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釈尊のさとりについて
- 釈尊がさとりを開いた後、南伝・相応部経典6-1に書かれた考え方について説明されています。
- 釈尊は自分が悟った法は一般の人には理解できないほど難しいと述べていますが、一方で相依性によって起こる法として説明しています。
- 後段で述べられている内容は、一般の人にも理解できる範囲であり、さらなる内容があるのかどうかは不明です。
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>>「私が悟りえた法は、思惟の領域を超え、優れたる智者のみよく覚知しうるところであって、一般の人には理解できない」 これは、仏陀の悟った法全体について述べているのでしょう。「宇宙即我」関連であれば宇宙空間とか遠い星雲についての悟りもあるでしょうし、物質の生成と消滅なども当然あると思います。科学的な知識の無い昔の人々にそんな話をしても理解できるわけありませんからね。 >>「すべては相依性にして、縁(条件)ありて起るということであり、また、それに反してすべての計らいをやめ、すべての所依を捨てされば、渇愛つき、滅しつくして、涅槃にいたる」 この部分は、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の教えですね。これに関しては、一般の人になんとなく理解出来る気分にさせるけど、それでもなかなか理解は難しいはずです。 とはいっても、文系の人が宇宙論や量子力学を学ぶよりは容易かもしれません。 前半は、詳細な部分までも含めた悟りの全体について、後半は、教えの要点、エッセンスだけについて述べているのだと思います。
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- agripapa
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思惟の領域を超えたところに彼岸の境界を見 すべての計らいをやめ、すべての所依を捨て 犀の角のように独り歩めば 全く彼岸に至り 涅槃に入る いけるもの いけるもの まったく彼の岸にいけるものに 幸あれ みたいな。。 `
知的理解は思惟の領域内の話ですけど、悟りは思惟の領域を超えています。そして仏法は悟りを説いているのですから、その本質を思惟によって理解する事は出来ません。たとえ話や、比喩によって、既知の事柄に置き換えて知的理解を促す事は出来ても、その手法には限界があります。 因縁生起(縁起)の理法は簡単なので、一見誰でも理解出来る事の様に思えますけど、この理法を悟り得るには「無我」と言う見地に立たねばなりません。独立単体で成るもの(これが我です)は無いが故に、全ては相依性にして、縁(条件)ありて起るという事なのですが、この「独立単体で成るものは無い」という本質的な部分、最も肝心な所が一般の人には理解不能なんです。 何故なら、思惟の領域は「独立単体で成るものが有る」と言う前提によって成り立っているからです。人間の持つ認識能力そのものが「我」を認識する様に出来ているのです。 仏法それ自体は簡単です。笑っちまうほど簡単です。しかし、それは思惟が及ばない領域の話なので、一般の人に理解してもらうべく膨大な言葉を用いても、決して足りる事はありません。 世尊の仰る「優れたる智者」とは、思惟の領域を超えて初歩の悟り(預流果と言います)に達した人か、それ以上の悟りを開いている人の事を指しています。例え初歩の悟りと言えども、悟りは悟り。彼らは世尊と同じ見地から物事を観る事が出来る様になった人達です。 無我の見地に立つ事が真に法を理解するという事です。本当に世尊の話を理解したなら、仏弟子コンダンニャみたいに、その場で初歩の悟り(預流果と言います)に達します。逆を言うと、仏教を学んでも悟りに達しないなら、それはどこか教義を誤解をしてしていると言う事になる訳です。まあ、それが普通なんですけどね。 一応、ご質問に対する回答としては、前段は無我の見地からの正直な感想、後段は、とりあえず理解してもらう為の概要、と言う感じになりましょうか。こういう大雑把な分類は誤解の元なので、あまり好きじゃないんですが。
お礼
前段と後段との関係は分かりましたが、後段も、そう簡単な内容ではないのですね。 >独立単体で成るもの(これが我です)は無いが故に、全ては相依性にして、縁(条件)ありて起るという事なのですが、この「独立単体で成るものは無い」という本質的な部分、最も肝心な所が一般の人には理解不能なんです。 何故なら、思惟の領域は「独立単体で成るものが有る」と言う前提によって成り立っているからです。人間の持つ認識能力そのものが「我」を認識する様に出来ているのです。 ⇒そういう事なら、後段の部分も理解が簡単ではないようですね。 もっと、じっくりと考えてみたいと思います。 ご回答、ありがとうございました。
