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悲しすぎれば笑いたくなる?
国語の授業で、道浦母都子さんという人の短歌を勉強しました。 この歌について、質問です。 「秋草の直立つ中にひとり立ち悲しすぎれば笑いたくなる」 ごめんなさい、読みにくいですが何処で切ればいいのかわからない。 私は、「秋、まっすぐ伸びる草の中でひとり立ち尽くし、 やりきれない悲しみをかみしめている」 「深い悲しみを真に感じる時、人は笑いたいという衝動を願う」 (笑える人が羨ましい、みたいな) という意味だと思っていたのですが、上の句はいいとして 「草ムラに立っていると、悲しさがこみ上げてきて笑いたくなる」 という意味だと習いました。 ……そんなハチャメチャな事があるものでしょうか? というわけで、 1)秋の草むらに立っているだけで悲しすぎるほどの悲しみが湧きあがるものか? 2)悲しい時に、涙じゃなく笑いが出てくるなんてありえるのか? という二つについて、解釈をお聞かせ下さい。 どちらか一方でも全然構いません。
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草むらに立っていることと、悲しすぎれば笑いたくなることは、直接には関係しないだろう。 草むらに立っていた。ということと、 悲しすぎて笑いたくなった。ということと、 あっただけで。 文意としては、たまには笑えることもあってもいいだろう、という思いで、「笑いたい」とあるんじゃないの? 悲しいことばかり、もうたくさんだ。 何でこんなにかなしいの?笑いたいぜ。 こんな感じじゃないかな? 悲しすぎるというくらいだから、どっぷり悲しいわけだ。だから、笑いたいという思いが出てくる。 笑えるようなことがあって欲しい。 1)そういうことも、あるだろう。 2)そうか?悲しいから、笑いたい、 笑顔でいられるようなことがあって欲しい、だけで。 今、笑ってるわけじゃないんじゃないの? 泣き笑いとかもあるから、 ごちゃ混ぜの感情というのはあるだろうな。 むしろ、明確な感情というのは、そう多くないのでは? パーソナリティの様々な面に対して、同じ場面でも、それぞれの表情が自分の中にあるわけだが、比喩ではないほんとの顔(目鼻口のついてる顔面)は一つしかないわけで、複雑な人格を持ってて、かつ情感豊かな人ほど、顔面や立ち振る舞いに現れる表情(涙も含む)も様々になるんじゃないかな? パーソナリティは、今までの経験によっていろんな面に分化していくものでもあるわけだが、この俳句を書いた人にも当然、今までの経験によって分化し現れてきた、その人の様々な側面が、同時に、直立つ秋草の中にいるときにも、反応していたわけで。 一人の人間の中にある、無数のパーソナリティが、秋草と、何らかの共鳴を起こしたことは、必ずあると思う。 それと、悲しすぎるという結果が、直接結びついてるとは思えないが、全く関係ないわけでは、決してないだろう。 >「深い悲しみを真に感じる時、人は笑いたいという衝動を願う」 そんな感じかな。 ただ、直立つ秋草の中に、一人立ってて、そうある自分に違和感を感じてしまい、なりきれてない自分に対して、悲しいというのは、ありえるのかも知れんな。 そういうことは、悲しすぎること、なぜなら、なりきれてないとは、生の本質を見失っていることに他ならないからであり、そんな愚かな自分を笑ってやりたい。という感じ? だけれど、なりきれてないだけに、自分を意識でき、まだまだ余裕だぜってことじゃないかな。 俺の、個人的現場にあわせた解釈としては(笑。
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- majimekun
