど、たとえば量子力学的概念を持ち出すと、意外といると言えるかもしれませんよ。それこそ、シュレディンガーの猫のようなパラドックス満載でしょうけれどね。 (ちなみにこの話を神父様にしたら案の定怒られました。既に洗礼如何で神父様に怒られた後だったので、私の境界性人格障害の悪魔がささやいて、あえて神父様が答えられそうもない数学と物理学的な宗教の考察を神父様に質問してみました。後で自己嫌悪しましたが、それほどまでに先に神父様に見捨てられた絶望が強く私の心を支配して、私の悪魔が制御を失いました。今は後悔しています。しかし、その時の神父様の人間性を見て、聖職者も人だと冷めてしまったのも事実です。) 私こそ蛇足が長く失礼いたしました。 貴重なご意見とご助言を誠にありがとうございました。
- cheory
- ベストアンサー率26% (38/141)
こんにちは。 プロテスタント教会で勉強をしています。 マタイ11章28節ー30節 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。 イエス・キリストが私たちに約束をしてくださっています。 まずは、質問者様の霊に安らぎが来ることを祈りましょう。 私も祈っています。 私は精神疾患を患っていましたが、イエス・キリストによって癒されました。 二人で祈ると、神様は耳を傾けてくださる、と御言葉をいただきました。 信徒の方と祈ることも大切だと思います。 若輩者ですが、私も祈ります。 一緒に祈りましょう(^_^)
お礼
ご助言とお祈りを頂きありがとうございます。 回答者様が引用して下さった部分は、私も聖書の中で最も好きな文章の一つです。 改めて癒されました、ありがとうございます。 私の中のキリスト教は上記のようなイメージがとても強かったのですが、私の非が大きい上に大変失礼ですが地元のカトリック教会の神父様や複数の回答者様の言葉は、基本的には誰でも受け入れて頂ける訳ではない、自分の苦しみのために安易に救いなど求めてはいけない、という印象を受けて、それも尤もだと思った反面、とても傷ついていました。 キリスト教でも宗派によって雰囲気が違うものなのでしょうか。 いずれにせよ、私の勉強不足は変わらないので、勉強は続けつつ、少し他の教会にも足を伸ばしてみようと思いました。…質問をした時は、実はショックでもう教会には一生いけないかもしれないと絶望していました。 回答者様も病を治癒されたということで、喜ばしい限りです。引き続き回答者様の健康が保たれますよう私もお祈りしております。 心温まるお言葉をありがとうございました。
- hucha
- ベストアンサー率15% (18/119)
私は宗教があまり好きではないことを前提で聞いていただきたい。 まず、洗礼を受けたいならキリスト教に詳しい知り合いはいませんか。もしくは近くの教会などに問い合わせもできませんか?私は二つの宗教をかじってますが、どちらとも20:00ぐらいまでは問い合わせできるので、おそらくはキリスト教の教会もそのぐらいは問い合わせできると思います。 そして、人格障害なら神様の愛はいいかも知れませんが、貴方が勘の強い人なら神様の醜い部分も知るかも知れません。貴方はそれでもたえられるなら、好きに洗礼を受ければいいですよ。 神様は基本的に無理は言いません。洗礼などを受けられないことはまずあり得ませんよ。
お礼
ご助言ありがとうございます。 残念ながら、知り合いにはクリスチャンはいません、実家は厳格なので宗教など認めて貰えません。基本的に日常で私を知る人には聞ける状態にありません。仰るように夜まで対応してくださいますよね、伺ったカトリック教会もそうでした。 もう相手を疲れさせるような、愛を貪るような連鎖から逃れたくて神様に愛を求めました。元々が哲学的観点からキリスト教を勉強し始めており、キリスト教の聖書にいらっしゃる神様が全て完璧だと思っているわけではありません。ただし、聖書はあくまで神様の一面を誰かしらの人間の言葉を通して記したものであり、そこに現れているからといって神様が完璧でないと思わなくても良いという結論に至っています。 ご心配頂いて誠にありがとうございます。 受礼できる道を何とか探したいと思います。
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お礼
再度温かいお気遣い頂き本当にありがとうございます。 本日のおミサで私の分までお祈りまでして頂けたということで、重ねて心から、感謝、です。 私は先日の神父様の件があり、当面の間は教会へ足を運ぶことができないと思います。今日は家で静かに祈っていました。 でも、昨日からこの場所で質問をさせて頂いて、もう二度と教会にいけないかもしれないと、絶望していた心境から、場所は変わるけど、少し遠くてもまた少し傷がいえたら、一から教会に通い始めて、今度はちゃんと一から焦らずに勉強をして、こちらから求めずとも自然と神様の愛を感じられるように、ちゃんと時間をかけて神様と向き合いたいという心境に至れました。 温かい意見も厳しい意見も含め、私のために貴重な時間を使ってお言葉を下さった皆様の、そしてさらにそのためになるお言葉の数々のおかげだと本当に感謝しております。 「憐れみ(質問者様にとっては、病気を神様に委ねる、ということ)を受ける」 「神様の憐れみを受けてはいけない人間など、この世にはいません。」 とても癒されました。もちろん自分でも解決していくべき問題であることは自覚していきますが、その辛さに神様の憐みが頂けたなら、治療が困難な人格障害者でも少しは安らかに生きていけるような気がしました。 これからも、長い道のりを、神様への愛とともに、求めるのではなく与えられるように、精進して生きたと思います。 この度は誠にありがとうございました。