- tumaritou1
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前段で言っている事は、心に矛盾を抱えたままでその矛盾を乗り越えていながら、更にその矛盾を乗り越える事の難しさを言っています。 後段では、その『心の矛盾が解消された心境』で語っている事を意味します。 人間は多かれ少なかれ、理想と現実のギャップに悩みます。或は計らいと、真にやりたい事や、なりたい自分とを比較してその狭間で身動きが取れなくなり場合があります。それは人間の脳にその原因が在りますが、その原因を自身で解決する道筋が宗教の本来生と感じます。 キリスト教と言っても、仏教と言っても宗教の根本は『心の矛盾』の解消がその眼目です。簡単に説明するなら人間の脳内には『機能から言って』二つの機能が存在しています。 一つは自我意識という脳の機能です。この機能は『五官から入ってくる情報を』言葉に翻訳してその言葉を通して心に歴史として、或は知識として蓄えてゆく機能です。 その機能とは別に『命の働きとしてその人の生命を維持するために働く機能』として働いている脳の機能が存在しています。その機能の主体は『無意識の意識として』顕在意識たる自我意識とは次元を異にして独立した主体として働いています。 その超越性が判りにくい事を、貴方は疑問として感じています。宗教体験は、頭の理解では到底、到達出来ない事です。 人間の深層心理では、意識と無意識が交替制を取っています。ですがその交替制は大変分かり難くなっています。ですが不安になり易い人や、神経質な人は気がつく場合があります。人間の抱える悩みや、苦しみを抱えた場合その苦しみが頂点に達した場合『二つの意識は心の根底で、二つ存在している場合があります』その刹那二つの意識が出会う場合の事です。 この瞬間を『見性』と言っています。。つまり『悟りを開く』瞬間です。自分自身を悩ませていたものが自分自身の心そのものだった事を知る瞬間です。 この体験後は『心の矛盾』は解消する事を意味します。自分の心は二度と争わなくなると言う意味です。心が飽く迄も静寂を保っていると言う意味ですが、この心境を『涅槃』と表現しています。仏教では『生死の問題が解決する』と言う表現方法です。 キリスト教では『神と会って和解する』と表現しています。どちらもその心的内容は同じです。脳の機能から説明するならば、右脳の意識と、左脳の意識が矛盾や対立や分裂を起して、それを心に感じて苦しんだり、生き難い想いで生きていた者が、二つの意識の間にホットラインが通じて、二度と争う事がなくなるという現象です。 宗教体験といっても、この経験は深層心理学に相当します。宗教体験は『究極の心の癒しの心理学』に相当します。神や仏とは『右脳の意識』です。誰も右脳のない人はいません、従って脳梁を切断した場合自我意識とは別に働いている意識が存在しています。 ですがその意識は、自我意識と共に働いています。五官から入ってくる情報は全てその者からの情報として脳梁から送られる情報として、自我意識は受取っています。計らいを捨てた時その情報が優先される生き方が出来るようになります。 その場合『神の僕となって』自我意識が『自分自身の働きの』下で働きだすという意味です。その場合『力も入れずに、、』生きてゆく事が出来るようになります。自我意識が全てを諦めた時全てが自分の面前で働きだしています。全てを捨てた時全てが『自分の手の中に在る』と言う意味ですが、捨てないと分からない心境かもしれません?
お礼
『深層心理』ですか。 もっと、勉強しないといけないと思い知らされました。 良いヒントを戴き、ありがとうございました。
- hanniyagi
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その教典の原典とおぼしき教典、の原典訳にめを通したことがあります。 正直、ひどいな、と思いました。大乗仏教が、ヒンズーに転化した、身売りを果たした、教典。 と思いました。 後につづくのは。説法をしたとて、誰が理解しよう。理解してもらえなければ。私には徒労が 残るだけだと、説法を始めようとはしない釈迦に。 世界の王梵天は、ああ人類は滅びる。真に正しく悟った御方が、説法をしようとは。なさらないのだ。と嘆き、釈迦の元に現れ。 世の中には、知的素養に恵まれた者もいるのです。あなたの説法を聞けば 目覚める者も現れるでしょう。 かってマガダ国に悪い思想が広まりました どうか、正しい教えをときたまえ。と勧めます。 釈迦は梵天の言葉を受け 池の蓮に思いをめぐらし、水中に生まれ、水中に没するもの。水中に生まれ、水面に葉を広げるもの。