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少しきつい言い方をしてしまいごめんなさい。 心理学と書いてあり、あなたのこと思い出しました。 ものすごく単純と思われるかもしれませんが、 勉強に対する姿勢がすばらしいと思います。 私が回答したところで出ていました。 違った考え方を持っているとは思いますが、 学びの道を歩む同じ人として、早く道を見出せたあなたを 尊敬します。 本題ですが・・・ この質問に哲学的な答をだすことはできません。 というより、ものすごく頭の労力とテキストの量が必要となり、回答するくらいなら、回答できる人は、本にしたほうがよいと思うのです。 そこで提案ですが、フランスの哲学者ベルクソンの本を読んでみてはどうでしょうか。また好みでないのであれば、ドイツのショーペンハウアーも良いと思います。 ただ、本音を言ってしまうと、アリストテレスは近代哲学を全て内包していると考えてもいいので、とりあえず哲学的なものの考え方を習得しておこうという意志があれば、若いうちに古典哲学を一通り読んでおくことをおすすめします。その上で、あらゆる文学や詩に触れていくと、細々とした余分な知識による先入観で個性的な解釈ができないということを、予防できます。 近代・現代哲学を読んでも新しい発見というものは、無いと言い切れる逸材になることをあなたには期待しています。
お礼
ありがとうございます。 私はあなたのように真面目ではないし、 勉強にしたって、挫折する事や飽きてしまう事もあります。 それから、少々きついお言葉を頂くのは、慣れています。 何かを学ぶ時、痛みや苦言はつきものだと分かりましたから。 古典哲学ですか。私の新たな試みになりそうです。 まあ、今は「潮騒」の影響で、三島由紀夫漬けなのですが。 昨日 図書館に行ってきたばかりなので、 多少時間がかかりますが、あなたの期待に応えれるよう努力しましょう。 この歌については、もっと詳しいことを文献で探す事になるやもしれません。
- mimi67
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面白い内容だったので、回答させていただきます。 1)秋の草むらに立っているだけで悲しすぎるほどの悲しみが湧きあがるものか? 私の想像では、この悲しみというのは切なさにも似たものだと思います。秋という季節が物悲しいものでもあるし、そういう状況に置かれると、悲しい事や懐かしい切ない事が思い出されると思います。 やっぱり草むらに立っていてただ寂しいとか悲しいわけではなく、何か思い出されることがあって悲しい、ということだと思います。それか、悲しくて一人になりたくてその場所へ行ったのかも知れません。 2)悲しい時に、涙じゃなく笑いが出てくるなんてありえるのか? 有り得ると思います。むしろNo.1の方が答えていらっしゃるように、思い切り笑った後で涙があふれてくるような感じのように思います。 思い切り笑った時と、思い切り泣いた時の顔の筋肉の動きは似ていると聞いたことがあるので、こういう感情の時は泣くか笑うしかないっていう感じなんだと思います。
お礼
おっ、新説ですね。 確かに、エピソード記憶っていうのは、それに関連付けられたことに遭遇すると思い出す、 といいますけどね。 > 思い切り笑った時と、思い切り泣いた時の顔の筋肉の動きは似ている 初耳です。哲学カテゴリで「我々ハ理系ノ人間ダ」っていう感じの回答をされると 結構 頭に来るタチなのですが なるほど……って圧倒されてしまいます。 素敵なご回答、ありがとうございます。
- majimekun
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お礼を見て思ったこと。 どうして哲学のカテゴリーでこういった質問があるのかと ここでは新参者の私はわかりませんでした。 どうやらあなたの趣旨にかなった回答は誰もしていないようですね。 論理学の発展期に必要であった、修辞学の遊びとして質問をしているようなので、 あらかじめその主旨を質問の中に入れておくべきではないでしょうか。 アドバイスです。
お礼
