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観念根拠と実在根拠について

「AはBの観念根拠である」、あるいは「AはBの実在根拠である」との表現は、時に目にすることがありますが、「観念根拠」と「実在根拠」とは相対立する概念なのでしょうか?それとも、両者は重なり合う概念なのでしょうか?岩波の哲学事典でも調べましたが、記載はありませんでした。 両者の正確な定義や語法について、どなたかご教示くだされば幸いです。

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回答No.2

人間が感じていると思う事は『観念です』人間が思う事は観念です。ですがそれには根拠が在ります。そう思わせている者の存在です。 人間の意識(思うという脳の機能)は、そう思わせる者の存在を抜きにしては成り立ちません。人間の心は『湧き上がる感情を感じている存在です』 ですが人間にはもう一つ意識(脳の機能)が存在します。それは『環境の情報をダイレクトに脳梁を通して流して来るシステム』です。或は五官から入る全ての情報を直接に脳梁を介して送る者の存在です。 この情報を送る者は、『分別機能が存在しないために』真実をそのまま真実として、自我意識に送っています。 処がその情報を受止める側の『自我意識』は、入ってくる情報を『一旦言葉に翻訳するための分別機能』で言葉に拠らない情報を、言葉に翻訳して受取ったり、受け取りを拒否したりしています。 この場合の真実を真実の情報としてを送る者を、「実在根拠」と言っています。 そうして受取った情報を『頭の中で再構成する内容』を、「観念根拠」と言っています。 この場合この二つの根拠が大きく食い違う場合、『心に矛盾や対立や分裂が生じる』と言います。この場合の、「観念根拠」が戦いに勝つ事を『頭に妄想が湧き上がる』と言います。真実の情報を受け取ろうとしなくなるという意味です。 健常者と言う場合、「観念根拠」が「実在根拠」に一歩引き下がって、妄想を押さえ込む事が出来た状態になっています。そのために『現実を現実として』捉える事に成功しています。『心に矛盾が生じない事』を意味します。 「観念根拠」が勝ってしまって、意識地獄になった状態は、「実在根拠」を無視した状況になっています。ですが「実在根拠」は、差し迫った今の環境の情報を『現実のもの』として送るようにします。 「観念根拠」は真実を見ないようにして頭の中で『空想の世界を作っています』是が妄想です。 「観念根拠」は自我意識の事です。「実在根拠」とは自身の中の『命そのものを働かせている者』です。仏教では仏性、キリスト教では、神と言う名で呼んでいるものです。 仏性や神とは、脳の働きの内『命そののもの』を働かせている意識の事です。言い替えるなら『自分の命の番人』と言う言い方も可能な者です。それは命を働かせると言う意味で、身体も心も自在に働かせる事が出来る者という言い方も可能ですが、自我意識が頑なになって、『その働きを無視した場合』働く場を失う事を意味します。 この場合『自我意識は』生き難い想いになっています。或は漠然とした不安を抱え込む事になっています。それは自分の命の働きからの『無言の抗議』を受けている事を意味します。 その解決方法がキリスト教における『神との和解です』仏教においては『成仏』です。『自分を習う事は自分を忘れる事』と言う道元の主張する事に繋がっています。 自分を忘れて『自分の働きに身を任せる』と言う意味になります。

  • ma_
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回答No.1

>>理性を欠いた世界の知覚(感性界での知覚、客体認識)と自由の知覚(叡知界での知覚、自由な行為の知覚)、後者は前者の観念根拠である。なぜなら、後者によって知が生じるから。・・・自由の知覚は没理性的な世界の知覚によって制約されている。後者は前者の実在根拠である。 とあります。フィテの『新しい方法による知識学』で記載があるようです。