水中に生まれ、水面に顔を出し、さらに水面から立ち上がり、 水に汚されないもの。、、 いわゆる、梵天勧請、と蓮の台座に座った、釈迦=仏様。 の起源となる教典であろう、と思いました。 さらに、 釈迦は立ち上がり。(第一声を)発せられた。 耳ある者どもに、甘露の門は開かれた 己が信仰を捨てよ。 酷いと思ったことは、 梵天(ブラフマン)という、ヒンズー教の神を登場させている。 事ではなく。 かってマガダ国に悪い思想が広まりました。と言っている。 悪い思想、とは、本来の釈迦の思想、仏教を指している。と云うこと。 大乗とは、それまでの仏教を、小乗、(小さい乗り物、思想)と見下し 、否定しようとする運動、方向、であり。 釈迦の思想が、過去のインド哲学、バラモン思想の否定という、部分に対する 、バラモン思想、からの反抗、の形態となるものです。 バラモンは、神官、神事を司る階級であり、知恵の階級、であると共に、 神を否定出来ない階級の意味があり。釈迦の知恵に賛同し、仏教者となっても。 釈迦がいなくなれば、元に戻る、釈迦の思想と、ヒンズーを含む、バラモン思想と、融合 しよう、心の思想への転化、との方向が起こるのは、釈迦自身が予測していた事 でもあるのでしょう。 釈迦の思想の神髄と言える。縁起の理法、もまた。西洋、形而上学的、因果律。 と解釈されています。それに対して、深淵で微妙で世人の理解するものではない。などと もったいを付けているだけなのです。 後段の文章は、理法の解釈を除けば、苦集滅道、四諦八正道、法門、などと云われる 。釈迦の最初の説法。 「世界の歴史」によると。 かって修行、苦行を共にした、5人のバラモン修行者を前に 修行者達よ。 ここに4っの真理がある。 苦と苦の滅と苦の滅に至る道とである。 苦とは何か、生も苦老いも苦、死も苦であり、 愛する者と離別するのも苦なら、好まぬ者と結合するのも苦である。 苦の起源とは何か 喜びと貪りとを伴い、あれこれ執著する、愛執である。 苦の滅とは何か。愛着の心を残りなく捨て去る事である。 苦の滅にいたる道とは何か 八つの正しい道 1、正しい思惟(理法、考え方) 2、正しい認識 3、正しい言葉 4、正しい行為 5、正しい生活 6、正しい努力 7,正しい思念 そして 8、正しい瞑想 である。 というようなものです。 釈迦の思想が、仏教、ブッデイズム。仏主義。仏(悟りに導くもの、外からの縁と自身の知恵) を求め、奉じて生きよ。という主義なのです。 仏教の悟りとは、仏(導くもの)を縁として起こること、より高められた、八っの道、が悟りなのです。 29歳で、妻子も、皇太子、という地位も捨て。当然自分自身を捨てて まで求めた、ものが、自己の充足感、涅槃の境地、などであろう筈がありません 。この世界の在り方、起こり方、と合致する、考え方、を求め、仏、として、伝える 事。それが、人々を高め、救う道。とする哲学なのです。 当然、私見であり、私見は、すべては否定されるべものであり。すべては肯定されるべき 意味を持っている。 そんなところです。
- mmky
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前段で言っていることと、後段で言っていることとの関係は、どのように考えれば良いのでしょうか? ○前段も後段も同じことを言葉を代えて言っているのです。 前段は釈迦の悟り、後段は悟りに至る道、つまり方法論に主眼を置いているだけですね。 だから誰しもは到達できないと説いているのですね。 外観、内観のいづれの道によっても到達しえる悟りといっているのですね。 例えば、外観、「すべては相依性にして、縁(条件)ありて起るということであり」とは因果の理法であり、それによって宇宙の始まり、人類の始まりさえわかるということですね。 一方、内観「それに反してすべての計らいをやめ、すべての所依を捨てされば、渇愛つき、滅しつくして、涅槃にいたる」これは無我観ですね。心の奥の奥にうがちいればそこには因果による宇宙が存在するということですね。これは仏性といいますね。 つまり、釈尊は宇宙の始まりから今に到るまでを知りえた、それは因果であり、また内にある仏性そのものである。といっているのです。 一般の人には理解不能でしょう。因果というのは宇宙の始まり以前も、始まりもそれ以降もあるわけですし、人類の始まりにさえあるのですから、偶然を信じるものには到底理解不能ということですね。 「優れたる智者のみよく覚知しうるところである。」となりますね。 そのような意味ですね。