ありがとうございます。 私は、単純に「悲しくなると、泣きたくなるのなら分かるが、どうして笑いたくなる衝動に駆られるのか?」 という疑問があったから、質問したのみで、 別にレトリックのどうのこうの、という話はどうでもいいんです。 いや、どうでもいい、というと語弊がありますか…… つまり、文学的な解釈ではなく、人間の感情としてどういう意味を為すのか、哲学的な解釈を求めていただけです。 ただし、このサイトでは「哲学カテゴリで他人の意見に干渉してはならない」という掟があるお陰で、 お礼にある解釈、2通り×3通りのどれが正しいのかは分かっていないのです。 それが、この質問を締め切っていない理由でもあります。 短歌は、人の心が揺れたその一瞬を、詩にするものです。 そこには、レトリックを越えた、人間の感情があると思うのです。 その、感情が私にとって実感が湧かないというだけであり、 また、回答者の方々に理解の手助けをして頂いた次第です。 それから。何となく名前馴染みが薄いのでご存じないかもしれませんが 私はごく普通の女子中学生であり、哲学を体系的に勉強している訳でもありません。 (なので、私が書く回答は心理学をベースに、自分の価値観を載せたものが多いです) そのお陰で、修辞学というのも、初めて聞いた単語です。 レトリックという横文字でも、聞き覚えがある程度で…… 余談でしたが、私は、少し哲学の勉強をする必要がありそうです。
- majimekun
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まず、短歌は全ての言いたいことを出し尽くすことができません。 ですから、本当に作者が泣きたくなる理由というものは絶対に特定できないので 読者の想像に任せているといえます。 私なら、人生の熱い青年時代も燃え尽き枯れていく夢の中に過去を振り返るような 気持ちになりそうな状態を 「秋草の直立つ中に一人立ち・ と解釈します。 その後は そうした終わりがどんどん見え始めて、今までの人生は、つらいことが多かったけど 振り返っても悲しんでいても何にもならない。 でも悲しすぎる。このまま枯れていくなんて。涙で枯れはてるくらいなら、そんな自分を笑ってしまおう。 そうすれば、泣くことも忘れ、 新しい希望が見つけられるかもしれない。 これは国語の解釈というより、短歌を個人的に解釈したものです。他の読み取り方もあると思いますが、 私自身はこう読み取れます。
お礼
回答者の皆様、ありがとうございます。 不躾ですが、ここでまとめてお礼をさせていただきたく。 皆様の中でも、解釈は大きく違ってきますね。 「秋草の直立つ中に一人立ち 悲しすぎれば笑いたくなる」 が元の歌ですよね。 “どういう理由で悲しくなっているか”については、 A 歌の中に提示されていないので、読者次第 B 秋草の中に立っていること事体が、理由となっている の二種類の解釈が、 “笑いたくなる、の笑いはどういう笑いか”については、 A 陽気な笑い B 自嘲気味な笑い C 生理現象として出てしまう、笑い の三種類の解釈が見られるようです。 これから回答してくださる方は、ご参考にしてくださいませ。 そもそも、「この歌はこういう場面で、こういう意味だ!」という教え方がいけない (自由な解釈を妨げ、ひとつの観念のみを押し付ける面があるから) と思うのですが。皆様の回答、ふたつとして同じものがないのが驚きです。 「悲しすぎると笑いたくなる」エピソード、ひとつひとつが素敵です。 私は、残念ながらそういう経験はございませんが ……やっぱり若すぎるんだな、私(笑)…… 皆様の体験談を聞いて、実感が湧きました。 たくさんのご回答、感謝します。
とっさに思ったことです。 「秋草の直立つ中にひとり立ち」 秋はもの思う季節、誰もいない草原に一人立てばなおさら。 「悲しすぎれば笑いたくなる」 悲しい時に素直に泣いてしまうと、自分のこころの強さが保てません。とはいえ、 気づかないふりをするには、あまりに強い悲しみ。それで、逆に笑ってみる事で、 こころのバランスを保とうとするのでしょう。 ユーモアは、悲しみを昇華する事で生まれてくる感覚だと思います、 ひどい人生を正気で生きるための。 全体としてみれば、これは、自分の心の届かないひとのことを想っている恋歌、 という解釈でよいのでは? かなり「教科書的」ですが。
