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釈迦と悟りと死
釈迦は老死という苦を克服するために悟りを目指しました。 しかし、悟った後に死んでしまいます。 涅槃に達しても人は死んでしまうものなのでしょうか? また釈迦の常在を説くお経はあるのでしょうか? お教えください。
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仏教の日蓮宗の宗派の1つ、日蓮正宗の信徒の者です。 御経は、法華経です。 この回答の当たり、私自身が感じたことや悟ったことを書きません。すべて、法華経に書かれている事を解説します。 つまり、その法華経そのものが、真実か否かという点において、信ずるに値するか、信じるに値しないかとなると思います。 しかし、その真実か否かを人間の能力を持って、断定することは不可能であり、人間の能力の限界で真実か否かという点を決めるなら、真実ではないという結論に達するかと思います。 私自身、この教えを身に持って体験した訳ではないので、信じる域から出ない訳です。信じている者の回答だということを忘れないでください。信じている者の教えを信じるということは、時にとてつもなく危険極まりなく、また、教えそのものが間違っている可能性があります。この回答が、質問者さんの不幸にならないことを願い回答します。 妙法蓮華經。如來壽量品。第十六の一部 ○如等諦聽。如來祕密。神通之力 訳)汝らよ、はっきりと聞きなさい、如来(仏様、仏様の境涯に至ったもの)のみが知っていまだかつて説かなかった神通の力(以後説明) ○一切世間。天人。及阿脩羅 訳)すべての世間における天界、人間界、阿修羅界(住む世界の境涯、生ずる心の境涯、生き方の境涯、能力の境涯などを分けたもの)の三善道の者たちは、みんな(以後の続く) ○皆謂今釋迦牟尼佛。出釋氏宮。去伽耶城不遠。坐於道場。得阿耨多羅三藐三菩提 訳)釈迦如来が、釈迦族の宮殿(お釈迦様の住んでいた城)から出家(悟りを得ようと城を飛び出した)し、去伽耶城(という場所)からそれほど遠くない道場に座して無上の完全な悟りを開かれたと思っている。 ※「去伽耶城(という場所)からそれほど遠くない道場に座して」とは、菩提樹で成仏したということ ○然善男子。我實成佛巳來。無量無邊。百千萬億。那由佗劫。譬如五百千萬億那由佗。阿僧祇。三千大千世界。 訳)しかしながら、清浄なる者たちよ、私は成仏してからこれまで、実に無量無辺、百千万億萬億那由佗阿僧祇(仮に人間の産まれて死ぬを一生を1億年として、何度も輪廻を繰り返し、一万回する以上の長さ、1億×1万の長さ「以上」で、人間から見たら無限とも思える長さ、詳しくは自分で勉強することを勧めます)という時が経っている。 ※これが質問者さんの質問の回答の部分になるかと思います。 ○この後に、「それはそれは無限と思える長い間というもの」を弥勒菩薩に計り知ることができようとかと問うた後、また、さらに無限長い間(続く) ○我常在此娑婆世界。説法教化 訳)常に、このしゃば世界に常駐し、法を説いて、人々を救ってきた。 ○復言其入於涅槃。如是皆以方便分別。 また、仏が涅槃に入られたことも説いてきた。このようなことは、すべて、真実の法・道理、生きる道に導き入れるための方便として用いた計らいだったのです。 ※方便(ほうべん)とは、真実ではない教えである。真実の教えは、それ相応の境涯に至らないと肉体的、精神的や、時間的、経済的に苦痛極まり、また、その教えそのものが理解できずに教えから去ったり、誹謗したりする。 優しい教え(方便)を説き、それを実行することで、境涯が上がり、真実の教えを理解し、実行し、悟りを得ようとする。 いわゆる、方便とは、「嘘」ではあるが、御利益のある嘘である。しかし、方便と真実を分けて考えないと、いつの間にか方便が最上の教えであり、真実の教えと錯誤することがある。 ○我以佛眼。觀其信等。諸根利鈍。隨所應度。處處自説名字不同。年紀大小。亦復現言當入涅槃。又以種種方便。説微妙法、能令衆生。發歡喜心 訳)私のもとに来る者には、私は、仏眼をもって相手に従って、それぞれの場所において、自ら異なった名前の仏として出現したり、その寿命の長短を説いたあり、さらにまた、まさに涅槃に入るべきことを示したり、また様々な方便を用いて、はるかに奥深い法を説き、人々に対して、よく歓喜する心をおこさせてきたのである。 ずーと飛ばして、 ○爲度衆生故。方便現涅槃。而實不滅度。常住此説法。我常住於此。以諸神通力。令顛倒衆生。雖近而不見 訳)人々を救済するためにこそ、方便として涅槃の相を現すのである。しかし、真実には、滅度するのではなく、常にこのしゃば世界に住して、法を説いている。