増谷文雄氏は、釈尊の悟りそのものについては、カントの直観と悟性とによる認識成立論を引き合いにして説かれています。 悟りそのものは、始めは直観による把握であったという推察です。 無分別智とも般若智ともいわれるものですが、直観による受動的な把握を、「思惟の領域を超え」と表現しています。 直観という感性によって把握されたものを、悟性という分析的思惟により整えられて、悟りという認識が成立したとされています。 前段は、直観の把握の世界を、後段は悟性による分析的思惟の世界を示しているのではないでしょうか。 釈尊は悟りを得る直前には、十二因縁を順逆に観じたと伝えられています。 この事は、縁起を深く思惟しても、なお最高の悟りではなかった事になります。 瞑想の最後の段階で、直観によって得たものが、最高にして究極の悟りであったのでしょう。 それが実際にどのようなものであったのか、という事については、推測の域を超えて 釈尊が悟りを得てから入寂するまでの言動に現れている、というのが増谷文雄氏の見解のようです。
お礼
>前段は、直観の把握の世界を、後段は悟性による分析的思惟の世界を示しているのではないでしょうか。 ⇒なるほど。そう考えると、すんなり納得が行きます。 ご回答、ありがとうございました。
- bara2001
- ベストアンサー率30% (647/2111)
言葉ですべての経験を誰かに伝えることはできません。 「今日はとても暑かったからアイスクリームを食べた」という場合、字面は受け取ることはできても、話し手の経験までは受け取ることはできません。 どれくらい暑かったか、どのように暑かったか、アイスクリームはおいしかったか、などなど日常的に皆が体験していることですら、話し手の当の体験を伝えるには、膨大な言葉が必要になります。そしてそれでも本当の経験を伝えることはできません。 この意味では言葉はただのきっかけに過ぎません。 釈尊が「すべての計らいをやめ、すべての所依を捨てされば、渇愛つき、滅しつくして、涅槃にいたる」と言うときには自分の体験をそれも釈尊以外誰も経験したことのない稀有な体験をもって話しているのでしょうが、弟子は自分で経験していないことを言葉としてしか受け取れません。 だから僧侶もお経を読むだけではなく、長い年月の修行が必要なのでしょう。 禅宗で言うところの不立文字でしょうか。 釈尊の中では前段と後段とで矛盾はしていないはずです。それを矛盾と感じてしまうのは、釈尊が本当に伝えたいことを受け取っていないからだと思います。 そういうことではありませんか?
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 わたくしはブディズムに最終の信頼を置いていませんが しかるべき道をもとめるときの道草になるとは思っています。 ▲ すべての計らいをやめ ☆ このことがらに注目してください。 なぜなら ○ 《計らいを止める》のもわが《計らい》による。 からです。だったらその計らいをまたやめ しかもその第三のもやはりやめる・・・ということになってしまいます。 ですから 確かに ▲ 思惟の領域を超え ☆ ていると覚悟したほうがよさそうなのです。 どうでしょう? 思惟の領域を超えている あるいは 計らいを超える。とは どういうことか? どういうことでしょう?
- xNekoNyanx
- ベストアンサー率34% (239/689)
そうですね。 例えば天台の十界互具・一念三千などがそうですが、あなたが、そもそもすべての衆生(生き物)は成仏することが出来るのであり、従って本質的に他者(それが嫌悪すべき人物であっても)の成仏を認め、同時に自身の成仏も認めたところに悟りが顕れる…と言われたとして、それを頭では理解しても、一点の曇りもなく実践できると思えますか? 「すべては相依性にして、縁(条件)ありて起るということであり、また、それに反してすべての計らいをやめ、すべての所依を捨てされば、渇愛つき、滅しつくして、涅槃にいたる」 とは、恐らく『十二因縁』を指すと思われますが、これは生まれてから死に至るまでの経過を観察し、それを逆に辿ることで「生死」の苦しみの原因(根本)がどこにあるかを突き止め断じようというものです。 この過程に所謂「愛」や「執着」が含まれるのですが、事はそこに留まらず、その本拠を人間が生まれた時から持っている「感覚器官」や「心」にまで追い求められているわけで、よって断じるべきものも決して容易ならざることは想像に難くありません。 以上がご質問に対する端的な回答となりますが、これもまた「対機説法」「随他意」と呼ばれる仏説の一端でしか無いことは念頭に置いていただきたく存じ上げます。
お礼
早速のご回答、ありがとうございます。 お教え戴いた『十二因縁』について、私自身、もっと深く考えてみようと思います。 さらなる勉強のヒントを与えて戴き、ありがとうございました。
お礼
>前半は、詳細な部分までも含めた悟りの全体について、後半は、教えの要点、エッセンスだけについて述べているのだと思います。 ⇒なるほど、そう考えると、良くわかります。きっと、そういうことなのでしょうね。 ご回答、ありがとうございました。