こんにちは。私、あまり勉強しなかった事もあり、この短歌を全然知らなかったのですが、詠んで思った事があったので、参考になればと思い、回答いたします。 作者は、まっすぐにスッと伸びている草の純粋な実直さに、心を打たれたのだろうと思います。作者もたぶん、そういった性格の持ち主で、まっすぐな気性のために、色々な精神的な苦痛を体験したのだろうと思います。そういった人生の中で、紆余曲折し悩みぬいて、ふと草原に立った時、その無心に伸びる草達に共感を覚え、さらに励ましてもらったのだろうと想像いたします。ひとつひとつの草は、まったく主張もなく、ただひたすら生えている。その草ひとつひとつが集まって草むらをつくって風になびいている。自分は何とつまらない事にくよくよしていたのだろう、(涙の訳) そして自分がこんな草に教わり、励まされるなんて(笑いたくなる)、という事だと思いました。
- netcatme
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> 1)秋の草むらに立っているだけで > 悲しすぎるほどの悲しみが湧きあがるものか? 「秋草の直立つ中にひとり立ち悲しすぎれば笑いたくなる」 の上の句と下の句の直接的な関係はありません。難解派とか呼ばれる人達の特徴です。悲しみを感傷的に強調するために上の句が存在するのです。 笑いたくなるほどの悲しみの中で、草むらに立っている、ぐらいに解釈してください。 この方が難解派とか人生探求派とかいわれているかは知りませんが。 > 2)悲しい時に、 > 涙じゃなく笑いが出てくるなんてありえるのか? 開き直りが必要な悲しみの場合には、ありえます。人間は不可思議ですから、大切な人を亡くしたような悲しみの場合には素直に泣くし、困難・苦難・絶望の場合にはそれを乗り越えるために逆に笑おうとする場合があり得ます。台風の後の畑を見ながら、ははは、笑うしかないよね、という感じでしょうか。
例えば、怒りを通り越してフッと笑っちゃった なんて経験はどなたでもお持ちかと思います。 あまりの悲しさに、そんな自分が惨めに思えて 自嘲気味にフッと笑っちゃうのは変じゃありません。 また詩歌とは、#1の回答の通り語句の辞書的な理解 のみでは何も語れませんので、そこは想像を巡らせてください。 もしかして筆者は幼い頃に、秋の草むらで大切な何かを失ったのかもしれません。 また「草むら」という言葉に「故郷」をオーバーラップさせてたり するかもしれません。ここは受け手の感性に左右されます。
- higejii3
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短歌や俳句は少ない文字数で心のうちをうたったりします。 その歌だけを取り出して、意味を探ってもあまり意味のないこともあります(作者の心のうちの前提が表示されていませんから)。 勿論、感受性の強い人なら草むらに立っただけでそのような気持ちになることは有るのかも知れません。 人は感情を持った動物です。 以前とても悲しいことがあった翌日、高速を走っていて、真っ青な空を見たとき、なんだか無性に笑いたくなって声を上げて大笑い、その後涙がとめどなく流れて大泣きしたことがあります。 感情って不思議なもんです。
お礼
待ってました、御大(笑)。 ayamati氏も「“笑い”が欲しい」という解釈ですか。 そして、草むらに立ってるのと、悲しすぎるのとは関係ない、とも。 (あ、でも最後の方で訂正されてる? ひとり立つ違和感、っていう言葉が素敵です。) 1人の人間、1つの顔にはたくさんの人格がある、というのも印象的です。 やっぱり、どんな人間でも善悪2つの顔、以上は持っているでしょうね。 無数のパーソナリティとありますが、大雑把に分別すると善・悪・その中間、になるのではないかしら。 この「短歌」に歌われているのは、 ひとり草むらに立っている自分の中の、「違和感を感じる自分」と「愚かな自身を嗤ってやりたい自分」。 表情としては泣いている、もしくは泣きそうなんだけれども、 心の中では笑いを求めている、あるいは……自嘲じみた笑みを浮かべている。 回答をまとめると、こうなるでしょうか。 「あるいは」で正反対に近いものが結ばれているかもしれませんが、 短歌は人の受け取り方次第、そして哲学に矛盾はつきもの、という事でご容赦いただきたい。 単なる言葉の綾でしょうが 5・7・5が俳句、もしくは川柳で 5・7・5・7・7が短歌、それ以上が長歌とか連歌。OK? 回答、ありがとうございます。