私は常にここに住しているが、あらゆる神通力(超能力、超能力的なもの)を用いて、悪業(一般に言う業ゴウ)によって真実を見誤っている衆生に対し、近くに私がいても見えないようにしているのである。 ○衆見我滅度。廣供養舍利。咸皆懷戀慕。而生渇仰心 訳)衆生は、私の入滅を見たならば、多様を尽くして仏舎利(お釈迦様の遺骨)を供養し、そしてあらゆる人々が皆、心から仏を慕う思いをいだき、熱く求めて仰ぎ敬う心を生ずるであろう。 ○生既信伏。質直意柔。一心欲見佛。不自惜身命。時我及衆僧。倶出靈鷲山 訳)人々が、こうして、仏に信伏し、「極めて」素直(物事の道理を正しく見れ、悪業を積むことを慎み、何が最も尊いのかを見誤ることがなく、救われる、救うための心の在り方)で柔和(教えに対し、しっかりと耳を傾け、浅はかに物事を断定することなく、悟ろうと努める)な心をもって、一心に仏を拝見しようと願い、自らの身命すら惜しまなくなったならば、時に応じて、私は多くの弟子たちと共に、靈鷲山(インドのある場所)に出現するのである。 ※不自惜身命の意とは、仏教、法華経、しゃ門法華、本門法華等いった教えを修業し、この教えで自ら根底から救われると確信した時に、仏の大慈大悲の身心を悟り、自身もまた、他も救いたいと願いようになる。 悪業の深いものに教えを説く時に、罵倒、傷害、殺害される可能性があるが、自身の過去の中にもそのいった罵倒、傷害、殺害の意があったのにも関わらず、法を説いたものに感謝を思いだし、また、それと同じように法を説かんする。今生の生死を越えた価値観があり、冷静に物事を見て、いつかその人生観の元に生きて、破綻し苦しむのが解るが故に、自身の生命等をかえりみず法を説こうとする。決して、自己の正義のために他を傷つけて法を説くものではない。解らぬものにいかにして、解って貰えるか、怒りの前に、自己の無力さを嘆くのである。 ○我見諸衆生。沒在於苦海。故不爲現身。令其生渇仰。 訳)私があらゆる人々を見わたすところ、みな苦悩の生死海にうずもれている。このため、私は、わざと身を現さず、者たちに、仏を熱く求めて仰ぎ敬う心を生じさせる。 ※仏教の修業の意とは、救われたい、救いたいという願いからである。人は往々にして、幸せに(刹那的な幸福)を求めるが、それは救いにはならない。数多くの困難を認識し、それから救われたいと願う気持ちを持たないと、修業を怠ってしまう。内在する苦の因の消滅をしようと努力しない ○實在而言死。無能説虚妄。我亦爲世父。救諸苦患者。爲凡夫顛倒。實在而言滅。以常見我故。而生恣心。放逸著五欲。墮於惡道中。我常知衆生。行道不行道。隨應所可度。爲説種種法。毎自作是念。 訳)あえて「滅度」すると私は説くのである。そうでなければ、常に私を見ることによって、かえってほしいままにおごり高ぶり、勝手気ままに振る舞って5欲(悪業を積む欲)にふけり、悪道(苦しむ道)に堕落していくことだろう。私は、常に、人々のなかに、仏道を修業する者と修業しない者、(あるいは、表だけ修業し、見えないところで散々なことをする者)を知り、まさにそれぞれの救済すべき方途に従って、種々の法(種々の教え)を説くのである。私は、常におもいめぐらしている。 ○以何令衆生。得入無上道。速成就佛身。 訳)どのようにしたら、あらゆる衆生が無上菩提(仏の境地に至る道)に入り、それぞれ、速やかに仏心を成就することができるであろうかと ※速やかに仏心を成就とあるが、1日2日で仏になれる訳ではない。方便品、第2において、仏様になるためには、無数の仏様のもとで修業したと説かれている。また、省いた箇所に、人々のそれぞれの性分、それぞれの欲望、それぞれの行為、それぞれの思考、憶測などがあるために、そのもの人それぞれに合った因縁や比喩、言辞を持って法を説くとある。 速やかとは、仏様になるには長い修業が必要だが、それでも、一時、一時が無駄と思えなくても、無駄と思えども、それが着実に仏様に近づいている、近づけている、近づけるという意味である。 以上で、衆生という言葉を「人々」に変えました。また、解りやすいように個人的追加や言葉の置き換えをした箇所もあります。 原文訳を知りたいのであれば、書店や、そういった知識のある寺院等に行って信用たるものをお読みすることをお勧めします。 少しでも、質問さんの何かになれば幸いです。 この場を借りて、私も幾分勉強できました。ありがとうございます。
- QES
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生病老死を苦と捉えないことが出来るようになったことが悟りを啓いたことであり、肉体は寿命がきたら尽きるのは当然です。 悟りを啓いたのならすぐに死んでも怖くないのですが、釈迦は教えを広めるために、35歳で悟りながら80歳の寿命が尽きるまで生きたと言えます。